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2013年4月の記事

★悩みも欲もジレンマも

悩み
迷い
葛藤

だれかと分かち合ってください。

あのひとに話したいと、思いついたのなら
その「あのひと」に、その話が、必要なんです。


あれしたい
もっとやりたい
あれもこれもそれも!

その欲に従ってください。

海が月に引っ張られて
潮が満ち引きするように

その欲も、なにかに引っ張られて、起きています。

あれやこれやそれを
必要としているなにか
待っているなにかがあるんです。

どうか止めないで。


これじゃダメだ
なんでこうなの
怖い嫌だ分からない・・・

焦らないで。

潮時が、必ずきます。

求めているのに進めないのは
愛や勇気や根性や覚悟が足りないのではなくて
タイミングではないことも、多いんです。

わたしたちはみんなつながっていて
すべて完璧に調和している。

宇宙のデザインを信じて
歌いながら
目の前のことを
めいっぱいたのしんでいてください。

宇宙のはからいは
いつだって想定外。

ぜんぶ、ぜんぶ、だいじょうぶなんだよ。


★仕事や勉強の概念

大変な思いをしなくちゃいけない

努力して乗り越えなくちゃいけない

もしものために鍛えておかなくちゃいけない

しっかり説明できるよう根拠や資格がなきゃいけない

そういうの、もう、要らないよ。

たのしむことが仕事なの。

こんなに簡単だった!

こんなにたのしい!

それを知るのが勉強なの。

もっと、もっと、自分をよろこばせようね。

龍と鳳凰/男と女

SW北海道&京都によせて。

-龍の涙を、空にかえす鳳凰(法王)-

いつからか女性は、権威(法王)を
まるで男性ひとりで動かしているかのように
じぶんと、切り離してしまったけれど

男性のなかの女性性が感知した動き、涙に
女性のなかの女性性が共鳴して
女性のなかの男性性が昇華の羽ばたきを助け
男性のなかの男性性が風にのって舞い

雨がふり
大地に染み
川となり海に流れこみ
日にあたためられ空にかえり

すべては、くるくると、循環しているのだ。


男性の舞いよりも
女性の肉体をもつものの羽ばたきが
表にたつ、時代がきてる。

式年遷宮のように。

より大きく
より自由に
羽ばたいてうまれる風は
男性たちが取り込んで
社会に還元してくれるから

だいじょうぶ
心配いらない


男性達は、自分たちが築いてきた
社会という仕組みのうえで
羽をひろげる女性達をみながら
仕組みを維持する、改善する、拡大する

だから
華々しく
咲き誇ろう。

----------

ikuraちゃんの記事
龍のかたちの日本列島
頭にあたる北海道
http://guru-guru.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-6394.html

その流れで、わたしの記事(アメブロ)
いにしえのみやこに流れ込む涙
http://ameblo.jp/kujirararan/entry-11518655894.html

咲くらちゃんの記事
死と破壊と再生。
フェニックス
不死鳥。炎の中に身を投じ、さらなる大地のエネルギーを蓄えて、雄々しく、高く、空に向かって羽ばたいていく・・・・。
http://ameblo.jp/osampo0901/entry-11518858715.html

ゆいかちゃんの記事
癒された龍の涙、鳳凰(法王)の炎にあたる。
http://ameblo.jp/kanasiminiyorisou/entry-11519023592.html
姫 古都。
ひめごと。
情事、=常時。
パートナーシップの顕在化、こそが、共同体の平和の投影。 

京都ゲスト・SE-YAちゃんの記事
龍は男性性。
鳳凰は女性性。
http://ameblo.jp/mimi125-5338/entry-11519074413.html


