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2014年12月の記事

ありがとう

あなたの望むようには
愛せません。

だけど
愛してるんだよ。

いつも、めいっぱい、愛してるよ。

ありがとう!

かみさまのはなし

かみさまはいつも
応援したがってる

わあ、すごい!ありがとう!って
笑ってもらえるのがしあわせ。

逃げ回っちゃうひと
難癖つけるひとは
後回しにする

要らないんだったら
いまは、あげないほうが親切かな。って

かみさまは、まちがわない。
否定されると、とても困る。
そして、とてもさみしい。

わたしのしってるかみさまは、さみしがり。

よろこんでうけとってくれるひとを探してる。
さいきんは、けっこう、いっぱい、みつかったね!

あいされてないわけがないのに
ゆるされてないわけがないのに
みんな、わからんちん。
くるしいゲームがすき。

かみさまには、わからない。
わかるけど、いっしょにあそべない。
かみさまの、出る幕がない。

だから、遠くに旅してた。

まぶしすぎて
こまらせちゃうから

遠くからそっと
ちいさく加工して
すこーしずつ配ってた。

かみさまのひかりをみとめることは
じぶんのひかりをみとめること。

みんないそがしくて
かなしみに暮れていて
ひかりに目もくれない。
目がくらむからダメなんだって。

きれいな、きれいな、ひかり。

もしみんなが目くらになっても
かみさまは遠慮しない。
だって、もう、さみしいのはいやだからね。

ほんとのひかりをとどけよう。

壮大化のススメ

わたしは感動したがりだ。


子どもを育てている友達が
縛りから放たれ元気になる瞬間や

子どもたちに関わる仕事
とくに教育関係の友達の誰かの
かっこいい信念だとか
すばらしい気づきを得たという投稿や
子どものきらめく才覚を見つけた話

そんなようなことを知るたびに
ああ、日本の未来はあかるいなあ!と思う。

そんなオトナに触れて育つ子達がいる。
なんて頼もしい!と思う。


それから、わたしに去来する嫉妬や悲しみ
怒り、孤独感、焦り、苦しみ、不安、、、
それらすべては、たまたま流れ込んできた
セカイのいちぶだと思っている。

それを我が事として引き受け、
思索探求の末、フラットにできたとき、
よし、またひとつ世界がクリアになった!
怖いものが減った!と思う。

おなじように、どっぷり問題にはまってた誰かが、
問題が問題ではなくなった☆と、つぶやくとき
よっしゃ!お勤めご苦労様でした!と思う。


理解しがたい行動、
見るに堪えないふるまい、
ダブルバインド、嘘臭さ、
批判にさらされようがお構いなしの
本質から外れているようにみえる人物には、敬意の念を抱く。
セカイのバランスをとるためだったり
反面教師だったり。お役目ありがとう。
(かといって、近寄ろうとも思わないが。)


