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2011年9月の記事

男性の受容性

凹である女性にとって、受容性は
かなりなじみのある質で
普通にしていればけっこう発揮できちゃうけど

凸である男性にとっては
いったいどういうものなのか?

考えはじめたときは
「包み込むイメージ」から離れられなくて

万物の母であり、女神であり、メスであり・・・
そういう多面的な女性を神聖なものとしてみなすこと。とか
もっと簡単にいえば、丸腰で相手にゆだねて同調すること。とか

つまり完全な受容って、男女とも、無条件降伏かなあ~。

などと思っていたのだけれど

ひらめいた。


男性の受容性って
内側から女性を守ることかもしれない。

どこまでも拡がって溶けていく女性の、芯であること。
お産のときのいきみ棒みたいな存在であること。

男性がしっかりグラウンディングしてそこに居てくれることで
女性はどこまでも拡がっていける。。。
ちゃんと帰ってこられる。


でも、一般的に、いろんな場面において
女性は男性のために「きゅー」っと閉じていた方がいい
みたいな観念がある。

ほんとうは、女性はもっと拡がりたいし
男性は、それをゆるしてあげたら、至福がみられるのに。

男性がいるから女性は家でいられる。
男性は、男性っていうだけで、柱になれる。

どうか女性をやみくもに恐れないで。
「ゆだねる」つよさを
「なにもしない」つよさを
その身のうちから見つけ出して。

たましいの家族、たましいの約束

年々、その頻度があがっているようには思っていたけど
最近、確実に、その頻度と密度があがってるよなーと思うのは

たましいの家族

とでも言うべき人に出会う率。

震災があって、自分のなかの妥協が減ったり
ヒーラーズコミュというスペースが用意されたり

たましいの学びを加速するお膳立てが着々とすすんでいる感じ。

それにともなって
逃げ続ける理由もどんどん消滅していく。
お金とか、社会的体裁とか、ジョーシキとか、慣習とか。

そして、わたしのやりたかったことが
浮き彫りになってくる。

慣れていて、ポテンシャル発揮しやすい
「だれかをサポートするポジション」じゃなくて

人間世界のなかで自分のポジションを確保することや
そのなかで役に立つこと、それによってたましいを磨くのではなくて
神様と対峙しながら、しずかにしずかに、自分をながめるのではなくて

自分自身にがっつり、わき目もふらずにのめりこむこと。

自分自身を、ちょくせつ、がしがし磨くこと。

その方法はいろいろありそうで
わたしはどうやら、人間関係のなかで、それをやりたい派だ。

わたしのなかで感知されずにうごめいている感情を
安全な場に出して、変容を見守る。

場は、ひとりでは、つくれない。
というより、ひとりでつくる場で出来ることは、
もう、さんざんやって、やり尽くした。
そんな感覚がある。

ぶつける相手がいるからこそ、出せるエネルギー
自分ではみえなくなってしまうそのうつくしさを
見て、認めて、ホールドしてくれる人がいるからこそ、この世界に放てるもの
ひとりでは抱えきれないもの
もう、抱えていたくないもの

手放すと決めてきたもの

わたしのこの丈夫な身体の奥底に封じ込められている
莫大なエネルギーを
光に還したい。

無色透明の宇宙に還したい。

自分エネルギーの使いみち

(2011/9/16 mixi日記より)

気になってることを
気にし続ける選択は
どんどんやめていこうと思う。

気にするのをやめる(ひっかかってる観念を変える)か
気にならないように現実を変えるか


もう何年も気になってた風呂ユニットを入れ換えた。
バスタブに入ってるひびをパテでとめていたり
換気扇が止まったりきゅーきゅーいってたり、
床のタイルが浮きまくっていた。
ついでに、ひびの入ってた洗面台もいれかえた。

幸いにも、その一環で、洗面所の床を張り直すことになった。
マメに掃除しなかった時代にしみついてしまった、
落ちない汚れが気になっていたのだ。
同じ素材でやっぱり汚れが気になるトイレの床も
張り直してもらえないか、確認中。

