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2010年1月の記事

消えそうな僕は、爆破したいのだ。

アンジェラアキ 『手紙 ~拝啓 十五の君へ~』

 今 負けそうで 泣きそうで 
 消えてしまいそうな僕は
 誰の言葉を信じ歩けばいいの?


この部分でいつも、
ぐっと胸がしめつけられる。

15のわたしは
自分を消してしまいたかった。
もしくは
地球を消してしまいたかった。

完璧主義

ALL or Nothing

地球を救えないならば
社会を変えられないならば
自分など要らないのだ。

ということはつまり

自分という生き物は
それだけの責務を負える。
と、考えていたのだ…

なんて不遜!

でも、一笑に付すことはできない。
もう、見ないフリもしない。


この愚直な激情が

どこへ向かっているのか?

どうやったら活きるのか?

考えるときがきたのだ。


バースコントロール

わたしは今後一切
バースコントロールをしないことにする。

ここ最近はずっと、
出来ても、出来なくても。
という姿勢ではあったけれど

それでも、何年経っても出来ないし
出来る人には、ひょいと出来るのだ。

やっぱり、どこまでいっても、授かりモノなのだ。

出来る、出来ない、ではないのだ。

いま子供が出来ると
仕事が・・・
経済状況が・・・
面倒みきれないかも・・・

そんなことを考えて
女がバースコントロールを意識して以来、
生(性)の歓びは制限され、
ホルモンが崩れ、
不妊の歴史がはじまったと思う。

むかしながらの
人手の必要な時代ならば
産む事を避けようとはしなかった。
食い扶持がないからと
里子に出したり、丁稚に出したり、
最悪の場合は捨て子にしたりと、
いろいろあったにしても、
授かる段階では、
コントロールしていなかったのではないだろうか。

これは、単なる予想。
史実は異なるかもしれない。


それから、
女はいつでも誰でも
バースコントロールしなくていい
とは思わない。

なにがあっても
子を授かったら、育んで、産んで、
誰の助けがなくても、
出来る限り自分で育てる。
そういう心意気をもてる人だけでいいと思う。

隣近所や地域で子供を育てていた時代とは
完全に違ってしまっている。
誰の助けがなくても、というのは
文字通り、助けがないことを意味する。
極端な話、親子で餓死する可能性だってある。

それでもやっぱり
わたしを選んでくれる魂がいるならば
わたしは逢いたいと思う。
世界を、プロセスを、信じたいと思う。

無責任に聞こえるかもしれない。
だけど、わたしは、これ以上、
自分の女性性を抑圧したくない。
それだけなんだ。

男性仕様の社会システムだとか、
見栄とか、予定調和の未来とか、
そんなものに振り回されずに、
女性性を全うしたいんだ。


結果として
それでもしあわせに生きていけるって
証明できれば嬉しいし、
やっぱりダメでした、まったく浅はかだね。
でも、かまわない。

子供を巻き込んでしまう可能性
その痛みも、引き受ける。

子育てをしたことのない人間の
たわごとなのかもしれない。
現実はきっと厳しいのだろう。

けれど、なにをどうやったって、
後悔がなるべく少ないように
イマココを選び続けるしかないのだ。

無謀でもなんでもいい。

わたしは今後一切
バースコントロールをしない。

本能のままに、
この人の子なら産み育てようと
思える相手と
いま、この人とつながりたいと
思えたときに
関係をもっていこうと思う。

わたしは、わたしの魂を尊重する。

「生きててごめんなさい。」

いちばんはじめに
そう思ったのは、
10歳くらいのときだろうか。

人間の身勝手さによって
地球が破壊されつつあると知ってから。

大気は汚され
森林は減り
氷河は溶け
珊瑚は死に
砂漠は広がっていく。

「人類さえ滅びれば・・・!」
なんどそう思っただろう。
そして、実現可能な手段を探していくと、
「わたしひとりでも減ればいい」
必ずそこに行き着く。

わたしがいなければ
地球資源が1人分浮くし
塾や習い事の費用も浮くし
手間が減って親もラクになる。
いいこと尽くめのように思えた。

いや、いまも思っている。
忘れたふりをしているけれど
いつも、思っている。

地球上の命あるもの、ないもの、
そのすべてを貪って生きていくもの。
それが、わたしの“人類の定義”

