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2014年11月の記事

おかえり

前記事【さみしかっただけ】を書いているうちに
この数年わたしの心にまとわりついていた人たちが、統合された感。

彼女たちのさみしさをみつけたし、
それはわたしのさみしさだったと、
ちゃんと感じられた。

おかえり、わたしのさみしさ。

やっと会いにいけた。

なんもしないで、そこにいてくれればいいよー。

さみしかっただけ


さっきの仮説:

不安や、困ったことは、共有を促す出来事なのかもしれない。
「一人」から抜け出して、つながりを取り戻すきっかけなのかもしれない。

これにさらに仮説をのっけてみると

そもそもが「さみしかった」のじゃないかと。思う。
「さみしさ」に気づくために、不安な事態が起きるのだ。

内観に慣れているひとや、じぶんのペースで暮らせているひとであれば、
出来事がなくても「さみしさ」に気づいたりするけれど、
なにかの世話に追われていたり、
なにかのペース(たとえば週休2日の勤務)に乗っかっていたりすると、
なかなか気づけないのではないか。

さみしさに、理由はない。原因もない。

なにかが足らなかったからではないし
なにかが間違っていたからでもない。

ただ、それはやってくる。

さみしさに気づかずに、不安や困った出来事に対して、
ひとりでなんとかしようとすると・・・
犯罪レベルの行動になってしまうことだってある。

わたしの好きだった漫画「ぽっかぽか」で、
幼稚園児のこどもに「悪い人」について問われた父親はこう答えていた。

「悪い人はいない。さみしい人がいるだけだ」

さみしさと、仲良くなろう。
これは誰より自分自身へ言っている。

そして、だれかの「さみしさ」に、寛大でいよう。
だれかの行動の奥に時として、抱えきれない、かんじきれない、
底知れないさみしさがあるのだということを、見失わずにいたい。

そのだれかが伴っているさみしさは、わたしのさみしさとつながっている。
わたしが気づいていないさみしさが、だれかの皮をかぶって現れたのだ。

不安なのも、困るのも

るみの金の俵記事を読み返したら、こんなふうに書いてあった。

「不安て もしかしたら、私一人でなんとかしなくちゃ!
という想いからうまれるのかもしれないね。」

この記事ではお金の不安についての話なんだけど、
もしかしてこれってぜんぶに通じるんじゃないだろうか。

何かがなくなる不安だけじゃなく、
たとえば対処に困るくらい貰い過ぎてしまう場合にも、
ひとりでなんとかしなくちゃ!と思うといきづまる。


以前のわたしは、食べきれないほどの
賞味期限のちかいお菓子をもらったとき、どうしよう?と思っていた。

いまは、だれにあげようかな。
どうしても無理なら、それはそれだな。って思う。

さらには、これをもらったということは、
どこか配るあてなりなんなりが、出てくるのだろうと思う。

あるいは。お菓子の(じぶんの納得のいく)行方。という
「未知数」を抱えることがいまは難しいなと、すぐにわかれば、
もらうことをどうにかして回避するよう努める。

相手の「あげたかった気持ち」や
「あげるつもりだったお菓子の行方」の対処については、
相手にまかせる。(基本的には。)


そうした一連の(気持ちの)処理を
じぶんでやりきれない場合には、
どうしよっかなー、だいじょうぶかなー?
こうすればいいかなー、きっといけるよねー?などと、
誰かにぐちぐち言いながら、やっている。
決めるのはじぶんだけれど、それだけで、膠着は免れる。

○○過ぎる状態になったとき
私一人でなんとかしなくちゃ!は、ぎゅっと固まってしまう。
がんばってまーす、でも、助けてー、でも、
とにかく誰かやなにかに共有すれば、なにかしらの動きがうまれる。