薬で治せると意識があるのに、
あれこれ理由をつけて薬を選んでこなかった疾患も、
もう薬で治してしまおうと思う。


「気になってる」ってことは
そっちにいきたいエネルギーがあるってこと
それをなんだかんだ理由つけて
抑圧しちゃうパターン、やめていこう。

会いたい人には会いたいと言う。
気に入らないものは選びなおす。
対価が必要なら貯金を使う。
貨幣は有限ではなくて
「何かと引き換えに手に入れる」ものではなくて
思い次第で具現化できるエネルギーだから
あんまり心配しなくていい。

「それでよし」としていたこと
「そうするしかない」と思ってきたこと
みんな、選びなおそう。
追求するもよし
保留するもよし
やっぱりこれまでの形が好きで、もう一度選ぶってこともアリだ。


他の選択肢がみえないときは
だれかの力を借りよう。

わたしの人生ゲームは
ひとりであがれるようには出来てない。
そんな、つまんない作りにはしてない。

何往復もしてきたルート
障害物を回避するのは、そろそろおしまい。
こつこつ、どっかん、使えるものはなんでも使って
岩山も池もぜんぶ突っ切ってみたら
みえる景色はおなじでも
感じる世界は別物だ。

mixiの方で

日々あれこれ考えたこと
気づいたことなど
mixiにがんがん書いていて

こちらでも公開したいと思って
転記を試みるのだけれど
mixiに書いたものをそのまま
ここに公開する気分にはなれず
かといって編集も気が乗らず

もし、mixiアカウント持っていて
日記読みたい方がいましたら
どうぞお気軽に、リクエストください。

http://mixi.jp/show_profile.pl?id=610336

悲しいね

周期、何日目だっけ
満月まで待ちきれなくて
検査薬つかった。

シロだった。

がっかり。
遊び仲間がほしいのに、増やしたいのに
子ども産めるはずなのに、授からない。

かなしい。

言い訳や、いましめや、たしなめるような言葉が
次々とアタマをかすめる。


子どもは遊び仲間なんて生易しいものじゃない
妊娠したところで正常出産できるとも、育つとも、限らない
万が一なにか疾患があれば
医療費や関連費はバカにならないだろう

子どもを授かったとしたらその先はもう
子どもがいなかったことにはもうできない
未体験にはもどれない
子どもと共に過ごすことは良いことばかりじゃない
こんなはずじゃなかったっていっぱい思うかもしれない

欲しいものが手に入るとか
豊かさとか
ソウルメイトとの合一とか
そんなカードが何度も出たのにな

毎日欠かさなかったお酒も
ここ2週間は欲しくなかったのにな

もしかして排卵がすごく遅れて
まだ検査薬に出ないだけかもしれない
(排卵が遅れたら正常妊娠率は下がりそうだ)

子どもがいなくてもわたしはたのしく生きてる
子どもを産み育てるのは人生のオプションなのに
どうしたってわたしはこんなに待ち望んでいるのか?

もう下っ端は飽きたんだもの
次の世代にバトンタッチしたい
なにをタッチするの?
渡さなくたって、したいようにすればいいよ

わたしはおもちゃが欲しいだけなんじゃないか
子どもをなんだと思ってるんだ
そんなこといっても
産み育てたことがないんだもの
期待ばっかり膨らむのも仕方ないでしょう?

ほんとうに
ほんとうに
いまのわたしは
毎日毎瞬がたのしいよ
だけどもっともっとたのしみたい
だれかと分かち合っていきたい
血を分けた子どもを産み育てる体験をしてみたい

すっかり朝型生活だし
カラダの丈夫さは人並み以上
それなのに、どうして、授からないのだろう

ハードルを設定して
クリアしないで
そんな自分を嘆いて
悲劇のヒロインごっこしたいだけなんじゃないの?
いつまでこのゲームを繰り返すの

まだ、練習不足かな
「誰かの笑顔のため」じゃなく
ただ自分のよろこび心地よさを基準に
物事を選択していく練習が足りないかな…


ああ

会いたいな。

まだかなぁ

待ってるよ。

自己実現は、アホになること。

ひまぱ~んさんホロスコープ鑑定結果より】
ありきたりの自分は嫌。

前世は人を支える生き方だった為、
今世は自己実現・自己表現がテーマ。
前世の経験により人のサポートは得意だが
魂レベルではその状況に飽きている。

前世で自分が支えていた相手と結婚した場合、
今世では関係が反転し
相手に自己実現・自己表現を手助けしてもらう為の結婚となる。

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なにか新方向を模索するとき
治療系とかカウンセリングとか
やる方にすごく親しみを感じるくせに
自分で学んでやろうとはどーーしてもしない。
それがずっと不思議だった。