わたしひとりが胸を痛めたところで
この流れを変えることは出来ないと
ハナからあきらめて、絶望して、
生きていく理由なんて見当たらなくて

それなのに
この身体は生き続ける。
心臓は休まずに動くし
おなかはすくし、眠くもなるし
たのしいこと、心地よいことが好きだし
ごはんを食べればしあわせになる。

アタマで考えたら
どうひっくり返したって
生きている必要なんてないのに
身体はどこまでも生を謳歌しようとする。

なんたる矛盾。

この矛盾を抱えたまま生きるために
わたしはたくさんのパターンを作ってきたのだ。

続きを読む "「生きててごめんなさい。」" »

達成感ジャンキー、卒業

わたしの夢は
スキーで、コブ斜面をまっすぐ、
躊躇なく、リズミカルに、自在に、
滑り降りること。

そんな風に
コブ斜面を滑り降りるコツは、
足首と膝と腰と心をやわらかくして
高低差と衝撃を吸収したらすぐに解放して
肝を据えて、スピードを恐れずに
一期一会の瞬間をたのしむこと。

そんな風に
瞬間的に動くために一番必要なのは
筋力でも、体力でもなくて、
出来る。と信じる気持ち。

だいぶ分かっているつもりだけれど
身体はなかなか、言うことをきかない。

恐怖のあまり力みすぎて
コブにはじきかえされて
ひっくり返ったら
きれいな青空が見える。
一面にひろがる青と白のコントラスト。

それもまた、いいじゃないか。

出来ないことは
出来ないままでも
出来ないなりに、たのしいじゃないか。

出来ないことを
出来るようになりたくて
ずいぶんいろいろと頑張ってきて
おかげでいろいろと出来るようになった。
そろそろ、いいじゃないか。

もう十分やってきたよ。

出来ないこと
やりたくないことは
やらなくてもいいことなんだって
決めちゃおう。

気が向いたときだけ
それがたのしいと思えるときだけ
自分を奮い立たせればいい。

努力とか、頑張りとかは、
レクリエーションでしかない。
義務ではないんだ。

15年近く前に義務教育を終えてからも、
ずっと、ずっと、ハードルを設置してきた。
他に方法を知らなかった。
しあわせになる、唯一の方法だと思っていた。

義務感や、達成感を満たしたい気持ちでやっても、
たのしくないはないのに。心地よくもないのに。

イマより大切なときが、どこにあるっていうんだ?

生きるのが嫌になるくらい
自分を追い詰めて、どうなるっていうんだ?

行き止まりにきたら
壁を壊すか、登るか、他の道を探すか
とにかく動きまくってきたけれど

ちょっとやすんでみよう。

誰か通りかかるかもしれない。
壁が取り壊されるかもしれない。
実はドアがついているのかもしれない。
なにも起こらないかもしれない。

そんなことは、知ったことではない。

動きたくないから、やすむのだ。
それでいいことにしようじゃないか。

卒業に、かなしみは付き物だ。

流れるままに

なにかにかぶれたような理想を掲げたり

出来ないことを、やるべきことだと勘違いしたり

可能性を見付だそうと躍起になって

自分を追い詰めるのはやめよう。

自分に失礼だ。


Osho禅タロットをひいた。

「58. 流れと共に行く」

「最後の者であるがいい、野心なくあるがいい。
 野心とは、上に向かって行くという意味だ。
 水は下に行く。もっとも低い地を探す。
 それは何者でもない ことを望む。
 自分はユニークだ、例外だ、特別だと
 宣言することは望まない。エゴの観念はない。」

「生という水に入って浮かぶか、
 それとも流れをさかのぼって泳ぐのか、
 生のあ らゆる瞬間ごとに選択の余地が
 残されています。 あなたは今、浮かぶことが
 できるということを示しています。」

そう、わたしは浮かぶことができる。

浮力を信じて、よけいな力を抜くだけでいい。

流れ着きたい場所を

無理矢理、思い描くことはない。

たまには流れに身を任せてみよう。

そろそろ自分を信じよう。

決して、恥じることではない。

断じて、敗者ではない。

なのに、なんでかなしいのだろう?

めんどくさい

やろうと思っていること・・・
自己探求や、ボディケアや、
ビジネス戦略や、金銭管理や、
平和的コミュニケーションなどなど

あらゆることが面倒くさい。

あまりに面倒で
生きていくのが嫌になってきた。

すばらしい人生を送るために
必要だと思っていることの数々が
こんなにも「やりたくない」というのは、
まったく逆説的ではあるけれど
つまり、理想が高すぎるのだろう。
理想ばかりみているのだろう。

