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2010年2月の記事

自立。愛し愛されること。

結婚10周年をむかえる春を前に、
自由婚 あるいは 自立婚
というものを、はじめてみた。

「家庭の将来」を考えない。
恋人ができても構わない。
相手のために我慢しない。

一言にするならば
「お互いの人生を背負い合わない」
というかんじ。

離婚なり、別居なり
した方がすっきりするのでは
とも考えたけれど

いまのところは
お互いがお互いに一番大切な人で
共に暮らすことがたのしくて
経済的メリットもある。

この人の子なら、
ひとりでも産み育てようと思える。

つまり、形を変える必要が
どこにも見当たらなかったので、
暮らしぶりはそのままだ。

変わったのは、心の持ちようだけ。

いくらかさみしい気持ちもしたけれど
いざ、そう決めてしまえば
なんだかとてもすっきりしている。

義務や慣習にしばられずに
ひとりの人としてオットを尊重しつつ
自分の人生だけに、責任をもてばいい。

こういう心持ちを、宣言するまでもなく
夫婦の共通認識としてもっていて、
実践している人もいるのかもしれないけれど

わたしたちは、「夫婦はもたれ合うもの」だと
どこかで思い込んでいるところがあり
勝手に背負って、勝手に苦しくなっていた。
助け合いと依存がごっちゃになっていた。

自分たちの関係性なのだから
自分たちが心地よければ
なんだってよかったのに。

そのことに気づいて
認識をすり合わせるまでに
ずいぶん時間がかかってしまった。

そのおかげで、信頼が深まったのであり
そのおかげで、関係を築けたのだから
なにが損で得とかいう話ではなく

いまこうしていられること
そういう人間に出会えたこと
関係を続けていられることに
感謝するほかない。

このさきも折々に
意識や形が変わっていくとしても
そのことに、不安はまったくない。
そのことが、とてもうれしい。

潜在意識解読で
わたしの今生の目標は
「自立。愛し愛されること。」だと
教えてもらったことがある。

すこし、近づけたかもしれないなあ。

働くこと/いまのはなし

去年の今頃は
努力を捨て
成功をあきらめた
敗北者の気分だった。

スピードスケート用のスーツが
身体を助け、力をより発揮させるように、
わたしは自分自身を理論で固めることで
なんとか効率優先に働いてきた。

おかげで、たくさんのことを成し得たし
結果的に力もつけてきたと思う。

挙句、その力に、逆に振り回されて、
自分を見失っていたわたしが選んだのは
育ててきた力をつかわない類のアルバイト。

しばらくはたのしく働いていた。
けれど、自分の力を発揮していないという
罪悪感に似た気持ちのせいなのか、
いつの間にか、また
同じような仕事をしていて、
また、集中できなくなっていって、
そうこうするうちに、事故に遭った。

求めに応じてなんとなく
慣れた立場:「便利な被雇用者」に
安穏としていたところへ
冷や水をあびたようなもので

それからは腹を括って、
自営の道を探ったり
換金しない働き方をしたり
投資に活路を求めてみたり
ちまちまと試行錯誤を重ねてきて

いま、ふたたび、
サラリーマンをやってみようかなと思っている。


わたしがずっと欲っしていたのは、
わたしを活かせる環境だとか
わたしを活かせる職種ではないと
心底分かったからだ。

いつでもどこでも誰といても
わたしはわたしでいていい。
という、自分への信頼。

それさえあれば
自営も被雇用もその形態も職種も
なににも惑わされずに
自分を生きることができるはずだと
分かったからだ。


自由と責任をまっとうできる自営に
憧れないわけではないし、
やってみたいこともあるけれど、
無理にハードルをあげることもない。

もしわたしにとってそれが最適であれば、
それが求められているものであれば、
おのずとそういう状況になるだろうと思う。

目の前にあるのは、
スキルを活かせる好条件の派遣仕事。
ならば、そこに身を投じてみよう。
そこで、自分を生きよう。

易きに流れているだけのような気が
しないでもないけれど、
流されたその先になにがあるのか、
なにを感じるのか、たのしみでもある。


こんな風に、
回顧できるようになったことを
力まずにいられるようになったことを
ほんとうに、うれしく思う。

がちがちに理論武装していたことで
いったいどれだけ人を傷つけただろう?
ぎちぎちに全身を強張らせることで
いったいどれだけ自分を苦しめただろう?

