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2012年3月の記事

「好かれるのはめんどくさい」

フェミニンへのこだわりの前フリで
「好かれるのはめんどくさい」という
自分の観念が浮上していた。

誰でもなんでもいつでも
好意をもってくれている相手なら、なおこのこと
すべてを受け入れたいけれども
実際にはそんなことは出来ない。

境界線をひいて
自分の心地よさを守らなきゃならない。

でも、わたしは
出来れば線を引きたくないと思っている。

断ること
拒否すること
拒絶すること
否定すること

そうしたことに抵抗を感じる根っこには
傲慢さと、本能的な恐怖があるってことも
わかっていたけれど
知っているけれど

知っているだけで

だから、ずっと怖かったし
いまも、怖いのだけれど

やってもいないことを
いつまでも恐れていても
ずっと怖いだけだから

ここはもう、こわいまま、
進むことにしようと思う。

身体をとおしてあらわれるもの

フェミニンと思われることに
なぜこれほど、こだわるのか?

アンチフェミニン のほかに
もうひとつ理由がみつかった。

性が別れている「身体」というものへの、不条理感。

男と女に別れているから
わかりあえなかったり
ややこしくなったり
本能的な引力がはたらいたり
単なる友人として続けることが難しかったり

最終的には
本質的には
「ひとつ」なのに!

男も女もなく、仲良くしたいのに
つながりを感じたいのに
誰かひとりじゃなく、みんなと一緒にいたいのに
誰とも等しく、同じだけの深さで、つながっていたいのに。
それができないのは、性別のせいだ・・・!

そうやって怒っているわたしがいて
だから、そういう現実が
ときどき、たびたび、創られてきた。
それで、そういう現実があらわれるたびに
「ああこれだから嫌なんだ・・・」って思ってきた。

自分が女性としてみられると心地悪かったのは
フェミニンを嫌う気持ちだけではなく

そういうつもりじゃないのに!

という違和感
歯がゆさがあったのだ。

女っぽくしようとしたわけじゃない
男とか女とかどうでもいい
ただわたしは、わたしを生きているだけだから

性別なんかで括らないで!

っていう抵抗。

でも。

しょうがないよね。
わたしの身体、「女性」なんだもの。

相手がそこに
なにをみようとも
相手の自由だし

母性やら女性性やらを
投影されるってことは
それだけ世間で、
それが求められてるってことなんだろう。

わたしの身体をとおして
わたしの外に出たものは
わたしのものではない

というか
はじめから
わたしのもの
わたしがコントロールできるもの
わたしの管轄にあるものなんて
ひとつもないのだ。

しいていえば
この借り物の身体を
通りのいいように
メンテナンスするくらいで

通り抜けるものが
あらわれたいカタチになれるように
ゆがめることのないように
心を整え、身体を整え・・・


そして
そこにあらわれるものが
なんであろうと

わたしはそれを
直接みることはかなわない。

それは
誰かをとおして
わたしに還元されたり
されなかったり・・・

それが
身体をもっていることの
ゆたかさでもあるのだと思う。


これまでにも何度か
繰り返してきた

わたしの身体をとおしてあらわれるものへの
意図も、期待も、こだわりも、手放すということ。

もう一段ひろげられた感じがしている。

脱・アンチフェミニン

「ふわっとしてる」と言われたり
ピンクにレースの小物をもらったり

フェミニンにみられることが
どうにも苦手で
落ち着かない自分
釈然としないどころか
“失礼”とすら感じる自分

もう何年も、何度も、ことあるごとに
ひっかかってきたのだけれど
今回よーやく、すっきりした。

わたしは、アンチフェミニンだった。

ひとつの見方として
わたしのエゴを納得させるような理由をあげるとすれば
「祖母たちの悔しさ」を、大事にしたかった。

女性らしさなど演出する余裕もないほど
日々の暮らしに精一杯で
冷蔵庫も洗濯機も掃除機もなく
頼れる親兄弟も近くにおらず
それでもプライドに見合った暮らしをしたくて
負けまいと歯をくいしばって
よわくやわらかいところを表すなんてもってのほかで

そんな彼女たちを傍目に
他の女になびいたり
酒におぼれる男たちに幻滅していた。
そんな男たちをたぶらかす
フェミニンな女たちを恨んでいた。
そうなれない自分を
それがゆるされていないように感じられる自分の境遇を
憐れみ、嘆き、悔やんでいた。憤っていた。

