« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »

2009年12月の記事

2010年

2008年末に会社員を辞める頃
スピリチュアルに依存しつつ
起業系の本や情報にも
接する機会が多かった。

2009年は、アルバイトをしたり
怪我で動けなくなったり
新しい仕事の形を模索したり

スピリチュアルとの距離は
ずいぶんと変わって、
リーディングや占いなどの
外からの情報に
振り回されることが減った。

ヒーリングなどの
外部からの働きかけに
極度に期待することもなくなった。

すべては自分の内にあることが
だいぶ、腑に落ちてきた。


いまはただ、たのしいこと
好きなことをやりたい。

役に立つかどうか
得意かどうかではなくて

収入につながらなくても、
支出でしかなくても、
豊かな心でいるために
リソースを使いたい。

そう考えて
なにを始めようか、
なにがたのしいか、
アンテナを張っていた。

そうしたら
起業系の情報がふたたび
わたしの元にやってきた。


問い直す時期がきている。
わたしは、どうやって生きていくのか?
どういう風に暮らしていきたいのか?

ありのままの自分につながって
喜怒哀楽をきちんと感じて
心地良いことを選択して
その先、どう在りたいのか?


お金との付き合い方も、
見直しておこうと思う。
お金というエネルギーの奴隷から
抜け出して、上手につかいたい。

これまでの流れを見る限り
わたしは、不労収入に対して
なんらかのエッジがありそうだ。
自分ルールを守ることができず、
嘘のようにお金が去っていく。
わたしの中にある何らかの観念を
手放さない限り、抜け出せない。


2009年のみずがめ座は
幸運期ならぬ、耕運期だと
石井ゆかりさんが書いていた。

自然農法に切り替えるべく
最低限の作物だけにしたり
畑を休ませたり
豆を育てて鋤きこんだり
どちらかというと
受動的な1年だったと思う。

2010年は、もうすこし
能動的に関わっていこう。

どんな種を植えようか。
どこかからとんできて
いつのまにか根付いた種も
あるかもしれない。
なにが芽を出すだろう。

手にしたい収穫の量と質を
しっかり思い描いて
陽光や雨や風や慈しみの時間を
たのしみながら
自分という畑を手入れしたい。
虫や蝶が集い、人が足をとめ、
収穫をおすそ分けできるくらいの
豊かな畑に育てたい。

反動

不妊を嘆いていたのは、

「子供」と一緒にいることで
自分が「コドモ」感覚で居たいから。

「子供」を授からなかったら
「コドモ」感覚で過ごす免罪符がないから。

ということが分かってから、

子供、授からなくて結構です。

というモードに入っている。

子供を産み育てることになったら
自分がコドモ感覚でいるのが
難しくなるに違いない。というかんじ。

あきらかに、反動。
嫌い嫌いも好きのうち、というか
要るとか要らないとか考えているのは
まだまだ振り回されている証拠。


いつだって自分は
イマを選択できるけれど
未来をコントロールはできない。

授かるかどうかは、未来の範疇。
どんなにタイミングが良くても
どんなにその気がなくても
その先の結果には関係がない。
未来が約束された選択肢などない。

わたしの為すべきこと、できることは、
後先のことはキレイに忘れて
心地よいイマを選択し続けることだけ。

奢らず、謙虚に、自立的に。それだけ。

部屋とココロ、怒りと情熱

まったく大掃除ができない年末。

枯葉にくるまるミノムシみたいに
雑多なかんじが心地良いようで
ごちゃごちゃな部屋で寛いでいる。

来年は、リビング・ダイニングはもちろん
納戸化している部屋もすっきりするといい。
それはつまり、自分の中の
見ないようにしている部分
手をつけないでいる部分に
光を当てるということ。


