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2012年5月の記事

否定するひとがあらわれたとき。

今朝はいいかんじに「自分」につながっている。

誰よりわたし自身が確信をもちきれずにきたけど
やっぱりこれはもう確実に

  わたしは万人万物を等しく愛してる

もう、そうとしか言いようがない。

関係性や思いの深さ
時間やエネルギーのかけ方などは
表面的なことでしかない。

愛情は万人に、万物に、等しく放たれている。

これはわたし起点に限った話ではなく、
あなたからも、あのひとからも、
ありとあらゆるカタチで
ありとあらゆる空間に
等しく満ちている。

すくなくとも今わたしはそういう世界に生きてる。

というタイミングで
お友達のツイート

「否定「あなたはダメだ」を無条件の愛で受け入れると、どうなるか?」

をきっかけに、つらつらっと書いたことを編集マトメ。
いまのわたしにとって、「愛」ってこういうこと。

---------

無条件の愛で受け入れるってどういうことか、
わたしにもよくわからないので参考にならないかもしれないけど。

わたしなら、「あなたはダメだ」と言っている相手の根底にある愛をみる。
ダメだと言っている相手自身に痛みがあって、愛があるゆえに痛んでる。

「あなたはダメだ」と言ってくるひとは、
自身自分を否定してるから
他人のそういう部分を否定したがる。

自分を否定するのは理想や期待があるからで、
幸福を追求する気持ちのあらわれ。
もどかしさ、自分にがっかりしてる気持ちの裏返し。

そうやってみると、相手を愛しく思える。

そんなふうに「自分を幸せにしたいけど出来ない!」って
もがいてる様(=自他を否定する)をみるのは切ないけれど、
それも相手の選択。大事なプロセス。

そこを尊重したうえで、自分に何か衝動がやってきたら、それに従う。
相手になにか声をかけたり、ポノったり内省したり静観したり。

この「ゆるしのプロセス」を瞬時にできるかどうかは、相手との距離次第かな。
言葉にすると解釈ぽいけど、実際にはエネルギーでふっと出来ることもある。

わたしの場合、相手の愛がみえない状態=自分への愛が欠けている感じで、
心地悪いので、ちょっと手間でも、フィルターを外して外して本質に戻す。

相手の愛をみるどころじゃないときは、相手との関係は保留して、
ひたすら自分をかわいがる。自分のなかの愛につながる。
否定してくる相手を愛せないときは、自分自身の愛から離れちゃってる。

こうやって愛って言葉に置き換えてしまうと
ものすごく軽々しいのだけれど、
ほんとうはもっといろんなものを含んでるんだ。

自分が創造主である自覚とか、
ゆるしゆるされてココに居ることとか、
自分という存在は、万物に満遍なく流れうねり統べていく
エネルギーの一部であることとか。

そういう感覚が愛なんだと思ってる。

無条件の愛(と呼べるかどうかわからないが)スタートは自分。
誰かやなにかじゃなくて、とにかく自分が「愛」であることを思い出す。
それがなかったら、他者なんてゆるしようがない。
他者のなかにある「愛」と響き合えない。