セクシュアリティワーク
http://lipss.jimdo.com/

地震と痛み

分離の痛みについて考えていたら
このところ見聞きしたこととつながり

破壊に痛みはつきもの。
 という観念を変えられたら
  地震ではない方法で、大地は動けるんじゃないか。

そんな仮説が成り立った。
あくまでも、わたしのなかで。


わたしたちは大地震というアクシデントによって
分離の痛みを引き起こされ
つながりをたしかにする。

陰と陽

破壊と創造

分離と統合


もし、痛みなどなくとも
分離を「わかる」こと
「ひきうける」ことが出来るなら

強烈な分離体験がなくとも
つながりを知っていられるのなら

わたしたちが地震を必要としなくなれば

想像もつかない世界を
生きることができるのかもしれない。


こんなふうに
些細な、身近なことを
拡大投影して、壮大にしてしまう
自分の思考パターンを
しょーもない悪癖と
片付けたかったけど

これもきっと
セカイに必要な
エッセンスなのだろうと
ハラをくくることにした。

おおきな視点でみるのは
わたしの趣味なのだ。
トンデモだろうと
そうぞうは自由。

希望を、みていたい。

夫婦の一体感

手料理で得ているのは
栄養よりエネルギーよりなにより
安心感。

なのだそうだ。オットいわく。


男の性衝動は
子宮回帰願望に通じるように思う。
無邪気な少年性。

女はそれを
子宮でかかえこみ
そしてまた、へその緒をきる。


子宮回帰願望は
安心感を求める気持ち。
不完全な自分を満たしたい欲求。

そこでいくと
同居しているパートナー男性に対しては
「与えてもらう」とか「護ってもらう」が表立っていて
安心を求めるきもちを、まるごと受けとめる感じがなく

男性も、日ごろの生活や食事で安心感をまかなっているから、
そういう側面から、まぐわう感じがないかもしれない。

その場限り。
一期一会。
別離を前提とした危機感があればこそ
ぜんぶでまぐわう
その行動のなかでぜんぶを求め合い満たしあおうとする。


でも、その安心感がすでにあるからこそ
得られる一体感も、あるんだろうとも思うのだ。

わたしの場合それがどうも
スプーン曲げやりたくない!と
関わってる気がしてならない(笑)


おかきちゃんブログより引用
 どーしてももうダメだ、ってときは

  「一番やりたくないこと」
  「それだけは絶対にイヤ

  …ということをするのが、抜ける方法


オットの前でスプーン曲げを本気でやったら
なにか変わるのだろうか?!

脳内データの取扱い

わたしはデータを保留にすることがある。

考えるともなしに行き着いた仮説
見るともなしに見えてきたからくり
つらなりの、その先・・・

わたすべきひとに
わたすべきときに
わたせるまで
わたしのうちに留めている。

わたしのうちに在るということは
それだけで、セカイになんらかの形で波及しているし
そもそもわたしもなにかの波をキャッチしているだけだし

だから、わたしがうちに留めようと
ところかまわずなりふりかまわず出していようと
本当は同じなのかもしれない。

そうしないのは
わたしなりの美学
あるいは
野次馬根性(笑)
はたまた
ひまつぶし、か・・・

特別なデータを持っていることで
特別感を味わっていたのか・・・


もう、見つけたピースを
持って歩かなくてもいい。
いつでも投げ捨てていい。


これは大事なものなんでは?!
これはそのへんに落としといたらマズイのでは?!?
これは雨にぬれて溶けて消えたらもったいない!!!

大義名分をかたった出し惜しみ
そんなものより
好奇心を優先させていい。

無責任に
気ままに
流れるままに
右から左へ

留める なんて 不自然は やめていいし

ここだ!という場所で リリースしなくても、また、いいのだ。

ちきゅうをかたる

地球にかこつけて

やってきたこと
やらなかったこと

責めてきたアレ
目指してきたソレ

ぜんぶ
じぶんに戻しましょう。

感じる。響く。生きるとはあらわすこと。

アメブロにアップした記事

【感情とウン○は・・・】

短く言えば
「感情とウン○は 出せば出すほどスッキリする」 
おかきちゃんブログ:「感情」は、感じると なくなっていくより引用)

