« 2013年6月 | トップページ | 2013年9月 »

2013年7月の記事

「調和」を手放す

わたしにとって
愛とは、調和

細心の注意と
最大限の誠意とをもって

調和をもたらすこと
維持につとめること

それが、わたしのこれまでの
人生の根底にあったもの。

これからすこしずつ
「調和」も手放していく。
ゆだねていく。

わたしが感知できるよりもっと
おおきなところで
すべては常にバランスしているのだから

わたしのこだわりも、小細工も、無用なのだ。

「調和」の意味をとり払い
あるがままを「調和」とみていく。

呼吸と同じくらい当たり前にあった
不調和を察知するアンテナや
染み付いた反応・反射に
どれだけ意識的にあれるか・・・
しばらくは消耗するだろう。

そこにエネルギーを使わないで
過ごせるようになっていると
気づくのはいつ頃だろう。

そのとき、どんなセカイを生きてるだろう。

無と空(くう)

おなじみ、終わりたい願望は
いまだに、どんなにたのしくしていても
ふとまたやってくる。

それがやってきたときには
なにか自分を誤魔化してるサインだと
思うようになってから何年か経つけれど

無と空をごっちゃにしてた、だけなのかもしれない。

ジェムリンガ制作者 須佐巌さん
話をしていて、気がついた。

ヒーリングジュエリーをもつ予定はないのだけれど。
そう前置きしたうえで予約させてもらったカウンセリング

住所氏名生年月日などのほか
「叶えたいこと」を書いてください
彼氏でもお金でも呪い殺したいでも・・・と言われ

「無心で生きたい。」

こう書いた。これしかない。
1月のそみさんセッションで導きだされた
わたしの、ブレない本心。

禅問答でもするつもりですか?と言いながら
無 なのか 空 なのかを問い質してくれて
その違いも説明してくれて

わたしがいう無心は、没頭。
なにものにも気をとられず
自分のためだけに、いたい。
そういう時間をもちたい。

それは、無 ではなく 空(くう)であって
それはヒトとして、とてもとても
「ただしい」欲求なんだと
誰しもそうなんだと、断言されていた。


無にしても
空にしても
わたしがそこに
ものすごい希求と
(これを言葉にすると泣かずにいられない)
ものすごい抵抗を感じているのはたしかで

そしてこの抵抗は
未知への恐れでしかない。

わたしが、わたしに、それをゆるしてはならない理由は、どこにもない。

まずわたしがゆるさなくては
そして、そのように動かなくては
周りだってゆるしようがない。

あれこれと理由をつけてやらずにいながら
お酒のちからで「閉じた世界ごっこ」をしている限り
オットは「酔っ払いは嫌いだ」と言い続けるだろう。

閉じた世界(時空)をもつことは
生命体本能としては、休止・停滞=危機と錯覚するし
嫁としては、(オットの命綱である)炊事が疎かになるだろうし
採算や他者との関わりを無視する非社会人的行為だし

家族を養うため、食べていくため
働かざるを得なかった世代からすれば
悲願ともいえるかもしれない。


元来オンナという性は
生活のなかにこまめに
創造の時間をもつことが上手で
料理、裁縫、ちょっとした大工仕事・・・
たとえばキャラ弁をつくっているあいだには
没頭する瞬間があるだろう。
しかし、その瞬間に対する執着はなく
いつでも子供の気配を察知している。
つまり、100%の没頭ではない。

わたしはこれをかぎりなく100%に近づけたい。
100%でなくちゃ嫌だ、意味がないと
ダダをこねている。
そのためにはまずアレだコレだと条件を設定して
それが満たされないなら手をつけない、と。

しかしおそらく現実は
肉体をもっている特性からしても
即座に100%になれるとは思えない。

慣らしながら、探りながら、
純度をあげていくプロセスが必要だろう。
わたしの苦手な長期戦。

そしてもうひとつ
閉じた世界のなかは静かだけれど
その在り様はおそらく粗暴で

100%に近づけるのならば
わたしはそれを感知しようがない。
仮に感知しても、関与を選ばない。
周囲との断絶。

それらの可能性を前にして
ずっと立ち止まっている。
立ち止まってきた。


子供の頃からの器用貧乏が長じて
不慣れなことには手を出さずに
やりすごすしてきたというのに

こればっかりは、やるのだろうなあ。。。

自分の世界に篭ること

石井ゆかりさん週報(7/8~14)水瓶座の、
 私たちは無意識に、自分を守ろうとして
 愛と想像の神様に対して、見えない交換条件を提示します。

これがどうにもピンとこなかったのだけれど
今日(13日夜)やっとわかった。
これはもうわからないのだろうなと思ってたのでびっくり。

自分の世界に篭ることを
なぜこれほどまでに希求するのか
なぜこれほどまでに躊躇するのか
理由はあれこれ見つけられるけど
理由なんかどうだってよくて

やるか、やらないか、それだけなんだ。

やってみて、調整の必要なところが出てきたら
関わるひとたちと丁寧に調整していけばいい。
それを、億劫がっている。
変化。

篭りたいのに、篭ったら結局
調整に労力かけることになるんじゃないの。
だったら、はなっから篭らない方がいいんじゃないの。って
やってみたら、思いもよらない展開で
まーるくおさまる可能性だってあるのだが・・・