そうやって
頑張ってきた延長線上に
のほほんとしたわたしの暮らしがある。

だけど
だからこそ
わたしはフェミニンでいいのだ。

今度こそ
今だからこそ
わたしはフェミニンを生きていいのだ。

男女平等に雇用の機会があり
家事の大半は機械がやってくれて
オットに協力してもらうこともアタリマエで
女だからと食いっぱぐれることも
女だからと蔑まれることもない

体力的には男性に劣るけれど
暴力をふるわれたらひとたまりもないけれど
それを良しとしないことが、社会の常識になっていて

女が、女らしく生きることを、のびのびとたのしめる時代
たのしんでもいい時代になったのだ。

時はきた。

代々の女たちの尽力で
準備は整っている。

あとは、受け取るだけだ。

それを、生きるだけだ。


が。
ここでもうひとつ
わたしにはひっかかりがあった。

長くなったので、別にします。

きらきらめぐる

「かわいい」

「あたまがいい」

「ふわっとしてる」

いままで
言われると
フリーズしてた言葉

「かっこいい」

「出来るヒト」

「おもしろい」

これにも戸惑ってた。

けど

さいきん、ちょっとずつ、受け入れ中。

言葉半分だってことを
まっすぐに持っておく。

ソレをわたしの中にみている
あなたの中にもソレがある。

あなたがソレを言うということは
言われたいと願っているわたしが、いるのだろう。

そのことを、もう、恥じたりしない。

あなたが見つけてくれたソレを
あなたに見えないあなたのソレを
わたしはあなたに見つけて映す。


きらきら

鏡の世界

きらきら

めぐりめぐる


ありがとうを返す

また、返ってくる


かわいい も
やさしい も
かっこいい も
かしこい も

言われるの、きもちいいな。

くすぐったいけど
うれしいなって

すなおによろこんでると
また、言われるのだ。


きらきら

めぐりめぐって

今日もしあわせ。

集合意識とのリンク

いま、心にしても、体にしても、
なんだかわからないけど、
いつになく不調なひとがいるようで

あくまでも私見ですが
この時期に出てきている不安定は
311の震災にまつわる集合意識と
リンクしているんじゃないかな、と
わたしは思っています。

そうやって集合意識とリンクするのは
いまに限った話ではなくて
大義名分が好きなわたしは
いろんな不具合も不調和もすべてリンクありきと思うことで
ああじゃあ、もう、役目に徹しようって、
手放してゆだねて浸ろうって、はらをくくることがあります。
泣ける人が泣こうって
怒れる人が怒ろうって
それを感じられるわたしが、ちゃんと感じきろうって思うのです。

リンクするのにはもちろん
わたしのなかにその「質」があることが大前提で
以前はよく、その質をもっている自分を、
責めそうになったのだけれど
いまは、その「質」すらも、役割だとわかっている。

もってうまれた身体に刻み込まれているDNA
家系の伝統、女性の意識、などなど。

おおきなセカイのなかで
おおきな流れのなかで
わたしが担うもの。

誰かが、自分自身に、真摯に取り組んでいる姿
それがセカイに映し出されていくこと
そのセカイにわたしが傍観者としてでも関われていること
生きている限り、出来事の意味は、何度でも、変えていけること
自分では扱いきれないことも、
関わっている誰かが、担ってくれるということ
そうやって、みんなで、このセカイにいること

そうしたすべてが、とにかく、うつくしいなあと
このごろ、よく、感じるのです。

そして、わたしも、参加していこうって、
わたしも、自分の世界に、向き合っていこうって
心あらたにします。

以前はそんな自分の意識や感覚を嫌ってました。
上から目線、傍観者意識、けっきょく他人事、無感情・・・・
誇大妄想、非現実的、夢見がち・・・・
なんでもマクロでみればいいってもんじゃないだろうって。
距離をおいて、観察して、自分を切り離して、何様のつもりだって。

でも、そういう見方があらわれてしまうのが、わたしというイレモノ。
アタマでこねくりまわして創るまでもなく
それは、わたしのなかに、あらわれる。
そのこと自体に、善も悪もない。