なんにもたのしみが見つけられない。

やりたいことも
食べたいものも
なんにも思いつかない。

「成果」を出さなければ、と
「成功者」になりたい、と
自分のなかの何かが焦っている。

「イマココ」の自分が見えなくなっている。

いまのわたしが心地よいと思えないことを
やり続けた先の、
未来のわたしが心地よくいられるわけがない。

いまのわたしの先にしか、未来はない。

理想を思い描くこと、
それに向かって動くことも、
時には大事かもしれないけれど

わたしは日々のちょっとしたしあわせが欲しい。
それを一番大切にしたい。
それでいい。

そう思っているつもりなんだけどなあ
飽き足らない自分がいるんだよなあ

こまったなあ。

いきる

津波のまえみたいに
ざーっと潮がひくような気配。
いや、もしかしたら
山のような波に
もう、のまれているのかも。

『魂のコード』とか
自分のつよみを見つけるとか
ソース(根源)を見つけるとか
年末から引きずっているテーマ

コアに近づくにつれて
反動も大きくなって
うろうろ、右往左往する日々.
食べ過ぎたり、飲み過ぎたり、
カラオケで歌い狂ったり、叫んだり。

地球の一部では
大地震によって
生死を問われるひとがいるっていうのに

自分は何を悩んでいるんだろうって
不甲斐なくなる。
せめて、わずかばかりのポイントを
寄付してみたり。


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唇が、また荒れている。

長年、代々、フタをしたきた
性にまつわる
罪悪感や義務感や価値観
そろそろ取り組み時なんだろう。

弱さゆえの強がりは父譲り
強さゆえの頑固さは母譲り

しなやかに適応している誰かを
うらやんだって意味は無くて
わたしは、わたしを、活かすしかない。

誰かを活かすために
自分を殺すほうがラク

だと、ずっと、思っていたけれど
誰もそんなこと強要していないんだよ。
誰もそんなこと望んでいない・・・たぶん。

誰かに自分を活かして生きてほしいなら
まず、自分が、自分を活かさないと。

まず、自分が、自分を愛さないと。

こんな簡単なことが
なんでこんなに難しいのだろう?

なんでこんなに怖いんだろう?

女性性とクリエイティビティ

先日の記事にも書いたように
ここ最近の異変は
緊張感とプレッシャーから
男性性に傾いていたのだろう、
と思っていたのだけれど

男性性はが強いときは陽性なので
逆に、性欲が強くなるのでは?と
何人かの友人からアドバイスがあった。

それもそうだ。
そして、緊張がほどけて数日経ったいまも
あいかわらず、かけらも感じられていない。

月食満月&水星逆行のいま
わたしが向き合っている
置き去りにしてきた課題とは、
新たな命の育みを司る女性性と
クリエイティビティなのかもしれない。

そう考えると、たしかにこの数日
学生時代に描いた自画像が出てきたり、
ベリーダンスの情報がやたらと目についたり、
骨格と脳細胞分布の関係性からみると
かなりクリエイティビティが強いでしょう、と
言われたりしている。

木星が魚座入りするのが18日
もう一段階、自分を深める時間は、まだある。
掘り起こしてみたい。

依存してもいい。

なにごともバランスだ!

と、人生何度目かわからないけれど
またもや認識をあらたにしたところで
昨日書いたブログをみると

ものすごく、自立にこだわっている。

めちゃくちゃ、りきんでいる。

そりゃあ疲れるでしょう。
人生いやにもなるでしょう。

この先なにがあっても
ずっと独りで舞台に立つか?
それともなにかに依存し続けるのか?

などという二者択一を自分にせまって、
逃げ場をなくしていた。

その背景には、
依存は弱い人間のすることだという
思い込みがあった。

真にしあわせになりたいなら
常に自立していなきゃならないと
思い込んでいた。

逆に言えば、自立さえしていれば
しあわせになれるのだと思っていた。

ヒトの心というものは
揺らがない答えが欲しいのだ。
唯一絶対の必勝法を探すのだ。

だけど

必要なときは、立てばいいし
休めるときは、寄りかかればいい

せっかく自分の足があり
せっかく頼れるなにかがあるのだから
どちらも上手に使っていけばいいのだ。

大事なのは、自立や依存という状態ではなくて、
その状態を選択したのは自分だと、分かっていること。

そして、選択権はいつどんなときでも
自分の手にあることを忘れなければ、
立つのも、寄りかかるのも、自在だ。

ラク~にいこう♪

プレッシャーと男性性

兆候は12月下旬あたりから

まず、腸にガスがやけにたまる。
ホルモン周期かと思ったけれど
1週間以上続く。

胃がおもたい。舌が荒れる。
甘いものを減らしても良くならない。

ここしばらく必要性を感じていなかった
お酒を手放せなくなっていき、
日によっては飲みすぎて吐く。

性欲がまったくない。
女性として扱われると嫌悪感をもつ。

夢の中で、夢を感じているのとは別に、
客観的な自分がいて、
その場面や環境にイライラしている。
「違う、これじゃなくて…」と焦るかんじが
何日か続いて、寝起きがスッキリしない。

などなど
たくさんあらわれた症状の根っこが
ふとしたことで、わかりました。

「りきみ」

ガチガチに、力が入っていた。

年末の旅行を、予想以上の
良い感じで過ごすことができ、
しんどかった耕耘期が終わり、
いよいよ種まき・活動期だ!

