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2012年9月の記事

水を湛える瓶

水のなか。

瓶のなかの水のなか。

自分を知るために

世界を知るために

やさしいあのひとをそそのかし

ふかくふかく潜るあそび

ウェットな自分

痛み

ずるりずるり、ぽたりぽたり

過ぎ去った出来事を感じるため

自分に引き寄せるため

あいていた瓶のふた

今度はそこから

流すのだ

おわりのない

途絶えることのない

際限のない

水を


あとすこし

傾ける


水がなくなることを

瓶が倒れることを


洪水が起きることを

倒壊が起きることを


おそれていても始まらない。


始まるまで、あとすこし。

どうせ裏表

わたしはほんとうにあきらめがわるい。

誰かの黒い感情を
黒く重たくみえたそれを
いつまでも覚えている。

裏に絶対、白があるはずだって
信じたくて、信じたくて、

黒は痛くて重たくて嫌だから
白がみえるまで抱え続ける。

あきらめが悪くて
疑い深くて
怖がり。

黒の裏は白なんだよって
見えなくても、信じちゃえばいいのに

こまかくこまかく一個ずつ検証しようとする。

疑ってかかってるから
黒が目に付くのかもしれない。

黒かな、白かな、
白がいいな、黒は嫌だな
そうやってジャッジしてるから
問題がなくならない。

これって結局ひまつぶしかも。

この黒の裏はほんとうに白か?なんて
ちまちま検証して
再発見するヨロコビよりも
夢中になれるナニカがあれば

どうせ裏表でしょ?
なら、黒でも白でも一緒でしょ?って
ひとくくりで放置するんじゃないのかな。

もう十分、信用に足るだけの
検証結果が揃ってるはず。

この遊びも、そろそろおしまい。

黒の裏は、白。

教職者の、情熱や誠実さに弱い。
胸が打ち震える思いがする。

ふと、これはいったいなんだろう、と
思い巡らせて
思い当たったのは
教師だった父を敬う祖母の気持ち。

それはあくまでわたしの想像で
祖母の口から聞いたのは
芸者遊びや放蕩のあげく
財産を食いつぶしたがために
祖母は女学校に進学できなかったという
恨み言めいた話なのだけれど

表に出てくる言葉と
その奥の気持ちは
同じとは限らない。

本人すら気がつかないところに
気がついてはならないところに
大好きな気持ち
敬いたい気持ちが
しっかりしまいこまれている

そのセオリーを知ってはいても
実感がなければ半信半疑

わたしの、教職者に共鳴する気持ちが
祖母のそれを引き継いだものだと仮定した瞬間
セオリー通りだったとわかった。
身をもって、知った。


表面的には恨みつらみしか見えない
不信感しかないような関係性の
根っこにある、あたたかい気持ち

そうしたことは
機会があれば本人に
「こういう気持ちもあるんでしょう?」などと
言うかもしれないけれど

そのことに
誰かが気がついているだけで
あたらしい可能性がひらけていく。

希望の種。

いつ芽吹くともしれない
だけど、そこにそれが在ると
いったん気がつきさえすれば
じわじわと、光が届いていく。
(ふだんは忘れてしまっていても大丈夫)


かつてのわたしが
「ドロっとした黒っぽい感情」だと
思いこんだ「だれかの言葉」
そのなかに、種をみつけたとき
思い(記憶)が塗り替わる。
安堵。ヨロコビ。

オセロの駒を持ち上げる。
黒の裏には、白。
かならず。

ならば、黒のまま置いておいても構わない。
裏が白だと、わかってさえいればいい。
そのまま、そっと、元に戻す。


自分の心を震わすモノの
理由も意義も目的も
探る必要はないけれど

それは
わたしに与えられた
わたしが脚色した物語の
見落としてきた伏線につながる
合図なのかもしれない。

ときには想いを巡らせるのも一興。

そうして物語は厚みを増していく。

自分を信用できなくても。

夢の中でわたしは
自分の赤ん坊を抱いているのだけれど
なんだか人形のように反応がうすくて

一緒にいる知人と
どうしたんだろうねえ・・・と話していて

そういえば!
昨日から母乳もやってないし
おむつも替えてないわ。と思い出す。

あわてて乳を含ませてみたり
おむつを替えたりしてみるが
(排泄物であふれかえっていた・・・)