わたしは怒るのが下手だ。
この場面は、怒っていいのかどうか?
自分の主張を押し通していいのか?
判断できないことが、ままある。

怒りをなるべく見過ごそうとするし、
イライラしそうなことは選ばないようにする。
怒りを哀しみに置き換えたりする。

もちろん、突発的に怒ることはあるけれど
感情をコントロールできなかったことを、
とても不甲斐なく思う。


しかし、感情というのは、
元々は単なるエネルギーであって
なかでも怒りというのは
起爆力の強い、マグマみたいなもの。

わたしは常々、自分の情熱不足を
歯がゆく感じていて
真っ直ぐに突き進むタイプの人に
憧れを抱いてきたのだけれど

もしかしたら、この動けない感じは
怒りをやり過ごしてしまう在り方と、
関係しているのかもしれない。


先日のDAYAさん
2度目のセッションで出てきた
「木のように為すがまま」な自分は
自分軸を維持するために
とても有用なのだけれど

反面、それだけでは飽き足らない
活動的な自分
好奇心のままに動きたい自分
感情的な、エモーショナルな自分
人生の充実感には、それも必須。


いつ終わってもいい人生を
いつまでも送りたくはない。

感情の一部をないがしろにしたままでは
躍動感に溢れる自分には辿り着けない。

開かずの間に
踏み入れるときが近づいている…かな。

4人目のわたし

ここのところずっと、困っていた。

わたしの中に3人の個性的な人たちがいて
仲良くしてくれない。

1人目 「ちゃんと」さん
2人目 「ぐにゃぐにゃ」くん
3人目 「困った」さん

先日、セラピストで、葛藤解決ファシリテーターの
DAYAさんにセッションをお願いして、
サポートしてもらいながら
この3人をよーく観察してみた。

「ちゃんと」さんは、
社会常識やマナーにうるさい人。
「困った」さんのすぐ横にいて
なにかと口出しをしている。
「ぐにゃぐにゃ」くんを毛嫌いしていて
そばに寄らないで欲しい、
ひとりで遊んでいて欲しいと思っている。

「ぐにゃぐにゃ」くんは
背中から腰にかけてを
ぐにゃぐにゃ曲げて遊ぶのが好き。
(身体を動かしてみたら、
 自然とそういう動きが出てきて
 笑ってしまうほど愉しかった!)
「ちゃんと」さんが苦手なので
近寄りたくないのだけれど、
ずっとひとりで遊んでいて寂しいので
たまに悪戯をする。

「困った」さんは
去年あたりまで、ずーっと長いこと、
「ちゃんと」さんに従おうとしてきたのだけれど、
「ぐにゃぐにゃ」くんの悪戯がひどくなったのと、
自分も一緒に遊びたい気持ちが大きくなって、
2人の間で動けなくなっている人。
なんとかみんなでたのしくやっていく方法は
ないものかなあと思っている。

「ちゃんと」さんに否定されると
「困った」さんはアイスみたいに溶けて
「ぐにゃぐにゃ」くんに変わってしまう。

「ちゃんと」さんが一方的になにか言うと
「ぐにゃぐにゃ」くんは泣いてしまって話にならない。


ここで、自分の身体の中を
隈なくスキャンして、光を探してみる。
思いのほか、ぱっと見つかった。
子宮の中。

見つけた瞬間
「守ってあげる」という言葉がひらめいた。

その光を、身体で表現してみたら、
翼のように手を広げて
ゆらりゆらりとやさしく動いて
3人をすっぽり、くるんだ。
「だいじょうぶ、ここは安全だよ」

わたしの中の3人
4人目のわたしに包まれて、号泣。

みんな、不安だったんだ。

そして、安心の源は
わたし自身のなかにちゃんとあった。


4人目のわたしを
ひとりで見つけ出すのは難しいし、
見つけたとしても、すぐに見失うと思う。

今回のセッションでは、
身体でその動き(翼)を表現したので
それを再現すると、なんとなく、
あの安心な感じを思い出せるのが嬉しい。

明日は2度目のセッション。
今度はどんな展開になって
どんなわたしに出会えるんだろう?