そのことを思うと、
胸が塞がる。
涙が溢れる。

関わってくれたたくさんの人たちに
がんばり続けてきた自分自身に
心からの謝罪と感謝を。

これからの自分に、エールを。

働くこと/過去のはなし

いわゆるサラリーマンだった頃、
自分の中に仕事モードというのがあった。

感情を完全にシャットアウトして
合理的に効率的に頭を働かせ実行する。

仕事をしているときと
飲み会などでの雰囲気が
あまりに違うので、
職場が変わるたびに、必ず驚かれた。

いまでもときどき
そのスイッチが入ることがある。
ロボットみたいな自分に
自分でびっくりする。


仕事モードだと
気持ちがしゃきっとして、
物事がどんどん片付いていって、
デキル自分を味わえて、
周囲の評価もとても高い。

そのモードで取り組むことが
社会人として期待されるところだ、
義務ですらある。
そう思い込んでいた。

ストレスやトラブルは避けようがないものだから
それらがうまれない方法や状況に
変えていけばいいと信じていた。

どんどん編み出す改善案や解決策を
認めて、賛成して、応援してくれる人がいる一方で
口では同意しながら動こうとしない人々もいて

彼らの向上心のなさだとか
自分に権限がないことを嘆いたり

権威的な上司に反発したり

いつでも、誰とでも、渡り合えるくらい
自分は正しい!と言えるように
ガチガチに理論武装していた。

・・・なんて痛々しいんだろう。

そんなことを何年も続けていれば
どうしたって、精神的に疲弊する。

聞きかじりのスピ系情報に依存して
腹の立つ相手を頭ごなしに許そうとしたり
(おかしな表現だけれど、こういう感じだったとおもう)

ホ・オポノポノでクリーニングすれば
思惑通りに事が運ぶんじゃないかと考えたり

そんな無駄なあがきも空しく
わたしは仕事に行けなくなった。

心を奮い立たせていつも通りに
自分のやり方を遂行しようとしても、
それをやれない・やりたくない自分に
だんだん、かてなくなってしまい

かといって、
仕事中にぼーっとしていることも
仕事を休んでぼーっとしていることも
どちらも、ひどくつらかった。

そんな自分をゆるせなかった。

遅刻欠勤ばかりでも
どんなにぐうたらしていても
重用してくれる人だとか
気遣ってくれる人もいたのに

あまえることができなかった。


スキルや能力を役立てたい。
100%活かしたいという気持ちが
ずっと、空回りしていたように思う。

どうしたらそういう理想的な環境に
身をおけるのだろうと、転々として

アルバイトでは無理だとわかり

派遣でも無理だと感じ

正社員でも、やっぱり、実現できなかった。

そして、サラリーマンでは無理なのだと
結論をくださざるを得なくなったのが
2009年の暮れのこと。


こうやって書いてみると
なんて馬鹿なことをやっているんだろうと
おかしくなってしまう。

だけど、いつも、いつだって、
一生懸命だった。

だから、どうか、ゆるしてね。

チベット体操とソウルアルケミーエッセンス

グラガやニジャラをのんでみたくなった時期に
レビューを参考にしていたショップAngeli
チベット体操ワークショップを発見。

名称だけは聞いたことがあるだけで、
どんなものかは、全然知らなかったのだけれど

プレオープン記念価格で通常の半額、
さらに通常4800円のソウルアルケミーエッセンス
2000円で当日作成できるという超オトク企画。
即座に申し込んだのは言うまでも無い。

そして、これが、かなり良かった!

チベット体操は、元はラマ僧が修行として
行っていたヨガの原型とも言われる体操で
ポーズ5つと呼吸法と瞑想、
合計7つが、各チャクラに対応している。

朝6~10時にやると良いそうだけれど
夜型生活なので、昼過ぎに、
21回ずつやるのが最上級のところ
キツイポーズに合わせて7~11回程度、
やっているのだけれど

歩いているときに、確実に、
肩や胸が開いて姿勢が良くなっているし
下腹に意識がいって、しっかり歩いている。

これだけでも、かなり気持ちが良い。

ソウルアルケミーエッセンスは
トリートメントボトルを作って
ちょこちょこと摂っている。

グラガで変容を起こさなくても
ニジャラでパターンを手放さなくても
自分に還っていけるならそれで良い。

自分の感情に気づきやすかったり
自分を甘やかすのがうまくなったり
誰かの好意を素直によろこんだり
なかなかいいかんじな、今日このごろ。

チベット体操は、時々休みながらも、
なんとなく3週間くらい続けている。
一番きつかった第2チャクラ(生殖系)のポーズが
日に日にラクになるのが、たのしい。

ちょっと、人生がたのしい。

変化を望まない、しあわせ

問題を見つけ出し、
そこに在る葛藤を解決する。
それって必要あるのだろうか?

