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2012年1月の記事

声。のりこさんセッションレポ

昨年4月の女神山仲間
やはぎのりこさんのセッションを受けたのは12月のおわり
http://ameblo.jp/lifedesign-nlp/

神戸にお住まいののりこさんが、都内に来ると知って
前々から受けてみたかったサウンドレゾナンスをお願いして
時間や場所を決めるやりとりをしているのとほぼ同時に
セッションリクエストをいただいて初提供することになった
実母の誕生日の、昼間のこと。

サウンドレゾナンスは
コンピュータ解析した声紋(ヴォイスプリント)から
エネルギーの状態、才能や本質、
課題となることなんかを見られるもの。
http://soundresonance.jp/

わたしはずっと
自分の声に違和感があった。

声を録音すると、自分が聞いている声と違う。というだけじゃなく
状況や場面によって声を自然と使い分けていて
そのどれもが「自然」ではないと感じていた。
「自分の声」がわからなかった。

インストラクターやっているときや
コールセンターで電話対応してるときは
かってにワントーンあがって
それは、自分の心の状態と連動してることに気づいていた。
相手の影響を受けないための防御。
自分を押し出すことで、他者を跳ね除ける声。
だから、イントラ声でひとしきり喋ったあとはいつも
ブルドーザーでがんがん走ったあとみたいな達成感と爽快感と
ちょっとしたむなしさがやってきた。
一方通行の声。

実家にいるとき
ふと気づくと声を張っていた。それが当たり前になっていた。
日常生活、リラックスしている場面でも
きんきらしてたり、カツカツしてたり
(自分で言うのもなにか気が引けるが)
自分が思っているよりも、ずっと、かわいらしい声だったり

でも、そうじゃない声でしゃべるのは、なぜか、はばかられた。
そういう声でしゃべるしかないんだと思っていた。
誰かと意思疎通するとは、そういうことだと思っていた。


ノートパソコンのサウンドレゾナンスの画面を前に
ヘッドセットをつけて、自然な声で喋って、と言われ

いまこんな部屋にいて。とか
今日はこんなものを食べた。とか
てきとうに喋るのだけれど
どうも、しっくりこなかった。

自然な声がわからないんだから、そりゃあそうだ。
ふざけまじりにイントラ声でやってみたりして

それで、のりこさんに、コーチをお願いした。
グラウンディング嫌いなので(笑)
あまり気は進まなかったのだけれど。

  なんで嫌いって
  ほんとうの自分になっちゃうから。
  なにもコントロールできなくなるから。

誘導にしたがって、グラウンディングする。
のりこさんは時折、姿勢をなおしてくれて
わたしは自分がうまく出来ているのかわからないまま
横でみてくれるのりこさんを信頼して、出来ているつもりでいつづける。

のりこさんのグラウンディングコーチはすごくやわらかくて
ふわーっと包み込まれている安心感。

子宮のなかの胎児に戻ったような気分だったかな。
なにも隠さなくていい。
“正しさ” “あるべき姿” という概念のない
あったかくて、すこし心もとない空間。

でもそこは、実は、カラオケボックス(笑)
画面に思い出したように現れる美川憲一の姿とか
隣室のアニメソングが耳に付いたりしながら
しばらく、グラウンディングの状態を味わって

どんな感じ?と聞かれても、特になにも出てこないでいたら
のりこさんが、手をとって、感じたことをシェアしてくれた。

ピュアなエネルギー
だけど
それを出しちゃいけないと感じてる?

うん。だって。浮いちゃうから。
周りを落ち着かなくさせるから。
張りつめていたナニカがほどけて涙になって落ちていく。

わかってもらえるってことが
こんなにうれしいなんて。


それからなにを話したのかは、ほとんど覚えてない。
いままで感じてたこと、おそれていたこと、あれこれ。
肩と背中がゆるんで、ハートとおなかがつながってて
話したら、話しただけ、身体があったかくなるような声だった。

それから、もういちど、サウンドレゾナンスで声を録ったら
あきらかに変わった。

上中下段にそれぞれあらわれる
表現している自分。周りから見えている姿。
外と内を繋ぐ感覚。
潜在的な能力 本質 動機づけられるもの。

そのどれもが
わたしがあれこれ手探りしてきた
「わたし」というイレモノの質を端的にあらわしてた。
あまりの適合ぶりに、違和感を感じるほど。

何度か録ってみるうちに
すこしでも「説明しよう」「わかってもらおう」という意図がはたらくと
声が変わるのも、わかった。

自分の思いを伝えるには
肩に力をいれて
しゃんとしてないとダメだ。
そうしないと、聞こえない。きいてもらえない。っていう、思い込みがあった。

それを手放したら
わたしの声は、わたしの味方になった。

その日の晩のセッションは、この声で話した。
話したら話しただけ、共鳴していく感じがした。

数日後の大晦日、例年のようにわたしの実家で紅白をみながら
ご馳走をたべ、日本酒をのみ、わいわいと喋っているとき
声を張らないように、素の声でいられるように、意識していた。
ぼさっとした声。でも、ちゃんと、きいてもらえた。言葉が通じた。
酔っ払って苦しくて途中で寝てしまうのが恒例だったのに
この日はあっというまに時間が過ぎて、
どんなに飲んでもゆるやかな意識で居続けられた。

このあと、どんな場面でも「素の声」で居続けようとする期間を経て
いまは、場面に応じて、ある程度ハリのある声も、自然と使ってる。

そのまんまの声にいつでも戻れるなら
たまにはオメカシするのも、わるくない。

先々週参加した氣道協会の「声の教室」も、おもしろかった。
声と意識のつながりをあらためて確認。
声の可能性を思う。
この声で、届けたいものがあるような気がする。
それがなにか、どうやって届けるのか、まだわからないけど。

グラウンディングしたくない!