直感など無いに等しいわたしでも、
ベテランガイドが付き添ってくれるからこそできる
自分自身を知る旅は
なにより豊かな時間だと思う。

DAYAさんのセッション
単発の場合は、年明けから値段が変わります。
興味のある方はお早めに。

cute ShantiDaya <Inner Journey>
http://shantidaya.jimdo.com/

安心を感じるための不安

遅刻して、相手がゆるしてくれると
「ああよかった」と安心する。

遅刻して、相手が不機嫌だと
「やっぱり自分はダメ人間だ」と落ち着く。

心配していたことが起こらなければ
「ああだいじょうぶだった」とほっとする。

心配していることが現実になると
「やっぱりダメだった」と納得する。

結局、
「ああ、やっぱり、~~~だった。」 という感じを
味わいたいだけなのかもしれない。

それは、安心感に似ている。
または、安定感。

他人や出来事、世界の反応をみて
自分という存在の輪郭を確かめている。

自分がどういう存在としてこの世界に
ゆるされているのか、知ろうとしている。

他の方法で知ることができれば
もしくは、そもそも、知ろうとしていなければ

なににもたよらずに自身を見ることができて、
その、在りのままを自分を、いつもゆるしていたら

世界はどんな風になるんだろう?

すくなくとも他人様に
迷惑かけることは減るだろうなあ。


自分が遅刻したとき、わたしは、
自分の方が弱い立場だと思っている。
ジャッジされると思って、不安になる。

しかし、相手を待たせている時点では
相手の時間を浪費し、行動を制限している。
つまり、自分の方が強い立場にいるのだけれど、
それを意識していないし、なかなかできない。

物事にはいろいろな側面があって
見方によって勢力図も変わってくる。

どうやら、わたしは、自分が弱いような、
犠牲者であるかのような見方を選びがち。
自分の今後の状況が、他のなにかによって
コントロールされると思ってしまう。
自分に選択権がないと思うから、不安になる。

けれど、もしかしたら、どんなときでも、
「自分に選択権がある」という見方が
できるのかもしれない。

未確定の未来におどおどするのではなく、
いまの自分の選択権を、きちんと使って、
未来につなげることができるのかもしれない。

意識的に生きる。
自覚的に生きる。
そのためには、まず、自分がいつだって
選択権をもっていることを覚えていたい。

不安な状況から解放されたときに
安心を感じるのではなく
常に自分に選択権があるという安心を
いつでも感じていられたらいい。

ちきゅぼー。

※2010年3月開催予定

今年4月
清水の舞台から飛び降りる気持ちで参加して
絶望から這い上がる力を得ることになった
合宿ワークショップ・地球防衛軍(略してちきゅぼー)

シリーズ第2弾が、今月末 2010年3月 に茨城県で開催されます。

3/20-22【茨城県御前山】
大真面目に人と向き合い語り合う3日間
http://comfaci.com/25/20100320/

今回はネイティブアメリカンの知恵を
体感するワークがあるとのことで
かなりたのしみ。

紹介割引がありますので、
もしこれを読んで参加される方がいらっしゃったら、
申込みの際に「くじらの紹介」と書いてください。

検討されている方の参考までに、
わたしの感想アンケートをシェアします。

-------
地球防衛軍結成式ワークショップ in 北海道
(略して”ちきゅぼー”)
-地球のためにできること・自分のためにできること-
http://comfaci.com/04/090417vivalavida/

1.『参加前に』
ためらったこと・想像していたこと
期待していたこと・告知文で気になったこと

告知文の【こんな方のために】があまりにも
自分に当てはまっていたので、気にはなっていたものの、
わたしの自己投資としてはかなり大きい額だったため、
だいぶ躊躇しました。

開催2週間前に、主催の珠帆さんと直接話す機会があり、
そのとき、他人に嗤われるとばかり思っていた
自分の「理想」や「希望」は、
胸を張って話してもいいことなのかもしれない。
そして、ちきゅぼーに参加したら、
それを分かち合える人がいるのかもしれない。
すくなくとも、否定はされないのかもしれない。と感じ、
その可能性はわたしにとって、抗いがたく魅力的で、
いてもたってもいられず、参加申込みしました。


2.『参加後』の感想
どういった体験ができたか?
どういった変化が自分に起きたか?
どういった気づきが自分にあったか?