誰かが否定してくる「現実」、それは自分が欲しているもの。
それを契機に、どこかへ流れていこうとするプロセスに、
自分がいるということ。 望んでいるということ。

その契機を、自分をゆるす方向につかっても、
他者をゆるす方向につかっても、なんでもいい。
チャンスは何度でも巡ってくる。

タマシイには抗えない

誰とどう過ごすか

誰とパートナーでいるか

いつ、だれと、どう関わるかって

愛情の深さでも濃さでもなんでもなくて

ほんとうに縁でしかないな。と思う。


この魂とは、このカタチでつながってると、お互いチカラを発揮しやすい。

とかね

個性と相性みたいなもので

目的(たくらみ)にしたがって

決めているような、決められているような。

抗えない。


それはたぶん人間関係にとどまらなくて

自分のやること、なんかもね

どんどん自由になって

どんどん選べなくなっていく感じがしている。


ちっとも息苦しくはなくて

ある意味ラクで

しずかに、ハラのそこからふつふつと湧いてくるものに

身を委ねるスリル


体をもって生きるって、おもしろいなー。

本気で欲しがる

本気で欲しがって
そのために動こう。

レディデイと
内診で
排卵日チェックして

身体のサインに
従順でいよう。


石野莉子さんのブログ読んだら
  【女って、女っていうだけでスゴイんだよ、】

ブレイクスルーがきた。

ただ、笑っていること。
女は、女だっていうだけで、愛だってこと。

それを自分にゆるした。

こんな○○なのに?
わたしなんて○○だし・・・
なんて言い訳をぜんぶ放り投げて

何度目かのスタート地点。

やってきたのは
骨盤とハートがつながった
圧倒的な静寂とひろがり。

そして
やっぱり
オットの子を産み育てたいと思った。

禅タロットをひいたら
  51. 内側へ向かう
  どの欲望も惨めさをもたらす、
  欲望を通しては満たされることはない。

欲望を抱えることは
絶望の種をまくこと

だけど
  今、あなたには、この距離をとって、
  ドラマに巻き込まれることなくショーを見守る準備が整っています。

本気で欲しがるってことを
心底がっかりするかもしれない可能性を
いまなら、たのしめるかもしれない。

たのしめるに違いない。

リセット直後のこのタイミング
可能性の海に、舟を出せ。

苦手なのは、甘えたいから。

5月8日のmixi日記を編集転記(改題)

--------

おともだちのブログを読んだら
じわーっと響いてきて
ふわーっとハートが広がって

ここ数日ハマってた
苦手なヒトのことが
わかった。

苦手だ。困った。どうしてくれよう?って
ずーっと手こずってるそのヒトは
わたしの望むかたちでは、愛を示さない。それだけだ。

わたしには理解ができない。
伝わってこない。
だから、わたしは怒ってる。

わかりやすくしてくれなきゃ
ああするぞ!
それとも、こうしてやろうか!

おまえみたいな
けちんぼの高慢ちきの知ったかぶり
相手になんかしてやるもんか!

などと、ケンカをふっかけようとしたり

(もちろん相手にされない。)
(面と向かってやってるわけじゃないし)
(でもそういうのは、伝わってしまうものだ…(恥)

目につかないよう
自分から接触を絶っておきながら
やっぱり気になって遠巻きに眺めてたり

おばかだなあ(苦笑)

けっきょくわたしは、
わかりやすく愛されたくて、
愛されてるとおもえなくて、
拗ねてるんだ。

権威的なヒト
断固としたリーダーシップをとれるヒト
信頼を得て成功してるヒトへの
憧れと恐れが、こじれてる。

自分のなかにも
そういうヒトがいるからこそ、なんだろうと、予測している。
(まだ実感はない)

とりあえず
いまは
愛されてる感を味わいたかっただけかあ・・・と
怒りの鎧がとれて
肩の力が抜けて、ほっとしてるのでした。

わかんなくたって
どうせ
愛されてるのにね。

さ、まずは自分が、けちけちするのをやめようか。

感じられない、というのは

 自分がその回路を閉じてるから
 その部分から入ってこない

ということだろう。

どこをどう開いたらいいのか
いま具体的にはわからないけど

開くって決めておけば
あとは勝手に自分のなかから導きだされるはず。

鎧をとって、チカラが抜けた時点で、流れはじめているはず。

いま、わたしには、そう感じられなくとも
これが、相手の(わたしにとっての)最善の
愛情表現だって可能性にひらいてみる。

そして、わたしは相手を大好きで
甘えたいのだと認めてみる。

内なる戦い
これでまたひとつ
やめられただろうか?