自分の中の矛盾する複数の欲求すべてを認め、
優先順位を付けて、処理していく。
それで十分ではないだろうか?

なにかを解決しなくては、という
前提を持っているだけで思考が張り付く。
解決しなくてもいいと腹に落ちた瞬間、
風が吹いて、前に進み出す。

「現状は望ましいとはいえない」と考えた時点で、
現状を否定し、別の状態を望み、
「なんとかしよう、変えよう」と、前のめりになる。
今ここに無いなにかに執心している。
そこに、緊張やプレッシャーや力みが生まれる。
無理が生じる。疲れる。なにかで誤魔化す。

反面、ほどよい緊張やプレッシャーは、刺激になる。
人生のスパイス。すべてを否定するつもりはなくて
ただ、わたしは、なるべく無理なくさらりさらりと生きたい。
自分から前のめりになにかを掴みに行かなくたって、
状況は勝手に、刻々と変わって、
自分はそれに反応してしまうのだ。けっきょく。

わたしが、人生は辛い、投げ出したい、と思うのは、
人生はたのしいものだ。
という信念が根っこにあるからかもしれない。

易きに流れるのは怠け者だ!
なぜチャレンジしない!
なんて、つい自分を責めてしまったり

自分を100%活かしたい!
そうしないともったいない、生まれた意義を果たせない!
なんて意気込んだりしてきたけれど

さらりと出来ることを、
出来るときにやればいいんじゃない?

頑張って理想を追っかけなくても、
今しあわせならいいんじゃない?

不具合が生じたらそのときに
変化を検討すればいいんじゃない?

今とは違う自分を目指すことでしか
しあわせを得られないなんてことはない。
それはいつだって目の前にあるんだ。

チャレンジと達成は
陶酔感を与えてくれるけれど
安心にはつながらない。

易きに流れたっていいじゃないか。
そこにしあわせがあるのなら
安らかに過ごせるのなら
なによりじゃないか。

在りたい自分

生き辛さを感じている人が
可能性を見出すためのガイド。

いまの社会に疑問をもち
打開策を見つけ出そうと
模索する人々との対話。

情報発信や、資金援助など
そうした活動のサポート。

インターネット検索や
パソコン操作で困っている人を
手助けする。

なんとなく不安だったり
なんだかさみしい老若男女が
ふらりと立ち寄れる場所をつくる。

助け合って暮らすことを望む
核家族や
母子家庭、父子家庭や
独り住まいの人や
留学生や外国籍の人への
コミュニティ住居の提供。

みーんな、やってみたいこと。
やれたらいいなあと願っていること。

だけど、いま、一番大切にしたいのは

オットと食べる手作りごはん
オットと過ごすのんびりした時間
日々の自分のふわっとした気持ち
 散歩したいとか、歌いたいとか、
 ぼーっとしたいとか、お茶のみたいとか、
そういうちょっとした欲求を
蔑ろにしないで済む生活。

描く未来に向けて頑張るのではなく
今ここの心地よさを最優先する生き方。

誰にも遠慮せず、引け目も感じず
ただただ、自分を大事にしたい。

まっすぐ自分の軸を保ったまま
ゆったりと流れに身を任せ
すてきな波がきたら乗ってみる。

今このときを、愉しみ続けよう。


続きを読む "在りたい自分" »

信頼こそすべて。

わたしを取り巻く世界に
足りないと感じるもの。

「信頼」

誰かを
世界を
出来事を
自分を、信じる心。

ここ最近の
松原靖樹さん
はがっちさん
ブログ・メルマガで
すごーく合点がいったこと:

自分を信頼するためには
まずは理解する必要がある。
分からないものは信じられない。

お金というエネルギーの
実態は、信頼・信用。

ということは、
お金が足りないときは
自分を理解できていない
と、言える。

それを踏まえて、振り返ってみたら
わたしの収入が多かったのは
その場における自分の価値を理解し、
信じていたときのように思う。

企業や組織に属すのをやめてから、
わたしは、自分が分からないでいる。
どういう場所で、どういう価値をもつのか、
模索を続けている。

自分を理解する方法は、
松原さんの『強み発掘セミナー』で教わって
ワークシートも手元にある。
時間は余っている。
足りないのは、勇気と根気、か。

信頼なくしては
自分の望みは
叶わないのだろうし

逆に言えば
信頼さえしていれば
万事OKなのだ。

被雇用者としての自信は
何年もかけて築いたもの。

被雇用者から脱して
まだ半年あまり。

自信がなくて当然だし
収入がないのも必然だ。

地道に育てていこう。

究極論

人間という生き物が望んでいるのは

形はどうであれ、最終的には

「自分がしあわせなこと」

だと思うんだ。

どんな理想も、思い入れも、

ぐーっと掘り下げていったら

そこへ辿り着くと思うんだ。

だからもう、

争わないでほしい。

争う理由なんてないでしょう。

どちらの命も、優劣つけがたく大切なのだから。

たとえ相容れないように見えても

きっと、逃げ道はある。

あなたも、わたしも、しあわせな道。

それを探すために

わたしたちの思考はあるんじゃないの?

purifying

自分自身の、思考に偏りがちなパターンを
なんとか脱却したくなり、先月、
ヒマラヤンフラワーエンハンサー「ニジャラ」を
摂ってみようかなあと考えついた。

存在自体はだいぶ前から知っていた、
強力な、「パターンを手放す」エッセンス。

それで、ショップサイトをみたり、
経験談をきいたり読んだりしていたら、
「グラガ」もいいかなあとか
女性性関係の
パシフィックエッセンス「シャクティ」とか
フィンドホーン「エロス」も
あったら心強いなあなどと迷ってしまい

ひとまず、家にあった
オーストラリア・ブッシュ
「ピュリファイング(浄化)」の
トリートメントボトルをつくって
飲み始めて8日ほど経過。

感情面で疲弊している状態、
妨げられているように感じている状態、
情緒的な問題を抱えている状態に。
解放感、安堵感を得て、心が大掃除され、
ネガティブなエネルギーが浄化されます。

ということなのだけれど、
主な変化は、夢に現れている感じ。

亡くなった祖父がでてきたり

現実とおもうほどリアルだったり

マトモに勤められなくなって
追い出されるように去った職場の同僚と
近況報告や思い出話をしたり

母の最期を冷静に看取ったり
(前にみたときは取り乱していた)

虫を吐き出したり
(たぶん不要な過去の感情の象徴)

演劇ワークショップの合宿に参加したり

距離をおいている友人と
対等な気持ちで意見交換したり

・・・印象的な夢を、たくさんみる。


そのおかげなのか、
心を閉ざして働いていたときのことを
心を開いた状態で他人に話しても
涙ぐまなくなった。

見当違いな自己責任論に毒されて
助けを求められない自分に気づいた。

気乗りしないままやっている
好きではない作業が
いつもの50倍くらい辛かった。

何度も目にしている葛藤が、
両親のあいだにあるそれと
そっくりだということに、気づいた。

子供の頃から苦手としている
状況において、どう振舞うのか、
あらためて考える機会がやってきた。


これは、インナーチャイルドや
バーストラウマに働きかけるという
古珀術を受けたことも
影響しているかもしれない。


その葛藤を前に
無力な自分で居続けるのか?
自分はなにを望んでいるのか?

苦手なことを、これからも
同じようにやり続けていくのか?
回避してやり過ごしていくのか?


わたしの歩むべき道を覆っていた
硬くしまった残雪のところどころが
ゆるんだり、ひびが入ったり、
それをすこしずつシャベルで
除けていくような作業。
道幅や路面を確かめながら
やすみやすみ、えっちらおっちら
前を見てさくさく歩けるように。

立春まであと2日。
わたしの春もそう遠くない、か?