自分を、じぶんという個体として見ると
なんとも至らない、情けない存在だけれど
全体のいちぶだと思えば、大したことではない。

岩場の潮溜まりみたいなものだ。
寄せては返す波、満ち引き。
水の量も、色も、温度も、なにも選べない。
せいぜい、小魚がまぎれこんでくるといいなと、願うくらい。

そして、波に抗わず、波に洗われ、
すこしずつすこしずつ、まるくなっていく。
ひろがっていく。

クジラが泳げるくらいの潮溜まりになれたらいいな。

フジツボやカキがたくさんくっついて
ごつごつした潮溜まりも悪くないけど

わたしはやっぱり、大きいのがいいな。


ひとくぎり

勇気は、女性性
智慧は、男性性

それが描かれたとき起こる
たしかな波動

みるひとを惹きつけ
波紋をおこす
装置

0.1ミリ動かす
いや、もっと小さくていい

ミクロはマクロ


ひとが、もっている、ひかり。

闇をかかえ、みとめ、それでもなお
光であろうとする、やさしい気持ちを

なでていく風のような

有無を言わさぬ
一方的な
断定。

断言。

真理。

相手を否定する必要はなく
説得する必要もなく
ただ、示す。

不親切でいい。

わかりやすい広報は、もう要らない。
不特定多数を、追わない。

広報任務終了。

永遠の片思い

独占欲

嫉妬

求めてやまない注目や承認や受容


それは永遠に得られない

ファザコンは死ぬまで治らない


ほんとうはいつだって

思っているよりはるかにたくさん

得られている


思っているのと違う形で。

世界を信じる

わたしが世界を信じているのは、

世界に愛されてる確信があるからで、

なぜならわたしが愛してやまないから。


世界と自分は表裏一体だと知っているから。

求めているなら

じぶんが求めているものは
誰かにあげたいものだという。


さみしいなら
誰かにやさしくするといい

つまらないなら
誰かに嬉しいサプライズを

ひとり置いていかれた気分なら
置いて進んでくれたひとに感謝しよう

立ち止まることがゆるされているじぶんを、堪能しよう
 

さみしいのも
不安なのも
大好きをこじらせてるだけ

受けとる余裕のないひとに
押し付けるなんて勿体無い

想いが、重いから、暗いから、、、?
自分のできの悪さや
相手のふがいなさを
責めてばかり

幼い頃、喜んでもらいたくて
差し出したら
拒絶されて
困って、止まって、そのまま。

いまならわかるはず。

大好きならば
ゆるしてあげて

焦らず
信じて
待ってあげて

そっとしておいて


そして受けとってくれるひと、場所を探すんだ。
見つからなければつくるんだ。

腐ってさぼってるヒマない
フレッシュな大好きは
フレッシュなうちに
フレッシュなままに
誰かになんとかして渡すんだ

欲しいひとはいるはず
欲しいひとにあげていい

こいつなんかにやるもんか!
あんたみたいな雑魚に用はない!
欲しいと言える奴は他からもらえ!
男のくせに媚びててみっともない?
 

だけど
誰かにわたさなきゃ
自分が腐ってく

もらうよー!ってひとに
もらってもらえばいい

かっこつけてないで

こだわってないで

まず流すこと

出すこと

そうしたら、なにか始まる。

貰ってくれてありがとう。

ほんとはやさしくしたい。
いつだって、誰にだって、やさしくしたい。

持ってるもの全部さしだすくらい、
優しくありたいのに

それをしちゃいけない、
すると迷惑、
自分が困る…って、がんじがらめ。

だからね、受け取ってくれてありがとう!と思う。
わたしにとっては、奇跡的。

どれだけ、受け取ってもらえない・・・
差し出しちゃいけない・・・って
がまんしてきたんだろう。

きっと、幼少期の挫折。勘違い。
見極め不足。
こどもらしいまっすぐさの弊害。
相手を慮る想像力、
その元になる経験が圧倒的に足りなかった。

相手を恨めなければ
じぶんを落とすしかなかった。
単純思考。

すこしずつ上書きしていく。
もっと、書き換えていく。

差し出してもいい場所
もっと、日常にひろげていく。

願い

平和を望むひとが増えること
平和のために泥をのむことのできる器が育つこと
統合がすすんでいくこと

平和推進活動

大好きなひとたちに、大好きだと、そのまんま伝えられること。
遠慮なく、大好きだからこそ思いつくこと、
やりたいこと、伝えたいことを、渡すこと。
受け取ってもらうこと。
一緒に笑うこと。

