« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

2011年8月の記事

シンプル・セルフヒーリング

先月
アロマテラピーと
ロミロミと
立て続けにうけて

ハンドマッサージだからこそ届く場所、
拭い取り、押し出せるモノがあるのだと体感した。

レイキやくおん整体や量子場調整といった、
エネルギー寄りの整体
フラワーエッセンスやレメディといった、
物質を媒介するエネルギー療法
それぞれに、得意分野があるように

身体はやっぱり、身体が好きなんだな。
ぐっと力をいれて押されたり、ゆらゆらされたり、
身体を実感できるような施術であればあるほど、身体はよろこぶ。

精神的なダメージっていうのは
セラピーやヒーリングや物質を利用したり
ひとりで泣き叫んだり、書きまくったり、歌いまくったりで
解放して癒していくことも出来るけれど

身体と同様の論法でいけば
特定の誰かから受けた(と感じた)ダメージであれば
個人的な関係性
社会や家族、グループから受けた(と感じた)ダメージなら
グループのなかでこそ
癒されやすいのかもしれない。

海でつくった傷は海の中で晒しているとなおりが早いように、
ハンドマッサージだからこそほぐせる凝りがあるように、
人と触れ合って出来た傷は
人の中で開いているとなおりが早いのではないか。


『このひとは、わたしを傷つける。 』
怒りと悲しみを溜め込んで、そう思い込んでしまったエゴを
まっさらに置き換えたいなら

その相手が生きていて、いまも会える状況にあるならば

その相手のいる場所で、傷をひらいていること。傷を隠さないこと。
起こるすべてに抗わないこと。癒しをうけいれること。

これが、究極のヒーリングじゃないだろうか。


必要なのは愛と勇気と信頼だけ。

わたしがわたしを癒すことが
わたしにつながる人々を、世界を、癒すこと。
わたしに、心からのエールを送ってくれるひとたちがいること。
それを確信できて、はじめて、できること。

共に過ごす人たちの大事な時間とエネルギーを
奪ってしまうようで、気がひけてるところもあるけれど

迷惑がられる、困惑される、あきれられる、
わらわれる、邪険にされる、無視される…

そういった反応をすることも、されることも、
すべてはギフトだから、大丈夫。

わたしたちは
誰でも
いつでも
なにからだって
ギフトを見つけられる。

その可能性にひらいていよう。

「安全ハウス」

(順番が前後してしまいましたが)
(前の記事「コントロールおばけ」に出てくる)
(安全ハウス について、先週書いた文章)


わたしはこれまでさんざん、
「大丈夫」と思いたくて、
「安全」を確認したくて、
あらゆることを「言葉」に置き換えクリアにすることで
「安全ハウス」の建材にしてきた。
それは、あくまでも自分のためだった。

たまに、自分が切り出した木材を
応用できる家を建築中の人がいると
分けてあげることも出来た。
つまり、相手の不安を、言葉を使ってクリアにしていくことで、
安心がみえるところまでガイドする。
(というか、結果的にそうなっていることが多い)

これが、わたしにとっての「教える」の原義だ。
相手の不安を、言葉を使ってクリアにしていくということ。
パソコンの操作方法を説明するのと、なんの変わりも無い。

いまやわたしは、
自分はいつでも安全だということを、
ほとんど片時も忘れないでいられる。
(と、いまは思っている) 

しかし、不安だったときのことは忘れない。
いまだからこそクリアにできる不安もあるし、
前よりもより丈夫な建材を切り出すことが出来る。

わたしはもはや「安全ハウス」に手を加えることはしないだろう。
それでも、建材を切り出すことは続けるだろう。
建材は、いつか誰かが使うかもしれないし、
誰も使わないかもしれない。
ただ、わたしは、切り出す作業が好きなのだ。

目的などなくていい。
わたしは、言葉というおもちゃで、世界とあそびたい。
それだけだ。

わたしが好きで切り出したものは
たとえ文字という形に置き換えなくても、
わたしのなかにそれが見えただけで
世界にそれは出現したのと同じこと。
世界と自分は相似象だから。

すでにそこにあるそれを、
自力で見つけられる人もいるだろうけれど
見つけやすいものではないように思う。
だから、わたしは言葉にする。看板を出す。

言葉の弊害をわかったうえでなお
そうしないではいられない。

つまり、それがわたしの生きる道


…なのか? んー??