それをどんな風に取り扱うのか
誰にどのようにシェアするのか
そこが、腕のみせどころで、
わたしがこの先ずっと取り組んでいくこと
わたしが見つけたいことなのかもしれません。

わたしのすべてをもって
目の前のヨロコビに没入して
カタチにしていく

歌やアートを通した表現で
あるいは
生きること、日々の暮らしそのものが
実現の手段です。

オーラソーマボトルの変化

オーラソーマ
http://artbeing.com/aura-soma/

5年前にコンサルテーション一度うけたのと
時々WEBミニリーディングをやってみたり

今年のわたしのイヤーボトルは
ソウルボトルと同じ8番アヌビス

オーラソーマプラクティショナーのお友達が
誕生日にプレゼントしてくれました!

はじめて一緒に過ごすボトル。
目に付く場所に飾って
気が向いたときにはシェイクして塗って
愛でていたら
ボトル内部に浮遊物・・・
まるで垢みたい・・・

Aurasoma2

そのほかにも
境目のところが濁ってみえたり
泡のような隆起があったり

いろいろ起きて、面白いです。

下層(潜在意識)の青よりも
上層(健在意識)の黄色によく現れる。

ググってみたら

・濁る時はボトルと自分が同調したとき
・上層が濁る場合は、霊的なレベルでは、
 合理化できないことを合理化しようとして
 感覚が知性によって曇らされていることを表し
 精神と肉体のレベルでは、内面のトラウマや動揺、
 あるいは精神的な混乱を表している

参考:
http://www.aura-soma.co.jp/faq/dtl_97.html
http://himika.exblog.jp/3737752/
http://blogs.yahoo.co.jp/miyamama413/2968150.html

このページ↓いろんな「変化」の写真があってキレイ。
http://homepage3.nifty.com/chizu-mind-institute/bottles.htm

わたしの印象では
上層の黄色はインチャイ(身体意識)
下層の青はタマシイの潜在能力(エネルギー)

生きてくるうちに身に着けてしまった垢や
合理性を追求する思考癖を落として

タマシイ本来のエネルギーを発揮して生きられる身体に
バージョンアップしてくれてるのかな。


シェイクすると緑色になる8番ボトル
ハートの正義
相反するものの統合
アヌビスは、生と死をつなぐ神様

まだうまく言葉にならないけれど
これらのエッセンスのなかに
大げさに言えば
わたしの「使命」
わたしが身体を持ってここにいる「意味・役割」が
あるのだろうと感じています。

それは
人生に意味はなく
なにを選ぶも自由である
ということと、なんら矛盾しない。

そういう世界を生きるときが来た。ようです。

ゆるされたら困る?

先日の預言あたりから
真摯さ、に胸をうたれ涙することが続いていたら
今日はどかんと
自分の孤独癖に打ちのめされてました。
潔癖さ、頑固さ、ストイックさ。

そんな自分に辟易として
でも、それは、よく考えたら

「世間のなかにおける自分」を考えるから
「困ったものだ」とジャッジするだけで

わたし単体は、別に困っていないのでした。

世間一般とは「NGライン」の違う自分を
問題視して、ゆるされるはずのないと決め付け
勝手に苦しくなっていたのでした。

もっとよく見ていったら
「ゆるされたら困る」とすら思っていました。

だって、そうしたら、
ありのままでいいのだとしたら、
わたしは何をしたらいいのか、わからない。って。

あまりにも
自分の「好き勝手」がゆるされると
怖くなってしまう自分がいるみたいです。

どうしていいのかわからない。

ありがたく受け取ればいいだけなのに
甘受すればいいのに
逃げ腰になる。
もてあます。

ほんとうは

息をしている
生きている
それが起きている時点で
すべて、ゆるされてしまっているのに

与えられているものの大きさや
果てしない可能性を手にしていることに
ふと、怖気つくのです。

すこしずつでも
意識したまま受け取れる量を
増やせたらいいな。

慣れていけたらいいな。

身体にまかせる

お酒について
あれこれ書いてみて
普段どれだけ
「気にしている」のだろうと
あらためて。

それはなにも
飲酒量や種類に限った話ではなく

たとえば食べ物なら
動物性たんぱく質をとりすぎたとか
甘いもの食べすぎだとか
添加物が多いだとか

たとえば体調なら
帯下がやけに多いとか
今月は胸が張らないとか
やけに食欲旺盛だとか

あれこれ比較し続けている。
判断しまくっている。
まるでどこかに
「普通」の指針があるかのように。

世間の「標準」だって
あるのはせいぜい「平均」で、
自分自身の「普通」だって
過去との比較でしかない。
そして、過去が「正しかった」わけでも
「100%健康」だったわけでもない。

