« ケミナプ。布ナプ。布なし。 | トップページ | 感情の肩代わり »

母になる、という贅沢

母 になること、子を授かることを、わたしは避けてきた。
具体的に避妊してたわけじゃない。
何年も「子供ほしい」と言い続けて
そのためにいろんな知識も知恵も手に入れたし
あれやこれや試してきた。
子どもが欲しいと心底思う瞬間も多々あった。

でも、心の奥の奥の奥にあったのは
「そんな贅沢しちゃいけない」って気持ち。

うすうす気づいてたけど
ますます明確になってる最近。


今日、ソミファミ(Facebookの本郷綜海さんのグループ)に
投稿された綜海さんのことば。
それから、玄花さんのこのブログ記事


子を授かり育てるなら
わたしは我を忘れて、世界を忘れて、
目の前のことに没入するだろうと思うのだ。
それはわたしにとって無上のヨロコビであると同時に
「すべて」を捨てるに等しい。
身を挺して護ってきたすべて。
みずから望んで引き受けて引き換えにして・・・

そういうやり方でしか出来ないと思い込み

そういうやり方でも護らなければと勘違いし

それをするしか生きようがないのだと信じてきた。

この観念がどこからきてるのか
トラウマ、カルマ、過去生、条件付け、バースホロスコープ・・・
そんなことはどうでもいい。
ただ、どうしても、そういう風に思えてしょうがない自分がいて

簡単に言うならわたしにとって出産育児は
ここまで生きてくる根底にありつづけた
「自己価値」を手放すこと。

ほんとうに無力な
ほんとうに無意味な
そういう存在になること。

自分がたのしいと感じるものだけをひたすら追い続ける。
わき目もふらずに、とことんワガママに、、、
それをしてもいいのなら
冷え性も、白砂糖のはいったお菓子も、お酒も、
わたしにはもう要らないだろう。
「自分」をセーブするため
「自分」を鈍らせ
だれかと響きあうため
身体に科してきたブレーキを手放して
「自分」を生きていいのなら


それを決めるのはわたしだ。


決めては戻り
戻ってはまた決めて
ゆらゆらしてる。

そして、やってしまえばすぐ慣れることも
いつだって戻れることも
すぐ飽きるだろうことも
じつは違うカタチですでにやってることも

わたしのどこかは、知っている。

« ケミナプ。布ナプ。布なし。 | トップページ | 感情の肩代わり »

コウノトリ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 母になる、という贅沢:

« ケミナプ。布ナプ。布なし。 | トップページ | 感情の肩代わり »

カテゴリー

無料ブログはココログ