夢を実現させよう。
どんな夢を、どう形作ろう?
いまの自分ならきっとうまくやれるはずだ。
もっとしあわせになろう。
自分を役立てていこう。
世の中の不幸を減らそう。
ようやく「意味ある人生」を始められる。
自分の人生を生きることができる…

そんな風に意気込んで
意気揚々と描いていた未来や
それに向けた行動計画は、
自分自身に、思いもしないほどの
プレッシャーを与えていた。

「これから」得るものばかり見て
ワクワクしている自分とは裏腹に

胃腸は緊張からうまく働かなくなり
すこしでも緊張を和らげようと酒を飲み
ゴスペル体験レッスンにも出かけられず
どんどん、見慣れた「ダメ人間」になっていく。
「動きたくない人」が自己主張する。

そんな自分にがっかりしたり
落ち込まなくなったのは進歩だったけれど、
理由はまったくわからないままだった。


そんな折に、友人とのチャットの中で
 自分たちが遭遇するさまざまな葛藤は
 根っこをたどると、だいたいは同じ。
 それなのに、毎度毎度、右往左往して
 まったく人間てヒマだなあ。ほほえましいなあ。
などと言っていたら

それで十分じゃないか!

そう思ってしまった。
そして力が抜けた。

比喩でもなんでもなく
身体がぐにゃぐにゃになって
しばらくのびていた。


なにかを情熱的にやり遂げなくても
世の中に良いインパクトを与えなくても
誰かに感謝されるシステムを築かなくても

目の前の物事現象に面白みを見つけたり
ここにある平和にくつろいで笑ったり
誰かをいとしく思ったり

それだって、十分、しあわせじゃないか。
そんな心持ちで過ごす人生も
「しあわせに生きている」という点では同じ。
つまり、人生の意味を成すのだ。


これから再始動するにあたって
効率性やコストパフォーマンスに
しばられるのはナンセンスだと思っていた。
だけど、世間の評価には、こだわっていたんだ。

いまのこの社会に認められる
一番の近道は、男性のように進むこと。
ルールを守り、しっかりと、安定していること。
気まぐれで、ふわふわした女性らしさとは
相容れない価値観。

絶対的な安定によって、
安心や信頼がうまれる。
やわらかく不安定なものによって、
進化や創造が見出される。

目標を定めて突き進む男性性の力
すべてを受け容れる女性性の器

しあわせへの近道は、
両輪バランスよく進むことだ。


わたしはすっかり
男性性に傾いていた。
ガツガツ、さばさば、ぐんぐんと
先へ先へ進もうとしていた。

こういう精神状態はおそらく
ホルモンバランスにも影響したから
女としての性に関心がなくなっていたし、
口唇がやたらと乾いたり
肌が乾燥気味になっているのも、
無関係ではないだろう。

この何年かの年明け最初の周期は
どーんと長くなるのが疑問だったのだけど、
もしかすると、いや十中八九、
わたしは毎年毎年
「今年こそは!」と力んでいたのだ。

ああ、なんたるバカっぷり。
なんたるかわいらしさ。

わたしはいつだって頑張っていたのだ。
見当違いだとも知らずに
大真面目に、心から、頑張っていた。
しあわせになりたくて。

そのしあわせが
わたしの望むものではないとき
心の中に抵抗分子がうまれる。
「生きたくない」「動きたくない」
しゃがみこんで駄々をこねる子供のように
身体を張って、止めてくれる。

どっちも、必死。
文字通り、必死。
だって、しあわせこそが目標だから。
それが手に入らないなら
生きている意味が消えてしまうから。

いつも必死な自分に
心からのねぎらいと、感謝を。

自立して生きる意義

「自立」 の本当の意味が
ようやく分かってきた気がしている。

物事の意味を決めているのは
いついかなるときも、自分でしかない。

おおいなるなにかのメッセージだとか
親の影響だとか、トラウマだとか
自分は「なにか」の影響を受けている、
避けようのない流れの中にいる、
と考えるのは、とてもラクだけれど

