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2011年11月の記事

鏡とパターン

現実はすべて鏡だという視点にとらわれすぎるときがある。

気がついていない自分を知ることができる

という点において

鏡はほんとうに手助けになるのだけれど

あれも、これも、なにかの投影・・・と思い始めると

鏡をみながら動いてみたり

鏡とズレのある自分を責めてみたり

まあともかく、イマココには集中できなくなり

行き止まりの穴にみずから身を投げた挙句にさみしくなる。


昨日はひさびさにどっぷりさみしかった。

自分から穴に入ってるのは

つまり、自分から愛を遮断しているのは、わかってる。

自分で自分を満たせなくて

誰かに期待してみたりして

でもさ、つかれちゃったんだから、しょーがないよね。


それでもって、退屈でもあったの。

だって、自分のやりたいこと、やるの怖いから、やめちゃって

そっちに向けるはずのエネルギーを、持て余してた。

だから、あら捜しが始まっちゃったんだ。

それも知ってる。

そんな自分も、ゆるそうと思う。


いままでわたしを守ってくれたパターン

いままでは相応しかった防護服

出たり、入ったり

それでも、もう、捨てるってことだけは決めてるから

決めてるんだから、だいじょうぶ。


やるなら完璧にやらなきゃって

壊れるかもしれないなら、壊しておこうって石橋たたきまくったり

そういう自分の性質に、たまに疲れるけど

それだけ真剣なんだから

しょーがないよ。

そんな自分も、悪くない。


さて、海でも見に行こうかな!

つれづれ

甘えたのに
6割しか応えてもらえない

甘えられたいのに
3割しか甘えてくれない

そこには期待があって
自分の想定があって
満たされない想いが残って

でもそれは
そもそもが
満たされていない状態から
はじまっているからで

わたしがわたし自身を満たして
そのうえで
余興のように甘え甘えられるなら
きっとだいじょうぶ
なのだろう。

わたしを満たすこと。

思えばこの2ヶ月あまり
1対1のパートナーシップを通して
やってきた最大の課題は、
これだったのかもしれない。

自分の感情を感知すること。
自分でそれを満たすこと。

他に求めない。
他で埋め合わせようとしない。
期待しない。

わたしはいつも、肩こりに気づかない。
感情と表情が一致していない(らしい)。

よろこびとかなしみはセットだ。

痛みを味わいたくないのなら
よろこびをセーブすればいい。

それを
なまぬるい!
根性が足りない!
もったいない!!

ハッパかけて
ぎりぎりと自分を際立たせて追い詰めて
すれすれのスリルに身をさらして
自虐みたいに
選んできた。

そうしないと
感じられなかったから

相撲取りの着ぐるみをきて
くすぐりあいをしたって
なんにもたのしくない

そんなのあたりまえで

求めるのは
刺激じゃなくて

よろこびなのだから

だったら
それを脱げばいい

自分に厳しくするんじゃなくて
もっともっと
自分に優しい選択をすればいい

脱いだからやさしくするんじゃ遅い
やさしいから脱ごうと思えるんだ

わたしはもっと
自分にやさしくしていい

波風は立てなくてもいいし
言わなかったことは無かったことにしていいし
なんでも好きなようにルールをつくっていい
みんなも同じルールで生きていると、決め付けていい

http://www.youtube.com/watch?v=1rfCe6NODeM

こわがりな自分を生きよう。

傷つきたくない自分をゆるそう。

甘えたがる弱さも
恐れゆえに甘えたくないのも
そのまんまでいいよ。

感じたことすべてを
表現しなくてもいいよ。

衝動を
感情を
キャッチしたら
わたしの細胞に響いていく
それだけで
十分

なにもしなくていい

なにもしなくても
ココにワタシは在れる
カラダは勝手に心臓をうごかし、肺を動かす

なにもしなくていい

なにもしなくても
カラダは世界と勝手に響きあう

ゆるされて、わたしはここに在る

ヒヨコが殻を内側からつついて破ろうとしなければ
母鳥は手助けのしようがないね

世界は合図を待っている
いつも、ずっと、待ってる。

わたしはゆるされていた。いつも、ずっと。

殻のなかから
幽体離脱で
世界を体験することすら
ゆるされていた

目覚めることすら、義務ではなかった

カラダを感じて生きるってどんなかな?