先日、オットの栄養バランスやらばっかり考えて
自分の「たのしみ」として食事を考えないでいたら
とつぜんお酒をのみたくなり、飲んだら止まらなくなった。
8月末から欲しいと思わなくて、ほとんどのんでなかったのに。

たぶん、思考を止めて、自分をハッピーな感じにするため。
自分の「願望」を浮上させるため。

3年くらい前に描いてもらった「あなたのインチャイ」の絵を
リーディングしてもらったら、すごいシンプルだった。
「遊んでね」
仕事とかばっかりしないで、遊んでね。

自分のことはさておいて、というのが
わたしはどうも得意なようだ。
役に立ってる感が欲しくてやってるわけでもないようで
自分にとってのしあわせを選ぼうとするとき
誰かのため、みんなのため、
それはどうしてもはずせない大事なこと

そんな自分は、偽善者みたいで気持ち悪かった。ずっと。

この世界はわたしみたいな感覚で動く人ばかりではないようだ。
どうも自分は “きれいごと” が好きなようだ。
どこか変なのかも。ズレてるかも。

そう感じでいた。
のだけれど
もう、観念した。
そういう生き物なんだわたしは。
いいとか、わるいとか、多いとか、少ないとか、
そんなのはどうでもいい。

それでようやく「自分を認める」が及第点になった、気がする。

次は、ここ何年か模索してきた「自己表現」

オットを支える形をとりながら
わたしはオットから学んでいる。
「自己実現とはなにか。自己表現して生きるとはどういうことか」

このまえ偏頭痛がひどかったとき
mixiやtwitterに書きまくっていた
あれは、なんとも稚拙な、勘違いの「自己表現」だったなあと思う。
誰かに気にかけてもらうことで
「自分」を映し出すことで
表現した気分を味わっていた。

気がついて、呆れて、わらっちゃったけど
まあしょうがない。慣れてないんだもの。

自分を実現するってことは、
自分を表現するってことは、
ナニモノかになることではない。

才能、性格、経験、そういう過去の延長にあるわけじゃないし
目指すものでもないし
わかりやすい社会的な形があるとも限らないし
アピールする必要もないし
なにか耐えながらがんばるなんてもってのほかで

ただただ、イマココの自分であること。
湧き出してくるものに素直であること。
そのなかにわたしのすべてがあるし、
その先にわたしだけの「自分」がある。

なにもまもらなくていい。
なににもしがみつかなくていい。
ただ、ただ、風の吹き抜けるままでいること。

わたしというイレモノを通り過ぎる ○○○ を毎瞬生きること。

 ○○○はうまく言葉にならない。
 ワンネスな感覚、大いなる意図、Love 、エネルギー、、、


さあなにを選ぼう?というときに
アタマを働かせて誰かの笑顔を思い巡らすのは、わたしの癖だ。
そういう方法で自分をしあわせにすることに慣れすぎている。
一種の必勝パターン。

そこに、想定と期待があったときは、
そのことがすごく自分を苦しめた。
期待がほとんどなくなった最近は、
どんな顛末でも、たいがい楽しめる。

だけどそろそろ、ただただ、光ることをたのしみたい。
世界(相手)という鏡に映った自分の光を愛でるのではなくて
その、光っているという感覚そのものをたのしみたい。

それが誰かの目に光として映るかどうか
どんな色でどんな形で強さで大きさで気配で
どんな効果があるのかなんてことはさておいて

それがどこからやってきてどんな風で
どんな影響を自分に与えたかなんて
観察して記録することもさておいて

もっともっともっとすべてを遊ぶんだ。

バカはもういい。

アホをたのしもう。

愚直とアホは紙一重。
アホをおそれたら素は生きられない。

アホにはみ出すくらい
アホと指さされるくらい

ただのわたしであれ!