大好きをがまんするから
歪んでいくのだ

不安ベースじゃない
ただの愛情表現としての
日々の暮らし、言動、すべての営み

誇りをもって、まっとうすること
すべてはそのためだと、思い出すこと

アーティストという生きもの

アーティストが
アーティストであること

暮らしのすべて
日々、みるもの、たべるもの、
感じること、触れることすべてが
創作表現につながっていること

筆をとらない時間
手をやすめている時間
すべてが、創作活動であること

そのことを
アーティスト自身が
自覚していないことが多い

どうか
自覚していてほしい
一挙手一投足すべてが
祈りのあらわれであることを知ってほしい

その体が
どれほど大切なものか
どんなにけなげに寄り添ってくれているのか

うちから現れようとしているものをそとへと表す
そのすべてが、宇宙の計画の、欠かせないパーツで
それを担うことができるのは
その体をもつ
そのひとだけなのだ。

わたしは、現れるのを、ただ、見ている。
あらわれることを知っていて、信じて、時を待っている。

悩みも苦しみも体調不良もスランプもすべて
貴いものだと、言い続ける。

表現活動とみなされることをしない
たとえばオフィスワーカーであっても
根本的には同じだ。すべて祈りで表現。

いまの日本において
表現活動を続けるというのは
見返りをあてにせずそれを続けるということ。

ことあるごとに揺さぶられて当然だろう。

なにで収入を得てもいい。
ただ、表現したい気持ちがあるなら
そのツールをもっているのなら
どうか、やめないでほしい。

承認が必要なら、いつでも全身全霊で全肯定するよ。

惑わされ、間違うけれど

ヒトは間違う。

実際、間違った。

正しいの反対の間違いではなく
それはもう純然たる間違いなんだけど。

間違っても、いいと思う。

極力間違わないようにするし
注意をはらうけれど

それでも、間違うときは、間違う。

だって、きれいなんだもの。

そりゃ、魔がさすよね。

それでいいのだ。


(2014年12月22日 facebookより)

朔旦冬至によせて、その2

輝きを、輝きのままにみるチカラ
罪悪感のフィルターなしに、感じ取るウツワ
目を焦がすほどまぶしい、ちいさな光

それとらとお金が結びついてたとは…!
予想外だったけど、ウツワがなくちゃ入らないのだ。

3年とすこしまえ
もぐってもぐってもぐってみつけた
とびきりきれいなもの

どうしたらみんなに見てもらえるか?
その存在を知ってもらえるか?

取り出すことはかなわず
カタチにかえるのも、もどかしく
プロセスをなぞってもらったとしても
おなじところにはたどりつけず

まさか、こんなかたちで実現するとは…
夢にも思わなかった。
まったく思いつかなかった。

あの光をみることができるひとたちがいると
わたしが知ったからには
わたしは安泰。

まぶしさのあまり目が眩んで
揺れ、ぶれるだろうけれど
ひとりじゃなければ、間違わない。確信。
(そこにも罪悪感は要らない)

宿題、完了。
まさかこんな壮大な仕掛けを要するとは!!
あの手この手ウラに表に約3年…

次は、うっかり願わないよう、願う!


(2014年12月22日 mixi日記より)

朔旦冬至によせて、その1

痛みが癒され
鏡をまっすぐ
見つめられるようになった。

男性への恨み。見下し。不信。
ゆるっと解けて

被害者という盾をおろし
相対する鏡の奥のきれいなものが
目にうつる。宿す。

光の川を
みても
もう、だいじょうぶ。

まぶしさに目を逸らしても
もう、忘れない。

想いは、痛いほどに、うつくしい。

器が育ち、循環がはじまる。


わたしが
みせたかったもの

海底でみつけた
地上にあげることのかなわない光

これを、伝えるんだ。
そう思ったから
離れることを選べたあのとき。

月星座ふたご座の願い。達成。
癒し完了。

あとは、連鎖する。
100匹目のサル方式。
飽和すれば、はやい。


世界のうつくしさに
それぞれが気づけるように
見に行くことができるように

壮大で悠長な計画


いちどでもそれを見たなら
そんなひとが増えたなら
世界は輝くしかない

それをみんなも見られるのだと
だから、魔に克てるのだと
わたしが信じられるのならば
怖いものはない。


(2014年12月22日 mixi日記より)

るノ湯

魂の浴場。

あの時間と空間を
思い出すたびに

ちからがみなぎる。

敵味方も
利害もない
他愛のないはなし

いきてきた証としての肉体

手の内も
腹の底も
ぜんぶ透けて見える

見せることより
見ることのほうがよっぽど怖い
そんな、幾多の記憶

すべてを溶かす湯気

すべてをつつむ音

今度こそ
成し遂げたいなって
思うけれど
もし出来なくてもまあいいか
たのしかった!
って笑えるように
そこだけは間違わないように
今度こそ

うん。出来るんだ。
あとはなぞっていくだけ。

いい湯だなー。

わたしのなかの鬼子母神

わたしが陥りやすい傾向に

受け容れ
呑み込み
ひとつになり
溶け合い
変質させたい
互いに変質したい

そんな欲求がある。
とって喰らいたい衝動とでもいおうか。

もともと持っていたのが
ようやく言葉になった感。

変容: 大きく様変わりするさま
変質: (要素)の特性を変更する

そう、性質が変わってしまうくらいの
そんな深い関わりを、求める傾向。


同時に、そこには非常に強い抑制がはたらいている。
ヒトとしての倫理観のようなもの。

わたしはこれを
飼い慣らしていくのだろうか?