赤ん坊はどんどん無表情になり
ちいさくちいさく小指の先ほどになって
ぱりんと、頭の一部が割れて
壊れてしまった。

ああ・・・もう取り返しがつかない。という気持ちと
これは夢だから。実際は赤ん坊はちゃんと泣いて
アピールするから大丈夫なはず。という気持ちと

複雑な気分で、目が覚めた。


わたしは自分を信用していない。
なにかをケアし続けるとか
忘れずに毎日なにかするとか
出来ると思っていない。

たのしいことがすきだし
飽きっぽくて、実験したがりだし
命を、命と思わずに、ひどいことをするかもしれない。
トンボの羽をむしる小学生男児みたいに。

逆に、そういう気持ちを押さえ込みすぎて
良妻賢母に徹したあげく、爆発する可能性もある。

9月3日の記事:繊細さをぞんざいにするココロ

ここで書いてることの延長線上にあるような、ないような・・・

自分の「欲」との付き合い方

未知数の「欲」

緊急速報でわかっていても
避けようのない地震のような

平穏と安定と維持を望む「わたし」を
ものともしないエネルギーが
わたしを通り抜けることがあるって、

しっているからこその恐れ。


愛されたくて、しあわせになりたくて
わたしは「わたし」を衝き動かす。

みっともなく
ワガママで
甘ったれに思えるとしても

わたしはわたしを幸せにするために動く。

動いていい。

いい、のだけれど

その「欲」は
あまりにつよすぎて
時として、ほんとうは大切ななにかを
大切だと思っていないかのように勘違いして
取り返しのつかない行動をしかねない。

という不安が、ぬぐえない。

「わたしはなにをしでかすかわからない。」
「行き届かないことがあるに違いない。」

自分の不完全さが
自分には手におえない事態を
引き起こすかもしれない不安。


その不完全さは
パズルのピースの凹みで
誰かとつながるポイントなのだから

自分なりの、現時点の、精一杯を
やっているはずの、自分をみとめたら

あとは世界におまかせするんだ。
世界にひとりぼっちじゃあるまいし。

やってみないことには、不安は消えない。

世界は完璧と信じて、進め。自分。

お金と仲直り

母にご馳走したくなって
ランチに誘って、行ってきた。

PCサポートを仕事として引き受け
お金という形で謝礼をいただいて
嬉しくて誇らしくてワクワクして
それを、母と分かち合おうと思った。

初任給で親になにか、という
世間的な通過儀礼のようになっている行為は
高校卒業後さいしょのバイト給料をもらったあと
日傘をプレゼントしたのを覚えているし
その後、正社員として勤め始めて
初めてもらった給料でも
なにかしているかもしれないけれど

今回はお礼であると同時に
決意表明のようでもあった。

ここ半年ほど、社会とどう関わっていくのか
ハラが決まらず動けず
貯金を崩す生活を続けていて

食費や娯楽費をきゅうきゅうに
切り詰めたりはしていなかったものの

だいぶくたびれているのが気になっていながら
出来ずにいた、ファブリック類の買い換え

ランチのあとに決行。

気持ちよく、たのしく、支払いをした。

レジのお姉さんの笑顔とアドバイス
モノとお金を介して誰かと交流するヨロコビ

派遣やバイトで月に30万以上もらっているときでも
お金をつかうときは、なにかもっと、
ややこしい感情がまとわりついていた。
罪悪感だったり、八つ当たりだったり。

なにかを欲しがることも
それを手に入れることも
自分にゆるすことが出来ないでいた。

お金に振り回される自分も
自分を振り回すお金も、キライだった。

いまは、お金って、ホイポイカプセルのようだなあと思う。
その場に発生した気持ちをお金に変換して持ち歩き
ほかの時間・場所・目的で使える。
形を変えることで、その場にいなかったひととも
ヨロコビを分かち合える。
輪が広がっていく。

まだまだ、欲しいものはたくさんある。
今すぐ手に入れたいわけじゃあないけれど、欲しいもの。
それらを、今すぐ手に入れることも出来るって、知っているけれど
今は、次をたのしみに、ワクワクしていよう。

目標額を設定して、達成したら旅行
なんていうのも、いいかもしれない。

36歳と半年を過ぎて、あらためて
経済活動のたのしさに目覚めたみたい。
そんな自分が微笑ましい。

中身と外側のギャップ

★野良猫占い師サツキメイのブログ★  の
アセンダントと第一印象とモテのはなし。
http://ninemile.doorblog.jp/archives/54143244.html

初心者向けにシンプルに
第一印象にまつわる天体をつかって
お酒のボトルにたとえて説明されているのが
すごくわかりやすい。

  入れ物の独自の質感: アセンダント
  ラベルや飾り: 金星
  説明書き(所作): 水星
  中身と全体のムード、ニュアンス: 月

わたしは
中身は爽やか新感覚系なのに
ラベルや説明書きはきっちり古風な

歴史ある蔵元がつくった
若い世代向けの発泡日本酒といったところか。

いや、新進気鋭の杜氏がつくった
大御所の筆文字のラベルがついたお酒か。


ちなみに天体は

月:双子
アセンダント:天秤
金星、水星:山羊

ついでに、太陽は水瓶。

双子と天秤と太陽は、風星座で
山羊は、土星座なので
性質がぜんぜんっていうくらい違う。

仕事をしていると特に
「優等生キャラ」だと思われていて
くだけた会話をすると驚かれることが多いのは
この、外側と内側の、性質の違いなんだろうと合点がいった。

そして、水星と金星が同座してるので
とらえどころのない、ユニークな、新時代的な感覚を
いまの社会的に通用するカタチで
キャッチする感性と、あらわす言葉をもっている。感じ。たぶん。
(マイミク・ひまぱ〜んさんによるホロスコープ鑑定結果の応用。)


「自由になる技術~80歳詩人のことばを聞く~」
谷川俊太郎さんと、箭内道彦さんと、クドカンの
テレビ対談(ボクらの時代)の書き起こし本

twitterでたまたま知って読んだのだけれど
これまた、おもしろくて。

谷川俊太郎さんの言葉に、ぐっとくる。
なにがこんなに響いてくるのか考えてみると
たぶん、「意外性」なんだろう。

谷川さんに勝手に抱いているイメージと
谷川さんが対談で話してる内情の違い。

谷川さんは
詩人はイタコみたいなもの、という。

とても論理的に「詩」という表現形態をみているし、
社会で「食っていく」ということを念頭に活動されていながら、
「自分を(意図的に)からっぽにして」
湧いてくる言葉を、うつくしい塊として、あらしめている。