しかし
教師家系の祖母と
いさば→大工家系の祖父をもつわたしが

海に同化しながら「安全ハウス」を建て
ノウハウを人に説明しているだなんて

まったく、なんてよく出来ているんだろう!

コントロールおばけ

彼女はわたしのマスターだった。
それは、初恋のようでもあったかもしれない。

わたしから見た彼女は知性と慈悲の人で
あくなき探究心と情熱の人で
なんでも器用にこなす彼女に比べたら
わたしなど体力くらいしか取り柄がない、とわたしは思っていて
なぜわたしと行動を共にしてくれるのか分からず
ポーカーフェイスの彼女に、たびたび不安を覚えていた。
嫌われやしないかと怯えていた。ことあるごとに。

痛みも苦しみも
愛のあるところにしか生まれない。

安全ハウス構築スキルと伝授が
母方からのギフトだとしたら
父方からのギフトは、
コントロールにまつわるものだろう。
数秘8の課題。

安全ハウスへの固執を手放してはじめて
これであますところなく使える!と気づいたように
コントロールを手放した先に、
わたしの宝があるんじゃないか。

本郷綜海さんのメルマガに
http://somihongo.com
痛みや弱みが人生使命につんがっていることもある。
というようなことが書いてあった。

昨年4月に書いた
「強みから見えた幻想と可能性」
で書いたように
いまわたしが把握している強みや特技はどれも
弱みをカバーするために育ってきたものだ。

コントロールに関しては
まだ、自分の強みも、弱みも、特定できていない。
だから世界は、彼女をつかって、わたしにみせてくる。

痛みや苦しみにみえるものは
視点を変えれば霧散する。
痛みの残響は
時間がいやしてくれる。

わたしはコントロールの先にあるものをみたい。
いや、たぶん、もう目にしているはずだ。
ちゃんと、この目で認知したい。

鏡の先の、彼女のほんとうの姿を見たい。
人は変わるけれど
魂は変わらない。


今回うまくできなかったら
できるかぎり会うのはやめて
課題の先送りをするかもしれない。

それを自分にゆるしつつ
どんな形であれタイミングであれ
今世でなんとしてもクリアする。

それは決めている。
そういう約束なんだ。


コントロールを手放したあとにのこるものは
イマ、ココ、ありのまま。

未来衝動に怯えことのない
過去という亡霊にとらわれない
純然たる イマ、ココ。

わたしの見たいものはそこにある。
そこからしか見えない。

予定が決められない

先日から浮上しているのは
コミュニケーション不安と
もうひとつ
未来への不安

「来週のこの日の、この予定を確定にして
来週のこの日に、やっぱりやめたくなったら困るから
予定を確定するのはやめておこう」

とか

「すごく興味はひかれるけれど
行ってみてあんまり面白くなかったら困るから
これは絶対!って確信がふってくるまで待ってよう」

とか

こーやって書くと、ほんとバカバカしいんだけど

【いつかやってくるかもしれない衝動】 を
抑圧したくないがために
あるいは
より素晴らしい機会を逃さないように
損した!失敗した!と思わないように
【いまここにある衝動】 を、やり過ごそうとする。

根底にあるのは

いまのままの自分を認められていないこと。

「まだ足りない」
「なにかしなくては」
「決めなくては」
って、つい、頑張ってしまう。

そんな風に力んでいるときは
「これをやろう!」って体感をキャッチできない。

それから

未来の自分(世界)を、信じられていないこと。

いつかやってくる衝動は
いつかの自分にまかせればいい。
自分ひとりでどうにかしようと思わなければいい。

「困る」ことなんて、遠くからみたら、ひとつもないのにね。

すべてにギフトを見つけられる
すべてがギフトだと知っている
そういう自分と、もっと仲良くなりたいな。

そんな風に夢みている
いまだからみえる景色もある。

味わっていこう。

わたしたちはいつだって完璧だ。

文字コミュニケーション

文章を書き、ネットで公開するとき
「ありのままの自分の意図をそのまま受け取ってほしい」
そう願っている自分がいる。

実際のところ、それは至極困難だ。
そもそも、相手の反応から、意図をわかりきることは出来ない。
ましてや、文字コミュニケーションでは無理に近い。

では、そんな、不確かで、制約の多い「文字」というものを
それでも使っているのは、どうしてなのか?