昨日は寝まくり。
朝おきてオットの弁当つくって送り出して
たいして眠くもないのに二度寝して
目が覚めたら、天音らんちゃん
セッション開始時刻を大幅に過ぎていて
あわてて電話してPCつけた。 <ごめんなさい。ありがとう!

セッションおわったあとアタマが思考を拒絶していて
どうにかざっくり掃除と洗濯やって
オットから入るはずの連絡を気にしながら
やりたいこと、書きたいこと、考えたいことを
ぜーんぶ投げ出して、また寝た。

オットが帰宅して、連絡に気づかなかったことを詫びて
ごはんの支度をしながらお菓子食べてワインのんで
ごはん食べ終わったらばったりまた寝た。リビングで。

明け方に寒くて目が覚めて
やっぱり胃袋になにか詰め込みたくて悶々・・・
ふと
おおこれは!!
1年前なら「・・・・しにたい」とか呟いてたモードじゃないか!と気づく。
1年前ならワイン1本あいた(あけた)のになー
しんどいんじゃぼけー!と身体に訴えかけるためだけに。
いまや2杯もあれば十分。
ひとり酒はほんとーにすすまなくなった。
わたしはもともとそんなにアルコール耐性があるわけじゃない。
身体とつながってなかったから、無視することが出来ていただけ。
身体感覚よりも、アタマや感情が優勢だっただけ。

アタマが思考を拒絶しているのは
これを書いている時点でも相変わらずで
でもそれはなんていうか
みたくないものから逃げている。
いまちゃんと言葉を紡ごうとしたら
・・・だめだ、やっぱつながりたくない。

らんちゃんのセッションをうけると
ただ話しているだけ(のよう)なのに
グラウンディングが深まる というか
身体から分離してるタマシイが降りてくる。

11月から何度か繰り返して
セクシュアルレメディもおろしてもらって

ことしに入ってから、さすがにこれは・・・って変化に気づいた。
わかりやすいところでは自宅でのひとり酒量が激減した。
暴食もできなくなった。菓子をむさぼってもたかがしれてる。
PCの長時間連続利用も減った。
身体のストップを無視できなくなった。

だんだん日常のなかでも
身体とのつながりが深まってきていたんだな。

分離してたほうが便利だったの。
いろんなことが。
感じすぎなくてよかったし
ある面では無理がきいたし
現実を自分から切り離してみることで、
ずいぶん自分自身が救われていた。

でもなー
身体をもってここに在ることのヨロコビを知ってしまったし
身体をもってここに在り続けたいと願ってしまったし
ここから先は、そうはいかないんだ。

わかってるよー
わかってるけどこわいんだよー
ってなにがこわいんだかわかんないんだけど

だって降り方もわかんないし
って思ったけど
たぶんこの抵抗をやめるだけでいいんだろう
たぶん勝手に降りるんだろう

それが自然な姿だから。

分離している状態を保つために
実はかなりのエネルギーを使っていたのかも。
それやめたら・・・どうなっちゃうんだろうね?
そのエネルギーでわたしはなにをするんだろうね?

2月4日、海王星が水瓶座から魚座に移る。14年ぶり。
わたしの夢の時間が終わる。
どんな時間が始まるんだろう?と
一時的に海王星が魚座にいた昨年4月〜8月上旬を
思い出そうとするけどなんだかよくわからない。
つかみどころがない。

こーやってあがいているあいだにも
星は動き続けてる

所詮まないたの上の鯉。
だけど、降りてくるにまかせるよりは
すぱっといった方がラクだろうな。

「決める」ということ。

決めたら、それが叶わなかったときに痛い。
どっちでもいいよって言っていたい。
「これがほしい」と言い切ることは
なにかを受け入れること。
それを叶えるための有形無形の動き、サポートを、自分にゆるすこと。
重たくてこわくて逃げ出したい。

現実を創ることの重み。
世界とつながることの重み。

受け入れたからといって
その責任として「〜〜しなければ」なんてことはなく
ただ感謝のままに動いていけばいいのだけれど

そしてそれはたぶん
そんなに悪い感じはなくて
どっちかっていうとたのしいだけなんだろうけれど

わかってるんだよ。知ってるの。
こわいことなんてなにもない。

ワクワクしすぎるだけのこと。

それだけのこと。

だいじょうぶいつだって逃げられる。
その自由をわたしは持ってる。それも知ってる。
この身体に込められた願いを生きてみようか。
地図をみるだけ
あとは手放し運転
だいじょうぶきっとうまくいく。
うまくできないこともふくめてすべて完璧。

大好きな人たちがつないできた、
大好きなこの身体と共にいこう。

ああ、ありがたいなあ。。。

グラウンディング効果

ふかーくグラウンディングしてると、こうなるのか!

