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3/27)いいとか、わるいとか、もうたくさん!

2011年03月27日14:00の
mixi日記を転記

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ボーリングの話。

わたしはスペアをとるのが苦手だ。
「あれをとらなくては」そう思うと、途端に、手元が狂う。
ゲームに勝とうと思わなければ、いや、スコアを伸ばそうと思わなければ
別にとれなくたって構わないのに。
ただ投げるのをたのしめばいいのに、「とらなくては」と思ってしまう。
だけど、そのプレッシャーを越えてスペアを取れたときのヨロコビは、格別。

いまの日本の状況は、どうやってスペアを取るか?というゲームをやっているのかもしれない。

ピンがぱーんとはじけるようなストライクこそが、ストライク!
そんなイメージを描いているというオットは、
ピンポイントを狙っているからか、なかなかストライクが取れない。
その代わり、スペアは簡単に取る。

彼にとってはスペアの方が「範囲が広い」らしい。
あの辺に当たれば倒れるでしょ。という感じだというのだが
それはわたしの1投目(たまにストライクが出る)と同じ感覚なんだよなあ。

1投目で8~9本とって5連続スペア、なんてことを
あっさりやってのけるので、彼の方がトータルスコアは高くなる。

「ストライクは損だ。投げる回数がすくない」とオット。
負け惜しみ!とわらったけど

わたしたちは、スコアを競っているわけじゃあない。
ピンを倒すあそびをしている?
倒れるかどうかすらどうでもよくて、ただ、投げるのをたのしんでいる?
人によってはスコアを競うことがたのしいかもしれない。

どれも、たのしみかたとしては、アリだ。

昨日の朝からいままで、ひたすら寝ているオット。
おそらくきっかけは、わたしが「お金」を理由に彼の思いつき行動に渋い顔をしたこと。
それについては昨晩反省して、謝ったのだけれど。いまだ布団から出てくる気配はない。

わたしが爛々としていて
オットが悶々としているときは
なにか見落としているときだと決まっている。

なんだろう?

かまきりさんのブログから転載
http://processkamakiri.blog109.fc2.com/blog-entry-1316.html
我々は現実そのものではなくて現実について我々が抱いているイメージに対応しているという構図には真実性があり、だからイメージから外れた現象が起きると一生懸命考えたり行動したりしてイメージと現実の不調和をなくそうとする。

(中略)

イメージ、つまり世界観自体を修正するか、あるいは起きた現象を無視するかという二者択一に迫られる。

前者はやや時間がかかるのでとりあえずは後者が自動的に選択され、起きた現象を受け入れないために「こうしておけば起きなかった」という理屈をいろいろ考えたり、「こうすれば回復できる」という行動を選んだりする。

さっきチェックした、断捨離のあとはリバウンドしやすいので注意。という話にもどこか通じてる。
http://ameblo.jp/nagarenomama/entry-10835707934.html
断捨離をすると急激に物が減ったので違和感を感じます。
心の満たされていない部分を物でごまかしていたからです。
物が少なくなる事で心が満たされていなかったという事をイヤでも実感する事になるからです。
そして、本能(ホメオスタシス(恒常性))で元に戻そうとする為にまた物を増やそうとします。


ダイニングに山積みにしている
長年ためこんできた紙袋たちの片付け
中断してそのままだ。流しの洗い物もだんだんたまってきている。
わたしは、なにか誤魔化したいのかもしれない。


3月16日~23日、被災地へ医療スタッフとして行かれた看護婦さんの日記
http://blog.goo.ne.jp/flower-wing

これを読んでいたら、おかあさんがリュックを抱えていたところで
あたりまえのように泣けてきた。

そうだ、この事故はやっぱりかなしいのだ。
誰かが亡くなること、誰かが遺されること、それはもちろん
そういう場にあっても大切な誰かを大切にしようとする気持ち
ヒトという生き物の、あたたかさ、せつなさ…
わたしはそこから離れすぎていたかもしれない。

わたしが「とらわれたくない」とした過去の知識経験たち
ぱっと見は無機質なようだけれど、
その裏にはたくさんの感情が動いていたのだ。
わたしがいま「脱原発」を志向するように
「原発量産」を志向してきた、たくさんの誰かがいたのだ。

大戦で勝利する、という唯一無二のピンポイント・ストライクゾーンを外してから
ひたすら、とにかく、スペアを取ろうと、希望をもって投げ続けてきたんだ。

もういいよ。
頑張るの、やめよう。
島国ニッポンの身の丈にあった、発電を、経済を、生活を、しようよ。

ぱーんと弾けるイメージ通りじゃなくても
ただ真ん中あたりを狙ってたまたまだったとしても
ストライクは、ストライクなのだし
もしストライクがとれなかったら、もう1回投げられるんだし
もしスペアがとれなくても、次のターンがまたやってくる。
なんにも狙わないで、投げることをたのしむんだって、いいんだよ。
いっそのことピンがなくたっていい。
たのしければいい。

自分のなかにふと湧いたことを伝えたとき
誰からもどこからも反響がないように見えても
いま、みえないだけかもしれない。
ただ、みえないだけなのかもしれない。
それを「拒絶」だとか「無視」だとか勝手に勘違いして
閉じてしまったら、やめてしまったら、
それは世界を信じていないってことだ。
自分を信じていないってことだ。

そんなかなしいことは、もうやめたい。やめよう。

わたしはたぶん「可能性をみつけるあそび」に執心し始めていた。
それを投げて、ぶつけて、響きをたのしんでいた。
でも、あれは自然に湧くにまかせていいのだ。
ああだこうだとこねくりまわして、考え出さなくていい。
ましてや、響きをたのしみに投げたりしたらダメだ。

なにかが響くということは、なにかが動くということ。
動くということ、変わるということは、痛みを伴う。
それが心地よさや感動であったとしても
相殺どころか打ち消されてしまっているだけで
ちいさなちいさな、痛みとかなしみが、必ずうまれている。

それは決して避けられないし、避けるべきことでもない。
だけれど、そのことを、忘れないでいよう。

むやみやたらと「当てること」「響かせること」をイメージするのをやめよう。
当たらなくても、響かなくても、当てるべきなにかがないとしても、
意味がないことにはならないのだから。

誰も買い手のいない「絵」を描いたことは、価値がない?
誰にもみせない絵には、意味がない?
そんなことはない。

かたちのないものが「絵」としてあらわれるとき
そこにヨロコビがある。
それで十分なんだ。

あなたも、わたしも、この世に形をもって生まれてきた。
いまここに、あなたがいて、わたしがいる。かたちとして存在している。
そこに意味やら価値やらは、必要ない。

誰かと誰かが交わるエネルギーが融合してうまれたのが、わたしたちだ。
放射性物質となんら違わないじゃないか。
いいとか、わるいとか、もうたくさん!


というわけで、PCを離れて、
溜め込んできた紙袋たちに愛と感謝を抱きながら、
片付けを進めることにしますww

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