いまここに一緒にいないひとに
なにかを伝えうる文字

ものすごく膨大な可能性の、ほんの一面を
まるでそれがすべてかのように見せてしまうこともある文字

そんな、諸刃の剣。

文字をそこに置いたら
受け取り手の数だけ、意味が発生する。
蜂の巣をたたいたように。

そこではすでに、わたしの考えなど、1匹の働き蜂だ。

などと
言葉をあれこれ連ねるわたしは
ヒマなんだなあ…

汗水たらして働く人も多いというのに
PCの前であーだこーだと
言葉をこねくりまわすだけの自分を
なんて無駄な!と感じた時期もあったけど

考えるだけの時間と気力のある人が考え
それをこうやって書くことによって
それを読んだ誰かが、なにかに気づいたり
自分はそうじゃないな、って分かったり

そもそも人生は膨大な暇つぶしなので
労働するも、子育てするも、思案するも、自由であり
そこに優劣はない。

わたしたちはなんでも選べる。
そこに、限りない自由と、果ての無い孤独がある。


「ありのままの自分」を考えるとき
「自分からは死角でみえない自分」は、含まれていない。

文字ベースのコミュニケーションは
非常に制限の多い伝達手段であるがゆえに
予想外の可能性がひらかれる余地もおおきい。
読み手の視点が如実にあらわれる。

相手は鏡だから
相手から返ってきた(ように思うこと。受け取った)ことは
自分が把握していない自分の一面。

こうやってわたしは
わたしの世界をひろげていくのだ。

レスなし不安症候群

わたしはmixiもやっていて
そちらで最初に書いた文章なので
以降、「マイミク」が前提になっているけれど
ネットでの関係性にひろく通じることだと思うので
こちらのブログにも、転記します。

----------

たとえば

マイミクさんの日記やらにコメントいれたけど
レスがつかないことが続いた。
いつもは、わりとさくっとつく(と思っていた)のに。
ほかの人には、かえしてる(ように思われる)のに。

たとえば

WSで知り合ったひとたちをmixiでみつけた。
何人かには、マイミク申請をした。
すこし話はしたけど、そんなに仲良くなるほどの
感じじゃなかった(と思った)ある人には
足あと帳(日記)にコメントを残すにとどめた。
が、待てど暮らせどレスがない。


こういうとき

えーーーーーーーー・・・・・
相手はいったいなにを考えてるの?
わたしは嫌われてるの?
ってゆーか、最低限の礼儀とか義理とかあるでしょ !?

とか、なったりするのは
わたしだけではない!!
よねえ?(笑)

最近はほとんど気にならなかったのに
にわかに気になってしまったので
ちょっと踏み込んで、考えてみた。

現実に起きていることは「レスがない」ということ。

そこにどんな「意味」をつけるかは、自分が決めること。

「あ、いそがしいのね~。
 たしかにレスつけるほどの内容でもなかったし。」と思うも、
「わたしはスルーですか…価値なしですか…
 がああああん…」って落ち込むのも、勝手。

そのうえで
それをどうしたいのか?
知ってるのは自分だけで
そのために動けるのも自分だけで。

忙しいのね~って流せない自分が心がせまいわけじゃなくて、
そこには、その人と「つながっていたい」「交流したい」自分がいて
その気持ちはべつに、子どもっぽいわけでも、なんでもなくて、
ただ純粋に「好き」ってこと。
でも、片思いはいやだ!傷つくようなことはしたくない!
(だって自分がかわいいから)

だったり

自分は、マイミク申請するほどじゃないかな
(自分のマイミク定義には当てはまらないかな)と思ったけど、
相手はどう思ったかわからないし、せっかく見つけたんだから
「コメント」をつけて反応をみよう。という、
ちょっとズルい心理があったことや、
「コメントレスがない」ことが相手の反応
(つまり相手にとって自分は「その程度」だった)ことを、
認めるのがいやだ!

だったりする
自分の本音に対して、
さて、わたしはなにをしよう?