そして
出したい!と思ったときに出すのが、キモチイイ。

諸事情で後回しにするとしても
感知したそれを
認識する

表現する

カラダに響かせ
カラダから放つ

嬉しい
痛い
大好き
かなしい
きゅん
ムカっ
・・・・・・

その感じを
感じ取っているのは
まぎれもなく
自分のカラダ

なぜそう感じるのか
分からなくても

自分のカラダだけが
それを、感じている


自分に沸き起こるその感じを
自分のうちに押しとどめたり
無いことにすれば
心が、身体が、滞ってゆく。

排出は、気持ちのよいもの。

ヒトの身体はそういう風に出来ている。

あくび
げっぷ
なみだ
排尿
生理

排出するとき、身体はゆるむ。

感じた、感情や、感覚を
自分のうちで言葉にしたり(認識)
誰かに伝えたり

それも、排出。

ヒトは、感じる生き物。

それを、表現する、あらわす、生き物。

熱いものを触れば、飛び上がる
温泉につかれば、顔がゆるむ

たとえ言葉に、表情に、出さなくても
ほっとすれば、気配が和らぐ
ムっとすれば、緊張がはしる

なにかを感じたとき
「動き」がうまれる

意識しても
しなくても
それはうまれる

心臓というポンプが
血液を送り出し続け

自らの
心があるかぎり

息を吐き
息を吸う

意識的に排出すれば
それへの反応も感じ取れる

ほうっと息をつき緩む身体
つられて微笑む向かいのひと

感じあう
響きあう

わたしを震わしたそれを
そのままに解き放つ

わたしの身体だけが知っている
わたしだけが奏でる音

わたしにしか奏でられない音

ここにしかない音

「楽しませなければならない。」

わたしがなぜか
勝手に背負い込んでる呪縛

わたし以外のひとを
楽しませなければならない。

で、間違えたんです。
赤ん坊の時分にね

ハラへッタ!と泣き
眠い!と泣き
おむつかえて!と泣き
ほかに伝える手段がなかったもんだから
とりあえず泣く。
そーすると、わたし、一人目の子どもだし
母はオロオロするわけです。予想。

しまったー!
苦しませてしまった!!

そんなこんなで
感じたことを表現することを
抑制するクセをもった子どもが出来上がる。

苦しみあってのヨロコビだし
苦しみにみえるヨロコビもある。
そんな人生の機微がわかるようになっても
言語習得前に身につけたクセはなかなか抜けるものではなく。

たぶん
もしかしたら
楽しませなければならない。
じゃあなくて
単に
楽しませたかった
のかもしれない。

だって人生はたのしいものだから。

ヒトはたのしむために生きているから。

赤ん坊はそのことに、まったく疑いをもっていない。
そんな赤ん坊が
感じるままに
笑い、泣き、わめき、眠り、排出し・・・
その様をみるだけで
ヒトは癒され、振り回され、たのしさを感じる。

それなのに
そのように自然にしていては
苦しめてしまう。と、勘違いして
どうしたら、たのしいのかな?
どうしたら喜ばせられるかな?と、頑張る。

喜ぶのも苦しむのも相手の勝手だし
自然のままに、正直にいたほうが、
最終的にはうまくいく。
頑張る必要なんかない。

って、とっくに知ってるんだけど
三つ子の魂百まで。
基本姿勢になってるから
自分が苦しくなって、はじめて、あ、またやってた!?と気づく。
気づいても、やめるのがまた難しい。
だって怖いじゃないか。
楽しませられないとしても
せめて苦しめないでいたいじゃないか。

慣れたやりかたで、ほんとうに
「苦しめない」ことが出来ているわけでもないんだ。
それなのに、やめるのは難しい。
だって、どうしても、楽しませたいんだもの。
たのしんでいてほしいんだもの。

それがかなわないのなら
わたしが目の前から消えればいい
世界から消えればいいと思うほどに・・・

はい、ここで質問。
「相手がたのしんでない」っていう、その前提は
いったいどこからきてるのでしょう?

なんともシツレイな話。
わたしがそう感じたってだけで
そしてそれはけっこうな確率で当たってるのは
経験からわかっていることとはいえ

相手がたのしんでいるかどうかも、相手の勝手。
たのしくない、を、たのしむ権利だって、相手にある。

それでも
一緒にいるんだから
一緒にたのしくいたいじゃない。

ひとりでたのしいより
みんなでたのしいのが
ずっとずっとたのしいじゃないか。

コーラスみたいに
音と音が重なれば
響きはもっと拡がっていく。

そうやって生きていたいんだよ。

ワガママだとしても
それを味わいたいんだよ。

だからといって、自分が苦しくなってたら本末転倒。
気が付いたら、怖くても、修正。
和音のはじめの音は、自分から出ていくんだ。
笑いや、涙や、怒りや、愛しさ・・・
そこから始まる。

たくさん味わいたいのなら
乗っかるばかりじゃなくて
わたしから始めるんだ。

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