あああもうまったく
何度こういう葛藤を
繰り返してきたんだろう。

でも、これまでの葛藤があるから
この賭けに手を出そうと思えるのだ。

勝算のみつけかたも
軸のもちかたも
さんざん実習を重ねたから

やらいでか。

・・・・・ううううん!(まだ迷う。)

ちなみに年報

夏あたりを境に、
新しい「任務」を自ら選び取ることになる人が
たぶん、とても多いだろうと思います。

社会において「自分が立つべき場所」に立つための階段を
のぼり続けているのだと思います。

遅くとも2014年後半くらいには
「立つべき場所」にたどり着いているはずです。

ということなので
これを年初に読んだときには
なんて気の長い話だ!とうんざりしたけれど
いま読むと、救いでしかない。

没頭。無心。

アルジャーノンに花束を のように
どんどん知能とよばれるものが低下していき
自分のちいさなちいさな世界で生きるように
わたしは、なっていくんじゃないかって
だいぶ前から思っていて

これは妄想なのか
願望というべきか

もしかしたら
そもそもがわたしの脳は
そっちのほうが向いているのに
大いなるプロセスの一部として
魂の計画の一部として、環境適応し
一般社会人のフリがうまくなっただけなんじゃないか

責任能力がないと言われるくらいまでに
わからなくなってしまえば
いっそ簡単だと、思う。

などという意識を保ったまま
わたしは、自分のセカイに没頭していくのだろうか。

フォーカスをあわせれば、わかる。
けれど、あわせない。
誰が困ろうと
立ち往生しようと
調和のためではなく
みずからを満たすために
自分のセカイに没頭するのだろうか。
できるのだろうか。
やりたいのだろうか。

わたしが大事にしてきた「調和」の意味を
おおきく拡げた先にある
あたらしい物語。

異世界にすっかり入ったら最後
もう、かえってこないかもしれない。

誰かと響きあう、あの感じを求めて
かえってこようとするだろうか。

あるいは、異世界には異世界の
響きあうみちがあるのだろうか。

無心で生きるとは、なんだろう。

わたしが求めてやまない
無心で生きるわたし、は
セカイになにをもたらすのだろう。

脱皮と異世界

ねとらじが終わってから内向モード。

自分のアメブロが書けない。
(あれは外面なんだなあとこういうとき、しみじみ、思う。)

ひとり遠出ができない。
(おそらく。しようともしないし、する必要もないので、問題にならないが。)

内向モードと表現力してみたが、実際には、
なんていうか、とっても子供じみた感覚でいるんだと思う。

セカイと触れ合うこと、係わり合うことに、抵抗がある。こわい。不安。

誰かが一緒なら大丈夫なのは
安全圏をつくれるから。
安全だと感じていられるから。
(だから、誰でもいいわけではない。)

脱皮したてのカニみたいに
やわやわなのだ。境界が。

このモードではない時ならば
ひとり移動も、セカイを眺める時間、
好奇心をはたらかせて観察する時間として
たのしむことができるのだけれど

このモードのときは、
いちいちいろんなことが
せつなくてかなしくていとしくて、消耗する。

だれかと一緒ならば、そのひとに
フォーカスをあわせておけばいい。
閉じたセカイ。
そこでは、相手とのコミュニケーションが成り立つ、という安心感。


この猛暑に適応するためでもあろうけれど
毎日よく寝ている。
夜ふつうに寝て朝おきて弁当をつくり昼までまた寝ているのに、夜またちゃんと眠くなる。
星回りの影響もあるんだろうか。


いま「ほんとうの『ゲド戦記』 英文で読む『アースシー物語』」を読んでいる。
ゲド戦記はこんなふうにおもしろい。というのを
信頼する友人からきいて
興味がわいたのだけれど
映像は苦手だし、6冊ものシリーズを読むのは避けたくて
ちょうどよくこの本を見つけた。
英文は和訳とセットだから英語のおさらいになるし、
著者(本橋哲也氏)の世界観、解釈はわたしになじみやすい。


異世界ファンタジーは苦手だ。
はいりこみすぎて、ごっちゃになるから。
現実にもういちど適応しなおすハメになるから。

もうかえってこなくていいのなら
いくらだって読むだろう。

旅は終わるから旅なのであって
日常との対比がより旅をうつくしくするようなところがあるけれど

わたしはたぶん知っているんだ。
ずっと異世界感覚で生きることも
ずっと旅の最中のように
自由で刹那的に生きることも
できるはずだと知っている。
けれど、あきらめている。
何度もあきらめてきた。
不調和が起こるから。

ちいさな閉じた世界でなら
わたしはわたしにそれをゆるしている。
その感覚、生き方を、
ゆるせるようになってきた。
すこしずつ、拡がってきてもいる。

いまはまだ、心ひとつで
異世界に飛び込むことはできない。

だれともほんとうには分かち合えない
セカイを複数、自分のなかにもつなんて
さみしすぎて出来ない。

(そのさみしさは幻想だ、という視点はあれども。)

« 2013年6月 | トップページ | 2013年9月 »

カテゴリー

無料ブログはココログ

占い by いとうより