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2013年6月の記事

続・嫌われるかも。

昨日アップした記事
『嫌われるかも。笑われるかも。』

結論としては

相手がわたしを嫌っている、つまり
相手が相手自身を嫌ってる、なんて疑うより
なにかの行き違いだろうと楽観しているほうが平和。

だったのだけれど

その日のうちに、「これぞお試し!」といわんばかりの
疑いたくてたまらない状況になり

相手自身を嫌ってるなんて、とか
自分の心の平和が、なんてキレイゴトでは
もやもやはおさまらず、、、

たのしいこと、いろいろやってるあいだは
忘れてるのに、またふと気になって、
気になって、気になって、、、、

ああ、わたし、相手のことをだいすきなんだなあ。

そう思ったら笑えて
途端にスッキリ元気になりました。

相手を疑ってること、よりも
だいすき、と思えないでいること、
忘れてしまっていること、のほうが
窮屈なようです。

だいすき、を伝えたくて、あらわしたくて
わたしたちは、ここに在るのだなあと
あらためて思った次第。

そして、万が一相手がわたしを嫌っていても
なんらかの形で伝えることが叶わなくても
わたしは相手を、だいすきで居ていい。

本質的には
嫌いも、好きも、同じことなのだから
呑気にしていればいいのだなあ。

いたずらと新陳代謝

びっくりさせるのが好きだ。

思いもよらないプレゼント とか
どうしよう・・・って迷ってるであろうものを差し出す とか
「好み」にぴったりなハズのものをあげる とか

一歩間違えば嫌がらせ
でもぜったい喜ぶ確信がある。

もし嫌がっても
フォローの機会が得られると知っている。
フォローできるとわかってる。

信頼があってこそ出来ること。



子どもはよく
親を怒らせるけれど

気を惹きたいから とか
愛情確認 とか
そんな側面のほかに

びっくりさせたい。
感情を動かしたい。
そんな衝動を
すなおにあらわしているだけかもしれない。
その衝動を呼び起こしているのは
親本人なのかもしれない。

どきどき
わくわく
はらはら
きらきら

幼い子どもにとっては
喜びも、怒りも、おなじもの。
良いも、悪いも、ない。



感じる。
動く。
活性化する。

ひとつの出来事に
喜びをみつけるも
怒りを感じるも
受け取り側のココロひとつ。

びっくりする。

想定外。

想定という枠が
照らし出される。

枠をつくっては抱え
枠をつくっては壊し
ときに補修し
ときに木っ端微塵



細胞の新陳代謝みたいに
ココロもずっと、動いてる。

壊死しないように
すみずみまで
いきわたるように

セカイは今日も動き続ける。

セカイは今日も呼びかける。


おーい。生きてる?