身体はいつだって正直で
バランスをとり続けてくれている。

アタマで、あれこれ、はかるのは
もうやめていいんじゃないのかな。

やたらめったらに
問題を見つけたり、作ったり、しないで
自分を責める材料、探さないで
いいんじゃないのかな。

心配性なアタマは
どんどん、ヒマになってしまうけれど
そうしたら、きっと、本来の仕事を思い出す。

イマココに見えない可能性を、みること。

安全ベルトをきゅうきゅうと締めるような
押し込めるような愛じゃなくて
ぐんぐん枝葉を伸ばすような愛を
もう、やっても、いいんじゃないかな。

身体のことは
身体にまかせていいよ。

もし失敗しても
すぐにバランスを取り戻すし、
もしうまく戻れなくても
ちゃんとどうにかなるから。
そういう風に、出来てるから。

ずっとずっと
身体を嫌ってたから
センサー鈍らせていたから
その分、がんばってくれてたんだよね。
でも、そろそろ、大丈夫。
身体を信じて、大丈夫。

おつかれさまでした。

もっと、のびのび、いこうね。

お酒の話

昨年秋あたりから
飲酒量が減っていた。
特に年末からの1~2ヶ月は
ほとんど飲まない日が続いていて
いったい何が起きているのだろう…と
不思議でしかたなかった。

それくらい、これまでのわたしは
自宅でも、ひとりでも、飲んでいて
(オットは下戸)

妊娠したいなら!と、量を極力減らしたり
ノンアルコールにした時期もあったけれど

ストレスをためるよりは、いいか。と割り切って
飲みたいものを、飲みたいように、たのしみ。
また時には、精神安定剤のように助けてもらい。
お酒なしの生活を送るつもりなどなかった。

それが、いつのまにやら
要らないなあ、というカラダの感じや
酔った感じは心地よくないなあ、という
アタマやココロの感じが優位になって

飲まないで過ごすほうが
自分にとって自然になったのだから
なんだか、かえって、不自然で(笑)
ずっとこのままなのかな…などと思っていたら

2月末、39日目で
期待もむなしくリセットしたあたりに
タガが外れたらしい。
身体にも財布にもやさしい日々は
あっけなく終わった。


お酒は、内臓を疲れさせるけれど
酔っている間は
アタマもココロもカラダも
ほわっとゆるめてくれる、ありがたいもの。

お酒を飲まずにいた時期は
マインドに振り回されることが減って
わざわざゆるめる必要がなくなったような
それ以上ゆるむ必要のないような感じだった。

そして、いまのわたしにとって
お酒はガソリンのような
気付薬のような存在に思える。

おいしいとか
ふわふわしてたのしいのは、大前提として
酔わなければ、正気(?)を保っていられない。
という感じもする。

はっきりはわからないが
なにかをおそれているみたいだ。
なにかを避けている。
なにかに気づきたくなくて、酔っている。ような…


わたしはいろんなことにおいて
こうやって原因や目的や意味を探す。

でも、お酒を飲みたい欲求が
どこからきているのかなんて
ほんとうは、どうでもいいのだ。

それがエゴの声だろうと
なにかのごまかしという側面があるとしても
同時に、なにかの真実でもある。

飲まなければ妊娠するとも
飲めば妊娠するとも言えないし
また、飲まない日々がくるのかもしれない。

すべてOK。

お酒を飲める身体に、環境に、
与えられているすべてに感謝をもって、
たのしみを享受していく。

富士山麓にカンパイ!