殻をやぶって
殻がなくなって
帰れなくなっても
次の場所をつくることができるんだって

それも、自分で決めていいんだって

殻のそとは、わたしの世界。

わたしを待っている

世界。


そろそろ、おきようか。

ジェンガ、大詰め。

要らないものを
ぎりぎりまでそぎ落とす

そんな作業の繰り返し

しょっちゅう倒れそうになって
声をあげて
そのたびにこたえてくれる
みんなの声に助けられて

いちばん近くで
すこし遠くで
ハラハラしながら
見守ってくれる人もいて

わたしと地球の接点
わたしの愛する小さな巣穴で
留守番してくれるオットもいて

響きあうように
プロセスを歩んでいる仲間から
アタリマエのように
ギフトが放たれ

自分で手が届かないパーツは
信頼する仲間に抜いてもらって
(special thanks to T)

そんな作業をしてるんだって
自覚した。

知ってたけど
知ってたけど、でも、もしかすると、
わたしがわかっていることよりもっと
大きなことなのかもって、自覚した。

そして、ハラを決めた。

今度こそは仕上げます。
だから、もうすこし、手を貸していてね。

どんな花が咲くかわからない。

日本で2番目に大きいっていう
単結晶水晶のなかには
眠り姫がいて

玻璃の花がひらくとき
彼女が目を覚ますとき

そこになにをみるだろう?

慎重に
大胆に
剥いでいく

2年前に預言カフェでいわれたこと
あなたはその壁を登る者です。
それをするときに必要なサポート、助け、
人々のところにあなたは進みます。
あなたが人々の中で支えられて、
愛されて、歩くことを準備しています。

7月にラファエルさんから言われたこと
あなたの宇宙がより美しく花ひらくことの許可を
たくさんの存在が待ち望んでいます。

ほかにも
似たようなメッセージは
これまでに山ほどもらってきた。

わたしのタマシイが
このカラダをつかって
なにをやろうとしているのか

目撃できるのは
きっともうすぐ。

終わった瞬間に
次がはじまるから

お祝いの準備をしよう。

咳と鼻水と第5チャクラ

※まとめて数本の記事をアップしています。
※最近の記事 からチェックしていただけたら嬉しいです。


先月の半ばに、しし座にはいった火星が、来週移動するそうで
過去2ヶ月弱ほどの中でやってきたことが
そろそろ「仕上げ」段階となる人も多そうです。と、石井ゆかりさん

先月の半ばの、滝行からはじまった咳が抜けなかったとき
第5チャクラについて調べまくったときのメモが出てきました。
風邪っぽい人が多いようだし、シェアしてみます。
(わたしは先週から再発した咳と鼻水、もう一息です!)

―――――――――――
第5チャクラは、コミュニケーション能力や言葉、音楽など
音や声に関するエネルギーセンターと
仕事や使命、責任に対するエネルギーセンターでもあります。
表現力や人間関係をつかさどります。

自己の発言を記憶し、その状況を現実に創造しようとします。
どうなりたいか、何をしたいか、など感情を含む情報を記憶するのが得意で、
先にエネルギーレベルで顕現させていきます。
そのため、発言や自分の言葉には責任を持つことが大切です。

―――――――――――
咽のチャクラとも呼ばれる第五チャクラは、コミュニケーション能力、誠実さ、
チャネリングなどと関わるチャクラです。
咽元中央部に位置するこのチャクラは単独で開くのは難しく、
下位の4つのチャクラが開いて初めてたどり着くことができます。

―――――――――――
http://piroko0618.blog97.fc2.com/blog-entry-94.html
先祖からもらってた未完成の課題はエネルギーとして首から下に溜まり、
そのエネルギーが実際の身体を形成する、と。
そして、未完成のものが完成されるたびに完成されたものは
エネルギーとして頭部に蓄積されていきます。