びっくりしたら、笑っちゃえ。

コミュニケーションの本質的な痛み

前記事で、嫌われてるかも…について書いたので
こんどは逆に、自分が、嫌い!と思うときのこと。

自分が、だれかを
嫌い!と思ったり
がーん!とショックをうけたり
笑い飛ばしたくなったり、するのは

わたしが
「ゆるせない」ポイント
「常識外」としているポイントに
相手が触れたから。

それを設定しているのは
わたし自身で

そんなことは
相手は知らないのだ。


自分のなかで
アタリマエのことほど
わたしたちは説明を省く。

言わなくてもわかってほしい。

こんなことも言わなくちゃわからないなんて
どうかしてるんじゃないの。

ほんとうはわたしのことなんか
どうでもいいんでしょ。

悲劇のヒロインを気取ってみたり

ショックのあまり、言葉がでなかったり。


相手はただ、知らなかっただけなのだけれど

わかってもらえなかった
誤解された
わかろうとしてくれなかった

そう解釈して、いたく傷つく。


想定外だったのだもの
傷つくのは仕方がない。

痛かったんだな。
そう気がつきさえすれば
次第におさまっていく。


それはそれとして
相手に説明できたらいい。

同じようには
わかってもらえないかもしれない。

それでも、わたしがどう感じたのか。
わたしは、どう考えているのか。
知ってもらうことはできる。


これはすごく
せつないことだ。

説明しないとわからないのだ、という前提で
だれかと話をするのは、とてもせつない。

心の奥の奥のほうが、しくしくする。

説明しないとわからないだなんて、
相手とわたしは別の生き物だなんて、、、

相手を大切に思うほど、
大好きであればあるほど、
認めたくない事実。

できることならば
回避したいけれど


生きているなかで自分が設定してきた
大事にかかえてきた
ちいさなルール
いとしい常識を
言葉にして伝える。分かち合う。

自分のアタリマエを
言葉にすることは、時として難しい。

照れくささもある。
バカにされるかもしれない、、、
そんな恐怖もよぎる。


それでも、分かってほしい。
相手に、知っていてほしい。

その思いを
あきらめないこと。

無いことに、しないこと。


わたしがわたしのその思いを
きわめて原初的な、本能的な、その思いを
大事にしたら、しただけ

それは相手の胸を打つ。


だれかとのいさかいは
自分のアタリマエを
白日にさらすチャンス。

いまの自分に合うものかどうか?
これからの自分に必要かどうか?
見直すことができる。

相手のアタリマエを
知ることもできる。

そうして
アタリマエを
共有していく。


わたしたちは
分かり合いたい
生き物だ。

分かりたいと
願っている生き物だ。

おなじだと思いたいんだ。

そこには
違う という
前提がある。

根っこまでたどってしまえば
どんな言動も、思想も、
みんなおなじ。なのだけれど

どんな言動も、思想も、
いとしい表現でしかないのだけれど

そういう視点もありながら
わたしもまた、だれかのなにかに反応して
「自分」と「相手」と「おなじ」を知る。

そんなあそびを繰り返す。

嫌われるかも。笑われるかも。

こんなことしたら
笑われるかも

あんなこと言ったから
嫌われたかも

じつは、ほんとは、
嫌われてるのかも


しつこくしたら
思いやりがなかったら
嫌われる!

へんなことしたら
笑われる!


わたしを縛る鎖。


相手がもしほんとうに
わたしを嫌っているのだとしたら
わたしを笑いとばしたのなら

それは、相手が
「ゆるせない」ポイント
「常識外」としているポイントに
わたしが触れたからで

それを設定しているのは
相手自身で

そのことによって
居心地の悪さや
いきぐるしさを
感じるのも相手自身で


わたしが
このひとはわたしを嫌っているのだと
相手を仮定するということは

わたしは
相手は「くるしさ」を
潜在的に抱えていると
みなしているのと同じことで


嫌われているかも・・・

事実は、本人にしか
わからないのだから

それを確かめるチャンスが
ないのであれば

だったら

たまたま機嫌が悪かったのかな。とか
ただの勘違いかな。って

思いこむほうが

平和だなあ。

自由と責任

人生の責任は、自由とセット。

自由を謳歌する=責任を負う。

それは引き換えではなくて

同じ状態を、違う角度からみた表現。

破壊するために担ってきた呪縛

男性性が築いてきた「枠」

安心安定直進発展に
功を奏してきた

「家」の観念
「おかね」の観念
「社会」の観念
えとせとら

壊す時期がきてる。

いま労働現役世代の女性たちが
それらの観念を背負って
ここまでやってきたのは
このときのため。
破壊のため。

まずは気が付くこと。
否応なかったとしても
無意識だとしても
それを選んで「いる」自分に気が付くこと。

そこには罪も咎も落ち度もない。
誰のせいでもない。
ただ、必要だったの。
そして、もう要らないのだ。

男性に遠慮することなどない。
男性のしあわせは
女性の笑顔なんだから
だいじょうぶ。
思うままに
感じるままに
ほんとうに望むものを口にして。

義理も慣習もぜんぶうっちゃって
実現可否も考えないで

もしすべてが叶うのならば
どこで、だれと、なにをしたい?

考えたくないことは、考えなくていい。
払いたくないものには、払わなくていい。
要らないものは、捨てていい。

自分に許可をだしたら
あとはなにひとつがんばらなくていい。
現実にするために
なにかをコントロールする必要はない。

すべての役割を抜け出した
ただの自分の「おもい」を
自分のなかに拡げるだけでいい。

あとはかってに整っていく。

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