「金が大事」という俗っぽさと
「媒体」に徹する清らかさが
矛盾なく同居してる。

このことは、わたしをすごく救ってくれる気がする。
これから先。じわじわと。


自由でとらえどころのない内側の感覚と
きっちり社会的であろうとする態度

この、自分の中の、相反する性質と
どう付き合ったらいいのか、わからないで
どちらかに合わせようとしてきたように思う。

どちらかになれない自分を恥じたり責めたり
どちらかにフォーカスされることに
居心地の悪さを感じたり

自分の中身と外側のギャップに
自分のみている自分と
外からみえる自分の違いに
自分自身が、戸惑っていた。

こんなに中身が違うのでは
社会的にまずいだろう
他人を惑わせてしまうだろうって

誠実であろうとする気持ちと
自信のなさが、渾然一体となっていた。


先月うけた、ふたこかよさんのリーディングセッションで
「もうちょっと、ジャイアンになって!」と言われた。

思ったことを自由にやっても
誰かを傷つけちゃったりすることにはならないから
安心して、惑わされずに、好きに疾走すればいいって。


谷川さんいわく
詩には、意味などなく
おいしいか、まずいか、それだけ。


わかりやすくなくてはならない
(そうでなければ伝わらない)
(伝わらなければ意味が無い)

そのシバリは、もう、要らないのかもしれない。


わかりやすいエピソード

高校のときの読書感想文のことを思い出した。

2年の夏休みの宿題は、井伏鱒二の「黒い雨」が課題図書で、
わたしはその、戦争をテーマにした内容にも、
文章のかたさにも、閉口して、読めなくて。

でもそこであきらめなかった。
なんでそうしたのか覚えてないけど、
家にあった父親の文学全集で、井伏鱒二をさがした。

そうしたら「山椒魚」がのっていた。
ちいさな岩穴で暮らしてた山椒魚が育って、出られなくなる
ユーモラスで、すこしシニカルな、短編。

文体も、空気感も、黒い雨と全然ちがう。
その違いを、作文テーマにした。
読書感想文は得意じゃないと思っていたけれど
(おもしろかった、すごかった、しか書くことない気がして)
評論っぽく書くのはラクだった。

これは、わたしとしては、反則っていう認識。
だって「黒い雨の感想文を書け」っていう宿題に
課題にはない短編と比較して「評論」書いてるんだもの。

でもこれが、先生の選ぶ優秀作品に入っちゃったんだ。
斬新な取り組み方だ!って感じで
選集として印刷されたものが、学年全部に配布された。
びっくりした。えー?だって反則ですよ?って、落ち着かなかった。


もうひとつ、これも2年の夏だろうか、
美術の宿題で、1枚なんでもいいから
油彩画を描かなきゃならなくて
でも描きたいものなんて思いつかなくて
(好きで美術を選択していたわけではなく
希望していた音楽専攻が抽選で外れたのだ)

それで、美術資料集でみつけた
枝になってるトマト2~3個の
ヘタのあたりのアップの写真を模写した。

トマトの茎~ヘタのあたりだから、色数もすくないし、
ごちゃごちゃしてないし、カンタンでいいやと思って。

いま考えると、その部分にフォーカスしてるセンスや、
画面構成、トマトの色のうつくしさも、ポイントだったんだろうけど。
表面上の理由は「カンタンだから」。

これがまた、先生がクラスから何人か選んで
コメントする対象に選ばれて

えー、だって反則ですよ?
写真を描きうつしただけですからって言ったら

「この写真を選ぶってところからして、いいんだよ」って言われた。

釈然としなかった。。。。受け取れなかったなあ。

この、宿題を「それでもやろう」とする真面目さとか
「反則だ」って自分を責めてるところとか
でも、それをきっちり、わりとたのしみながら、
やって、提出してるところとか
結果、面白がられるところとか

すっごくわたしの特徴が出てるエピソードだなあと思う。

くじらの木

フリマに向けて超真剣につくったものの
1枚も配れなかったパソコン教室のチラシ

トムソン屋外出張
アドバイスをお願いしたら
たっぷりコンサルしてくださって

わたしが最終的にやりたいのは
「コミュニティをつくること」であって
パソコンは、ネタなんだね。
ということを、あらためて、くっきり、確認。

あと、金額設定の方法だとか
入り口のつくりかたなど
具体的に教えていただいたんですが
(たいへん助かりました!)

その流れで

パソコン教室&サポートや
さいきん作ってる名刺に入れている絵

通称:くじらの木。

Kujira

これをみて
戸澤(トムソン)さんが

木 に しばられてるみたい。 だと。

たしかに。

地球はぐるぐるまわるし
くじらはぐんぐん飛びたいし
でも、そこを、木がつないでる。

それはわたしの不安感だったり
つながっていたい気持ちだったり
するのかなあ、などと話していたら
見えてしまった。

地元密着型のパソコン教室&サポートは
プロセスでしかないみたい。

わたしが、居場所を実感するため。

それが、次の展開に必要だから、やろうとしている。


次の展開のキーワードは
だいぶ前からきているんだけれど
カタチはまだちっとも見えていなくて

きっと、パソコン教室をやっていくうちに
木がなくなっても大丈夫になって
勝手に飛び始めるのだろう。

いまはまだ
つながっていたいし

わたしのなかにあるものを
おろしたい

直接、対面で、肉声で
伝えたい


そういえば去年の秋
来年の秋には
トランクひとつで飛べるように
なっていたいなあと思ったっけ。

まだまだ、荷物がたくさん。
抱えていたいものがたくさん。

そうやって抱えていられるのも
きっと、もうしばらくのこと。

引き剥がされる前に
自分から飛び立てるように
しっかり、準備を進めていこう。

ポテンシャル発揮できる仕事

フリマで、あまりにもイキイキと
雨が降っても店じまいをしぶるほど
めいっぱいたのしんでたわたしをみて

オットが
販売の仕事をすれば?と。

それは、しばらく前から、考えてはいて
高校の頃にバイトしてたお気に入りの布小物屋さんに
また応募してみようかと思ったりもしていたのだけれど
週3は厳しいかなと、なんとなく、ノビノビになってる。