合宿という閉ざされた空間で、
ひたすら対話を重ねるうちに信頼関係ができていき、
自己開示に対する恐怖を乗り越えられたことは、
貴重な体験でした。

わたしが得た気づき、学び
・自分や、誰かの、体験や感情や見解はすべて
 隠すべきものでも否定すべきものではない
・相容れない反対意見も元をたどれば
 「より良くしたい」という共通の願いに端を発している
これらは一部でしかありませんが、
信頼できる仲間と触れ合ったからこそ、
心から実感できたのだと思っています。

そして、告知文そのままに
「これから俺たち地球防衛軍だからがんばろうな!」と
みんなでハグしあうことができて、すごーく幸せでした。


3.『今、現在実感できる』
(目に見えること・内的なこと・生活・仕事などで)
ちきゅぼー体験によりもたらされたもの
ちきゅぼー体験をきっかけに起きた変化など

自分をとりまく世界(人、物、状況など)に対する信頼感。
のちのち、徐々に、自分自身を信頼できるようになってきました。

それから、プロセスワークの骨組みを
知ることが出来たので、
事象に対する見方・視点を増やしやすくなりました。

いままで結果だけ知っていたもの、
たとえば「すべてに意味がある」ということを、
自分の現実レベルで理解できる瞬間があり、
その背景には、プロセスワークや
ちきゅぼーの体験があるような気がします。

わたしが一番欲しかったもの

それは、こどもではなくて

こどもと過ごす時間でもなくて

コドモみたいに生きてもいいっていう許可だった。


こどもと一緒に居れば、

コドモになっても許されるって

いつから思っていたんだろう?


物心ついたときには

妹に限らず、

年下の子と過ごすのが好きだった。


こどもを授からないことを

なぜ、そうも嘆くのか

自分でもよく分からなかった。


よく分からないけど

とにかく絶望的な気持ちになった。

いつもいつも。


ずっと闇に押し込まれてきた

コドモのように生きたい自分が

また、機会が得られなかったと

まだ、我慢しなきゃならないと

嘆き叫んでいたんだ。


この先いつもいつでも、

コドモのように生きようとは思わない。

選択肢がひとつ増えただけ。


選んじゃダメだと思っているからこそ

どうしても選びたかったもの。

両親やオットや気心の知れた友人の前で

お酒に酔って理性をゆるめたときにだけ

選ぶことのできたもの。


もう、いつでも、選んでいいんだ。


過ぎてみれば簡単なこと。

だけど、わたしにとって、すごく大きなこと。


根雪がとけたような開放感

探していたメガネを頭の上に見つけたような徒労感

長い長い不自由さがあったからこそ

慎重に、大切に、扱うだろう。


いつかの自分からの、ギフトに感謝。

Blue -The gift

こどもに関するアイデンティティ

行政が仕切っている
子育てサポートシステムの説明会に参加。
小学生は、ほとんど依頼がなく
保育園児の送迎の需要が多いらしい。
提供会員を希望している人は
わたしのほかに3人。

娘が子育て中というお洒落なオバサマ。
幼児を子育て中の元保母さん。
子どもが大きくなって手が空いているので、
というかんじの女性。

経産婦ではなく
子どもに関連する資格も経験もなく
仕事に邁進しているわけでもなく

わたしはただの、子ども好きのヒマ人だ。

それがなぜこんなに辛いんだろう?

不安定なアイデンティティ

なにをそんなに卑屈になっている?
なにをそんなに卑屈になることがある?