先日の記事で感想&レポを書いた
うめ子さんのグラウンディングコーチセッションを
受けたあとに、
驚きとヨロコビをもって体験したこと。

参考までに。


1.目に留まったはじめての店で、すきな服を、
 存分に時間を費やして、迷わないで買えた。

帰り道にふと目が留まった閉店セールのセレクトショップに
自分好みの服が、いい具合に点在していて
ほんとうに好きか?ほんとうにほしいか?それだけを基準に
ていねいに時間をかけて選んで、買った。

いつもの買い物で相当気にしているポイント
「対価に見合うかどうか?」もチェックはしていたけれど
それは長持ちするか、とか、着まわしやすいか、とか、
そういう「経済性」ではなくて、
「いまこれを手に入れることのヨロコビへの対価」
そういう視点だった。

そもそもこの店には、わたしが気に入る服で
わたしの「相場」をおおきく上回るような品物はなかった!

そう広くもない店のなかを
グルグル延々まわってることだとか
試着しまくっていることだとか
何度も同じ服を手にとって考えてることだとか
そういう「人目を気にする」ようなことも、全然なくて

このとき買った服の愛用っぷりは、自分の予想以上。
まだ着る機会のない、でも、
持ってるということだけでうれしくなる服も含めて
いい買い物したなーと、いまも思ってる。


2.電車の移動時間がすっごく早く感じた。

特急に乗って30分弱のところ、
体感10分。
なにが起きたと思ったほど、はやかった!!!


3.すごーく気持ちよくオーダーできた

夕食のためにはいったレストランで、
これまたいつもなら値段やら、量やら、
バランスやら気にしながらオーダーするのに
食べたい!と思ったものを、どんどん頼んだ。

アタマではなくて、ハラで決めていく感覚。新鮮だった!

けっきょく食べ切れなかったんだけど(笑)
聞いてみたら、持ち帰りのできる店だったので、大丈夫でした。

これはグラウンディング自体の効果というより
表現のブロックを解放したあとだったから、かな。


それから、人間関係がすごーくいい感じでした。
いつもなら絶対しないようなこと
(でも、わたしがすごく嬉しいこと)を
相手がさらっとやってくれたり。
いつもなら意見が食い違ったりするような場面で
押すのと、引くのが、絶妙にかみあって、
すごーく和やかで穏やかで幸せだったり。

あれくらいのグラウンディングを
自分ひとりでも出来たら、いいのだけれど
他人が一緒にやってくれるからこそ
いける場所というのがあって
それはそれで、素敵だとも思うのでした。

不妊に原因はない

いいかんじに期待していたものの
2012年 初リセットとなった前周期
でしたが
それにはそれの
収穫がありました。

オットも同じように、同じくらい、がっかりしていたこと。
(わたしが、そのように感じられたこと。)

なにが足りない、なにが悪い。ではなく
これからのことを一緒に考えられたこと。
現実的な目線あわせを、あらためて出来たこと。

えてるなさんのリーディングレポを読み返すとき
(子どもについても、みてもらったので)
オットに見せたら
ちゃんと内容を受け取ってくれたこと。

などなど
ざっくりまとめるならば

このことについてのオットとわたしの足並みが揃って
天秤のバランスがとれたように、感じられたこと。
同じくらい、同じように思っているのだと、わかったこと。

つまり、これまでは
そう思えていなかった・・・のだと
こうなってみて、はじめてわかりました。

わたしが
母体である身体の扱いについて
自分のことを責めていたり
(お酒を飲みすぎ、とか)

あるいは
オットがもっている(ようにみえる)
経済的不安を「原因」扱いしていたり
(無意識の拒絶が現実をつくっている、とか)

どこかに
原因や理由を探していて
自分やオットや、時にはまだ見ぬ子までを
「悪者」にしていたことが
いま、やっと、くっきり見えています。

そのことがどんなに
自分自身を窮屈にしていたかも
よくわかります。

いまは、ココロに羽がはえたように、軽やかです。


イマココで起きていることはすべて
過去の結果ではなく
未来に向けたプロセス

原因があるから今がある
そういう見方もたしかに出来るけれど

その原因がいつまでも
同じ結果を引き起こすとは限らないのが
世界のおもしろいところで

だとしたら
原因を探して対策をたてることに
アタマをめぐらせ
ココロを封じ込めるより

いま、なにをしたら心地よいか
それだけを大事にすること。
それだけを基準に選ぶこと。

いまを心地よく過ごしていたなら
そういうイマが続いていくなら
その先にある未来だって
心地いいはずで。

いつだって
今の自分の選択が
未来を創っていく・・・


これまで
いろいろな出来事を通して習得してきた
世界の真理を

不妊という事象においても
応用できるようになった、みたいです。

ばんざい!

人事を尽くして天命を待てるようになった。かな?