プレイバックシアター

先日、プレイバックシアターの
アクター養成ワークショップ
というのに参加した。

即興劇の一種で
テラーの語るシーンや感情を
その場で、数人で演じるのだが

テラーをやってみたら、
状況は語れても感情がみえない。
演じる側をやってみたら、
相手の感情を増幅できない。
即座に表現できない。

すごく難しかった。
そして、やってみてよくわかった。

わたしは、もっともっと、
感情を表現したかったのだ。
自由に人目を気にせずに振舞ってみたくて
だから、ワークショップに参加した。

ひとりカラオケでは
好き勝手に過ごせても
ひとりきりの自由は
真の自由とは言えない。

わたしは、いつでも、どこでも、
ありのままの自分でいたい。


そのWSは、子育て中の女性たちが
せめてもの息抜きにと
時間とお金をやりくりして集まって
プレイバックシアターをたのしんでいる
サークルが主催で

なんだか肩身が狭かった。
彼女たちの健気さや、
頼るものを持てない不安や、
それを転換できる言葉をもたない自分が
とても、痛かった。

家事もろくにしない
子供もいない
仕事もしていない
稼ぎもない
そんなわたしに
いったいなにができるというのか。
なにを言えるというのか。

ここから
「生きててごめんなさい」が誘発され
その感情を手放したい、という
流れになったのでした。

エッセンスの助けもあって
いろいろと、見えた部分もあり
煮詰まって動けなくなったところもあり

WSはあと2回。
起きられるのか?
行く気があるのか?
よく分からないままでいる。

もうすこし(その場にいる自分を)
見てみたい好奇心と
逃げ出したい自分と。
どっちが勝つのだろう?

統合

母方の女系の多くは
万事を配慮し、万難を排そうとする。
常に思考をめぐらせている感じ。
感情よりも理性を重んじる。
子宮疾患率がめちゃくちゃ高い。
いつもなにかを想定しているため
外れたときにストレスを感じるので
内臓に負担がかかりやすい上、
頭の使いすぎで、子宮・下半身に
血液やエネルギーが巡りにくいのだろう。

父方(のおそらく女系)は
多少の無理は無理とみなさず
フルパワーで生き抜く姿勢。
本能と直感に従う感じ。
脳卒中が多い。
エネルギーがつよく、
気力・体力で生きていて、
何事も体当たりで乗り切ろうとする。
客観的な視点をもちにくく、感情的。


思考と感情

心と身体

こどもな自分とオトナな自分

個人と社会

仕事と生活

自由と責任

緊張と弛緩

女性性と男性性

合理と非合理

愛と苦しみ

理想と現実


これらすべての統合。

もしくはバランス。

つまり、自分らしさ。

書くことと考えること

なにか考え事をするとき
文字に書き出すことが多い。

頭の中でこねくりまわしていると
どんどん展開していってしまったり
ふとした思い付きに邪魔されて
いつのまにやら、思考テーマが
晩ごはんの献立になったりするので

書き出していけば
いつでも振り返れるし
きちんと言葉にすることで
しっかり踏みしめながら
考えられる気がする。

さいきんは
Twitterに入り浸っているので
ふとした考えは
どんどん140文字以内で
ツイートしている。

手軽で、ログも残っているという
メリットがある反面
ブログのように、
ときにはしっかり考えながら
ときには流れのままに
書きながらまとめていく、
という感じにはならない。

気のむくままツイートし続けていると、
なんとなく落ち着いて
納得したような気になってるのだけれど、
頭にあまり残っていない。
反芻しない。

Twitterに書いた言葉は
どんどん流れていく。
消える前提で書いている。
だからかもしれない。

自分のために書き散らすならば
自分にじっくりと向き合える
ノートとペンが一番だと思うけれど

手書きより入力の方が速かったり

わたしのもやもやっとした
ツイートが誰かの目に触れて
なにかの反応を引き起こすかも、と思うと
Twitterに書きたくなってしまう。

思考の整理をしながら
誰かとつながれる。
なんだかお得な気がするのだ。

たくさん流れてくる興味深い情報を
中継できる悦びも、魅力。

しかし、思考を深められず
足踏みしたままなのも、困るような。

自分に向き合うというのは
なかなか、めんどうなことなので、
Twitterのゆるさに逃げている感じもする。

逃げたいならば、すきなだけ逃げよう。
それも選択。
流れは止まらない。

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