いまはまだ
じぶんでは
それを求める方へ傾いたときに、気づけない。

うまいこと、正当化する。
理想のため。世界平和のため、とか。
正義をうたって、好奇心で突き進もうとする。

そのたびに、ストップがかかる。
誰かが、とばっちりをくらう。
身体を壊したりする。

もちろんそれは
相互関与なのだけれど

足止めさせるまで気づかないじぶんにがっかりする。
以前はまったく気づかず突進していたことを考えると
あとからでも気づいて、確認して、止まれるだけマシになったとはいえ。

そちらへ行けないことにもがっかりする。
行くことよりも制約を選ぶ自分
ひいては、肉体という制約に腹が立つ。


かわいさのあまり
食べてしまいたい。
呑み込んでしまいたい。

まるで鬼子母神のような
無邪気な欲求。

その津波のような欲求の
奥底にあるのは
ひたすらな、愛おしむ気持ち。

だけど。愛おしさのあまり
呑み込んでしまえば
それは、元のそれではなくなる。

そのものを愛でていたいのであれば
つかず、はなれず、そっと
見守るしかないのだ。

そして、変わり果て
朽ちていくのを
見ているしかないのだ。


呑み込んで変質させる

呑み込まずに変容を見届ける

「そのもの」が「そのもの」であることの尊厳に気づいてしまったら
変質させることを選ぶのは難しい。

変わってしまうからといって
変えていいわけではないのだ。

家事の得意なパートナーを得るには

家事の得意なパートナーをもつ女性をみると
うらやましいなあー
いつか、うちのオットもそうなるのかなーって
どっかで思ってた。

いつか、というのは
わたしがなにか変れば。というような意味に
自動的に、なっていて

わたしがなにかやめるとか
なにかに気づくとか
自己価値があがるとか

とにかく、成長したあかつきには
パートナーもおのずとそうなるのでは。と
かってに期待していた。ようだ。

なんでそうなったのかは、この際、どうでもいい。

気が付いたので
もう待つのはやめる。
機械を頼るぞ。

家事の得意なパートナーはいないが
貯蓄はあるので、うちの場合はそれでいいのだと思う。

まとめ【くじらゆき】 by天音らん

2012年10月17日(水)
http://ameblo.jp/ranaki/entry-11381832307.html


ゆきちゃんはね。
目に見えないもやもやを
目に見えるものにする達人です。


目に見えないものを
目に見えるようにする。
私たちは太古の昔から
ずっとそうやって
進化してきたんです。




2012年10月23日(火)
http://ameblo.jp/ranaki/entry-11387104150.html


ああこの広い宇宙を泳ぐための
グラウンディングだったのかと
訳の分からん感想を抱くしかない
セクシュアリティワークin東京。
ただいま絶賛準備中。準備段階で
すでに銀河系三周ぐらいしてます(謎)


くじらゆき。
彼女は、宇宙のくじらなのだ。
スピリチュアルと呼ばれる、
掴みどころのないエネルギーを、
どこまでも追いかける。
誰のために?
スピリチュアルという言語が
分からない
浮かばれない魂のために。


分かる人にしか分からないなら
それは「分からない」もので、
「分からない」なら無いも同じ。


アセンションという言葉を
初めて聞いた時、
そこに隠された選民思想に
無性に腹が立ったのを思い出した。


全員乗れない
ノアの箱船なんか
いらないって、泣いた。


そうだ。
思い出した。
私は、
世界一カンタンに
幸せになれる方法を
追い求める人なのだ。


彼女の起動が宇宙に必要だって
私、何万年も前から知ってたわ。



2012年11月01日(木)
http://ameblo.jp/ranaki/entry-11393932180.html


私も、関東ゲストのゆきちゃんも、
のほほんと遊んでいるように見えて、
実は妥協できない完璧主義者なので、
今回のセクシュアリティワークin東京
エネルギーの整い方が、半端ないです。

ゆきちゃん(サイト)は
情報を集めるスキルが
ずばぬけて高い人です。
ランダムに散りばめられた
情報というカオスを
徹底的に整理しようとする人。
見なかったこと聞かなかったこと
知らなかったこと、にできない。
この世界にある情報は
知らない方が幸せなことが
とても多いのに。
スルースキルゼロ(笑)
彼女が持って生まれたそのスキル、
どれだけ生きづらかっただろうかと
思います。
情報が多いということは、
背負う責任も多いということだから。
(一般的に使われる「責任」とは
少し違うのだけど説明はまた今度)