旧暦の大晦日の晩
周期30日目
みごと、リセット。

なんとなく
今回は・・・って
期待していて
それはオットもそうだったみたいで

ふたりで
しばし、すこし、がっかり・・・

参考情報でしかないとはいえ
タイミング的にも無くはないなと
思うのだけれど。

うーん、残念でした。

いまならアセンションに間に合うよ!とか
焦らせたのがよくなかったんだろうか(笑)

というのは冗談で

この周期は、かなり身体に忠実に
食べたいものを食べ
お酒に弱くなったら控え
眠くなったら寝たいだけ寝て
思いつめることもなく
(別の要素で、アップダウンはしてましたが)

妊娠を気にしすぎることも、しなさすぎることもなく、
そのためになにかを(無理に)するわけでもなく、
ただただ、身体にしたがって、
いい感じに過ごしてきたから

これでも、コウノトリこないっていうなら
しょーがないなーって逆にあきらめがついて
これがいわゆる
  人事を尽くして天命を待つ。
ということなんでしょうか。

ああ。やっとこの境地にきました。

以前だったら確実に
 「ここまでやったのに、文句なしの状況なのに
 それでもこないなんて。やっぱり不妊なんだ!
 わたしのどこが悪いんだろう?人工授精しかないの?」
なんていう考えにハマるパターンでしたが

人間、成長するものですね。

ここまでやったのに。って
なんて恩着せがましい・・・(笑)
でも、本気でそう思って、なにかを―
冷えとり、玄米菜食、など―やっていた時期がたしかにあって

あの頃の必死さも
いまのゆとりも
どちらの自分も同じように愛しく思います。

次もこんなふうに
できるとは限らないけれど。
その時々の自分で居続けるだけですね。

(この先、長くなったので分けます。)

他人を気にかけるより

オットはいつも
妙な姿勢で長時間パソコンを見続ける。

壁によりかかったままずるずる落ちて
首だけ立てて寝そべってる状態

それでひたすら、とりとめもない情報を読み続けたり
DLデータをHD容量めいっぱいまで詰め込むあそびに興じていて

だいじょうぶかなあ・・・と思う。
身体のことも
やりたいと言ってることに対して
何もするつもりがないように見えることも。


氣道協会の入会冊子を読んでいたら
不健康な状態も含めて、身体は完璧に健康で
どうにかしてバランスをとるように出来ていることが
繰り返し書かれていた。

わかっているけど、つい忘れること。
信じられないで、コントロールしたくなること。

旅先ですぐ体調を崩したり
しょっちゅう腹の調子を崩したり
こまめにやってるオットの身体は
わたしなんかより敏感で、バランス感覚に優れている。のかも。

しょっちゅう変な角度で首を曲げて寝ているのも
ちゃんとバランスを取ろうとしてるってことだろうし

自分を大事にする=エゴを満たす

誰かの言動が、そんなふうに見えたとしても
自分が、そんな風にしかできなくても
身体(魂)には遠回りだとしても

それすらも完璧なんだろうから
わたしはわたしの心配だけしていよう。




murmur magazine 編集長 服部みれいさんのブログ

「誰かに言いたいことは、自分に言いたいこと」

とあり。
前から知ってる言葉だけど
最近また、一段ふかく、わかってきた気がする。

日々実践。




このせかいには
どこまでいっても自分しかいない。

そのことの孤独と、豊かさと

それでも、ともに過ごすことを選んでいる日々の奇蹟を思う。




わたしだって
セッションというカタチでも、そうでなくても
なにか世界とかかわりあうことをしたいと思いながら
まだ、スタートできていないし
準備作業も手をつけられないでいる。

豊かさに対するブロックがあるからだ、とか
本領発揮することをおそれているんだ、とか

なにかしらの原因を見つけて
対策をとりたくなったりもするけれど

わたしはわたしに
心地よいペースとやり方
進まないことも含めたすべての選択を
ゆるしていたい。





・・・でも
さすがにちょっと加速したくなって
フラワーエッセンスを注文してみました(笑)

ブッシュフラワーのアバンド

どんな風に効くかな~。
たのしみです。

うめ子さんグラウンディングセッション

11月にうけたうめ子さん
グラウンディングセッション感想
(というよりは、レポートか。)

ここでいうグラウンディングは
この記事にも書いたように
身体のすみずみに意識をいきわたらせること。

それだけ、ですが
身体にはすべてのこたえがあり
つまり、全意識を身体につなげることは
おおいなる叡智につながるようなもの。

グラウンディングコーチ・セッションでは
コーチが誘導しながら共にあることで
より深いグラウンディングになり
お互いの存在の共鳴から
そのときその場に必要なことが起きやすくなります。


4月の本郷綜海さん合宿WS当時から
うめ子さんにはなぜだかいろいろと投影しがちだったので
モニター募集をきいてもなかなか覚悟を決められず、
当日の朝に飛び込みでお願いして。

結果的には、1時間のセッションで、
かなり深い解放が起きました。


誘導にしたがってアタマから下へ降りていくグラウンディング
いつもわりとすんなりできるのに
この日はハートで止まってしまって
うめ子さんのガイドで、声をだしながらすすめていくことに。

うめ子さんも一緒に声を出してくれたんだけど
これが、超パワフル。

うめ子さんの声と、わたしの声が同時に響く。
共にここに居ることを、響きあう音で、体感する。
声は、声でしかなく。
重なる音は、音でしかない。

赤ん坊の頃、泣くことでしか表現できない自分が
母を困らせてしまうこと、かなしませてしまうことがすごく嫌で
『自分が表現することは、誰かを傷つける』
という思い込みが出来ていたこと、
それからずっと表現を抑えていてすごく苦しかったことに、気づく。

苦しくなって声が弱くなると、もっと!と引き上げてくれる。
わたしがうめくように声を出していても、
うめ子さんは、ただ、そこに居る。共に居てくれる。
わたしに影響されすぎることもなく、だからといって無関心でもなく
つかず離れず寄り添いながら、うめ子さんの場所に居ながら、
うめ子さんの声を響かせている。
そのことに、ものすごく癒される。