いかんせん、継続・繰り返しに向かない。
あと、思い入れのある品物じゃないとノれない。
(売れなくはないけど、ポテンシャルは引き出されない)

そこはオットもわかっていて
事前投資も、固定費も発生するし
ルーチンになると続かないから
おいそれとは勧められないけど
セレクトショップみたいな、お店を持てるといいよねー、と。

たとえば
週1日くらい、定休日とかに
スペースを貸してくれるお店があれば。
あるいは、ランチをやってない感じのいい飲食店の、昼間とか。
シェアオフィスならぬ、シェアショップ。


わたしのポテンシャルをフル発揮するなら
屋外で、単発で、「愛してるもの」を扱うのがベストだけれど
いつもいつもフル発揮で
生きていたいわけでもないので
(それもたのしそうだが。)

日常に頻繁に取り込むなら
週1~2回の雇われ店員で、いい気がする。

プラス、年に何回か
フル発揮するべく
屋外イベントに出るのがいいなあ。


去年、東北ボランティアで炊き出し隊やったときや
食べ物屋のイベント出店の売り子したときにも思ったけど
わたしはほんとうに、イベントに強い。

強いといっても、結果的に、ものすごい売り上げになるとか
そういう分かりやすいことはないんだけれど
(残念ながら)(いまのところ)

場が、活性化する。
とどこおりなく流れる。
関わるひとがイキイキしていく。

なぜならわたしがめっちゃイキイキしてるから。なのだろう。

瞬時にかわっていく状況(流れの気配)をキャッチしながら
即時即応で動いていく。
動かすことを躊躇する間のない
世界とのコールアンドレスポンス。


今日のフリマが
雨で中途半端に終わったから
よけいに後を引いてる。

あれ以上の時間、やり続けたら
火傷なみの日焼けになったかもしれないし
欲が出てきて、うまくまわらなくなったかもしれないし
あれくらいがちょうどよかったのかもな~とも思う。

燃え尽きるまでやってたら
日常に、この要素を取り込もうってことを
真剣にやろうとはしなかった気もする。


そんなわけで
販売のお仕事を
引き寄せたいと思います。

フリマで自己実現!

本気で自己実現してるとき
まわりは自然とサポートしてくれるって言うけど
ほんとうにそうだなあと
しみじみ。

今日(もう日付かわってしまった。9/15のこと)
はじめて、フリマに出店した。
リサイクルショップに持って行けば
お金にならなくても
引き取ってはくれる。
誰かに活用される可能性がある。
それがわかっていても
それだけではちょっとさみしい
そんな、思い入れのある品物たちを
顔のみえる関係のなかで譲り渡したくて
溜め込んでいたものたち。

1年くらい前から
チャンスを伺っていて
一度申し込んだものの
雨で開催されなかったりもして
ようやく迎えた、初フリマ。

昨日今日は、自分のことに集中した。
周りにちっとも目がいかないくらい
自分自身のやるべきことに全力投球。
そうしたら、すごい、リフレッシュ感!

そして、オットや実家の母がみずからすすんで、
迷惑そうでもなく、どちらかというとたのしそうに、
あれこれ手伝ってくれたおかげで、
さらにその集中モードが加速して
「イマココ」に没入しまくっていた。
プラスのサイクル。


こういう、自分主体イベントのときには
オットケアへのエネルギーは、ほぼゼロになる。
(ほんの数日のことだからと、それを自分に許可する)

そうなるといつも、オットは、
こちらから頼まなくても、あれこれやってくれる。
不思議なほどに。楽しげに。

荷物運びから
足りないものを家から持ってくるとか
こまごまと動いてくれて

することが見当たらないときは
家にいても(呼び出しがくるかもと)落ち着かないから
でもブースにいても邪魔なだけだからと
すこし離れたところから眺めていて(笑)
お客さんをみたり、わたしをみたり、全体をみたり、おもしろかったらしい。
わたしがあまりにたのしそうでイキイキしてるのが、幸せだったらしい。

帰宅してからも
荷物を片付けたり
雨に濡れた、売れ残りの食器を洗ってくれたり
さくさくと軽やかに働いてくれていた。


わたしはいつもついうっかりサポートにまわってしまう
というか、それを基本姿勢にしてしまうんだけれど

こんな風にたまに
わたしが主体で、オットが自然とサポートにまわる事態が発生すると
びっくりするくらいたのしくて、無駄がなくて、すばらしい感じになる。

・・・もうちょっと表現のしようがないだろうか。すばらしい感じって!
でもそんな感じなのだ。

いつもは、外側から客観的に、先を見通しながら
そういう状態にもっていくべく動こうとしてる。
・・・というのが、イマココ没入モードを体験したあとだから、わかる。

「イマココ」に没入してるときは
客観的には(ある程度)みえているんだけれど
それに基づいた判断・選択・行動をしているヒマはなくて
流れを察知しながら即時即応で動いてる。

やるべきこと、とか
役割、とか
背負える範囲や量、とか
あるべき姿、望むべき状況、とか
そういう余計な考えはなんにもない。

全部を自分でなんとかしようとか、できるとか、思ってない。
かといって、誰かをあてにしているわけでもない。

結果的に、誰かが巻き込まれて、サポートしてくれることはあっても
サポートがないとヤバイ、とか
なんでここで、こう、サポートが入らないんだ?とか
そういう「あるべき動き」への期待がなんにもない。自分にも、他人にも。