そういえば、
彼女に初めて出逢ったとき、
彼女の魂はこの世にいませんでした。
この世界のくだらなさに疲れ果て
どこか退屈そうに空から眺めていました。
本当にくだらないなら捨てれば良い。
それでも捨てきれない。
「人を愛したい」のだと嘆く魂でした。
「人を愛するとはどういうことなのか」と
ゆきちゃんの魂の声は、
悲しげに私に問いかけるのでした。
ゆきちゃんの魂はこの世界に存在する
全ての悲しみを心から抱きしめる術を
私に問うていたのです。
そんなことを、思い出しました。


私が「それ」を知っていること、
彼女は宇宙から探しあてたんです。



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問いのこたえは、前記事に。

こたえ(セクシュアリティワーク東京2012年11月)


ゆきちゃんの魂はこの世界に存在する
全ての悲しみを心から抱きしめる術を
私に問うていたのです。

天音らん2012年11月1日ブログ記事より


その「こたえ」としての
2012年11月
セクシュアリティワーク東京
ゲストセラピスト

わたしはいまも
その「こたえ」を反芻している。
たしかめている。

もしかしたら
あのときの報酬も
わたしはずっと、呑み込めず
呑み込まずに、いたのかもしれないなあ。

呑み込んだら終わってしまう。
それは、始まるということ。
つまり、変わるということ。


自分にとって大切なものを
大切にする行為は
自分を愛し、
大切にすることでもあります。

加藤まやさん VOGUE 今週の星占い 12/15~12/21 より


2012年10月から
蠍座に滞在していた土星が
クリスマスに、射手座にうつる。
(来年の半ばに数か月、また戻るけど。)

わたしの東京ワークも、やっと終わる。


大切なものを
ぞんぶんに
こころゆくまで
大切にすることを

すこしは、ゆるせるようになったかな。


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7回目の大阪は
おわりのはじまり。

第七チャクラ。
みえないものとつながる力。

これを、リアル(現実世界、日常)に落とし込んでいく。

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3月からじっくり整えてきた
女性性のエネルギーを
大地の奥深くへと
みちを拓くのだ。

全力で花を咲かすために。


2012年10月の過去記事
みえない大地を感じて立つ より

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2012年11月 東京ワークテーマ
エロス(袋とじ)

終了後にみえたサブテーマ
家族からの自立


お金から余分なエネルギーを取り去ることは
わたしにとって、家族からの自立だった。


すべての悲しみを
ただ、抱きしめていたい。
癒したいわけじゃなくて
ただ、それを感じていたい。

そのわがままを
じぶんにゆるしていく。

ありとあらゆる手段をつかって
じぶんに与えていく。


全員乗れる
ノアの箱船

つくろうじゃないか。


わたしは徹底して諦めないから
「諦めることを、諦める」ことも
諦めきれないまま、いくのだろう。

それでいい。

相反するちからを統合することで
第3のベクトルが出来るのだから。


気づけば終わる

この数日、お金にまつわる違和感を
徹底的にさらって、ようやく、ひと段落。

違和感は、気づけば終わる。

わたしがそれを見過ごせないのは
それすらも「善きもの」
たとえば愛だとか
であると、確かめたいから。
納得したいから。

お金は大事だから・・・
大事にしなくちゃ
大切に扱わなくちゃ
そうやって息苦しくしてきたけれど

お金を大事に思ってきた理由
大事にしたかった根っこの思いを
きちんと味わうことができれば
持ち続ける必要はない。

お金に乗っけていた思いを解き放つ。

お金に担わせていた役割をほどく。

これからは
お金でも
お金じゃなくても
惑わされずに、扱えるだろう。
感じられるだろう。


お金について
これまでにもずいぶん
思考を巡らせてきたはずだけれど
これで完全に終わり、と思いたいけれど
きっと、また、なにか見つけるんだろうなあ。
その時はその時だ。

おかねにまつわるわたしの常識

おかね。2年前には、
使うのが苦手な理由を書いてた。発掘。
http://moana.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-674a.html

