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「続」という幻想の痛み

ベランダ栽培や、天然酵母
何年も前から、やりたいと思っているのに
いまだに手が出せないでいる。

面倒くさいとか
世話が続けられないかもとか
いろいろ理由をつけてきたけれど
結局のところ
自分の意思で育て始めたものが
もしダメになってしまったとしたら・・・
自分が受けるダメージを思うと、痛すぎる。
のだと思う。たぶん。


続けるってことに
とにかく、痛みがある。

仕事をひとつところで続けられないことを
やたらと気に病んでいるし
飽きずになにかやり続けるってことが
ものすごく苦手だと思っているし
それが出来ない自分は「失格」だと思ってる。

だから
脈々と続いてきたもの
細々と生きながらえているものを
断ち切ることに、ものすごく罪悪感があるのだと思う。
取り返しのつかないことをしてしまった!って泣きたくなる。


たとえば
さっきまで「思い出の写真」だったものが
ゴミ箱のなかで、「ただの紙切れ」になること
収集され、燃やされ、煙になること

それが物品であれ、生き物であれ
脈々と続いてきたもの
細々と生きながらえているもの、あり続けているものが
わたしが手を入れることによって、形を変え
もう元には戻らない状態になること

そうしたことがたまらなくせつないのは
断ち切るってことが心苦しいのは
続けるってことを苦手に思っていることとセットで

そしてたぶん
物事の成り立ちや
人や組織や関係性の生い立ちに
ものすごくワクワクすることと
表裏一体のような気がする。


諸行無常
流転する万物をめぐって展開する
果てしない物語を愛してやまないのは
「続く」ということの幻想を、しっているから。

なにごとも一瞬でしかない世界だからこそ
幻の「永遠」が美しく、愛しい。

「続いている(ように思える)なにか」
それは奇跡だ。
そんな風に続いていると「思っている」いじらしさや
続けていきたいという願いも含めて
わたしは愛しているんだと思う。


そんなことを言ったところで実際には

貰ったり買ったりした
観葉植物を枯らせてしまったときも
どうしても欲しくて買ってしまった
コッピー(アカヒレ)が死んでしまったときも

立ち直れないほどの痛みではなかったのだ。
けっこう、しらーっとしてさえ、いたのだ。


生命は、わたしが思うより
ずっとたくましいのかもしれない。

わたしごときが
続けるとか
断ち切るとか
自分の「影響力」を過剰に懸念したところで

そんなのはほんの些細なことで

形を変えようが、形を失おうが
物事の本質はかわらずにあり続ける。

それを「わたし」は知っているから
しらーっとしていられるのかもしれない。

そこに痛みをみているわたしは
変化に足がすくんでいるだけ、かもしれない。

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