ふたりの女が、そういう風に共に在ることもできるんだって
それを体感させてくれた。
わたしはわたしのままに、湧き起こるものそのままに、
表現していいんだって思えた。
ゆるされてるって思えた。

時折うめ子さんが投げかけてくれる質問では
母の悲しみ(にみえるもの)はわたしの観念でしかないことやなんかを
認めざるを得なくなって、しぶしぶ、ふて腐れながら答えてたけど
ちゃんと言葉にして、口に出せたことも、すごくよかったと思う。

自分なりの表現に関心が向かっていたタイミングで
うたい手でもあるうめ子さんとのセッションを受けて
表現について観念を手放せたのは
グラウンディングの真骨頂かなーと思う。
起きるべきことが起こるのだ。
そこには、信頼だけがある。

あのとき起きた奇跡につながるすべてに、感謝しています。

ワクワク警報

先週、ダウナーが現れる前

やりたくて、うずうずして
なんでも出来ると思いたい自分が
表につよく出ていた。
調子にのっていた。

万能感。高揚。思い上がり。
それがいきすぎると
他人とつながりたい気持ちがうすれて
わたしはみずから孤独に陥るから
身体が、文字通り、身体をはって
ストップをかけてくれたのだと
今はわかる。

アタマが先行しているときは
慣性の法則がはたらいているみたいに
すぐには止まれなくて
振り切って行こうとしたりするけれど
口八丁手八丁で逃げようとするけれど
それじゃあ現実は創れない。

身体をもって動くこと。
あるいは、動かないこと。
それだけが
わたしの望む未来を引き寄せる。

わたしが望んでいるのは
だれかと
世界と
つながること
伝えること
わかってもらうこと
わかること
響きあうこと

それなのに
どうやったら出来るだろう?って
考えはじめると
あんなことも出来るかも
こんなことも出来るかもって
ワクワクして
自分の可能性に酔いしれたりして

いつのまにか
つながるための手段じゃなく
自己顕示欲にすりかわってる。

認められたい
すごいと思われたい
救ってあげたい…  やれやれだ。

具体的な方法は
アタマで考えなくていいのだ。
わたしがわたしの資質と可能性にオープンで
それを世界に献じるのだと意図していれば
流れは勝手にやってくる。
目の前にきたものを
ひとつずつ、丁寧にこなせば、それでいい。

もっと早く。
もっとたくさん。
欲張って手を出すと
とたんに流れが滞る。
歯車がかみ合わなくなる。

どうしよう?じゃなくて
どうしたい?を自分に問い続ける。

その先に望む未来は勝手に整っていくのだから
なにも得ようとしなくていい。
なにも変えようとしなくていい。
どこにも、力を入れないで
ぽかーんと浮いていればそれでいい。

だいじょうぶ。
あるがままにいよう。

ダウナーと共に過ごす

先週末からのダウナー
やっと、抜け出した気配。

食欲と空腹感と食べたいものが連動しなかったり
便秘になったり
やたらめったら寝ていたり
食材献立計画が頓挫したり
バイトに行く時間になっても動けなかったり
オットの行動にイライラしたり
些細なことで全部投げだしたくなったり

大変だった。
意識と身体がちっとも一致しなかった。
グラウンディングや深呼吸で
一時的に自分に戻ってきても
またすぐ揺れた。

あまりに揺れやすい自分に疲れて
ボディワークやセッションを受けたくなったけれど
踏みとどまった。
自分の力、大いなるプロセスを信じてみた。

動きたくない自分を大事にする。
ぽかーんと口をあけて
ぼーっとしていたい自分をゆるす。

これはなんだろう?
どうしてだろう?
どうしたらいいんだろう?
どうなっちゃうんだろう?

疑問は全部、横においておく。
原因も理由も、焦りも不安も、全部。

原因や理由が見つかれば
エゴはおとなしくなるけど、
すぐに思い当たらないときは
深追いしたら、しただけ、混乱する。
(以前ならタロットひきまくったりしていた…)

イマココの自分の状態は
過去の結果ではなく
未来のプロセスだと捉えたら
原因も理由もどうでもいいことで
イマココ、そしてその先で
心地よくあるために
わたしに出来ることは
イマどうするか?
どうしたいか?
自分にきいて、選んで、動く。
それだけだ。

ちぐはぐで居心地の悪い自分から
衝動が湧いてくるのをじっと待つ。

ぽかーんとしていたい自分を
責めない。拒まない。信じて、ゆだねる。

すてきなアイデアだけがどんどん湧いて
あれもやろう、これもやろうと先走るアタマに反して
行動が伴わない自分をみとめる。

なにもしたくない自分をゆるして
なにもしたくないんだと言ってみる。
出来ない、どうしよう?とオットに相談してみる。

本当ならこの弁当を買わなくてもいいはずなのに…
本当ならこのお金はほかのことに使えるのに…
未来の自分をおもんばかって
もっているパワー(エネルギー)を出し渋る自分にも
スペースを与えながら(つまり、ぶつくさ言いながら(笑)
イマココの自分を救うことに注力する。

世界と自分の歯車が
かみ合ってないことにイライラしたら、
イライラだけを発散する。
誰かやなにかや、自分のせいではないことを
しっかり認識したうえで、表現する。

不安定になっていることをみとめて、伝えて、
甘えられるところは甘える。
気分よく過ごせる環境を、自分でつくる。
自分にゆるす。


そんな風に過ごした数日間
大変でした。

でも、自信になった。
いろんな自分を否定することなく
共に在り続けることができた
自分を褒めよう。

不安は愛

ノートに走り書きした文章をみつけた。

たぶん、去年夏頃のもの。

-----

不安は愛の反動。

絆を深めるチャンス。

言葉を重ねる、誠意をもって。ジャッジなしに。

不安があるということは、愛があるということ。

それをみつける。

すべて闇で、すべて光。

-----

いろんなひとに

おせっかいな言葉を伝えてしまった…と思い

 迷惑だったのでは?