逆にいえば。
不安や、困ったことは、
共有を促す出来事なのかもしれない。

「一人」から抜け出して、
つながりを取り戻すきっかけなのかもしれない。

「嫌い」は不自然

誰かを嫌い。と思っているのは

いい、わるいじゃなく

単純に、不自然だなあと感じる。


嫌い、と感じるとき

その対象が人であれば、

その人が、こちらに対して

なにか意識できていない感情を抱えていて

そのしわよせがこちらに来ているところも、多いにある。


すこしずつ、あるいは、パツンと

なにかが動いて、意識化され

それはフラットになるのだろう。


そのときがくるまでは

だいじに抱えていく。

フラットになることを信じて、居続ける

これもひとつの愉氣なのだろう。

とじるちから

人のからだは
冬には閉じ傾向になり
春にはひらこうとする。

女性の骨盤は、毎月、開閉する。

朝と夜でも違うのだと思う。

閉じ傾向のときには
イライラしやすい。
ゆるみたいがゆえに
お菓子を食べ過ぎたりする。

温湿布でゆるめるのもいいけれど
いっそ、自分から閉じるといい。

閉じるのは孤独とセットなので
どうしてもめんどうに感じる。避けたがる。

でも、集中して入り込む時間は、じつは至福だ。

やりきったとき
ふっとひらく。

なにかがいっしょに抜ける。

息を吐ききったとき
自然に息を吸うように

閉じきるところまで
自発的にもっていくのだ。


-------------

アメブロに書いた内容と同じなのだけれど
mixiにメモしたらぜんぜん違うモードになったので
ここにも載せておきます。

遅刻癖、その後

遅刻癖について
このブログでは
たびたび
何年も
言及してきた。

以下、ほんの一例を貼っておく。


2009.12.15
安心を感じるための不安

2011.04.02
遅刻に関する考察

2012.10.29
遅刻という主張:関わり方のパターン


少し前にアメブロに書いたのだが
いつごろからだろうか
遅刻が減っている。

2014-11-05
遅刻癖が治ってきたかも。

正確には
遅刻しても、しなくても
だいじょうぶな状況が増えた。

苦痛ジャンキーで書いている
「社会」の概念を変える ということに
地道に取り組んできた成果だろうか。

各種ボディワークにはじまり
氣道協会に通うようになり
身体が緩むとともに

加齢も追い風になり
こだわりが減った。

無理をしなくなった。

やるべきことだと感じるすべてを精査し
やりたいことと、やりたくないことに選別し
極力やりたいことだけで、日々過ごしている。

俄然、生きるのが面白くなった。

つまらない
早く終われと思う日も
ときどきやってくるけれど

早目に寝るか
面倒で先送りしたことに手をつけるか

ともかく
「うまくいっていない感じ」がしても
待っていられるようになった。

人間、変われば、変わるものである。


おとなになれば

わたしが育ったのは
公務員住宅がたくさんある地域で
小学校の同級生の3割か4割は
公務員の子だったんじゃないかというくらい。

親戚も公務員ばかり。
家業を継いだ以外はみんな公務員。

おとなになれば
そんな風に
生きていけるのかと思っていた。

毎日、スーツを着て
同じ時間に、出勤して
同じように、仕事をする

そういうことが
当たり前にできるようになるのかと思っていた

ということに、最近気づいた。

出来ないじぶんをずいぶん責めたし
ヒトとして欠陥品なのだと感じていた。


ほかにできることがないから。と、
会社勤めの友人は言っていたけれど

毎日、仕事に行けるということ
雇われる立場で、役割を全うできること

それを続けられるのは
才能のひとつだ。

すくなくともわたしにその才能はなくて
焦がれて、焦がれて、頑張ったけど
あきらめざるをえなかった。

短期集中型
こつこつ淡々型
風来坊型
独立型
チーム型
サポート型

いろいろなタイプが組み合わさり
この社会はうまいことまわっている。

子供のころに思い描いた型に
はまれなかったことは
とても、残念だけれど
いつまでも執着していたら
じぶんが苦しいだけ。

わたしは、わたしにしかなれないのだ。

答えの見つけ方/「感覚」と「現実」を受け入れる

(友人へ書いたメールから抜粋&追記)


