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2010年12月の記事

自分で在ることのさみしさ

わたしはクジラなので

みんながやっているように
軽快な波乗りはできないのだけれど

下からの俯瞰で状況がみえるので
みんなとは違う選択肢を言える。


わたしはクジラなので

毎日同じ椅子で決まった時間
座り続けることはできないけれど

あちこち流れ流れた先で
臨機応変に過ごすのは苦痛じゃない。


わたしはわたしなので

自分自身が心地よいかどうか
しか、わからない。

誰かやなにかを疎ましく思ったり
それを表現してはいけないと思ったり
だるくて動けなくて予定延期したり
義理を重んじることで身を守りたくなったり

そのとき、出来ることを
そのとき、やりたいように

生きるしかできない。


職場で
唯一の存在
という状況になることが
よくあった。
自分でそれを選んできたところもある。

自分で在れることの自由
自分しか居ないことのさみしさ

さみしいなんて
感じちゃいけないと思っていた。
さみしいなんて
仕方ないことだと思っていた。

人に生まれた以上
これはもう、必然なのだから
わたしはこの孤独に
耐えなくちゃならないのだと。


だけどやっぱり
わたしはさみしいよ。

だからこそ
みんなを世界を愛したいよ。

どうしたら伝えられるかな。
どうしたら
このさみしさを、いとしさを、
伝えることができるかな。

もっともっともっともっと
ひろくておおきくてまあるい
海みたいな
この気持ちを拡げていきたいなあ。


新年早々に受けることになっている
松本さつきさんの
キネシセッション。

実は、ことし4月に受けた
「開業支援キネシ」の続き
というか、やりのこし?
わたしの"たましいのパートナー"と
つながる方法を
教わることになっている。

なんじゃそりゃ?!
と思う自分も、いる。確実に。
だけど
なにやら面白そう、とも思う。

4月のセッションで
いただいたメッセージは
「パートナーとつながることで
 享受できることがあるので
 つながる「方法」を知りたいと、
 心から望んで欲しい」
ということだった。

先日、なんとなく、のタイミングで
さつきさんにセッションをお願いしたら

このたび、こうして、
心の底からのさみしさを自覚し
誰かとつながりたい!と
強烈に思うに至ったのでした…

オットがパートナーとして
物足りないとか
そういうことではなくて、
カラダを持っている以上は
別の「個体」なので
完全にわかりあうことは出来ない。
感覚を共有することはかなわない。

わたしのさみしさは
そこから来ている。

子どもがいたら・・・と
願わないでもないけれど
それでもきっと
このさみしさは変わらない。
下手したら
子どもに依存してしまう。

わたしがわたしで在ることを
受け止められるわたしになりたい。

これからの自分に期待。

サンタさーん

妊娠できるカラダと
ココロと
タイミングと
相手と
・・・すべてがほしいです。

もう手遅れですか?

もう手に入れてますか?

サンタさーん。。。


こんな風に

「妊娠」や「子ども」に

期待しすぎちゃう自分

その弱さが、わたしなんだよね。

怖くていい。

怖がっちゃいけないと思ってた。

死も
老いも
貧乏も
夜のお墓も
独りでいることも
誰かに嫌われることも
言葉の通じない国を旅することも
見知らぬ人も
あたらしい環境も
予想外の展開も
子どもを授かることも
いつか誰もが死ぬということも

ぜんぶぜんぶ
怖がっちゃダメだと思ってた。

たぶん
慎重で堅実で安心が大好きな
母を、勇気付けるために。

あああ、しんどかったなあ。

ほんとうのところ
あの母は、わたしなんかより
ずっとずっと、揺らぎないのに。

そういう自分でいることで
ゆるされると勘違いしていたんだなあ。

おつかれさまでした。

もういいよ。
怖いものは怖いって言いながら
うわーどひゃーって言いながら
進んでいこう。






石井ゆかりさん週報から抜粋
(来週のみずがめ座)
http://st.sakura.ne.jp/~iyukari/week/101227aquarius_w.html

計画を立て始められます。

何かを選ぶということは
他の選択肢を選ばない、ということです。
この「切り離す」ことが惜しくて
選び取ることをためらってしまうことがあります。
このところ、貴方は
どれを選ぶか、に迷っていたのではなく
どれを選ばないか、が決められなかったのかもしれません。