先送りしなくなった事など

前だったら

カップに茶渋がついるのをみつけたとき
「ああ、磨かないとね」って思ってた。

いまは

その場ですぐに磨く。きれいになる。気持ちいい[m:66]


トイレットペーパーが棚に残り少ないのをみたら
あとで時間があるときに じゃなく
すぐにやるようになった。

ダイレクトメールやチラシを放置しないで
その日のうちに捨てるようになった。


めんどくさい、と思わなくなった。

あんなになにもかもめんどくさかったのに
生きることすべてが面倒だったのに

いまは、手間もたのしい。

イマココに湧き出たモノに従って動いていると
時間が足りないなんてことは、起こらない。

出かける直前で目に付いたものに
出かけるのが気が進まない無意識のままに
手をつけることも、だいぶ減った。

シンプルになっていく。

なんてラクで、なんてハッピーなんだろう!

★ 大丈夫

やってきたこと
昨日やったこと
さっきやったこと

思い描いていたこと
なりたかった自分
素敵だと思ったもの

うまくできたこと
たのしかったこと
がんばったこと

どれもこれも過ぎ去ったもの
脱皮のあとの抜け殻


自由自在に変態できるココロのままに
ただただイマの自分をいきよう。

アタマで考えなくていい
すべての要素はカラダに取り込まれてるから
自然と生まれ来るものにすべて入ってるから

心配ないよ。大丈夫。


なんて
最近ではすっかり
健やかな人みたいになってるけど、
でもやっぱり死にたい人はいるみたい。
見落としてるみたい。

死にたいほどの絶望。
裏にある希望、熱望。

どっちも抱えながら
過去と未来の真ん中にいよう。

フォーカスするのは
イマココの自分。

過去の積み重ねの絶望ではなく
過去の積み重ねをひっくり返す希望でもなく

ただ、いま、わたしを通過していく愛おしきもの。

妊娠検査薬

周期41日目。
妊娠検査薬を買ってきた。

ほんとうは、買いたくなかった。
というより、使いたくない。
なんども
なんども
なんども
がっかりした記憶だけが
積み重なっているから
もう、積みたくないんだ。

だから思い切って
最初から医者にいってみたのだけれど
あまりに混んでいて挫折した。

産婦人科の待ち時間は嫌いだ。
不妊専門クリニックに通っていたときの
重たく、苦々しく、粛々とした雰囲気の
冷房のきいた部屋で
なんども
何時間も
待っていた記憶が蘇るから。

今回は。
そう思える理由を
かき集めながら
同時に
予防線を張ろうとしている。

めずらしく
右耳~右側頭部に偏頭痛。
3日前からなおらない。
台風が去ったら、消えるだろうか。
それとも。

才能がもったいない?