 嫌な思いをさせたのでは?

って、猛省していた頃。


いまでも時々

この不安にはかられるけど

ずいぶん信頼がつよくなった気がする。

すべて最善だ。

頑固な人を見かけたら

「頑固者」でとおっている
わたしの身近なひとたちのことを考えていて
ふと気がついた

 あのひとは、なんで変わろうとしないんだろうね?

そう言っているわたしの方こそ
「変化」に固執している「頑固者」じゃないか。

 こうした方がうまくいくんじゃない?

相手のためを思ったような顔をして
「そのままでいたい」相手の望みを否定している


わたしからみて
相手のいまの行動(選択)が
どんなふうであったとしても

相手にとって
それは精一杯の愛情表現
だって、ひとは愛をあらわすことしか、しない。

どんなに不器用でも不恰好でも
ほとんどのひとに伝わらないとしても
いまとっている行動(選択)が
そのひとにとっての愛情表現


そのことに気がつけないで
そこに愛をみつけられないわたしは
愛されていることを感じたくて
だけど
「愛を感じられなくてさみしい」なんて
「こうしてくれたらうれしい」なんて
言おうものなら
共感されなかったとき
断られたときに痛すぎるから

 こうしたらいいんじゃない?

変化を押し付け
それが受け入れられなければ
自分が否定されたかのように傷つき
愛を表現する気のない頑固者だと批判することで
自分を正当化して守ろうとする。
愛をあきらめようとする。


相手は自分にとって心地よい方法で
愛をあらわしたいだけで
わたしは愛を感じたいだけの
行き違い。すれ違い。勘違い。


 ○○だったら、もっと人生たのしいんじゃない?

ではなくて

 ○○だったら、(わたしは)気分がいい

そんな思いが潜んでいるなら
自分のさみしさを消したいがために
相手をコントロールしたいだけ。

誰かに変化を推奨する言葉を伝えたくなったとき
ほんとうの衝動からくるものなのか
自分のさみしさからくるものなのか
よく見極めようと思う。


すべては愛だけれど
すべては愛だから

照れも隠れもおびえもしないで
愛のまま、やりとりできたなら

いま居るここが、楽園になる。

少年性と、かくれんぼ

「瞬間の衝動に従って行動する。」

「あるがままの自分を表現する。」

ということが
こどもの専売特許
あるいは
こどもっぽさ、未成熟
とみなされることの多い
いまの日本社会


あたらしいものに飛びつく
やったことのないことは、やってみる
モラルよりマナーより良心の疼きより
おもしろそうならそれがすべて

やれば怒られることは十分に予想できても
あえてそのことは予想しないか
予想など無視する。反発する。

あとで怒られるとしても
そのときたのしければOK。

やりたくないことは
やりたくないと言う

やりたくないと言うからには
埋め合わせをしようとか
せめて最低限のことはやろうなんて
みずから負担を課したりしない

立場も
前提も
背景も
未来の安全も
なんにも言い訳にしないで動く、潔さ。


バイトで中学生男子と接するうちにみえてきた
少年性 とよばれるであろう質は
それに翻弄される大人側である
わたしのなかにも、まぎれもなくあって
それを発揮して生きたいと願ってさえいて

同時に
安全確保しておきたい
未熟だと後ろ指さされないよう予防線を張って
反響がこないように、影響を与えないように
息をひそめていたい怖がりでやさしい
オトナな自分もいる。

そして
すべてが最善だとしっている
絶対的な信頼感をもつ自分もいる。


そうしたさまざまな自分の声に
気がついていながら
少年性を生きる勇気をもっていること
生きていくこと

それが、わたしのやりたいこと。

動けば、響く
それだけがわたしがここに居る証
わたしがここで感じたいものなんだ。


うまれる響きそのものに
良いも悪いもなく
傷も痛みも幻想だとわかっていても

どうにかして避けようとする習慣から
なかなか脱せないけれど

なにとも響かないように
なるべくちいさく隠れては
「孤独」に囚われる遊びはおしまい。


鬼につかまっても
いつまでも鬼を交代できなくても
鬼と笑われても

どれもこれも
息をころしてかくれていては
あじわえないことばかりだから

衝動のままに
わたしは物陰から飛び出すんだ。

グラウンディング・コーチたち

グラウンディング・コーチ という
セッションを提供してくれる人たちがいます。

一般的にグラウンディングは
地に足をつける。とか
地球につながる。という意味で
使われる言葉だと思うのですが

ここでは

地に足をつけることも含めて
『私たちの魂の器である「体」に、
私たち自身の「意識を根付かせる」こと』

という意味合いで、使われています。
グラウンディング・コーチ養成講座 告知文より抜粋)


本郷綜海さんによる
ヒーラーズ・インテンシブ Vol.1「魂の目的を生きる」
2011年4月に参加したこの合宿WSで
はじめから終わりまで、随時、徹底して、
ガイドされながら体験・体感したグラウンディング