未完成のものが完成する時、つまり、未浄化のものが浄化される時、
目に見える身体的には、その過程が症状となって表れます。
つまり、いわゆる病気ですね。熱や発疹や下痢、粘液として浄化されるんです。

今、書いていて気付いたけど、首から下に未浄化の物が溜まるということは、
咽喉チャクラは最後の関門なんですね、創造のステージに上りきるには。。

―――――――――――
http://blogs.yahoo.co.jp/chiex412/20968477.html
どうやら咳の原因が彼女の「過去世の画像」が何かに触発されて活発化したことで、
引き起こされているという事が解りました。
喉のチャクラの傍には「過去世がストック」されているところもあります。
その古い過去世で不要になった独特の感情フィーリングがオーラ第五層を覆っていたのです。
不要になった画像や感情から色が抜けていくと、しぜんに咳は治まると思います。

★世界の一部

9月頃から集中的に
向き合っていること
「明け渡す」
「受容する」
女性性の側面。

相手を丸ごと信頼して
身体を預ける
ということだったり

世界を無条件に信じて
起こることすべてに抗わず、
淡々と選び、行動することだったり

自分のうちに湧く
感情も衝動も
世界の一部だと割り切って
ハラをくくって表現したり

たとえば「甘える」と定義されるような衝動であっても、
それはジャッジのないところからみたら
単なるエネルギーの動きで

自分のなかに「甘えたい」衝動がうまれたときは
世界のどこかに「甘えられる」ことを必要としている人が
いるのかもしれない。

世界はいつも完璧で
つまり
自分もいつも完璧なのだ

感情も衝動も

一般的には

自分からうまれ
自分に起因し
自分が責任をもってコントロールすべきもの

と、されることが多いけれど

その実体は
自分という借り物の器を通り過ぎる
エネルギーでしかないと、感じる。

わたしたちが責任を負うべきは
うまれてきたモノではなく
それをどう表現するか、という部分だ。
表現しない、という選択肢も含めて。

この世界は
人間社会のルールや常識なんかより
もっともっとおおきななにかが満ちている

崇高な流れ

その先にあるものを
わたしたちはたぶん知っている。

世界はいま加速していて
悩みや問題を作り出して
あそんでいる余裕は、あまりない。

穴に落ちたら、這い上がる。
なぜ落ちたか、探求しない。
心身をケアし、次の1歩を踏み出す。

怒りが湧くのも
かなしみにくれるのも
風邪をひくのも

すべて
わたしではない
ナニカによって
勝手に起こること

それを、信頼する。

衝動がうまれたことそのものを
否定することは
わたしたちを取り巻き、貫く
おおきなナニカを否定すること。

それを、どうするか決めないで
保留にし続けるということは
愛を出し惜しみするということ。

流れないものは澱んでいく。

おおきな流れのなかに
わたしたちはただ浮いている。

浮くことができる。

流れくるひとや、流木や、葉っぱを
よけたり、キャッチしたり、食べたり
なにをしてもいい。

心地よくさえあれば。

わたしたちはみな
センサーをもっている。
善悪も、正誤も、効率も、ない
借り物の身体に備え付けられた
個性というセンサー

もしそれが
埃をかぶっているのなら

自分ではない
社会常識や一般教養や
そうした「どこかの誰かがつくってきた」定規に
置き換えてしまっているのなら

いますぐ捨てよう。

わたしたちは
放っておいても
協調するようにできている。
バランスがとれるようにできている。

この世界を満たすナニカの一部である自分を
どうか思い出して。

ここに在る奇蹟の光が
あなたにも届きますように。

さみしさと退屈の処方箋

さみしさと退屈は似ている。

どちらも「無い」ことにフォーカスしている。

大好きなあのひとが
自分を必要としてくれない

誰も自分のことなど
思い出さない、気にかけない

メランコリーのなかに
たたずんでいるとき
世界はおそろしく冷酷で
あらゆるものが背をそむけ
すべてに見離されたかのようで
光を見失い
力を失い
ただじっと救いを待つ。
待ちながらまた、孤独を深める。