自分のもっている
能力や
経験や
知恵や
スキルを
あますところなく発揮できる場所が
どこかにあるんだと思ってた。

パズルのように
うまくはまる場所が
きっとどこかにあるんだと思ってた。

すべてうまく使いこなさないともったいない。
それらが活かすことこそが
この人生でやるべきことなんだと
天職への道しるべなんだと思ってた。

でも、そうじゃなくてもいいんだな。

たとえうまく出来なくても、やりたいことをやろう。

いまあるもので、どうにかするのではなく
過去の遺産に執着するのではなく
やりたいことを描いて、動いていこう。

真実はイマココにしかない。

積み重ねてきた自分の先にある
この瞬間の自分
ピチピチの自分を生きよう。

生産性プレッシャーと妊娠出産

前の記事の続き。自分のツイートより転記+追記。


生産的なことをしなければ人生(わたし自身)無価値だ。

という考えから抜けたら、日々がとてもゆたかになった。

同時に、
妊娠出産子育てを

「わたしにも出来る、誰からも認められる、生産的なこと」

そう捉えていたことに気づいた。

だからあんなに必死だったのだ。
それさえあれば、自分は価値ある存在になれると思ってた。

価値も、意味も、ものさしが変われば、変わるもの。
わたしが心地よく居られるものさしは
わたしのなかにしかない。

おなじような姿形をしているからといって
おなじように動かなきゃいけないわけでも
動けるわけでもない。
動かなくてもいい。

「自分」を生きよう。


妊娠出産に自己価値を負わせるような
そんな心理状況下で
妊娠しなくて、本当によかった・・・。

生産性の呪縛から抜ける

今週は1回だけバイトがあって
あとは特に用事がなくて予定も入れてなくて
毎日おうちでぐーたらしている。

先日ひまぱ~んさんにホロスコープ鑑定してもらったら
「家がなによりの居場所。家が大好き」と出ているそうで
ああなるほど、それが自分でよかったのか。と思った。

どうもわたしは活動的に思われることが多いのだけれど
実際には、家でほげほげしてる時間の方が圧倒的に多い。
仕事の日数を増やしたくないのも、
もしかすると遅刻しがちなことですら、
家に居たいがため、かもしれない。などと思う。
(だからといって開き直るつもりもないが)

それなのに「なにかしなきゃいけない」
強迫観念みたいなものがあり
家にいる日が増える時期には
いつもいろいろ不安に思えてきたものだった。

しかしその不安もだんだん内容が変わってきて
時系列にすると

勉強もせずお金も稼がず世の役に立つことをするでもなく
地球資源を浪費するだけのわたしなんてゴミ。死んでしまえ。
 ↓
なんにもしたくない、なんにもできないわたしって
なんの意味があるんだろ…死んでしまえ。
 ↓
やりたいことがない、ひますぎる。なんて無駄な人生。早く終われ。
こんなに多才なのに、なんにも使えてない。
もったいない。なんとかせにゃ。
 ↓
今日もとりとめるほどのことはしてないけど、1日長かった。
そしてなかなかにしあわせであった。おやすみ。

こんな感じ。
ずいぶんお気楽になったものである。
「なにもしない時間」が苦ではなくなり
「なにもしない自分」を無価値と思わなくなり
「なにもしないこと」のしあわせを受け取れるようになった。

「なにかしなきゃ」の「なにか」というのは、
世の中でプラスとされていること、に近い。

お金を稼ぐこと
心や体に良いとされることをすること
状況を発展させること
誰かと接触して発展的感覚を呼び起こすこと
子供を育てること

生産的とされることを、すること。

そのことに、なんであれほど重きをおいていたのか
なんであれだけ振り回されていたのか
いまとなってはよくわからない。

生きてるだけで、十分、なにかしてるのにね。
犬や猫や赤ん坊がそこに「ある」だけで周りに影響を与えるように
その影響は受け取り方によって、プラスにもマイナスにもなるように

ただわたしは知っている。
ここにわたしが「ある」だけでいいこと。
すべての瞬間は無駄ではないこと。
すべきことなど、なにもないこと。

誰が、なにが、どんな影響を受けていても、それでいい。
イマココだけみたら、わたしはなにひとつ苦しむ理由がない。

わたしの人生、こんなんでいいのだ。

こういうスタンスでいると
前だったら「一大仕事」だったことに
なんなく取り組めるみたいで、ちょっと面白い。
たとえば、手付かずにしていたガラクタの山を片付けるとか
ガス台のごとくを磨くとか、繕い物とか
気が向いたときにひょいとやれる。
たぶん、効率だとか、無駄だとか、時間がかかるとか、手間だとか、
そういうものにとらわれなくなったんだろうなあ。

★ 勇者のしるし

出来事に遭遇したとき

すごく痛みを覚える人もいれば

まったくなにも感じない人もいる


なんにも考えずに流せる人がいて

自分に起因を探してしまう人がいる


感じやすい人は

しょっちゅう

あっちもこっちも痛くて

ふがいなく思えて 苦しくて

なんだか損しているようですらあるけれど


それはきっと勇者のしるし


わたしたちは

自分を癒していくことでしか

世界を癒せない


たくさんのひとが

しあわせを目指してがんばって

がんばりすぎて

「ほんとうのおもい」からズレてきてしまった

この世界を


わたしたちは

癒す覚悟をしてやってきた

自分に痛みを引き受けることを前提に

この世界を癒すために

それをよろこびとしてやってきた


ひとりじゃないよ

たくさんいるよ

あなたもきっと勇者だから


間違って始めちゃったように思えても

間違いだらけに思えても

ぜんぶ、つながっているからね


今日のあなたの痛みはきっと

明日の世界のうつくしさになる


みてるからね

知ってるからね

そこに居てくれて、ありがとう。

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