「結婚さえできれば幸せなのに」と思っている人みたいに、
こどもの登場でなにか変わると思っているんじゃないかって
いまの生活に満たされていないから、足るを知らないから、
こどもに期待しているんじゃないかって、自分を疑っている。

子育てはそんなに甘いもんじゃないよ
夢みたいなこと言ってるんじゃないよ
母になったら後戻りできないよ
そうやって自分を戒める自分がいる。

こどもがいないのに、金銭的不安があるのに、
勤めにも出ないで「育児サポート」なんかやろうとしている
自分がひどく、アンバランスな人間に思える。

もっと立派なきちんとした仕事をすることが
オマエのツトメだ。安穏と暮らすには
それが一番だ。と信じている自分がいる。


大泣きしながらここまで書いたけれど
泣いている自分がなにを言いたいのか、
いまいちわからない。

ここまでに出してきた声に反応して
泣いていることだけはわかるんだけれど
じゃあ、いったい、どうしたいんだろう?

どうしたら喋ってくれるだろう。
まずはかなしみを吐き出さないとダメかなあ。

(擬人化しているだけで、分裂症ではありません。たぶん。)


これを書き始める前、
鬱々としていて
お酒で誤魔化したくなったけれど
なんとなく飲む気になれなくて
(遠回りするだけだから ←成長したなあ!)
懐かしいロックをがんがんにかけて
ヘッドバンキングして
ぼーっと座っていたとき

「こどもとあそびたいだけなんだけどな」

ふと、そう思った。

こども時代をやりなおしたいとか
世界を体験しなおしたいとか
もっともらしい理由なんてどーでもよくて
ただ単に、あそびたい。
一緒に過ごしたい。

こどもは、わたしに元気をくれる。
こどもといると
世界は不思議に満ちていて
すべては信頼に値すると思える。
たのしさ、おもしろさ、おいしさ、
それだけを基準に物事を選べる。

わたしのなかにも
そういう力はきっとあって
だけどオトナの体裁を保ちたいから
なかなか出してあげられない。

なんだか、こどもを免罪符に
人生をたのしみたいだけみたい。

ほんとうは免罪符なんて要らないのに
勇気がない。エネルギーがない。

こどもがいても、いなくても
こどもみたいに大胆不敵に生きたいものだなあ。


BGMはさっきからずっと
RED WARRIORS
声とメロディラインとシンプルなアレンジが
今日のわたしに、しっくりくる。
センチメンタリズム。

経過予想

周期28日目。
今朝、体温をはかったら
90秒速報で36.66
5分計測で36.45だった。

高温期にしちゃ低い。

今月もスルーされちゃったかなあ。

来週半ばから、南の島に行くのに
この分だとリセットどんぴしゃ。
憂鬱。めんどくさ。
そのかわり、気兼ねなくビール飲める。

昨日いくつか夢をおぼえていて
そのうちのひとつが
板の間みたいな場所で、
壺をどこに置くか?うろうろしていて
もうちょっとこっち・・・いやそっち・・・と
誰かの指示を受けていたのか
自分が迷っていたのか
記憶が曖昧になっているけれど、
ともかく、最終的には
「保留ね。」と、場所を決めなかった。
あれは着床を暗示してたんじゃないかなどと
こじつけてしまう自分がいる。

結果は、かみのみぞしる。

甘いものと自己憐憫

この数日、舌が荒れていて
甘いものを食べたくて
お酒を飲みたくて
きちんとした食事をしたくなくて
つまり、退廃モード。

カラオケで発散したり
好きなだけ飲み食いしたり
OHカードで自己探求したり
いろいろ試して、浮き沈みはするけれど
気づくと真っ暗な海底に戻っている。

いつもなら気にならないこと
嬉しいはずのこと
張り切るようなことを
なんだか億劫に感じたり
ものすごくイラついたりして、苦しい。

こういうときに限って、そういうことが続く。

うんうん唸っていたら
とつぜん、ふわり、ぱらりと光が舞い込んだ。
それはいつか自分が投げかけておいた
目覚まし時計みたいなもの。
忘れていた希望。

そうしたら、暗闇がいっそう暗くなって
希望のなさが際立って
誰も助けてくれない、と腹が立って
悔しくて寂しくて大声で泣いたら
キーワードがみえた!