相手の反応があるまで
自分は反応を受け取れてないよー。って伝え続ける?
「たまにはレスくれよ~」って冗談めかして、
もういっかいコメントいれる。とか
マイミクの定義をゆるめて、マイミク申請しちゃう。とか

相手の反応がないとしても
自分の「好意」は、自分にとっての真実だから、
それでいい。って腹をくくる?
ああ、つながりたい自分がいるなあってほほえましく思ったり。
義理やらなにやらでつながるような不自然さを深追いするより
ご縁がうすかったね!いまはこれで十分だね。
って納得する。とかね。


自分の想定している、相手との関係性と
相手の想定している、自分との関係性が
一致していないように思えても
それはお互いの「真実」が違うというだけのこと。
自分の価値をはかるものにはなり得ない。

自分がみているのは、自分を映し出した世界。
相手がみているのは、相手を映し出した世界。

わたしたちは誰一人として、同じ世界にはいない。

それと同時に

わたしたちはみんなみんな、ひとつの宇宙の構成要素。


悪意にみえるそれは
不器用な好意。
みんな、自分が一番大事。
唯一自分が感じられるリアルは「自分」なんだもの、あたりまえ。

エゴとしか思えない不安は
自分への好意。

だから、それでいいんだよね。


100%の身体

わたしは自分の身体能力の6割くらいしか使ってないと思う。
それは、つまり、自分本来のエネルギーを
その程度しか出していない、という意味でもある。

わたしは長らく身体を粗末にしてきている、自覚がある。
丈夫なので、100%で居なくても、なんとかなってしまうのだ。
肩こりにはいつも気づかない。
(プロにケアしてもらうといつもかなり凝っているのに)
大病も入院するほどの怪我もない。
(PCOSで水虫で強度の近視だけど)

さらに最近分かったのだけれど
100%で居ることを避けてさえいる。ようだ。
えてるなさんのリーディングを受けたとき
「100%の身体でいるのは都合が悪い」と
自分の口から言葉が出た。
すこし驚くと同時に、なんとなく納得した。

わたしは自分が本来発揮できる力を
どこかで感じ取っていて
それを発揮する場とタイミングを探しているのかもしれない。

すくなくとも今は、大きいものは相応しくない、
扱いがめんどくさい、そう思っている。

わたしの身長は170cm近いのだけど
横に並ぶと、あれ大きい!とびっくりされることが多い。
大きい自覚がなくて、ちいさく在ろうとしているからだと思う。

友人たちの中には、小柄なのに、とても大きく感じる人がいる。
それはもちろん威圧感ではなくて。そして、きらきらキレイだ。

そろそろ、出力をあげてみたらどうかな。という声と
フルパワーはもてあますじゃないか。という声が
自分の中にあるのを感じる。

100%で居たことが、ないわけじゃないと思う。
たとえば海外旅行にいったとき。
朝から晩まで動き続けて、動いたら動いただけ元気になるような。
ごはんがおいしくて、1日2回とか排便があったりして、
ばったり寝てしゃっきり起きる。
あれはたぶんかなり100%に近い。
見たいもの、やりたいこと、行きたい場所、たべたいものが、たくさんあって
それに引っ張られて、出力もあがっていた感じ。
反動も別になかった。