それはつまり普段は
それだけ期待してるってことなのだ。


イマココ没入モードは
自己実現状態なんだろう。

わたしとオットのホロスコープの組み合わせ
わたしは慣れたサポート役ではなく自己実現をしたくて
それをオットに手伝ってもらう。ということらしい。

たしかに、わたしが神輿のうえで踊って
オットは準備したりケアしたり眺めたり後片付けしたり
っていうカタチの活動の方が、お互いイキイキしてる気がする。

わたしがいつもより断然イキイキするから
必然的に、ふたりともイキイキする。


だけど、めったに出来ないのは
わたしの性質でもあるし(単発型)

やろうとしても、抵抗が出てくるのは
オットの自己実現を邪魔しちゃいけない
わたしの自己実現なんぞで煩わせちゃいけない
という、縛り(遠慮)も、ある気がする。

これは、男性を立てなくては。という
歴代女性のパターンからきてるのかもしれない。


今日は蒸し暑いかんかん照りと
大粒のぱらぱら雨で
首から腕にかけてばっちり日焼けして赤くなったので
野口整体ではどう対処するのかググってみたら

新潟整体室『自然健康堂』  に
【皮膚症状全般に効果あり】として、
恥骨の愉氣が紹介されていた。

その記事のなかに

【恥骨が前に飛び出し、お尻が下がって骨盤が後屈し、
 膝が曲がって、お年寄りの姿勢になっている方がいます。
 すると腰のちからが弱くなって、呼吸も浅くなり、行動力が出なくなって、
 気持ちも消極的になり、考え方が老けてきます】

とあって
これはいつもの自分じゃないか、と思い当たる。

先月下旬だったか、
いつもより恥骨が出てる感じじゃない?と
オットに指摘されたのだ。
つい先日は、遠隔で、呼吸が浅いって指摘もされた。

なにに起因するのかはさておき、
わたしの骨盤は後屈しやすいようだ。

【恥骨に愉気をして恥骨を引き締めていきますとそれらの状況が好転してきます。】
ということなので、たまにやることにしよう。


帰宅して片付けて横になったら
仙骨がばりばりっと分解した。
一枚岩みたいになっていたみたい。

わたしのエネルギーの出所で
長らく、ほんとうに長らく、固まっていたところ。
いろいろな出来事や、施術を通して
去年から動き始めたところ。

日常でちょっとへんな料理をつくるくらいでは
わたしの生命力直結クリエイティビティは
働かないで、固まってしまうのだろう。


恥骨がでっぱってきたら、
なにか自分主体のイベントをやれば
一気に解消できそうだ。
周りを巻き込める系のイベント。

しかし、そう都合よく
見つけられるとも思えないから
天にオーダーして
アンテナを張っておこう。

お金にまつわる意識の変化

お金にまつわる意識が、健全になってきた。

お金を稼ぐことや、
お金を使うことを、
感情(罪悪感、自己憐憫、、、)と切り離して
すっきり感じられている。

おいしいものを食べるため
オットの絵にカッコイイ額をつけるため
くたびれたキッチンマットを買い換えるため

そういう「欲」と「お金」が
まっすぐにシンプルにつながってる。

これってすごく普通なんだろうけれど
わたしはなぜか、それが出来なかった。
いつからか。

それで、使うのも、稼ぐのも
へんな言い訳がくっついてまわっていた。

先行自己投資が大事とか
信じていればお金はついてくるとか・・・

使うのも、稼ぐのも、恐怖だった。
欲と直結しているから
直視できなくて
たくさん理屈をくっつけていた。


この意識の変化は
白癬菌との共生から脱するべく
ホメジャの、浄化活性セットと、FNGセットを摂ったことや
あちこちで集合意識が浄化されていること
天音らんちゃんの今月のセクシャリティワーク(9/15@大阪)の
テーマがグラウンディング&お金 であることも
関係している気がする。


抑圧され、疲弊していた、自分の内側の男子(太郎)が
他(女子、姫)とバランスのとれた状態で
いられるようになってきたのだろうか。

誰かを喜ばせたい気持ちと
愛されたい気持ち

前だけをみて突っ走りたい気持ちと
守られていたい気持ち

矛盾を抱えてゆらゆらと
欲も、恐れも、みんな愛。

体のなかには、そのまま、ある。
頭で考えすぎなければ
そんなに難しいことではないのだろう。

集合意識の浄化、スピード上昇

集合意識 と呼ばれるものがある。

わたしの認識では
個人の健在意識の
その奥にある自覚のない潜在意識の
そのさらに奥にある、他者と共有している意識。

このエリアには、時代や、民族や、性別や、ヒトとしてのカルマ
(トラウマによって自動的に発動してしまうパターン)があり

たとえば
火のなかに飛び込んだら焼け死ぬとか
女は守られるものだとか
いや、女は男と対等かそれ以上だとか

いろんなものが絡み合っていて

それらはそもそも誤解や幻想から始まっているから
いまとなっては必要のないパターンも多い。
(必要のないものばかりかもしれない)