やれやれ。

つながりのカタチ

5月7日のmixi日記+twitterを元に編集

--------

わたしは
だれかと
つながりたくて

つながりたくてしょーがないのに
つながれれば、なんだっていいはずなのに

自分の気に入った方法でつながりたいんだ!とか

つながりとはこういうものだ!とか

勝手に決め付けて
限定して

つながれないー!!って泣いていた。

その制約条件は
ながーーーいこと慣れ親しんでいて
そういうものだと思い込んでいて
生きてるってことは、だって、そういうことでしょう?
ってくらいに思い込んでいて

でも、つながることは、あきらめられなくて

どっちにもいけなくて
くるしくて
金縛りにあったみたいに
ちいさな枠の中で動けなくて
絶望的な気持ちになって

あっちへ手を出したらぶつかるし
こっちへ足を伸ばしたら痛いし
あーじゃない、こーじゃない、試行錯誤し続けて
くたびれ果てて・・・

でも

金縛りも
枠も
まぼろし。

いつのまにか身に着けていた、我が身を守るための鎧

いまはもう守る必要がないって
気づけば、消えていく。


相手の言動を100%肯定できないこと
わたしの言動が拒絶されること
相手のリクエストに応えられないこと
わたしのリクエストが叶わないこと

そんな関係性は不完全だって
それじゃ、つながってるって言えないって、怒ってた。
そんなの、つながりじゃない!って否定してた。

身体をもっている以上は
身体を通してあらわれる「現象」を
「すべて」受け入れることこそが【つながり】と思っていて

そうすると、多数と同時につながることはかなわなくて
どうしろっていうのさ!って途方にくれてた。


だけど

自分や相手の言動や
関係性の実態はともかくとして

【存在を受け入れていること】

それだけで、つながりだったんだ。


はじめから、つながっていて
いちども、別れてなどいなかったのかもしれない。

「言動や実態はともかく、存在は受け入れる」というのなら
話はとても簡単だった。
チカラを抜くだけでいい。

(これまでは境界線があまかったから )
(あえて、それをやらないできたのかもしれない。)

言動を100%受け入れることが出来ない相手や
思うように連絡をとりあえない相手を見つけては
「愛が足りない」「愛が伝わらない」と
みずからを嘆いてきたのは
すべて誤解だった。

ここのところ
じみーな頭痛が時々あって
罪悪感か?なんの?と思っていたのだけれど
思うように愛せない!って自分へのダメだし
これじゃ伝わらない!って焦り、だったのかな。


あなたの言動に100%賛同はできないけど

わたしの言動は100%よろこばれることもないけど

いつも連絡をとってるわけじゃないけど

この先、二度と会わないかもしれないけど

愛してないわけじゃない

愛されてないわけじゃない


存在を受け入れている=つながり だと
自分内規定を改めるだけでよかった。


「言動や実態はともかく、存在は受け入れる」

というのが腑に落ちたのは

全般的にすごく気が合う相手にも
いくつか、ひっかかる部分はあって
たとえばちょっとそれは…って思うような言い回しとか

その相手とケンカ別れして
めったに会わなくなっても
時折思い出したり、風のウワサをきいたり
つながりは続いていて

ふと気がついたら
その、ひっかかってた言い回しを
なにげなく使ってる自分がいたこと。

そのとき【つながり】の深まりを実感した。

相手の「イマココ」の言動はそこにないし
関係性の実態は「疎遠」だとしても

相手への思いも
「わたしのなかの相手」も
ずっと共に在り続けて

すこしずつひとつに溶け合っていく。


実態が伴わないのは、
誠実じゃないような気がしていた。
わかりやすい実感が欲しかった。
生身の体の間にやさしく流れるものが
「ホンモノの愛」みたいに思っていた。

体に比重を置きすぎてた、というか
特別視しすぎてた、というか・・・

どんなカタチであらわれていても
そこに、差は、まったくないのだ。

比較するものじゃなかったのだ。


世界からもたらされるものは
いつだってわたしにとって最善で
変えるべきものなんて
ひとつもなく

わたしからうまれる衝動も
いつだって世界にとって最善で
変えるべきものなんて
ひとつもない


わたしのなかで思いと行動の優劣がなくなって
長いこと抱えてきたジレンマが消えた。

これが、これからのわたしにどんな自由をもたらすだろう?
現時点で、呼吸のたびに、世界と愛し合ってる感覚を味わってる。
瞬間ごとに愛し愛される身体!