ということは
目的が見えてくれば、使わないわけにいかなくなるだろう。
いまは、下準備期間かな。

出力アップに備えて
身体をしなやかにしていこう。

抵抗する声も大事にしながら
やりたいときに、やりたいように。
こころよさを指針にしていたら
おそらく、そうなっていくのだ。自動的に。

いもむしがサナギになるのを
見守るような気分。
さて、どんな蝶が出てくるかな…

無 という ギフト

わたしたちは

アル

ということにフォーカスしてしまう、いつも。


あっちにはたくさんアル とか
あのひとはその才能がアル とか
あれを選んでいれば今こうでアルはずだ とか


それはつまり


ここに無い
 → あのひとに分けてもらう
 → あのひとに「分ける」体験を与える とか

出来無い
 → あのひとに手助けしてもらう
 → あのひとに「手伝う」体験を与える とか

失敗
 → 望みをよりクリアに感じる
 → 真の自分に近づく「機会」を得る とか


ということで


無 や 失 は、とっても豊かなものと、セットになっている。


無を、恐れずに、恥じることなく、
ただ無であると認め、自分にゆるす

それだけで、そこに、あたたかな世界が、無限に拡がりだす。


有 に誇りをもてるならば
無 も同じように誇ろう


無 が アル から
わたしたちはつながる。


それを持たない自分に
持てないあなたに
祝福をshine

しなやかな身体に、自由な心は宿る。

HAPUNAでmalieさんのロミロミを受けた日のこと
いろんな感情がわきあがってくるのを、
ただ、ホールドできている自分に驚いた。

具体的には、料理をしている最中に
泣きたくなったり
怒りたくなったり
いろんな衝動がやってきたのだけれど

それを抑圧するでも無視するでもなく
ただ、そういう自分がいるな。と認めながら
より、自分の本質の望みに近い欲求を
(このときは料理を完成させてオットと食事すること)
選び続けることができた。
そして、食事がおわったあと
わたしはとっても満たされた気持ちになっていて
悲しみも怒りも溶けて形を失っていた。

としこさんのアロマテラピーで
身体に感情がたまるということは実感していたけれど
なるほど、身体をきちんとゆるめておいてあげると
感情を味わうだけのゆとりが出来るらしい。

身体に余裕がないと、感情は割れ目から染み込むように
こっそり入り込むのかもしれない。
そして、たまって、発酵して、なんだかわからない
オリやらコリやらになっていく。

身体に弾力があると、感情を感情のかたちのままに
受け止めることが出来る。
じっくり観察したり、必要なものをキャッチして、
そして、流しだすことが出来る。

感情をそのまま流す、というのは、
ここ何年かの課題だった。(忘れてたけど)
それには、感情を一旦そのまま
ホールドするステップがあるといいみたい。

つまり、身体をしなやかにしておくこと。

しなやかな身体に、自由な心は宿る。

しなやかであればあるだけ、心はもっと自由になれる。

ロミロミでも、アロマテラピーでも、整体でも、
ヨガでも、自働運動でも、チベット体操でも、なんでもいい。

弾力のある身体であるべく
ゆるめ、かつ、鍛えていこう。
少しずつ。

月とお酒

土曜日。なにやら遊びたくて、
ひとりで遊びに行くのは気が乗らなくて、
一緒に出かけられる人は見つからなくて、
じゃあ。って、昼からチューハイ飲んだら
これがなかなかいい感じ。

わーい世界ってらぶりー♪ って
調子にのって梅酒も飲んで
いい気分で夕寝して、起きて、
ふらふらふわふわ
ごはんの支度してたら落雷!

さらに自家製生姜酒とか珈琲酒とか
次々飲んで、必要以上に飲みすぎだなーと
思ってたとこで ポテコをつまんだのが運の尽き。。。
でもスッキリ。 翌朝はおなか下してさらにスッキリ。

日曜未明が新月だったんですね。
これは自主的強制デトックス?(日本語おかしい)
そういえば先々週の満月のときも、
ひとりでワイン1本あけちゃって(許容量オーバー)
思考がとんで、翌日おなかを下したのでした。

月のエネルギーに踊らされてる、というかなんというか
もうちょっと、いい使い方ができたらいいのだけれど。
新月と満月は瞑想するとか。体操するとか。
カラオケに篭るとか。なにかイベントするとか?
とにかく思考がとべばいいんだろうな。
なんでもかんでも考えすぎなのです普段。

さいきん、身体感覚を鈍らせるのがもったいなくて、
お酒を飲まないでいよう。と思う日もあるんだけど
そう思っていながら、やっぱり飲んでいる日もあって、
そろそろ、お酒なしに、
ゆるみたいだけゆるめるようになりたいものだ、と思う。

単純にお酒の味が好きで飲むとか、
酒飲み同士がわ~って連帯する感じで飲むとか、
そういうのはこの先もあっていいと思うのだけれど
家で、ひとりで、たくさん飲む。というのは、
もったいない使い方をしている気がしてならない。
身体も、意識も、お酒も、もったいない。

持って生まれたギフトを、使いこなせてないな、と思う。
丈夫な身体とか。“大丈夫”の感覚とか。
そこに依存はしないで、でも、活用できたらいいな。
まだ使い道がよくわからないのだけれど。

はじめの一歩、いま出来ることとしては
パソコンを見ている時間が長い日は飲酒率が高いので、
安易にアルコールに走らないで、
運動するとか、お風呂はいるとか、するといいかな。

お酒の神様ともっと仲良く生きていこう。と
心新たにした新月でした。

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

カテゴリー

無料ブログはココログ

占い by いとうより