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コミュニケーションの本質的な痛み

前記事で、嫌われてるかも…について書いたので
こんどは逆に、自分が、嫌い!と思うときのこと。

自分が、だれかを
嫌い!と思ったり
がーん!とショックをうけたり
笑い飛ばしたくなったり、するのは

わたしが
「ゆるせない」ポイント
「常識外」としているポイントに
相手が触れたから。

それを設定しているのは
わたし自身で

そんなことは
相手は知らないのだ。


自分のなかで
アタリマエのことほど
わたしたちは説明を省く。

言わなくてもわかってほしい。

こんなことも言わなくちゃわからないなんて
どうかしてるんじゃないの。

ほんとうはわたしのことなんか
どうでもいいんでしょ。

悲劇のヒロインを気取ってみたり

ショックのあまり、言葉がでなかったり。


相手はただ、知らなかっただけなのだけれど

わかってもらえなかった
誤解された
わかろうとしてくれなかった

そう解釈して、いたく傷つく。


想定外だったのだもの
傷つくのは仕方がない。

痛かったんだな。
そう気がつきさえすれば
次第におさまっていく。


それはそれとして
相手に説明できたらいい。

同じようには
わかってもらえないかもしれない。

それでも、わたしがどう感じたのか。
わたしは、どう考えているのか。
知ってもらうことはできる。


これはすごく
せつないことだ。

説明しないとわからないのだ、という前提で
だれかと話をするのは、とてもせつない。

心の奥の奥のほうが、しくしくする。

説明しないとわからないだなんて、
相手とわたしは別の生き物だなんて、、、

相手を大切に思うほど、
大好きであればあるほど、
認めたくない事実。

できることならば
回避したいけれど


生きているなかで自分が設定してきた
大事にかかえてきた
ちいさなルール
いとしい常識を
言葉にして伝える。分かち合う。

自分のアタリマエを
言葉にすることは、時として難しい。

照れくささもある。
バカにされるかもしれない、、、
そんな恐怖もよぎる。


それでも、分かってほしい。
相手に、知っていてほしい。

その思いを
あきらめないこと。

無いことに、しないこと。


わたしがわたしのその思いを
きわめて原初的な、本能的な、その思いを
大事にしたら、しただけ

それは相手の胸を打つ。


だれかとのいさかいは
自分のアタリマエを
白日にさらすチャンス。

いまの自分に合うものかどうか?
これからの自分に必要かどうか?
見直すことができる。

相手のアタリマエを
知ることもできる。

そうして
アタリマエを
共有していく。


わたしたちは
分かり合いたい
生き物だ。

分かりたいと
願っている生き物だ。

おなじだと思いたいんだ。

そこには
違う という
前提がある。

根っこまでたどってしまえば
どんな言動も、思想も、
みんなおなじ。なのだけれど

どんな言動も、思想も、
いとしい表現でしかないのだけれど

そういう視点もありながら
わたしもまた、だれかのなにかに反応して
「自分」と「相手」と「おなじ」を知る。

そんなあそびを繰り返す。

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コメント

言葉って、「ペン」と「椅子」みたいに何かを分かつ道具でもあるから、言葉で分かり合うって難しいよねー。
信頼してる人のたたずまい、とか何かそっちの方ならあんまり痛みがないような気がする。
ゆきちゃんのたたずまいだけで私は泣けてくるのだよ。

コミュニケーションといえば言葉 
という短絡的な発想がそもそも
誤解を生みやすいんだなあ。反省。

言葉ではない、たたずまい、気配、
そういったものを感じて、信じられる
しなやかなハート
曖昧さを抱えていられるハラ
個と全を同時にみられるアタマ
成熟ってそういうことなのかも。

わたし自身のたたずまいがどんなものか
わたしにはわからないけど
不協和音による涙でないことを願う・・・!(。・w・。 )

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