お金をつかうことに
ものすごく罪悪感があったのは

お金をつかうこと
稼ぐ必要のある状況をつくることは 、
父との時間をあきらめることだったから。

お金がほしいと素直に思えなかったのは、
大好きなひとと一緒にいられないことを意味していたから。

---

そもそも

お金がないと暮らせないとか。
なにかのために貯蓄が必要とか。
年収は、多い方がいいとか、スゴイとか。
じぶんが食べるぶんは自分で稼いで一人前、
借金なんてトンデモナイ、ろくでもない、とか。

そんな風潮のなかにずっといたから
すっかりそれが常識と思って生きてきたけれど

お金はとっても貴重で、大事なものだと
まるっと信じてきたけれど

この常識、もう要らないなあ。

具体的な使うアテもないのに
いま使いたいのは我慢して
貯めて、保有し、管理にエネルギーを使うよりも

必要な時に
必要なだけ
めぐってくる前提でいたら
どれだけ気が楽だろう。

あるひとが払えばいいし
ないなら、なくてもイケる方法を探せばいい。

お金を水に例えると
雨が少なければ給水制限になったりして
やっぱり備蓄が大事。と考えたくなるけれど

海の水は枯れることがなく
生活用水に転用する技術はあるはずだ。

工夫の手間。

ほんとうの効率化(急がば回れ)が分かっていれば
そんな手間を惜しむ理由もない。

これでいこう。

女性が苦手な理由

前記事からの続き。

お金にしろ、モノにしろ
女性からもらうほうが
苦手な理由として、もうひとつ思い当たった。

貯めたい、所有したいけど、使いたい
ジレンマのエネルギーが、
女性を通して表現されやすい、
という側面が、あるかもしれない。

ジレンマを
きれーさっぱりなかったことのように
フタをするのが上手な人たちがいる一方で

エネルギーレベルでは
消化しきれていない葛藤が
世界に漂っている。

共鳴しやすい女性はそれを拾って、
お金やモノを差し出す時に、のっけてしまう。

ほんとは上げたくないのに。
上げなくていいなら、上げたくないのに。
そんなエネルギーがのっかっている。

受け取り手であるわたしは
それで混乱する。

男性からのお金、女性からのお金

もらえない理由を考えていたら
男性からもらうよりも
女性からもらうほうが
圧倒的に、苦手だということに気づいた。

ぜんぶがぜんぶではない。
だいじょうぶな場合、パターンもあるのだが
それについては、いまは置いておく。



前記事 『もらえない理由』 で書いたように

「大事なものは、大事すぎて
どうしていいかわからないので
はじめからもらいたくない」

わたしが女性からもらうのをためらうのは
つまり、男性よりも、女性から貰う方が
「大事」に感じるってことだろう。

たまたまお願いする機会があった友人Aちゃんの
タロット結果をヒントに考えてみたところ

女性からもらうもの、とくにお金には
なにか、、、矛盾や葛藤が乗っかっているという仮説。

お金を払う。手放す。というのは
生き物としては「気持ちいい」行為。
息を吐く、ものを捨てる、便秘解消と同じで
肉体的にはスッキリするものだ。

それを、しかし、相手に渡す。
ということになると
なにかが不自然と感じる。

お金というものは
二次的なもの、というか・・・
変換前提だからだろうか。

女性からもらうお金は
ほいっと放置しておけない。
なにかに使わなくちゃ、替えなくちゃと思う。
カエルもらうなら水槽を用意しなくっちゃ!というような感じがする。

お金ではなく、それがじぶんに不慣れな「もの」であっても
それを消化できる(じぶんのこやしにする)気概がなくては使えない。

女性同士のお金のやりとりについて
友人Rと話をしているうちに
「男性社会で軽んじられる女性」との関連性が浮上。

大切にする。ということ。
敬意をもつ。ということ。
好意を、好意として、あいてに伝わるように、あらわすこと。

ほんとうはお金なんかではなく
もっとすてきなものをあげたいのかもしれない。
じぶんが好きなもので、相手と共有したいもの。
相手を悦ばせるだろうもの。

お金は、無粋なのだ。女性にとって。

男性から大切にされないのは
女性自身の男性性が、じぶんの女性性を、
大切に扱っていないから、という見方ができる。

男性社会にあわせて
切り捨ててきた情緒。
はなしを簡単に、はやく、スマートに済ませる習慣。
溜め込むこと、増やすことを、ヨシとされる社会。
大量に所有する。大量に消費する。