やりたくないことは、やらない。
そのことに罪悪感を持たない。

やりたくないことは
やらなくていいこと。

やらなくていいことだから
やりたくないのだ。

感覚はいつだって正しい。

衝動に逆らわないこと。
効率を考えないこと。
気の向くままに動くこと。

それでいい。

実際に試してみたら
だんだん、腑に落ちてくる。

そして、現実もいつだって正しい。

求めるものが与えられないこと
求める自分ではないことに不平不満を抱え
誰かやなにか※や自分のせいにするのは、現実拒否だ。
(※過去、親、外見、お金、年齢、環境、カルマ、運命・・・)

いつだって最善が起きている。
いつだって最善が与えられている。

いま、そうなっているということは
それが、求めに対する答えで、導き。

手に入らないなら、いま手に入れるべきものではないし
実現しないなら、いまそうなるべきではないのだ。

悩むことはない。
原因を探す必要もない。
ましてや自分を責めるなど!

いつだって「いま」が答えなのだから
ジタバタせずに
次の「感覚」がやってくるのを待ち
それがきたのなら
つべこべ言わずに従うことだ。

従いたくない気持ちが、同時に発生することは、多々ある。
その抵抗も、受け入れる。
抵抗を優先することがあってもいい。
それもまた、衝動だから。

無理。と感じるなら
それに従えばいい。

どんな選択をしても
かならず、たどり着くようになっている。

ルートは、じぶんで決めるのだ。
行き先は、決まっている。

611

なんでいま、眠たい目をこすりながら
それでも、これを書くのか。不明。
すこし前から書く気持ちがありながら
書けないままでいた。

2011年3月11日から一ヶ月経たない
4月上旬、石巻に行った。
鎌倉の有志による炊き出しに加わった。
そのあとは、事務スタッフとして関わっていた。

6月11日。各地から出店をつのって
石巻 十三浜でイベントをするという。
元気に、いまをたのしんで
明日につなげるためのイベント。

イベントの仕切り運営は、得意だ。
行けば戦力になるだろうことは自分でもよくわかった。
イベントの意義もわかっていたし、
賛同するところは大いにあった。

でも、行かなかった。

迷って、迷って、迷っていたとき
「たまには頑張らないほうを選んでみたら」
と、オットに言われた。
いつもいつも頑張りが足りないと思っていたから、びっくりした。
そうか。わたしは、これまでも頑張っていたのか。

振り返ってみれば、たしかに
難しい方、大変な方を選ぶことを、
よしとしてきた。

前夜。物資を届けがてら、オットと見送りに行った。

当日。現地は小雨が降り続いてた。
パソコン画面で、ツイッターに流れてくるイベントの様子をみながら、RTしながら、
天候の回復を祈りながら、泣いてた。

行かなかった後悔じゃなく
みんなが泣かない分、かなしんでいられないぶん、
わたしは泣いていていいんだと思った。

わたし自身、あまりに衝撃すぎて
それまで、ちゃんと悲しめていなかったのだと思う。

かなしむことを、じぶんにゆるした。
雨は、最後まで止まなかった。

4月。amazing graceをうたいながら
瓦礫だらけの荒野のような道を
ひとり、ハイエースを走らせた。
暮らしの息遣いののこる海岸線
鉄骨が剥き出しになった学校
圧倒されて
無でいるしか、できなかった。

祈りの真髄だと思った。

軌道にのせるまでが得意分野なわたしは
愛車バイクの不調も手伝って
だんだん、事務作業からも遠ざかった。

いまも、折にふれて、
鎌倉有志と現地の関係は続いているらしい。

彼らのようには出来なかったけど
わたしのなかでも、続いている。
わたしのやりかたで。
きっと、終わらないのだと思う。

報酬と循環

前記事を書いて、あらためて自覚したが
わたしは、教えたいひとなんだなあ。

成果だけをポンと渡すより
一緒に、ああでもないこうでもないとやりながら
形をつくっていく過程を共有したい。
さみしがりってことか?