「不安」

どうやらわたしは、不安だったようなのだ。

先月なかば 「なんのための自分?」で

しっかり自立できるまで
退屈や不安に克てるまで
定期的な勤め仕事は就きたくない。
きっとまた、同じように疲れてしまう。
お休み中のFXもそのままにしておく。

なににたよらずとも
しあわせを感じられるまで。

などと書いて
舌の根も…筆の先も?乾かぬうちに
まんまとFXをはじめて、また失敗し、
まんまと仕事をみつけてしまい、応募し、

まんまと不安に陥っているわけなのだ。

そして、そんな自分が可哀想でならなくて
あまやかしたくて、甘いものを欲していた。

嫌な出来事ばかりが続いたり
バカみたいに不安が現実化していたから、
「なにか気づいていないことがあるはず」
「でも、なんだろう?」と思っていたのだけれど

なるほど、この不安に気づくためだったのか。

気が抜けた。

しかし、ここで終わってはだめなんだ。
今回は、ここで終わらせない。

わたしはもっと安心して生きていきたい。

起こるかもしれない事象
感じるかもしれない感情
さまざまな可能性に、怯えすぎることなく
自分の処理能力を、過信することもなく

その時々の最善を選べるようになりたい。

訓練あるのみ、だろうか…。

苦痛ジャンキー

ここのところ考えていること。

罪悪感を、免罪符だと思っていないか?

わたしはダメ人間なんだ。って
弁解する理由がほしい。
(誰に?)

この程度で済んでよかった。って
問題の本質から目を逸らしてないか?

核心にせまってくると
誰かほかの人を気にかけ始めるよね。

世話人ポジションは、安全・安心。
自己開示しなくて済む。

なにをそんなに必死に守ろうとしているんだろう?

世間との付き合いとは、納得できないものを
我慢することだ。って思い込んでいる。

心の反応を無視して
「他人にとって心地よいだろう方法」
「世間的に正しい方法」を
自動的に選択するクセがある。
それで、あとで苦しくなる。

長らく愛用してきた処世術。
捨てなくていい、けど、手直しが必要。

自分本位にいきたい自分

社会性を保ちたい自分

この2つを統合するには
「社会」の概念を変えればいいのかもしれない。

続きを読む "苦痛ジャンキー" »

受け取り下手は、与え下手

わたしにとって
「受け取る」はずっと課題だった。

「受け取ることを、自分に許すこと」
リーディングメッセージなどで
よく出てきたし
下手だという自覚もあったけれど
どうやったら「受け取れる」のか
いまいちピンとこなかった。

「受け取る」は、女性性の担当。
二人姉妹の長女で
父が不在がちな家で
元気で力持ちなわたしは
ほとんど長男のつもりでいたから
女性性はとても苦手。

ひらひらフリルや
かわいいパステルに心惹かれても
気恥ずかしくて
欲しいなんて言わない。言えない。

わたしの母も、そういう『ちょうちょらしいもの』
(女の子らしいものの総称として母がつかう表現)を
遠ざける傾向にあるし
代々の女系に生殖器トラブルがあるということは
ずっと引き継がれてきたものだろう。

女性性を抑圧することで
やわらかな感受性を無視することで
ある種の精神的自立、
「男性」には負けないという自負心を
支えてきたように思う。

おそらく、才覚のある女性たちだったのだ。
男尊女卑の時代から男女雇用均等法を経て
なお引き継がれる男女の社会的ランク差を
受け入れたくなかったのだと思う。
その葛藤を心中で処理するためには、
論理的に理由付けをするしかなかった。
男性性を強化するほかなかった。

その系譜に育ってきた
男勝りのわたしにとって
「受け取る」のは屈辱だったのかもしれない。
だいじょうぶ、自分で得ますから。
そう虚勢を張るのが常だった。

続きを読む "受け取り下手は、与え下手" »