そうした必要のないものが
最近、かなりのイキオイで、
とけて消えていっている感じがする。浄化。


以前だったら気がつくのに時間がかかっただろうことも
シェアできる場があり、そこに出すことで
誰かがアドバイスをくれてすぐに気がつけたり

気がついてはいても、こだわりが強くて
なかなか手放せずにいたようなことを
なーんだ!と、すぐに意識を変えられたり


古くは、オーラの泉などによる
スピリチュアルへの関心が広まったことや

シータヒーリングが
一部で爆発的に発展拡大したことや

SNSとスマフォの普及で
人々の意識がつながり続けていることや

甚大な天災によって
人々が生(死)に自覚的になったこと、など

集合意識の浄化に必要な環境が整ったのかもしれない。


数ヶ月前から気になっていて
先月末にやっと参加できた
「ふるくやさしい魔法の生き方」講座
http://ancientmagic.jimdo.com/

シンクロニシティの正体と、つかまえ方
かんたんシンプルな浄化方法などを
実技を交えて教えてくれます。
お茶会価格ということもあって、かなり人気。

鏡の法則や
引き寄せの法則で
自分の人生を見ることはあっても
集合意識までは気にしていなかった人たちが
教わった方法で、ものすごい勢いで浄化していて

このご縁につながったことも
わたしがスピードアップを感じる一因。


「ふるくやさしい魔法の生き方」講座で
いくつか教わった浄化方法のうち
講師きつねさんイチオシの、いちばんカンタンなものは
ブログで公開されています。
 【たったひとつのクールなやりかた】

ひとことで言えば
「はからない」生き方。
予想しない、先回りしない、恐れない・・・


それからわたしの場合
物質世界の浄化=掃除をよくするようになりました。
今まで目につかなかった汚れが
気になって仕方ないので。

汚れをきれいにしたい、
その状態をみたい自分、を満たせるだけでなく
集合意識の浄化に一役かっていると思うと
我が家の掃除が、なにやら高尚な儀式のようで
モチベーションがあがります。
(部屋は自分の中身と同じなので)


自分の観念がまだまだ残っていて
シンプルな状態に戻れていなくても

集合意識のカルマが
どんどん浄化されてクリアになっていくと
現実化が早くなるので

本当は言いたいことを、言わないでいたのに
なぜか相手がそれを察していたり
他から伝わってしまったり

意識レベルでは「思ってもいないことが」
起こりやすくなるから

自分の奥底にある
見たくなかった本心や
あってはならないとしてきた欲に
気がついていることが
ますます大事。


もし、思いもよらないことが起きたら
自分のなかに、その現実を創った
「願い」があったのだと認める。

その願いがもう要らないものであれば、
「要らない」と宣言する。

あとは、ただ、はからないでいること。

一時的に「悪い状態」に思えても
きっと、大いなる計画の一部。

排卵前は堂々とイライラしよう。

この数日、特に夜になると
妙に心細い感じになったり
体が詰まったみたいになって溜息連発したり
オットに噛み付きたくなったり

時期的に排卵が近づいているので
ホルモンバランスによるものとわかってはいても
それでどうにかなるわけでもなく。

こんな調子では、子作りムードにほど遠い…と気落ちしていたら
マイミクさんが、いいことを教えてくれた。

黒川伊保子さん著「しあわせ脳練習帖」によれば

「エストロゲンによる排卵前のどうしようもイライラも、
 すべては生物のメスとして、人間という種を保存していくために、
 自然界によって正しくインプットされたもの」

なんだそうです。

そして、そんな、イライラそわそわ女子に不安を感じて
男子脳がテストステロン(男性ホルモン)を分泌する段取り。
よく出来ている!

このことを知って
そうか、イライラしててもいいんだ!
と、すごくほっとしました。

自然に起こってくる衝動や感情には
ほんとうになにひとつ
「抑えるべきもの」「なくすべきもの」なんてない。

ということを、再認識すると同時に

どれだけ普段、無意識に、
抑制しているのかも、再認識。

不安定でいてはいけない
相手を不安にさせてはいけない
感じよく振るまわなければ嫌われる・・・

この思い込みは、
何度抜け出しても、またハマっている。

でも、気づくのが早くなったり、
ハマってるのが深い場所になったり、
変わってきてはいると思う。

永遠に繰り返すのだとしても
それもまた人生。

欲を恥じない

先日の記事
【繊細さをぞんざいにするココロ】
同じものをアップしたmixiに
いただいたコメントから

諸々の不調和の根っこには

愛されたいために行動する自分を
みっともないと感じたり

しあわせになりたくて行動する自分を
我侭とジャッジして

不貞腐れてるひとがいるみたいだ。

というところまで、さくーっと掘り進んだ。
なんとありがたい!


「自分に都合のいい未来を期待する」なんて
言葉にしたら、至極あたりまえのことに思える。

ヒトってそういう生き物でしょうって思える。

だけどわたしは、そんな自分を恥じてたのだ。ずっと。

「自分に必要ないからまだ使えるものを捨てる」のも
「対象」の状態や
「対象」との関係が変わることを憂うその奥で
たぶん
我侭を恥じていたのだ。
ひどく勝手だと、自分を責めていた。

私欲など、あってはならない
持つべきものではないと思っていたみたい。

背伸びしてたんだな。

聖人君子でいたかったんだな。

でも、もう、やめよう。

わたしを、わたしであらしめている私欲ってものを
もっとまっすぐ見よう、扱おう。

恥じることも、隠すことも、ほかと比較する必要もない。

たとえアスファルトの隙間であっても
根を張り、茎をのばし、葉を茂らせ、花を咲かせ、種をつける
植物のように

わたしが
「生きたい」と願うことに
理由も目的もないんだ。

ゆるすも、ゆるされるも、ないんだ。

生きたい、心地よくありたい
それは、願いというより「欲」
欲というより「エネルギーの流れ」
身体の持っている「元の氣」

瞬間的な衝動を信頼するだけじゃなくて
その根本にある「氣の流れ」も全肯定して
自分を通っていくエネルギーを歪めずに

そのままに

根を張り、花を咲かせ、実らせよう。

★悪口を言いたいなら

悪口の裏には、怒りが
その奥には、カナシミがある。

さみしい。つらい。しんどい。疲れた。もう嫌だ!