作業系のことを担った場合には、
お金で、収益から、対価ちょーだい、と言う。
それによって、共有できる感じがあるのだ。

事務作業とか。WEB作成とか。
ひとりで完結しちゃうことは、
やってるあいだは、つまらない。
ゴールに向けての作業で、
その時点では、わたしの求めるものは循環していない。
だから、報酬が欲しい。

だれかと一緒に、なにかをつくる過程が好きで
それを味わえてることが対価で
きっちり循環しながら進んでいけば
できあがったもの(イベントとか)から
対価をもらう必要は、さっぱり無い。
イベントが始まるまでに、経費回収が済んでいる。

教えたいし、教わりたい。
互いに、変化していきたい。
相互依存パートナーシップで
なにかを創造しているときには
報酬をもらうのは逆に不自然と感じる。
あくまでも、わたしの場合。


変化のスピード

風来房でなにか、
メニュー再編とか
ブログ修正とか
宣伝方法かえるとか
なにかの「変更」をした場合

一定期間を経て、
再変更になる率が高い気がする。

決定的な変化まで
導けなかったがゆえ、
と思ったこともあるが

本質的なところに向けての変化に際して
エゴにやさしい、痛みのすくない、
取り入れやすい方法をとるので
必然のような気もする。

新しい方針、方向性に慣れた頃
やっぱりもう一段、軽くしたくなるのだ。

一度で、徹底的に、がつんと、がらりと、
変える気のある人は
そういうコンサルタントやサービスを選ぶはずで。

なんか、派手さがないなあ、とか
つまりは実力不足、
強行するだけの確信がないから
できないだけじゃないの、
と自分に言いたくなるが

ひとは、放っておいても
そのひとのペースで変わっていくし、
わたしは、ただ、その兆候を、すこしわかりやすく
現実的、具体的行動にするのを、手伝うまで。

それ以上のことはしなくていいし
したくないのだから
しょーがない。

変化しようとする気持ちを
どう、現実に落とし込んでいくかの
レクチャーとしてやっている感覚もある。

慣れたら、じぶんで出来るようになる。
それがいちばん、ブレが少ない。

ほんとうのことは
いつだって
じぶんだけが知っているのだ。

お金という共有幻想との付き合い方

ノートを見返していたら
ことしの1月にはすでに
無料でもいいのでは、とか
おおやけに向けて告知しなくていい、とか
書いてあった。

今になって、やっと、
やっぱそうだよねー。そうする!って
周りを巻き込んで、実行している次第。

お金をもらうと責任が生じて
わたしは自由に動けなくなるとも
オットに言われていた。これも1月。

お金をもらわないと
無責任というわけじゃない。
わたしが負っている責任は
お金の有無に左右されない。
お金の有無に左右されるタイプの責任は
わたしの性分に合わないのだ。
重たくて、苦しくて、かなしくなる。

無料でやっちゃいけません。というひとは
じぶんがお金ほしいのを正当化したいのかもと思う。
お金ほしいと思うのはべつに悪いことじゃない。
でもそれを、
だからみんなそうすべき。
と言われてしまうと(そういう感じがすると)苦しい。

お金をもらうべきひとと
そうじゃないひとがいるだけ。
不動の属性ではなく、変わる可能性もある。
単に、それぞれのプロセスだ。

お金は、共有幻想。
わたしはそこに加担したくないんだと思う。
そういう役割、そういう時期なんだと思う。

この世界からお金がなくなればいいと思ってるわけじゃない。
なくなる感じもしない。
使い方を変えていく。動機を整える。
無駄に増大しているお金の意味、仕事を減らしたら
もっと、かるくて、自由で、愛らしいものになるはずだ。

そっちのほうが、みんな、好きだと思う。

反対極のエネルギーを取り込む

~~すぎる!時には
反対側のエネルギーが
着々と形成されている。

達成感に満ち溢れている一方で
なんでわたしばっかり…の被害者意識が
こっそり生まれていたり

やっぱりそれが最高だよね!の裏で
そもそも、それがわかんない、などと
足をひっぱられるような投げかけがきたり

反対側が形成されることは
自然の摂理なのだと思う。
うまれるものは、うまれる。
それを、どうするか。

反対側はいろいろなかたちであらわれる。
じぶんであれば、身体症状だったり
他人であれば、水をさすような言葉や、態度だったり
まるで無関係にみえる、しかし目障りな行動だったり