育てるように
慈しむように
ゆっくり、じっくり
すべてに相対するのが女性性。
着物も、桐箪笥も、鏡台も、受け継いでいく。
修理しながら。親しんでいく。愛着。


たとえばイベントをやるにしても
来場者数だとか
売上だとかより
どれだけ満たされる時間を過ごしたか
どれだけよろこびを共有できたかが、大事なのだ。
無理なく、自然体のじぶんで、心ゆくまで味わえたかどうか。
それは、数字にはあらわれない。
場に居合わせないひとには、わからない。


そのことを、女性自身が、まず、大切にすることで
バランスが整っていくだろうか・・・

もらえない理由

退職するときに 「お世話になった御礼に」と貰った
LUSHのバスボムを 4〜5年放置していたことを、思い出した。

ありがたくて
もったいなくて
誰かへのプレゼントに流用しようかしら
それもまた相手に失礼かしら
でもでもでも・・・
そんな葛藤を4〜5年抱えていたのだ。

新聞をとっていたときは
読みきれなくて、でも読まずに捨てるのは
新聞という物質にも、新聞制作したひとにも、
新聞購読料にも失礼な気がして
いっぱい溜め込んでいた・・・

モノを捨てられない、使えない
大事すぎてどうしていいかわからないから
いっそのこと貰いたくない。
ずいぶん長いこと
そんなふうだった。
すっかり忘れていた。

モノについては
ずいぶん軽やかにw
使ったり捨てたり他にまわしたり
できるようになった。

はじめの頃は
なんて恐れ多い!ぎゃー!罰当たりな!!って
思ったりしてたけど、いまとなっては、へっちゃら。気楽。

お金と時間と労力も
だいぶ軽やかに
使えるようになったと思う。

たとえば牛乳。
そんなに飲まないから500パックで十分なんだけど
1リットルパックしか買えなかった。
あきらかに割安なので!

でも、そのたびに
使いきれるかな・・・
シチューつくらないと・・・なんて
ストレスを抱え続けるのが馬鹿馬鹿しくなって
500のほうが割高どころかお買い得!って思うようになった。

割引クーポンを忘れても
とりに帰る手間と時間を考えたら
お金はらったほうが、ある意味、効率的!とか。

気力体力の使いどころ。温存。
ほんとうに大切なことを大切にできる状態を保つこと。
それ以上に優先すべきことはないのだと
自分に言い聞かせるようになり

そうしたら。
貰うのに慎重になりすぎて、身動きできなくなった・・・
頂戴って言ってまで貰うなんて、論外!

貰ったものの所有や対処は
気力体力をつかうのだ。

なんだってそんなに消耗するんだろうと探ってみたら
「大事すぎるから」に行き着いた。

大事だからこそ、避けたくなるのだ。
大事だからこそ、扱いに困るのだ。



冒頭の、バスボムであれば
そもそも「お世話」をしたと思っていないどころか
迷惑をかけたと自己嫌悪しているところに

じぶんが使うことはないだろうと決め込んでいた
じぶんにとっては「贅沢品」で「必要ではないもの」を
いただいてしまった。

それを、じぶんの所有とすることや
じぶんが使い、味わい、喜ぶことを
じぶんに許可できなかった。

4~5年かけて、ゆっくりゆっくり消化して
バスボムを使うことで感じられるであろう心の潤いを
世界(未来)に還元できるだけの力が、じぶんにはある。
そう思えるようになって、ようやく使えたのだった。