ホンモノ

昨日、ライフワークなんぞぶちあげた
エゴちゃん高揚のきっかけは
この前いただいてきた預言。

「ホンモノをみわける力があります」
「偽物を研究したから、ではなくて。
 知っているから、わかる。そういう力です」
「それをもって次へ行きます」

というような内容があったのだ。

これをきいたとき
勝手に涙が流れてきた。

わかるからこそ
混乱しまくってきた。

なんでホンモノが疎んじられるのか
なんでニセモノをつくりだすのか
わからなくて

ニセモノを大事にしたがる人たちを
どうやって愛したらいいか
わらかなくて

わからないものを
わからないままにしておくのは
気持ちが悪かった。

ぜんぶを愛したいのに
ぜんぶをゆるしたいのに

でも、どうやったってわからないから
チルドケースに入れておくって方法を
編み出したんだろう。

そして
「これがわからないから、それはやらない」
なんて言い訳して、
なにかからずっと逃げてきたのだろう。

逃げてきた
という表現はちょっと
自分にいじわる過ぎるか?

タイミングを待ってた。とでも言うか・・・

なんでもいいか!(笑)

預言の最後は
ぜんぶ笑い飛ばしなさい。だった。

なにものかでありたい自分も
なにものでもない自分も
すべてである自分も

問題をみつけたがる自分も
感情に騙される自分も
きらきらの自分も

ぜんぶ
笑ってしまえ。

ホンモノも
ニセモノも
すべていとしい、わたしの世界。

脳内チルドケース

以前友人に
「終わらせたいヒトなんだね」と
評されたことがある。

わたしの脳みそは
いちじるしくマルチタスクで
未完了タスクが
裏でずーっとスタンバっていて
完了の機会を待っている。

完了衝動。
いつか終わるもの、終わらせたいものは、終わりにしたい。
(だから人生も早く終わらせたかったのだ。)
(もうあきらめましたが。)

たとえば
「このCDを聴いてみたいね」と言ったときに
それが実現できる環境がなかったとして
その数時間後に
CD再生できる環境になったとき
「さあ聴こうか」と
あたりまえのようにタスクを復旧させる。

なんでだろう?と生じた疑問について
その場で答えが出なかったら
どこかでずーっと保っていて
なにかの拍子に、なにかと結びついて、
あれって、これだったんじゃない?などと言い出す。
律儀に、答えを探し続けている。

これは母方の血筋からきている特質らしく
私と母と妹がしゃべっていると
誰かが話している途中だろうと
その話とまったく関係がなかろうと
思いついたことは即座に言ってしまい
それで話があちこちに飛び散っても
最後にはちゃんとぜんぶ収拾がついて
誰の話も宙ぶらりんにはならない。
と、オットが驚いていた。

パソコンサポートをしているとき
「これをやりたい」と言われたこと、そのものは、
仮に出来なかったとしても、代替策を提示して、
「実現したかったこと」は完了させる。
という、わたしにはアタリマエの手順も
どうやらアタリマエではないらしい。

そうやっていつも
いろんな「未完了タスク」が同時進行していて
終わらせる機会を探し続けているので
そのモノによっては、あるいは、見方によっては
「せっかち」なのだけれど
これは今は終わらないな、終わらせられないな、と思うと
一転して「鷹揚」になる。
バックグラウンドの奥深くにしまいこんで
ずーっとずーっと
保ち続ける。

なんだかひっかかるなーと思う相手との関係を
ずーっとひっかかるまま3年以上保ち続けたり、
数年前の占いや預言やリーディングの結果を
折々に読み返して進捗を確認したり、
5年前にもらった入浴剤をどうするか?
ずーっと保留にしてたり、

言い方をかえれば
あきらめが悪い。のだろう。

そういう思考回路をもっているおかげで
冷蔵庫の中のものを忘れて腐らせるってことは
まず、めったに、ないのだけれど(笑)

疑問は、疑問のまま
願望は、願望のまま
置いておけば
忘れてしまって良くて
あとは潜在意識が自動的に
答えを探し出してくる

というのが
脳みその働きらしいのに

わたしの場合
きれいさっぱり忘れておくってことが
下手なのかもしれない。
手放せないでいる、というか。
「自分(意識)」でなんとかしたい、というか。

冷蔵庫でいうと「チルドケース」みたいな
冷凍までしないけど、っていう
中途半端なスペースに
あきらめきれないものを
なんでも放り込んでおくクセがあるのかもしれない。

よしあしは別として
そんな特徴があるようだ。という話。

ライフワーク、ご破算?