でも、今週以降、
何かを選べる心持ちになってきます。
今まで立ち止まって吟味し続けていた分、
情報量が増し、気持ちがクリアになっていきます。

本当に徹底的に迷ったならば
その迷いの量そのものが
迷いから脱するという奇跡を呼び寄せてくれるのではないかと思うのです。

潔く老いる

なんで生きてるかわからないし
いつ死んでもいいし
いっそ早く終わればいいのに

というのが
わたしの長年の気持ちで
嘘偽りはないと思っていたのだけれど

もしかするとわたしは

老いることも
死ぬことも
すっごく怖いのかもしれない。

それでもって
もしかしたらちょっとだけ
怖くなくなったのかもしれない。


“つかいものにならない”
“だれかの手を煩わせる”
---そんな風であってはならない。
という、慣れ親しんだシバリが

“つかいものにならない”
などと一概には決められないし
“だれかの手を煩わせること”が
だれかの救いになったりもする。
という、現実を体験して、ほどけた。

アタマで知っていたときは
アタマしかほどけていなかった。
カラダで実感したら
カラダに反映された。


観念はほどけたというのに
カラダはゆるむどころか
ぴしっと芯のような緊張がうまれて

どうにも居心地がわるくて
なんとか解放されたくなるんだけれど

もしかしたらこれは、これから、
わたしを動かしていくものかもしれない。


潔く生きるというのは、
潔く老いるということ。


友人のブログ
先日のふたご座の満月を
鏡リュウジさんは
「哲学者の死」と表現していた、とあり

うん
わたしのなかにいた
生に、存在に、意味を見出そうとしていた
哲学者は葬られた気がする。

瞬間をたのしむこと
それを積み重ねていくこと
人生ってそういうもの
人ってそれだけの生き物、って

いろんな機会に
ちょっとずつ
わかってきたつもりだったけど

恐怖を自覚してこそ
たのしみがくっきりする

きっと世界はもっと色鮮やかになる。


『利口さ、それがあなたの病気だ。
 賢くなりすぎてはいけない。
 止まることをつねに覚えておくがいい。
 極端に走ってはいけない。
 少しの愚かさと、少しの智慧はいい。』
(OSHO禅タロット 50.祝祭より)


いつかわたしの人生は終わる。
だとしたら
だからこそ
いまに注力しなくてどうする。ってこと

そして
だからこそ
つなげていきたい。ってこと


わたし、生きてるんだなあ。

なげやりなきもち

周期45日目でリセット
はじめの3日は調子よく
多くも少なくもなく
そのあと3日
だらだら止まらず
骨盤の開閉が
スムースではないようだけれど
今期はなんだか
なげやりな気分
前期とはうってかわって
卵巣ブリージングも
スローモーション体操も
やろうと思えない

こういうときは
じたばたしない
深くて暗くてしずかな
海の底でじーっとしていよう
あのキラキラした海面には
なにがあるんだろう?って
ふと浮上したくなったら
動き出せばいい

掃除してきれいにしたり
洗濯してさっぱりしたり
そういうことに
いまは全然、心惹かれない
じーっとじーっと佇んでいたい

どうしたら子どもを授かれるのか
どうしたらお金持ちになれるのか
どうしたら、どうしたら・・・って
イマココから離れてしまっている
いまの自分にダメだしして
なげやりなきもちになっている

もっともっとなげて
もっともっと力を抜いて
海の底を感じよう
暗くてしずかでおおきな海に
身をゆだねてみよう

波に乗れないならば
底に沈めばいい

海面を跳ねる波よりもっと
おおきなおおきな流れが
いつかどこかへ運んでくれる

くじらは、くじら。


くじらは、くじら。

イルカにはなれない。

ならなくていい。

自分で在ろう。

さみしくても

わたしは世界で、世界はわたしだから

だいじょうぶなんだ。

マイナスのメリットを失う恐怖

不妊のメリット
・オトナ2人なので自由度が高い
 旅行も外食もふらっと行ける
・避妊しなくていい
 ゴムも買っておかなくていい
・養育の責任がない
 貯蓄はそこそこあればOK
・行動単位がたった2人
 =想定外のことが起こりにくい
・夫婦2人を満喫できる
 互いについて話す時間が長い

近視のメリット
・遠くをみなくていい
・みえないものは無視できる
 部屋の隅の埃とか
 道路の反対側を歩く知人とか
・視界がぼけると頭もゆるんで
 論理よりも感覚がつよくなる


こういうメリットを
「手放そう」
「もういいじゃないか」
「メリットではないよ」
なんて
自分に言い聞かせても
あんまりうまくいかない。

それよりは
必要があってそうしている、
そんな風に自分を守ろうとしている
自分に感謝しながら
メリットを心ゆくまで享受したらいい。

メリットがもたらすいまの心地よさを
失うことを恐れている
自分を認めて
コワイ!!と叫んだらいい。

コワイコワイコワイコワイ
コワーイコワーイワーイワーイ

なんて、そのうち
たのしくなるといい。

スリルと恐怖は同じもの。
余裕があるときならば
未確定の要素をたのしめる。

怖れで動けないときは、
自分を追い詰めている
「慎重でやさしい自分」が
どこかにいるのだ。

そうやって無意識に怖れている
その対象を意識に上げれば
ふっと力が抜けていく。

「怖い」という気持ちにフタをしないで
しっかりその怖さを感じながらだったら、
「怖れている対象」に向き合える。
ほんとうに怖れるべきことなのか、
見直すことができる。


今週の石井ゆかりさん週報

 貴方がしなければならないのは逃げることではなく
 それを介抱することだったのだ!
 と
 そこでやっと、気づかされるかもしれません。
 そうなったらもう、怖いものはどこにもありません。

納得!