「なにかの支配下にいる被害者」という
アイデンティティをもっている限り
永遠に、人生という舞台で
自由に踊ることはできない。

なにかに寄りかかっていれば
自分の足で歩けないのは当然だ。

なにかに押し付けているエネルギーを
自分の足や腰や背骨に向けて
しっかり地面を踏みしめて
360度ぐるりと自分ひとりで感じて
そこからが、スタート。

ずっと寄りかかってきたのだから
すぐに立てないのも、当然だ。

つかまり立ちをして
つたい歩きをして
すこしずつ、筋力をつけて
すこしずつ、自信をつけて
そうやっていくしかないのだ。

この世に生まれ出たときの
自由に動ける!という歓びのままに
いきいきと生きるために。


とはいえ、自分の足で動くというのは
たいへん億劫だし、疲れることだ。
どんな出来事も、
自分の選択に拠っていると
認めざるを得ない。
重たいし、リスクもあるし、逃げられない。
そして、孤独だ。

ひとり舞台。
舞台袖に仲間はいても、
物語を紡ぐことができるのは自分独り。

この、果てしない静かな寂しさに耐えて
舞台に立ち続ける理由はなんだろう。

仲間たちもそれぞれ
ひとり舞台に立っているのだから、とか
舞台で踊ったらさぞ気持ちいいだろう、とか
生まれてきた以上は立たなければ、では
わたしにとって、立つ理由にならない。

これだから立つのはやめられない!
そんな風に感じられる成功体験が必要?
それとも、理由なんてなくても
立っているだけでうれしい、すばらしい!
そんな風に感じられる感受性が必要?
分からない。


いまハッキリしているのは、
なにかに寄りかかりたくないということ。
振り回されるのは、もう、ごめんだ。
どんなちいさなことも
すべて自分で選択してきたし
いつも自分で選択できる
過去もいまも未来も
その連続でしかないんだって
シンプルに生きていたい。

それはつまり、
ひとり舞台に立つことを
選びたいということになるけれど、
あの、しんどさや、さみしさに、
耐えうるだけのモチベーションがない。

「依存は嫌だ!」と思うまで追い詰められたから
自立を選ばざるをえなくなっただけで
ちっとも、意欲的ではない。


自分の人生に対する、情熱のなさ。
これは、前々から気になっていたこと。

おそらくわたしは
人生のほんとうの愉しみに
フタをしているのだと思う。
真の愉しみを味わうことを
許可していないのだと思う。

フタの在り処は、予想がついている。
あとは、いつ、どうやって、
アクセスするかという段階。

パンドラのはこを開けたとき
わたしはいったい、どうなるんだろう?
絶望を越えて、希望を見出せるだろうか?

星ごよみ

2010年は、蟹座の満月(月食)でスタート。

石井ゆかりさんの
2009/12/28-2010/1/3 全体の空模様。
から抜粋すると

蟹座の支配星は、「月」
さらに、リリス(月の軌道の最遠点)が水瓶座にあるので、
相当地球に近い、デカイ満月。パワフル。
満月は文字通り、なにかが「満ちる」タイミング、とされている。

そして、山羊座では水星が逆行。
今回の元日は「1年のスタート」というより
「過去のまとめ」みたいなイメージがある配置で
その「まとめ」感がものすごく勢いがある。

水星が順行になるのが15日で、
木星が魚座入りするのが18日、
そして新月が15日。
14日に土星逆行開始、18日は金星も動く。

つまり、2010年はじまった!的な盛り上がりは
1月の14日から18日くらいのところに置かれている。


・・・とのこと。

みずがめ座のわたしにとって
木星がいた2009年は
過信していた自分とか
卑下していた自分とか
ぜんぶひっくり返して
先のことなど考えようもなく
ただ這いつくばって
出来ることをやるだけの
とても受動的な年だったので

2010年は、現実を見据えつつ
未来の展望を描きつつ
動いていこう。とおもっていたら

石井ゆかりさんの年報
まさしくそのままズバリな感じだったので
うれしいやら、納得するやら。


年明け早々
ググッとアクセルを踏み込みたくなるような
面白いものが飛び込んできたのだけれど
自分の物差しで慎重に測りなおしたら
どうやら、早合点だったみたい。

以前ならば
信じきれなかった「自分の物差し」
バカにしたり、比較したり
ぜんぜんアテにしていなかったけれど

いまは
どんなに根拠がなくても
それを頼りに生きるしかないのだと
納得している。
そのことを、みずから選択している。

それと前後して
ほぐしきれていなかった部分が
いろいろな形で刺激されていて
だんだん、煮詰まってきている。

ほんとうのスタートまで、あと数日。

行きつ戻りつしながらも
手抜かりなく、仕上げたいと思う。

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