<合宿WS 感想記事>
まるごとのじぶん
気づきと体感のメモ@女神山WS


わたしたちは身体をもっていて
身体はすべてを知っていて
それは、すべてにつながる扉

身体の隅々にまで
すべての意識がはいったとき

癒し
気づき
解放
ゆるし
愛、怒り、かなしみ、よろこび、すべての感情・・・

そのとき、その場に必要なこと
最善が、自動的に起きていきます。

そういう「グラウンディング」を深めることを
指導するコーチになり
セッションを提供している
わたしが直接知っている人たちを
ここに、紹介しておきます。
(五十音順)


cuteあむりたさん
http://plaza.rakuten.co.jp/genevieve/diary/201110100000/

cuteUme_Co*さん
http://ameblo.jp/maneki-ume-co/

cuteマリアさん
http://ameblo.jp/maria-grounding/

cuteやはぎのりこ さん
http://ameblo.jp/lifedesign-nlp/


ひとりでも出来るグラウンディングを
導いてもらうこと
見守ってもらうこと
共に深めることの味わいは
なかなか、言葉にしづらいのですが

わたしが受けたことのある方の
セッションについては
また別に、記事にします。

魂の浄化師のこと

昨年秋ごろから
魂の浄化師 天音らん ちゃん
ハマってます。

・・・ほかに表現がないだろうか?
うーん、でも、ハマってます(笑)
つながりを感じ続けています。
まだ物理的に会ったことはないけれど
響きあっているのを感じて
彼女と同じ宇宙にいるということに
とても、安心しています。

友人が紹介していた、彼女のブログ記事が
すごく分かりやすくて
とても親しみを感じて
わあ、このことを、こういう風に書いて
世界に発信している人がいる!!って
すごくうれしく、頼もしく思ったのが、はじまり。

セッションを受けようと決めるまで
すこし時間がかかりました。
いま思えば、受けてしまったら、
もう戻れないと分かっていたからかな。

彼女の 浄化セッション というのは
なんでもありのフリースタイルだから
受ける人、タイミングで
まったく違うのだろうと思いますが

わたしにとって
彼女との出会いは
自分自身との出会い直しでした。

わたしから見えないわたし
わたしには分からないわたしを
世界の理に沿って、教えてくれる人です。

カオスをカオスのまま抱える
果てしない宇宙のような
タフなやさしさを体現している人です。

セッションを受けて
わたしはわたしを、好きになりました。
その前とは比較にならないくらい
好きだと、胸を張れるようになりました。

自分を、世界を、いとしく思う時間が増えました。

彼女の声を聴いているだけで
細胞ひとつひとつがふるえて
身体がじんわりあたたまります。

ぜひつながってみてください。


2月2日までの申し込みは、期間限定メニューです。
金銭的ハードルが低いほうが良い場合はお早めに!


cute魂の浄化師 天音らん
プロフィール: http://profile.ameba.jp/ranaki/
あめぶろ: http://ameblo.jp/ranaki/
mixi: http://mixi.jp/show_friend.pl?id=878605

口語と文語

ひとつ前の記事を書いてみて
なんだか、とほほな気分。

伝えたいことはそんなに
ややこしいことでもなんでもないのに
妙に堅苦しくないか?

そして後半はなんだか
論旨が飛躍している。
わかっちゃいるけど
どう噛み砕いたらいいものか
わからくてそのままにした。

しゃべるとわかりやすいのに
書いていることは
どうにも小難しいと評されることが
たびたびあって
なんとかしたいなあと
思ってはいるのだけれど

口述筆記のように
音声認識でやってみたらどうだろう、とか
動画メッセージを撮って
配信したらどうだろう、などと
考えてはみたものの

誰かとの会話ならともかく
ひとりで滔々としゃべるとなると
なかなか難しいというか・・・・慣れが必要。

twitterにはずいぶん慣れたので
小難しいことを考えているときでも
もうすこしわかりやすい言葉で
書き表せていると思うのだけれど

長い文章になると、とたんに
アタマが「文章仕様」になってしまう。

喋っているときとは違うところから
言葉が紡ぎだされているのが
自分でもわかる。

これはこれでいいとして
違う文体も出来たらいいなあ。
2012年の課題にしよう。

団塊ジュニア世代のギフト

世間をながめていると
サラリーマンが圧倒的に多かった団塊世代と
そのジュニアたちの
親離れ・子離れがこじれているのが
多いなあと感じる。
自分を含めて。

父親が留守がちであろうと
仕事一辺倒であろうと
子どもに手がかかろうと
母親はあくまでも「夫のために」
家事育児パートに精をだし
そのことが夫にも伝わっていて
父親は、妻子の幸せを励みに
社会を男らしく生き抜く

それが、健全な姿だろうと思うのだけれど

母親は子どもやらを理由に
夫と向き合うことから逃げて
父親は居場所を失って

自分から逃げているだけとはいえ
子どもの世話やらで
さみしさをまぎらわせている
母親の姿に、子は心を痛め
父親に怒りを感じ
母親を守れない自分に怒りを感じ
それをぜんぶ、抑圧する。