ライフワーク という記事を書いて
意気揚々と
OSHO禅タロットをひいたら
「53. 夢」というカード。

 「いっしょにいるということは、すべて幻想だ。
 いっしょにいるという考えそのものが、私たちは独りであり、
 その孤独が痛みを伴うからこそ生じる。
 私たちは自分たちの孤独を関係のなかでまぎらわせたいのだ……。」

さっそく
ライフワークの見直し(笑)

わたしが他者の宇宙船を
見つけようとするのは
つながりを感じたいから。

その幻想、ファンタジーが
わたしをさらに
分離に追いやるのかもしれない。

 「ほんとうの愛は、自分たちの困窮した状態を
 他に頼って解決しようとすることから来るのではなく、
 私たち自身の内なる豊かさと成熟を育むことからやって来ます。」

他者という鏡なしに
わたしの人生を充実させること。

鏡に映る姿を、目的にしない。
他者を利用しない。

他者の宇宙船をみつけるのはあくまでもおまけで
勝手にほじくって引っ張り出すのではなくて
わたしがやるべきはただ
自分の宇宙船であそびまわること

見つけるのを
目的に
たのしみにしちゃうと
ズレていってしまうんだろう。

なにも設定しない。
なににも拠らない。

ただ、自分であり続けること。

リアルに居ること。

孤独から逃げないこと。

すべてである自分を生きること。

「生きる」と宣言するまでもなく
ただ、もくもくと、
つかわれるままにあること。

自分がなにものかであるように考えるのは
エゴの自己満足でしかないなあ!

だけど
エゴを満たしておくのも、大事なんだ。

ライフワーク

わたしのやることは

どんなひとでも、みんな、ひとりのこらず
宇宙船をもっていることに
気づくこと。

相手に気づいてもらうんじゃなく
なによりまず、わたしが気づくこと。
見つけること。
片っ端から。

わたしさえ知っていれば
それは絶対に発動する。
だって、わたしがみている世界は、わたしの世界だから。

そして
もし見落としてしまっても
見つけられなくても
それはわたし以外の誰かやなにかの手によって
発動するのだということも知っている。

どんなひとでも、みんな、ひとりのこらず
宇宙船をもっていることを
わたしはすでに知っている。

だから
わたしは必死で探す必要なんてなくて
ただ、たのしみとして、見つけていけばいいのだ。

宇宙船。
ダイヤの原石。
海のそこに眠る真珠。

それはたいがい
苦しみの中にある。

それを
ありきたりの日常の中で
いわゆる「スピリチュアル」や
「医療」や「宗教や信仰」に拠らない
ありきたりの日常の中で
見つけていくこと。

そして
なんらかのかたちで
シェアしていくこと。

同時に
隠れた宇宙船をよびさます
発信音を出し続けること。

わたし自身の宇宙船を隠さないでいること。

もし、気づきたいのに見つけられなくて苦しんでいたり
宇宙船をそうと知らずに邪魔に思って苦しんでいるひとから
リクエストがあれば、発掘して埃を払う手伝いもするだろう。

それが、わたしのやっていくこと。

預言(2回目)

2年半ぶりに
預言をいただいてきました。

今回は
東京(高田馬場)ではなく
横浜(瀬谷)の
arise 横浜キリスト教会
http://blog.bethany.holy.jp/

喫茶店のように運営されている東京と異なり
ご自宅(住宅街の一軒家)のリビングを
教会として開放されているので
知人宅を訪れたような感覚

迎えてくださった車谷さんの笑顔も
信仰や、活動について話される語り口も
隅々まで心が通っているリビングも
心も身体もほっとするような、あたたかさで

友人とそれぞれ預言をいただいあとも
たくさんお話をして、歌ったりもして
ドライフルーツのたっぷり入った
ブランデーケーキみたいな時間でした。


預言は
予言ではなく

わたしたちが生まれ
いつか還っていく
そしていつもつながっている
大いなるナニカから

預言者の口を通じて
わたしに授けられる言葉。

自前の機器(携帯など)で録音することもできますし
教会方で用意されている
カセットテープかICレコーダーで
録音してくださったものを
いただくことも、できます。

前回いただいた言葉とあわせて
折々に
聞き返し
読み返し
大切に抱えていこうと思います。


cutearise 横浜キリスト教会
http://blog.bethany.holy.jp/
預言タイム
火曜~土曜(金曜) 15:00~18:00

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