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リアルを生きる

ひさびさにブログを読み返したら
前回のエントリ(3月末)
「好かれるのはめんどくさい」に

  境界線を引くのは嫌いだ。こわい。
  でも、こわいままいくしかない。

というようなことが書いてあった。

そこから1ヶ月ちょっと。

  こわいけどやるしかない。

に、変わりつつあるような。ないような。


先週あたりからだろうか
「実験しちゃうもんね!」と意気込みすぎていて

実験の詳細はここでは横においておくけれども
それがひとつの「手段」「方法」であることを忘れて
  それ(だけ)でいいのだ。
と言い切ろうとしていた。

そのほかのすべてを切り捨てて見ない事にして
ラクしようとしていた、ともいえるし
実験に対する恐怖のあまり
視野が狭まっていた、ともいえる。

それで

自分の外側にあらわれるもの
(パートナーや友人知人の言動意見)を
すべて「善いもの」とみなすことに傾倒し

自分の内側にあらわれるもの
(好き嫌いの感覚)が怯え
反逆を起こし、正当化(という攻撃的防御)に走る

というパターンにハマった。

そうなるともう、てきめんに、
世界と歯車があわなくなり
事がスムースに流れず
まったくもって、居心地が悪くなるので参る。

こわくて、不安で、自分以外を
「ただしくないもの」「非効率的なもの」に仕立てあげ
ああだこうだとえらそうに講釈たれているとき
わたしは、自分と自分以外を分離させている。
どんどん、さみしく、つらくなる。

世界からもたらされるものは
いつだってわたしにとって最善で
変えるべきものなんて
ひとつもないというのに

 それは違う
 それは正しくない

などと否定をしたら、しただけ、自分が傷つく。
自己否定しているのと同じだから。

ゆるせないことがあるとき
目に付くとき
わたしの視野はせまくなっていて
可能性を閉ざしている。

世界はいつも
わたしに足りないものを補ってくれて
いま、それが、そうは見えなくても
それは必ず、善きものなのだ。

誰かの言うこと望むこと考えてることが
ぜんぶ全面的に「ただしくて」「合理的で」
「自分をしあわせに導くもの」だと信じてしまえば
それだけで、日々はラクチンでハッピーになる。
そして信じたら信じただけ、それは現実になっていく。

でも、嫌いなものは「嫌」と言うのも、同じだけ大事。

ラクチンでハッピーなのはいいけど
ラクチンで不快なのはたのしくない。

嫌 は 否定ではなく、拒絶でもなく、好みの問題。
「わたしはそれは好きじゃない」
自分を守るために、相手への思いやりをもって、境界線を引くということ。
互いが心地よく、隣り合って生きていくために
必要な「主張」「コミュニケーション」
ここがわたしのラインですよ、と知らせること。

それが誰かの「傷」や「害」になることもあるかもしれないけれど
傷からギフトがみえてくることもあるし
結果的に傷つけた行為も元をたどれば愛情だったりする。
同じことに傷つく人もいれば傷つかない人もいるし、タイミングもある。

関係性のなかで起こることは、関係者すべてに必要なこと。
それをどう捉えるか、どう扱うか、どんな意図をもつか
いつでも、だれでも、なんでも選べる。
そこには被害者も加害者もいない。

「傷」や「害」を過剰におそれたり、悔いたりするより
自分や他者のもつ「力」「可能性」をみること
そのほうがずっと豊かだ。
(そうはいっても、こわいものは怖いので、
 そこは自分との兼ね合いだけれど。)


自分が世界(相手)と一体で
そのままですべてゆるされて愛されていて
わたしのすべてが受け入れられ通じ合っている

という完全無欠の幸福感を
ある特定の条件下において感じられたことがあり
その感覚はどうやら
いまの日常のなかにもあるみたいだ。
ってことに、最近気づいた。
いつでもアクセスできる日も、たぶん遠くない。

そうなったときに
自他を混同すると
たぶん世界は崩壊する。
理屈ではなくて、感覚的に。

だから
戦うでも(気づくとやってる。始末におえない)
むやみやたらに受け入れるでもなく(これが快感でね、ついやりたくなる…)
心地よい距離を保つこと。
ラインを明確にすること。

そのとき目安になるのは
「正しさ」じゃなくて「好ましさ」だ。
自分にとっての。
ほかの誰にもわからない「好み」
理由なんてない
ただ「好きだから好き」って感覚。

それを主張することを自分にゆるしたり
それで大丈夫ってことを確認したり
ちょっとずつ練習を重ねてきた。
(このまえの作品づくり&展示なんてまさしくこれだ)


ありのままで愛されているって、すごくこわいことだなあと思う。
完全無欠、なにもしなくていい。
というのは
生きてなくていい、に近い。
歩かなくていい、どこへも行かなくていい、ただそこにあればいい。
変化を常とする肉体にあって
それは死と同義なんだ。

だけど、身体をもってその場所に居たい。
それがあるとわかってしまったから。
居られることを知ってしまったから。

毎瞬、生死を繰り返す
ほんとうのリアルに
すこしずつ慣れていく。

こわくなったら、呼吸する。

意識などしなくても
この身体が
勝手に呼吸して
勝手に新陳代謝して
生きてるってことを思い出す。


パートナーや義両親を立てるとか
他人を否定しないとか、ポノるとか
方法はどうでもいいんだ。

世界はいつだって完璧で
自分は愛されゆるされてて

それはあまりに茫洋とした世界
つかみどころのなさに
うろたえ、おびえて、もがいて、
障害物を作り出しては生の実感を得る
いままでのパターンをやめるだけ。

酸素のない宇宙空間に
ぽかーんと浮いて
悠々と伸びをして
深々と息を吸う

そういう時間を増やしていく。

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