本来であれば
子どもが泣こうが喚こうが
夫が一番大切。と、母は言い切るべきで

それによって子どもは
一時的にはさみしくもあろうけれど

男児であれば
母親のしあわせは父親中心であること
自分にその負荷はないことを心得て

女児であれば
父親は母親をなにより大切にしていて
自分はそのコピーでしかないことに甘んじ

自分だけのパートナーを探す助走になる。

夫婦間がすきまだらけで
行き違ったままなのに
形だけ、外見だけ、取り繕われていると
子どもは自立への勢いを得られない。

だから、嫁にいっても
実家べったりでファザコンのまま
夫を敬えずにいたり

嫁=(たとえ子がいても)自分が独占できる女
自分の獲物を待つかよわき存在によって
自分が男として成り立つ
そういう概念がないまま、独身でいたりする。

この、実の親子間で
成し遂げられずにいる
親離れ・子離れを
さまざまな形でやっているのが
団塊ジュニア世代のかくも多様な
男女間パートナーシップだと思う。

けっきょくのところ
男子にとって母親は
女子にとって父親は
永遠の初恋のひとであり
永遠の片思いであって

それを満たしたいがための
パートナーであることは
別段、おかしな話ではない。

ただ、夫婦が夫婦として円滑にまわるためには
それに加えて、
親子間では抑圧されていた
「性エネルギー」の循環がなにより大切で

親世代にそれをみていないジュニア達は
そこをうまく解放できないで
浮気・不倫にはしったり
DVになってみたり
子どもを虐待してみたり
「満たされない子ども」のまま、大人をやっている。

家庭内で性エネルギーを健全に発露させ循環させること。
子沢山だった時代にはアタリマエにできていたことが
核家族になって、難しくなった。

それを跳ね除けるだけのつよさを
ジュニア世代はもって生まれているのだと
わたしは信じていて

娘の婿選びを黙って見守り
娘婿に、娘のしあわせを託す心意気や
息子を心配で縛らず
自分の幸せ(夫婦円満)に注力すること

つまり
自分の領域を明確にし
自分は自分をしあわせにすること
その外については
未知数のダレカを「信じて託す」ということを
さまざまな形で、機会で、体得を試みている。

親子という関係のなかで
築かれなかったこの力を
大人になってから試行錯誤の末
得ることのメリットも、おそらく、あるのだ。

孤である自分と
それでもなお、つながろうとする自分

そこにひろがる無限の可能性に目を向けること

他者との
世界との
ゆるやかな信頼関係をベースにした
感謝に満たされた生活

それはもしかしたら
江戸時代の庶民の暮らしに
似ているかもしれない、などと思う。

もってうまれた環境のなかの
仕合せを感じる心

生きてるだけで丸儲け。

その心さえあれば
わたしたちは生きていける。


introduction rev.7 (120105)

あるいは、プロローグ的なもの。

下記カテゴリは女性性関連の内容が含まれます。
「PCOSとわたし」「コウノトリ」「傾向と対策」「巣作り」

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2012年1月9日より
くじらセッション&PC相談 スタートします。
http://moana.cocolog-nifty.com/blog/session.html
フィードバックをくださる方に限り、モニター料金です。


セッションスタート延期します。未定。(2012/1/7)

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2004年、クジラみたいに寛大になれるよう願って、
“くじらになれたら。”と題したブログをはじめました。

日常の悲喜こもごも、テレビをみて感じたこと
不妊のこと、ひえとりのこと、
スピリチュアルなこと、セッションやセミナーのこと
自分を縛ってきた思い込みや観念について・・・
つれづれに綴ってきて

なにものかになる必要はないこと
わたしのなかにすべてがあること
それらが自分のすみずみまでいきわたったので、
“由紀ログ”と名前を変えましたが

2012年、この先の自分を表す言葉として
ふたたび「くじら」を冠することにしました。

このブログは、写真でいえばアルバムです。
デジカメに撮りためた雑多な記録写真たちは
mixiにアップしてます。

もし、mixiアカウントを持っていて
日記を読みたい方がいましたら
どうぞお気軽に、リクエストください。

http://mixi.jp/show_profile.pl?id=610336


タイトルに★のついている記事は
ダレカに届けたくて書いたものです。
届くかな?
とどいたらいいな。

さよならの向こう側

山口百恵 という
一世を風靡したアイドルは
「しあわせになります」といって
マイクを置いて

そしてほんとうに
誰がみてもしあわせな家庭を築き
誰がみてもしあわせな風情で
いまも暮らしているようで

わたしが彼女の
「さよならの向こう側」という曲を知ったのは
いつだったかなあ・・・
20年くらい前かもしれない。

♪Thank you for your everything
♪さよならの代わりに

たくさんのたくさんのファンの
「いつまでもそのまま居てほしい」という
切なる願いをうけながら
「女のしあわせ」を選び抜いた彼女の
心意気の奥深さをおもう。

自分がほんとうにしあわせでいようと思うとき
目の前のしあわせに集中しようとするとき
誰かの願いを叶えられないことがある

それを、自分のしあわせから逃げる
理由にしないということ。

それを、自分がしあわせでいることの
追い風にし続けるということ。

しあわせを選び続けるということ
自分をしあわせにする行動を、とり続けるということ

女をしあわせにするのは
いつだって、その女本人でしかない。
それが女のもつチカラ。
うみだすチカラ。

わたしたちは
自分をしあわせにするのが仕事。

王様と決めた男がいるのなら、
その男を王様でいさせるのが仕事。

女にしかできないこと。
女だからできること。

わたしも貫こう。

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