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遠慮は傲慢。「丸裸であれ」

10月セクシュアリティワークの
ほかの参加者さんのレポート記事読んでいて
思い出したこと。

ワーク後半、参加者それぞれが
自分の痛みと向き合うことを
場と、身体の力で、進めたあと

ゲストセラピストの抱えてきたものを解放するため
みんなの思いを抱えて対峙する役をらんちゃんが担った。

ひとりひとりをまわって正面に立ち
「わたしにあずけて。悲しみ苦しみ怒りをみせて。」
と言うらんちゃんを前に

え、らんちゃんそれひとりでやるの?
だいじょうぶ?

そう思った。

その「だいじょうぶ?」は
そんなしんどいこと
ひとりでしなくていいのに・・・という感じ。

でも、たぶん、背負うカタチでしか進めないこともあるのだ。
その動機がなんであれ、本人がそれを望むのならば
背負わせてあげることも、愛で、信頼だったりする。

それがわかっていても
わたしは笑顔しか出てこなかった。

無邪気っぽい笑顔。

この2年くらいだろうか
本気で無邪気に笑える瞬間を
何度か体験したら
無邪気っぽく笑うことも
やるようになってしまった。

わたしはだいじょうぶ。
たのしいよ。
そうやって無言で、徹底的に
ガードするのだ。拒絶。


わたしはいつも
場をよんで
あわせる。

リアルの場だけでなく
ネットでも

mixi
ココログ
アメブロ
twitter
facebook

それぞれで
出し方を調整する。

mixiなら、日記とつぶやきでも違う。
公開範囲も変えたりする。

相手をおおきく戸惑わせないため、という建前の
自分を守る術。

そういう自分を鼻で笑う。

信頼が足りない。
遠慮は、傲慢だ。

完璧主義の自分がそう言い放つ。

「丸裸であれ」と。


あれは丸裸だった。といえる瞬間は
これまでに、たぶん、2回あって

目の前の「場」(ひと)を
100%わたしが「占有していい」と
わたしが、わたしに、ゆるした瞬間。

気づいたらそうなってたのと、
そうなるしか有り得なかったのと、各1回。

100%の占有は
100%の明け渡しとイコール

それは知っているけれど

目の前の場が、個人だったら
占有し続けるわけにはいかない ・・・


「信じる」というのは
自分以外のなにかに左右されるようなものではなく
自分のうちがわのコミット。

相手がどんなひとであれ
それがどんな場であれ
わたしが「信じる」と決めてしまえば
それは「信じるに値する」ものになる。

相手(場)のアクション、コミットがなくても、成り立つ。

わたしがゲストセラピストでやりたいのは、
それだろうな、と予想してる。
ひらかれた空間での、100%の信頼、明け渡し。

そこにどんな自分がいるのか
見てみたい。

それが出来る自分に
なっていようと思う。

あと、2週間半。

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