それを疎んじて、スルーするのは簡単だが
せっかくあらわれたのならば
勢いがそがれても、面倒でも、
取り込むほうがいいように思う。

取り込む、というのは
じぶんの一部として認識するということ。
現段階で、じぶんでは認識するに至っていなくても
そういう気持ちがどこかに生まれている可能性を認めること。

それを含められる動きに調整すると
スピードは落ちるが
柔軟性が増し
持続力やゆとりにつながると思う。

しなやかに、臨機応変、即時対応で
多様なものを取り込んでいける。
周囲と協調しやすい。

まぶしい

いまのわたしには
子育てする彼女たちがまぶしい

子育て、というひとつのことで
みんなを括っている乱暴さには気付いてる

みんな、のなかに、それぞれ
いろいろが潜んでいることは
忘れていないつもり

それでも
そのうえでなお
自分好みのおうちで
理解ある安定した収入のだんなさんと
子育てや仕事に追われる彼女たちは
イキイキとして、まぶしい

わたしが一歩踏み出せば
彼女たちは容易に受け入れるだろう
共通の話題を見つけだすだろう

でも、わたしはいま、ここにいたいんだ

光るつもりがなくても
影はひとりでに出来る

影が、光を、光にする

。。。つまり、同じだと、思われたくないのだな。
あんたたちと、きゃっきゃするようなヒマはないの。て感じ。
(拗ねてるなあ!)

違うまま、仲良くできるのにね。
違うのが、さみしすぎるのね。
同じじゃないーーー(T . T)
ぜんぶぴったりおなじがいい!!ってこと?

違うから、できることがあるのになあ。。。

わかりたい
仲間になりたい
でも叶わない

こどもの気持ちは、わかるんだけど。

そしてきっと、わたしは、もし妊娠出産しても
彼女たちと同じにはならないんだろう。

そしてまた、まぶしがるのかなあ。。。

わたしがこわがって
こわばるから
ヤイバが、刃になる。

身構えず
脱力して
いられれば、いいのだ。

自分を消す。

そのとき、他者からは
確固たるわたしに見えることだろう。

いちいち頭で変換するのでなく
問答無用で、ヤイバを、刃として見ない。
ぜんぶが好意で、傷つくことはなにひとつないと
寛いでいること。疑わない、考えない。
まるっと、信じてる。

ああああああああああああそうか
まぶしいと感じているのは
彼女たちも、同じだ。
羨まれているんだ。
そうか。
それを感知して同調してたのか。

なんだ。。。。同じになった。統合完了。

同窓会と内向性/センサー

高校の同窓会の
写真アルバムが
Facebookにアップされていて

まあ、、、知らないひとばっかりである。
120人くらい集まったらしい。
9クラスあったから
それでも3割?

そもそも、高校では
1年のときの仲良しと
部活と、たまり場以外には
とんと心を開いていなくて

それ以外のひとには
まったく興味がなかったので
・・・いや、あこがれたり、うらやんだりは、していたな。

なので、べつに、いまさら会いたいとも思わない
また、自分を卑下したくなりそうだから。

そう、高校時代は、卑下時代だったのだ。卑下初期。
とにかく、自信というものが、根本から崩れた。
それまで、なんの根拠もなかった自信が。見事に。ぐっだぐだになった。
内観しまくるようになったのも、その頃からだと思う。
ノートや、友達への手紙や、書きまくっていた。
その頃にわたしが心酔していた親友の影響で
寺山修司や、ドグラマグラや、山田かまちや、
そういった世界に腕1本くらいは浸ってた。