夜明け前

周期37日目
体温不明(測っていない)
胸の張りなし
帯下は日によって
白いぺたっとした感じ

数日前から
オーストラリアブッシュフラワーエッセンス
ウーマンを飲んでみている。
しょっぱくてびっくり。
輸出入の関係で「お酒でなくす」ために
塩を入れるそうだ。
以前買ったPurifyがしょっぱくなかったのは
NZヘルスショップで買ったからで
今回は国内のショップ(Angeli)で買ったのでした。

最近おもったこと徒然。

感情と理性
カラダとタマシイ
男性と女性
自分と他人
きちんとしたい自分、ゆるんでいたい自分
等など
相反するもの、対になるものがあるから
それぞれの輪郭がくっきりする。
味わい深くなる。
どちらを否定するでもなく
自分の現在地を分かっていること、
欲求を自覚して、満たしたり、調整することが大事。
鏡がないと、自分のことは見えない。

諸々の出来事から
AIHや里子を再検討。
いつまでも子が産める体ではないし
よろこばせたい誰かがいて
それによって自分が嬉しいなら
いいかもしれない、と。
そう考えた途端に
刺激や情報が入って、
やっぱりわたしたち夫婦は
子どもが欲しいこと。
そこに少なくない費用をかけるより
旅に出たいということ。
自分たちの子でないならば
養育する意気込みはないこと。
などを、オットと再確認。

アルコール耐性が落ちて
心地よく酔えなくなったので
しばらく、飲酒を控えていたけれど
またすこし増えてきている。
体に無理がないなら、まあ、いいかな。

ひとりカラオケブームが終わったようで
先月あたりから、何度か、
行こう!とは思うのだけれど、
歌って踊ってなにかを発散したり
自分を満たしたりするのではなく、
その空間・時間を誰かとシェアしたい
という気持ちがあり、
しかし同行者が見つからず
行かずじまい。
代わりに?レシピも計量もなしで
お菓子を作ってたのしんだり、
家の中で歌ったり、くるくる舞ったり、
体の求めるままに
妙なポーズをとったり、している。

わたしは家から出るのが嫌いだ。
家の中にいれば安全。
自由でいられる。自分でいられる。
遅刻癖の理由のひとつ。
そうはいっても、ひとりで居ると
変化が恋しくなることがあり、
ネットで誰かとつながったり
窓をあけてみたり
オットが出かけるのに合わせて
一緒に家を出たりしてみる。
外に出てしまえば
恐れるようなことはなにもなく
案外、自由でいられる。

仕事や運転のとき以外は
コンタクトレンズではなく
メガネのまま出かけることが増えた。
ぼんやりしていたいときは
外せばいい。便利だ。
せっかく悪くなった視力
活用しない手はない。
いつも無意識に自分に課している
「考えるべきこと」も「やるべきこと」も、
物事をきちんと見ないでいれば
減らすことができる。
問題は、コンタクト装着後の出掛けに
埃や汚れが目に付いて
掃除したくなって仕方ないこと。
(時間がないのに!)

世の中に不妊が増えているのは、
出産が選択肢になっていること、
出産しない未来の方が予想しやすいこと、
子育ての不安や不便さばかりが増長され
良さがみえてこないこと、
夫婦の関係性が
希薄に、または自由になっていること、等が
理由だろうと思っているのだけれど
それはつまり
わたしは妊娠を恐れている
ということなのかもしれない。
アタマでストップをかけているかもしれない。

「望んでも授からない」という視点でみると
世の中は「しあわせな子育てエピソード」に
あふれていたりもする。
女として生まれ育った以上
子を産まずに生きている間には
なにかの拍子にふと
「産んでいたら」「産めていたら」と
思うのかもしれない。
センチメンタルになるのは
本能みたいなものかもしれない。
いずれにしても
望んだことが適わないというのは
せつないことだ。
実際のところ、人生なんて多かれ少なかれ
そういうものだとしても。

目の前のことに100%フォーカスすること。
「~したい」「~したくない」ではなく
「~する」と決めてしまうこと。
追い風だけをキャッチして
それ以外は気にしないこと。
そうしたら、もし結果的に適わなかったとしても
たのしい気持ちで過ごしてきた分
悔いが少ないだろうか。

にわかに気になっているインプロ(即興劇)。
去年の今頃はプレイバックシアターのWSに
参加したり、していたのを思い出した。
劇もいいけど
歌のインプロも、たのしそうだ。
楽器に堪能なら即興演奏は
わりにハードルが低そうだけれど、
わたしが自由に操れる楽器はないに等しい。
エレクトーンをやっていた頃
即興の課題は苦手だった。
いまはすでに指が動かないし
そもそも楽器というものには、
あまり心惹かれない。
打楽器なら、たのしいかもしれないけれど
やっぱり、歌、だなあ。
体内を廻って、空気を震わせて
その感じはまるで
世界とのつながりを確認するような。
わたしは、わたしを、
この世界に響かせたい。

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