あふれてくる痛みを
誰かや何かのせいにして
悪口ってカタチであらわすより、
そのまんま、伝えられたらいいよね。

解決策を求めるためじゃなくて
ただ、共有するために

怒りながらでも、泣きながらでも、
ギブアップ!って言ってみればいい。

そこからなにか動くから。

「しょうがない」であきらめないで
とにかく表して、伝えて、あとは、
誰かや何かにゆだねてみて。

どうしたらいいかわからないときは、
わからないって言えばいい。
わからないことは、恥じゃない。

それは、誰かと仲良くなるチャンス。

くたびれて、疲れて、
いっぱいいっぱいな時には目に入らないけれど
いつだって、だれの周りにも、
なにか出来ることはないか?
役に立てることはないか?
だれかを笑顔にしたい!って
うずうずしてる人がいるんだから。

不安定な自分
落ち込む自分
怒る自分
泣く自分
出来ない自分
わからない自分が出てきて

ひとりでは立ち行かなくなったら
ギブアップ!って声をあげて

困った誰かが助けを求めたとき
役立ちたい誰かの活躍の場ができる。

期待通りのことは起きないかもしれないけど
予想以上のことが起こるかもしれないよ?

ほんとうは
悪口を言いたいわけじゃないはずだから

強ぶらないで
正しさをふりかざさないで

そのまんまの気持ちを、伝えてね。

「普通」

いままで興味はあってもなんとはなしに参加しなかった
お料理系WSに、とんとーんと、行ってみた。

どっちも、30分以上遅れてしまったけど
どっちも、なごやかに受け入れてくれた。

そこには、この数年あんまり出会わなかったタイプのひとたちがいた。
わたしが「別世界のひと」だと勝手にカテゴライズしてきたひとたち。

勤め人のだんなさまをもつ専業主婦や、保母さんや
独身でしっかりお仕事してる女性たち

わたしがいつかどこかで憧れて
でも難癖つけて却下して
先回りしてあきらめて
選ばなかった人生

彼女たちと
同じ輪のなかで
同じ感じで話すことができた。

それぞれ固有の人生を歩んできて
べつべつの価値観と経験をもって
たまたまそこで居合わせた
一期一会なひととして
相手のすべてを尊重して尊敬して
わたしのすべてを卑下することもなく
フラットにいられた。

それではじめて
これまでそういうひとたちを
ひがんだり
うらやんだり
馬鹿にしたり
過去の自分を悔やんだり、拗ねたり、
してたってことを、ありありと感じた。

自分のことも、相手のことも、特別視しないで
自分のことも、相手のことも、オリジナルでイーブンな存在と認めて
過ごす世界は
拍子抜けするほど優しかった。
やっとそうやって、過ごせるようになった。

わたしは異端だから馴染めなくて
せつない思いをするだけだろうって
はるか遠く、壁の向こうだと思ってた世界は
いつだってすぐ横にあって
鍵はいつでも開いていたんだ。

臆病風に吹かれて
どれだけ自分をいじめてきたか
願いを無視して、粗末に扱ってきたか

わたしはずっとずっとずっと
普通に憧れていた。

だけど、誰かが『普通』だと謙遜する暮らしは、
ダレカが喉から手がでるほど望んでも得られなかった暮らしで
その、望んでるダレカの暮らしもまた、べつのダレカの望んだ暮らしで

『普通』とよぶソレは、どれも、奇跡の連続で出来ていて
ひとつとして、同じではないんだ。

そんなことを、しみじみ、感じた。

話の流れで、持っていたカエルカードを出したら、
みんな興味津々で、それぞれひいて、シェアして、たのしかったよ。
みんなカードを欲しがってた。たくさん持ってたらあげられたのにな。