同窓会をやろう、集まろう、なんてひとたちは
ひとかどの人物なのだろうと思う。

なにやってるの?と聞かれ、答えられる。
胸をはって、じぶんでいられる。

そして、ヒマなんだろうなあとも思う。
わざわざ旧交などあたためなくても
わたしの毎日は、みっちり、満ちていて
これ以上の刺激は要らない。

写真をみても
まったくもって
気がしれない
正気の沙汰じゃない
とすら、思う
そんなじぶんがちょっと残念

小さな頃から
自他ともに認める
誰とでも友達になれる
人当たりの良い社交的な人間として
生きてきたのに
すごい落差だ

いまだって
やろうと思えばできるけどね
昔からの癖で
それをやるとなったら
なにかひとつフタをするから
あとで苦しくなるんだな

フタをするのでなく
内向的なまま
めんどくさい、こどもっぽいひとのまま
不特定多数と接する日もいつか来るのだろうか
(べつにそれを望んでいるわけではないが)

おおきなサイクルがなにか巡れば
刺激を求めて外にでるときは来るかもしれない

いまのわたしは
どろどろやわやわで
徐行運転がやっと

かろうじて形を保っている
えらく不安定な状態だ。

ちょっと自分でも飽きてきているのだが・・・
より、「じぶん」で生きるために
この「感度」が必要なのだろうとは思う。

おおきなちから
おおきな流れに
乗るときには
精度の良いセンサーがなければ

ちょっと判断を間違っただけで
あっという間に外れてしまうから

いまは、このセンサーからの情報を処理するのに慣れる期間。
慣れたら、もうすこし、余力が出てくるだろう。

うらみごと。

計算することへの罪悪感。

ひとの気持ちを操る
流れをコントロールする

きもちよく、騙してあげる

騙されるのを、見ている


欲に忠実に
じょうずに計算できることを
うらやんでいた

じぶんにはできない
やりたくない

太刀打ちできない
されるがまま


羨ましいは、恨みになる

計算しちゃいけないのに!
計算しやがって・・・!

ぞんざいに扱われたような
軽くあしらわれたような

反発

統べる者
統べられる者

無意識レベルのコミットメントに
甘んじていることへの、糾弾


そんな程度でいい気になるな (・・・?)

そんなものだったら要らない

やるに値しない


そうして、怠けてきた。
のさばらせてきた。

いのちを賭して止めることなど出来るはずもなく

衰えゆくを見つめるばかり


浮けば沈む世の理


恨むのもまた
おおきなつらなりの一部
光を構成する影

ただ、その役割ということ。


この世界で
光るとは
影をつくるということだ


案ずることはない。なにひとつ。
憂うこともない。すべて。

それで、いい。

メランコリー

せつないモードがつづいている。

仲間に入れない(入りたいと思えない)じぶんに
しみじみと泣けてきたり

るみの砂抜きと
AFPと
断捨離と
ぜんぶがつながっていて

さみしさがどんどん湧いてきて
じんじん響いて止まらない

子宮に溜め込んできた感情であり
日本社会が抑圧してきたエネルギーでもある

個を明確に生きることを促されている宇宙の流れ
それに伴って、孤独もより明確になっていく

じぶんが、じぶんであることの、孤独。

じぶんのうちからあふれてくる
かなしみ、さみしさ、痛みに手一杯で
いまは、極力、刺激のすくない暮らしにせざるを得ない

ふるい友人たちの集まりが、2件あり
ひとつは100人単位、もうひとつは4家族
前者はもとより、後者も行かないことを選んだ。
オットにひとりで行ってもらった。
オットが一緒なら行けることもあるのに
今回はそれも無理だった。

関西の友人が上京するタイミングで
気になってたセッションを受ける機会もあったけど
いまはどうしたって消化不良になりそうだから、辞退した。

季節柄、うつ傾向でもある。
日照時間が短くなると、てきめんにくるのだ。

玄米菜食を心がけていた頃も
たしか、こんな感じで、
過敏になりすぎて
それで普通食に戻したんだけど
いまは、普通食である・・・

オットが子作りに本腰いれはじめて
回数が増えてるのも関係あるかもしれない。
深層筋への揺さぶり。

わたしが、わたしであることの、かなしみ。
これをきちんと自分自身で負えるひとが
足りていないから、ある一部の人たちが
集中的に担わざるを得なかったんじゃないか。

内向的なひとを、活用できるだけの
ゆとりが(必要にせまられて)うまれつつある日本社会

朔日冬至。陰陽がひっくりかえるのか?

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