離れたひとへの愛情はもちろん、
すぐ横のひとへの愛情も増している。
惜しみなく、後ろめたさなく、
すべてにひとしく、マックス出力してるって思える。
あふれでるままにしていい。

幸福な降伏
サレンダー

わかりやすい表現に
ならなくてもいい。出来なくてもいい。
もし出来たら、また違う展開があるだろう。それもいい。
だれかとのわかりやすい響きあい。未知数。ワクワク。

つながりのカタチ が
どうであろうとも

物理的に離れていても
感情的に離れていても

つながっていることに変わりは無くて
気持ちひとつで響き合うことが出来る


わたしも、あなたも

命あるものも、ないものも

在るってこと自体が、愛の「あらわれ」


愛してるも
愛されてるも
いつも同時にそこにある

それを思い出すだけで
いつでもだれとでもつながれる。

退屈と生と死とメリーゴーラウンド

死にたいくらい退屈なのに
退屈でなくなることを死ぬほど恐れている。

いや、退屈でなくなった瞬間
死が訪れるとでも思ってる。

生は死までのひまつぶしなんだから
さっさと終わればいいと思ってるのに

堂々巡り。
ぐるぐるぐるぐる
バターになったらパンケーキが焼ける?

さあどこで、逆に曲がろう
角はいったいどこだ?
いつだって角だ。
それともバターになるのを待とうか?

待っててもバターにはきっとなれない。

待ってるだけじゃ退屈は消えない。

妊娠すれば
子どもがくれば
退屈じゃなくなるはずなんて

いつまでも夢みてないで
いつまでも神様に委ねてないで

さあ
手を伸ばせ。

欲しいものを手に入れろ
満たされることをおそれずに

頭のてっぺんから
爪の先まで
みっちり愛されてるんだって

それはわたしの愛だって
いまこの瞬間
わたしのものだって

ぜんぶ
受け取って
ぜんぶ
手放して

ぜんぶ
ぐるぐる
まわすんだって

まわし続ける
そのプロセスの
手間も、めんどくささも、
たのしめるから

たのしんでいいから

わたしがいくら
受け取りを拒否したところで
誰かの涙が癒えるわけじゃない

わたしは
わたしを
よろこばせる
たのしませる

そのさきに
誰かの笑顔もある

くるくるメリーゴーラウンド
この白馬はわたしだけのため
ほかの誰にもフィットしない

わたしは
わたしの白馬のうえで
ただ、にこにこ、笑っている

空けておいても
そこには誰も
乗ることができない

わたしが
わたしの白馬で
くるくる、笑いころげていたら

だれかが
だれかの白馬を見つけ
乗ってみたくなるかもしれない

ヨロコビだけの世界

おわらないヨロコビの渦に

さあ飛び込め。

リアルを生きる

ひさびさにブログを読み返したら
前回のエントリ(3月末)
「好かれるのはめんどくさい」に

  境界線を引くのは嫌いだ。こわい。
  でも、こわいままいくしかない。

というようなことが書いてあった。

そこから1ヶ月ちょっと。

  こわいけどやるしかない。

に、変わりつつあるような。ないような。


先週あたりからだろうか
「実験しちゃうもんね!」と意気込みすぎていて

実験の詳細はここでは横においておくけれども
それがひとつの「手段」「方法」であることを忘れて
  それ(だけ)でいいのだ。
と言い切ろうとしていた。

そのほかのすべてを切り捨てて見ない事にして
ラクしようとしていた、ともいえるし
実験に対する恐怖のあまり
視野が狭まっていた、ともいえる。

それで

自分の外側にあらわれるもの
(パートナーや友人知人の言動意見)を
すべて「善いもの」とみなすことに傾倒し

自分の内側にあらわれるもの
(好き嫌いの感覚)が怯え
反逆を起こし、正当化(という攻撃的防御)に走る

というパターンにハマった。

そうなるともう、てきめんに、
世界と歯車があわなくなり
事がスムースに流れず
まったくもって、居心地が悪くなるので参る。

こわくて、不安で、自分以外を
「ただしくないもの」「非効率的なもの」に仕立てあげ
ああだこうだとえらそうに講釈たれているとき
わたしは、自分と自分以外を分離させている。
どんどん、さみしく、つらくなる。