オラクルカードを見たことも持ったこともない人達と知り合ったのは久方ぶりだと思う。
自分がみてきた世界を、ほんとうの意味で客観的に、認識できた。

いま、水が混じり合う。

ふつうが、ふつうに、かえっていく。

なんて幸せなことだろう☆

僻むでも羨むでも悔やむでもなく

こういう暮らしが出来たらいいなあって、いつか思い描いたような暮らしをしているヒトに出会った。

いつか思い描いたのに、勝手に打ち消しちゃってた、夢みたいな暮らし。

それを、実現できるってことを目の当たりにしたら。

「わたしも幸せになれるのかも」って思った。

この先、もっと、本当に欲しいものだけを手に入れて

本当にやりたいことだけをやって、暮らせるのかもって。

いつか思い描いたような暮らしをしているヒトに出会って、

僻むでも羨むでも悔やむでもなく

シンプルに

「そっかあ、実現可能だったんだあ」

「この先、実現することができるってことかあ」

って思った自分が、新鮮だった。

いい日だった。

「~しない?」という訊き方

「これ、食べない?」

「洗い物、やらない?」

「カラオケ、行かない?」

こういう、お誘いのような、確認のような訊き方って


「これ、食べる?」

「洗い物、やってー」

「カラオケ、行こう!」

っていう言い方が出来ることも多い。

というか、後者の訊き方のほうが、
動機を正確にあらわせる。


オットいわく
わたしはなにかにつけ
「~しない?」という訊き方をするらしく

わたしにそう言われると
「しない!」と返したくなったり
やる気が失せるのだそうで
最近よく指摘される。

この訊き方、語尾に「ない」がつくとはいえ
文法的には否定形とは言えないのだけれど
言葉の響きは、否定の「ない」と同じだし

なにか、本音をはっきり見せないで
お伺いを立てているような

肯定の返事は期待してませんよ~と
予防線を張っているかのような

とにかく、ズルイ感じがするらしい。

言われてみればたしかに
「~しよう!」って誘われるより
「~しない?」って誘われるほうが
断りやすいかも。

「~しよう!」「~して!」って思っているなら
まっすぐ、そう言えたら、いいよねえ。

と、思うので
オットには懲りずに
指摘するようお願いしている。

普段なにげなく使ってる言葉って
自分に魔法をかけてるのと同じだから
本心に沿ったものに、どんどん置き換えていきたいなあ。

繊細さをぞんざいにするココロ

これは大事に扱わないと壊れちゃうよ。

注意深く動かないと大変なことになるよ。

そういう場面で
大事に扱ったり、注意深くいたりすることに
抵抗する自分がいる。

そんなことしてやるもんか!と意地を張るみたいに

壊れるんなら壊れたら?と言わんばかりに

無神経に、大雑把に、ぞんざいに
やり過ごそうとする自分がいる。

植物の種をもらったりして
気まぐれにあいてる鉢に植えてみても
土をかぶせる深さも、肥料も、水遣りもテキトウで
丁寧にやればいいってわかってるのに、やらないで
ああやっぱり芽がでなかったね。って、したり顔。
運よく芽が出ても
そっと見てるってことをしない。
乱暴に水をかけたりして

かよわいものを、大切にしてあげるのは、なんか癪に障るんだ。

これはなんだろうなあ。

ほんとうは大事にしたいのに
いつまでも大丈夫なように
ずっと優しく見守りたいのに

いつか壊れてしまうなら
いますぐ壊れてしまえばいいって
壊してしまえばいいって

泣き叫んでる自分がいる。

守り通せないなら
永遠を約束できないなら
いますぐやめてしまえばいいって

つよいつよいつよい愛からくる恐れ

「時」の幻にとらわれた姫

「いま」を愛するあまり
縛り付けてしまう
握り締めて、潰してしまう

どんなにしがみついても
すべてさらさらとながれていく
どんなに願っても

無力

でも。

その「願い」は、ほんとうに、本心ですか?

ほんとうは
ほんとうは
ほんとうは

なんにも気にせず
なんにも考えず
あそびたい
だけ
なのでは。

「続けたい」という、わたしの願いは
なんだか
やらされてる感。
だまされてる感。
いいこちゃんやってるだけ、のような気がする。

みんなが大事に積み上げてきたものを
大事にしてみせることが
愛情表現だと
どこかで覚えてしまったんだ。

どんな方法でもいいってところに
いったん戻ろう。

「続」という幻想の痛み

ベランダ栽培や、天然酵母
何年も前から、やりたいと思っているのに
いまだに手が出せないでいる。

面倒くさいとか
世話が続けられないかもとか
いろいろ理由をつけてきたけれど
結局のところ
自分の意思で育て始めたものが
もしダメになってしまったとしたら・・・
自分が受けるダメージを思うと、痛すぎる。
のだと思う。たぶん。


続けるってことに
とにかく、痛みがある。

仕事をひとつところで続けられないことを
やたらと気に病んでいるし
飽きずになにかやり続けるってことが
ものすごく苦手だと思っているし
それが出来ない自分は「失格」だと思ってる。

だから
脈々と続いてきたもの
細々と生きながらえているものを
断ち切ることに、ものすごく罪悪感があるのだと思う。
取り返しのつかないことをしてしまった!って泣きたくなる。


たとえば
さっきまで「思い出の写真」だったものが
ゴミ箱のなかで、「ただの紙切れ」になること
収集され、燃やされ、煙になること

それが物品であれ、生き物であれ
脈々と続いてきたもの
細々と生きながらえているもの、あり続けているものが
わたしが手を入れることによって、形を変え
もう元には戻らない状態になること

そうしたことがたまらなくせつないのは
断ち切るってことが心苦しいのは
続けるってことを苦手に思っていることとセットで

そしてたぶん
物事の成り立ちや
人や組織や関係性の生い立ちに
ものすごくワクワクすることと
表裏一体のような気がする。


諸行無常
流転する万物をめぐって展開する
果てしない物語を愛してやまないのは
「続く」ということの幻想を、しっているから。

なにごとも一瞬でしかない世界だからこそ
幻の「永遠」が美しく、愛しい。

「続いている(ように思える)なにか」
それは奇跡だ。
そんな風に続いていると「思っている」いじらしさや
続けていきたいという願いも含めて
わたしは愛しているんだと思う。


そんなことを言ったところで実際には

貰ったり買ったりした
観葉植物を枯らせてしまったときも
どうしても欲しくて買ってしまった
コッピー(アカヒレ)が死んでしまったときも

立ち直れないほどの痛みではなかったのだ。
けっこう、しらーっとしてさえ、いたのだ。


生命は、わたしが思うより
ずっとたくましいのかもしれない。

わたしごときが
続けるとか
断ち切るとか
自分の「影響力」を過剰に懸念したところで

そんなのはほんの些細なことで

形を変えようが、形を失おうが
物事の本質はかわらずにあり続ける。

それを「わたし」は知っているから
しらーっとしていられるのかもしれない。

そこに痛みをみているわたしは
変化に足がすくんでいるだけ、かもしれない。

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