満月と緊張感

昨日から、なんだか緊張している感じがする。
さいきん飲酒量がめっきり減っていたのに
1,2杯飲んでは1,2時間おいてまた飲んだりして
酔いが完全に醒めないようにしているみたい。

排卵期で、満月。

じわじわとプレッシャーなんだ。

いよいよ子を授かるかもしれないと
要らぬ緊張をしているんだ。

ばかだなあ。

期待と同時に怖くもなっている。
もし授かったら、無かったことには出来ない。

夏に折れた前歯を、削ってしまうか
不具合の可能性を前提に残すか
決めかねているのと、似ている。

選択権が、あるような、ないような。

歯のことはどっちかに決めなきゃならないけど
子のことは「どっちもアリ」がゆるされている。

「怖がっているようでは授からない」なんて
自分を責めるための口実だ。

未知の領域を
おそれたり、たのしみにしたり、
それでいいじゃないか。

妊娠準備

冷え性改善に取り組み始めたのは、
もう3年以上前だろうか。
あいかわらず指先は冷たいけれど、
身体を冷やさないためのあれこれや
食養生は習慣になっている。

もちろん続いていないこともある。
足に冷水をかけるとか
靴下を必ず2枚履くとか。
ビールはふつうに飲むし
アイスや市販の菓子も食べる。
(買うときに原材料はチェックする)

日によって変動はあるけれど
お菓子も飲酒もめっきり量が減っていて
アイスなら2口、チョコなら1欠で満足することが多い。

数年前にくらべたら
基礎体温は0.1~0.2度くらいにあがっていて
ここ2,3ヶ月は31~32日周期で安定していて
オットとの仲もきわめて良好、平穏。

この状態に至るまでには
精神的なものが大きかったと思う。

肩肘張っている気持ちが減って
完璧に、とか、誰かのために、とか
評価を得るために、という気負いが減って
自分のなかにある「情けなさ」を
あたたかく抱きしめられるようになった。

体の奥に押し込めて眠らせてきた
かなしさ、さみしさ、くやしさ、怒りや恨み
なにかの拍子に感じる胸の痛み…
そういう自分の「情けなさ」に対して
「正当な理由」を求めることなく
ただ感じていられるようになった。
涙を流せるようになった。

こういう事柄を「情けない」と思っていたこと自体が
なんだかおかしなことではある。
こういう事柄こそが「情け」なんだろうに。

ともあれ、感受性の復権。

自分が感じていることが
誰かと違っていたとしても
間違っているわけではない。
むしろ、違っていて当然で
それこそが誰かと一緒に生きる意味なんだ。

自分に対してやさしくなった、とも言える。

「反応」や「評価」を求めずに
ただ自分がうれしいことを優先するようになったら、
家事や、弁当作りが、負担にならなくなった。
仕事をしないで家にいる自分を
「役立たず」と思わずにいられる時間が増えた。

夏に会って以来、ひさびさに会ったひとに
「女性らしくなったね」と言われた。
「去年の秋は男の子みたいだった」と。

髪型は変わっているけれど、
服は買い足していないので、
外見は以前とそう変わらないはず。

感じることを自分にゆるしたら
男性性と女性性のバランスも変わったんだろうか。

妊娠に向けて、準備は着々と整っている。
そう感じている。

でも、最後のハードルに躓いている。
"母として生きる覚悟"
このハードルは、自分が勝手に置いているもの。
乗り越えるなり、片付けるなり、
出来そうで、出来ない。

おこがましい。

永遠の覚悟なんてありえない。
完全な準備なんてありえない。

たぶんはじめから
必要なことはたったひとつだったんだ。

身体作りでも責任感でもない。
収入でも環境でもない。

いまわたしがここにこうして生きていること。

これで、十分なんじゃないだろうか。

とっちらかっていても
うわの空でも
ヤケになっていても
ただ、生きているということ。

そこには無限の可能性がある。

« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »

カテゴリー

無料ブログはココログ

占い by いとうより