唯一絶対の力を放棄している。

わたしの世界が動かないのは
わたしが自分を信じられないのは
わたしが身体に意識をやらないから
わたしが身体を動かさないから。
それだけのこと。

61. 引き延ばすこと(OSHO禅タロット)
引き延ばすことは、たんにばかげている。
明日になった ところで、あなたはまた決心しなければならなくなるのだ。
明日になったら今日よりも自分は賢くなっていると思うかね?
明日の方が今日よりも活き活きしていると思うかね?
明日の方が、あなたは年をとっている。あなたの勇気 はなくなっている。
明日の方が、あなたは経験を積み、 もっとずる賢くなっている。
明日の方が、死はより近づい ている
――あなたは迷い始め、もっと怖くなるだろう。

ものごとを引き延ばして得られる 唯一の結果は、
未完成で「行き詰まっている」という、
鈍く憂欝な、今日の感じでしかありません。
あなたの今の動きを妨げて いる心の迷いをすべて脇に置きさえすれば、
安堵と広がりが感じられ、なぜ自分はこんなに長い間待っていたのか
不思議に思うでしょう。


無いものねだりするより
目の前の皿を洗うほうが
よほどすこやかだ。

身体はいつも共に在る。

答はいつもそこに在る。

さみしさ、というもの

わーっとたのしい気持ちがきて
満ち足りたあとには
静けさがやってくる。
潮がひいたあとのように
そこにあったもの、なくなったものを、かなしむ気持ち。

ハートはいちいちパニックになるのかもしれない。
あれ、しあわせってなんだっけ?
あれらがなくなったいま、わたしは欠けてるんじゃないの?って。

満たさなくちゃって焦ったり
満たそうとしない自分を責めたり
満たされない環境を恨んだり

満たされている状態を求めるということは
なにかを欲するということは
いまここの自分は「満たされていない」と定義すること。
「満たされよう」と力むこと。

コントロールを手放し
いまここにあるものに視点を戻す
それだけで、また、しずかな世界が拡がる。
可能性に満ちたゆたかな世界。

ゆっくりと呼吸する。

なにひとつこの手の中にとどめておけないからこそ
すべての瞬間がいとおしいのだと
思い出す。
何度でも。

甘えスイッチ

先月なかばのはなし。

場を使って自分を守るパターンを発動したおかげで
閉じこもった感情的なお姫様(インチャイ)
どうしたら機嫌がなおるのか?
どんな風に甘やかされたいのか?
言い分をじっくり聞いてみたら

母には甘えたくない。

と言う。さらには

女のひとには甘えられない。
女の子になぐさめられるのは落ち着かない。
男なら誰でもいいわけでもない・・・

甘えるっていうのは無防備になることだし、
甘えさせてもらうのはエゴにとっては弱みをみせること
いや、下手すると、屈辱的ですらあるから、
相手と状況を厳選してきて

このひとだからだいじょうぶ。
ここならだいじょうぶ。
これくらいなら問題ない。
いまのわたしならゆるされる。とかとか

いっぱい条件つけて
ハードルをぜんぶクリアしたときだけ 思い切って
かまってーってアピールすることにしていたみたい。
(そこまでハードル高くないときも、多々、いっぱい、ありますが。)

「甘える」についてはこれまでにも
たびたび、いろいろ、考えてきたけれど
明確に「条件」を認識したのは
じつは、はじめてだったかもしれない。

こうやってボーダーをつくることで
自分が傷つかないように守る代わりに、
甘えスイッチをつくってしまっていたんだなと思う。

時々「甘える自分」がいるってことは
普段は「甘えない自分」がいるってこと。

そりゃあしんどいだろう。

いつでもどこでもだれにでも
ありのまま自分を恐れずにさらけだすこと。
欲しいものを欲しいということ。
赤ん坊のように
正当化するでもなく
ただ、自分のいまのありようを、自分がゆるすこと。

他人に、世界に、ゆるされていると知ること・・・

この感覚につながることができたら
ようやく姫様はおとなしくなりました。

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