わたしにとって
なにかを受け取るというのは
ときに、命懸けと言っていいくらいの
たいへんなことだったようだ。

自己価値パラドックス

自己価値があがる

というと
なにかを習得するとか
なにかすてきな魅力を自覚するとか
だれかに認められて人気者になるとか

そういう感じを思い描いていたのだが

実際にはどうも

しょぼくて
みみっちくて
小市民で
取るに足らない

これといって望まない
とくになにかを目指すわけでもない
なにも求めていない

そんなじぶんに気づいて
それがじぶんなのだと自覚して
価値とか、数値とか、指標とかどうでもよくなって

そうしたら
結果的にあがった気がする。

というか
以前よりもあがっている状態と思われる。

おかねをかるくする

夏から、会計データ入力のバイトをしている。
これが、なんとも、おもしろいポジションで。

数字の流れだけを、見ている。

左から右へ、ただ、流れている。

所有者が変わるだけ。
あるいは、科目(位置づけ、意味合い)が変わるだけ。
数字は、数字。

簿記の勉強したときには
この感覚までは分からなかった。

いろんな会社やお店の
売上だの経費だの
数字を、入力していく。

数字の流れからみえてくる
ひとの動き、思いはさておき
左から右へ・・・

意図や思いののった「金額」を
ただの「数字」として打ち込んでいると
なんだか浄化装置な気分。

ただ、流す。

おかねをきもちよく
好きなものに
心地よいものに
すっきりと流せるひとのところに
もっとおかねが渡るといいなと思う。

ぎゅうぎゅうに苦しくて
のっぴきならなくて
願いと引き換えに
絞り出すように
仕方なしに手放すのではなくて
モノやサービスとの引換えではなくて

おかねを渡せるよろこびだとか
支払うことのできる幸せだとか

「お金として在るエネルギーを手放す」
純粋な体験として、感じられたら

どんなに風通しが良いだろう。

息を吐く。
あくびをする。
不用品を捨てる。
話す。しゃべる。歌う。

じぶんのうちから
なにかを排出するのは
単純に気持ちのいいものだ。

それが気持いいと感じるように
肉体はできている。
出す。入る。留める。出す。。。

買い物依存性というのがあるけれど
あれは、手に入れるたのしみよりも
放出が気持ちいいんじゃないかと
わたしの個人的な感想。

放出する理由が欲しいのだ。

気持ちいいから出す
気持ちよさを味わいたいから出す
だけでも、ほんとうは、いいはずなのに

たくさん所有するほうが良い
なるべく使わないのが賢い
お金を得る(増やす)のは大変だから
安心のために溜め込んでおくべき
という前提があるせいなのか

なにかを得るためだとか
役に立つとか
もっともらしい理由がないと、放出できない。



お金というものが
そもそも、そういう役割をもって
共有されている観念なのだろうか。

そんな重たい観念はどんどん洗い流して
ただの、きもちのよいエネルギーとして
巡るといいなあと思う。

思うだけで
じぶんの手元にきたお金となると
まだまだうっかり怖くなるのだが。
なにごとも、慣れだろう。きっと。


死にたい気持ちについて

「死にたい」
「早く終わりたい」
そう思ってしまうことについて。

まず。わたしの基本的な考え方として
「思っちゃうことに是非はない」

思っちゃったこと、出てくる思いは、
道徳も倫理も関係ない。

「死にたい」だって
「あいしてる」の同義語だ。

でも、それ認めるわけにいかない「なにか」も
わたしのうちがわに歴然と在って、
それもやっぱり「愛」でしかないから。
ジレンマなのだ。

(なぜ同義語だと思ったか?)

すべてわたしの感覚と経験に基づく推論ですが・・・

「ヒト」という生き物が発するエネルギーは「だいすき」だけ。だと思う。

それがどんな言葉になっても、態度や行動になっても。
戦争だって、
こどもが癇癪おこして暴れてるのと、
本質的にはおなじだと思っている。

殺し、殺されることですら
「体験」を求めている「本質」にとっては、
需要と供給があっただけだろうと。

「生命」としての「わたし」にとっては
ちっとも嬉しいことではないけれど。

それから、ひとが「おもうこと」というのは
とくにエンパス気質のつよいひとであれば尚更、
集合意識と判別がつかないものだと思っている。

つまり「死にたい」という気持ち(衝動、エネルギーの方向性)は
「ヒト」という生き物の集合体が抱えている「要素」であり

一個人のなにか(生育歴だとか環境だとか)に依るものではない。
(それを「体験しやすい」器(肉体)や役割は、あるだろう)

すべての要素は、表現されるのを待っている。
表に出たがっている。
すでにそこに「流れ」が生じていて
それを感知したひとがパイプとなり、表に出す。
いや、もしかしたら、流れのほうが、
ヒトを選んでいるのかもしれないけれど
ともかく、それを表現せずにフタしてしまうと、歪んでしまう。
エネルギーの便秘のようなもの。

なぜ同義語か、といえば。
そう考えるといろんなことのつじつまがあうから。

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