世界からもたらされるものは
いつだってわたしにとって最善で
変えるべきものなんて
ひとつもないというのに

 それは違う
 それは正しくない

などと否定をしたら、しただけ、自分が傷つく。
自己否定しているのと同じだから。

ゆるせないことがあるとき
目に付くとき
わたしの視野はせまくなっていて
可能性を閉ざしている。

世界はいつも
わたしに足りないものを補ってくれて
いま、それが、そうは見えなくても
それは必ず、善きものなのだ。

誰かの言うこと望むこと考えてることが
ぜんぶ全面的に「ただしくて」「合理的で」
「自分をしあわせに導くもの」だと信じてしまえば
それだけで、日々はラクチンでハッピーになる。
そして信じたら信じただけ、それは現実になっていく。

でも、嫌いなものは「嫌」と言うのも、同じだけ大事。

ラクチンでハッピーなのはいいけど
ラクチンで不快なのはたのしくない。

嫌 は 否定ではなく、拒絶でもなく、好みの問題。
「わたしはそれは好きじゃない」
自分を守るために、相手への思いやりをもって、境界線を引くということ。
互いが心地よく、隣り合って生きていくために
必要な「主張」「コミュニケーション」
ここがわたしのラインですよ、と知らせること。

それが誰かの「傷」や「害」になることもあるかもしれないけれど
傷からギフトがみえてくることもあるし
結果的に傷つけた行為も元をたどれば愛情だったりする。
同じことに傷つく人もいれば傷つかない人もいるし、タイミングもある。

関係性のなかで起こることは、関係者すべてに必要なこと。
それをどう捉えるか、どう扱うか、どんな意図をもつか
いつでも、だれでも、なんでも選べる。
そこには被害者も加害者もいない。

「傷」や「害」を過剰におそれたり、悔いたりするより
自分や他者のもつ「力」「可能性」をみること
そのほうがずっと豊かだ。
(そうはいっても、こわいものは怖いので、
 そこは自分との兼ね合いだけれど。)


自分が世界(相手)と一体で
そのままですべてゆるされて愛されていて
わたしのすべてが受け入れられ通じ合っている

という完全無欠の幸福感を
ある特定の条件下において感じられたことがあり
その感覚はどうやら
いまの日常のなかにもあるみたいだ。
ってことに、最近気づいた。
いつでもアクセスできる日も、たぶん遠くない。

そうなったときに
自他を混同すると
たぶん世界は崩壊する。
理屈ではなくて、感覚的に。

だから
戦うでも(気づくとやってる。始末におえない)
むやみやたらに受け入れるでもなく(これが快感でね、ついやりたくなる…)
心地よい距離を保つこと。
ラインを明確にすること。

そのとき目安になるのは
「正しさ」じゃなくて「好ましさ」だ。
自分にとっての。
ほかの誰にもわからない「好み」
理由なんてない
ただ「好きだから好き」って感覚。

それを主張することを自分にゆるしたり
それで大丈夫ってことを確認したり
ちょっとずつ練習を重ねてきた。
(このまえの作品づくり&展示なんてまさしくこれだ)


ありのままで愛されているって、すごくこわいことだなあと思う。
完全無欠、なにもしなくていい。
というのは
生きてなくていい、に近い。
歩かなくていい、どこへも行かなくていい、ただそこにあればいい。
変化を常とする肉体にあって
それは死と同義なんだ。

だけど、身体をもってその場所に居たい。
それがあるとわかってしまったから。
居られることを知ってしまったから。

毎瞬、生死を繰り返す
ほんとうのリアルに
すこしずつ慣れていく。

こわくなったら、呼吸する。

意識などしなくても
この身体が
勝手に呼吸して
勝手に新陳代謝して
生きてるってことを思い出す。


パートナーや義両親を立てるとか
他人を否定しないとか、ポノるとか
方法はどうでもいいんだ。

世界はいつだって完璧で
自分は愛されゆるされてて

それはあまりに茫洋とした世界
つかみどころのなさに
うろたえ、おびえて、もがいて、
障害物を作り出しては生の実感を得る
いままでのパターンをやめるだけ。

酸素のない宇宙空間に
ぽかーんと浮いて
悠々と伸びをして
深々と息を吸う

そういう時間を増やしていく。

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