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2015年3月の記事

先に言葉

3月晦日。

facebookの「過去のこの日」というアプリから
去年と、おととしの、今日の投稿を見てみた。

おととしは
スペース風来房プロジェクトの
事の始まりであった
講座について書いていて

去年は記事を書いていた。

【子どもを生きるオトナ】
http://moana.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-db77.html

わたしはほんとうに
いつもいつも
同じことを書いている。

子宮委員長はるちゃんの言葉
私は過去の自分にアクセスして、その時に必要だった事やその時の気持ちを“今”にダウンロードして発信しています
ブログ記事より

それになぞらえるならば
わたしは未来から
言葉を紡ぐ。

正確には
未来でもなくて
真ん中の意識。といえばいいだろうか

そして、その言葉に引っ張られるように
現実(肉体)をアップデートしていく。

沸き起こる感情や
身体の変化をいなしながら
その言葉を生きる。
実らせる。

その繰り返し。

北極星

身体セラピーで
相手の身体バランスを
自分にコピーして
その差異から、相手の状態を言い当てるように

わたしは
わたし自身との差異を手掛かりに
相手のもつ光の輪郭をなぞる。
言葉にする。


誰かが、じぶんの光を知ってくれている。

ということは
とてつもない力になるだろうと思う。

すべてを忘れる覚悟で
すべて投げ捨て
空に一体化することができる。
個を離れることができる。

見失わずに居てくれるなら
それを頼りに戻れる。


(2015年3月27日mixi日記より)

変化と子宮とおしゃべりの効用

なにか、波にのれていない感じがする
なんだか、調子が狂いっぱなし
どうも、おもしろくないことが続いてる

そんなとき
いちばん助けになるのが
おしゃべりだと思う。
女性の場合。

整体的にいっても
口の中は子宮とおなじなので
たくさんしゃべると
血行がよくなる

変化を乗りこなせるくらいの
しなやかさを取り戻す


参考記事:
ほうれい線と、骨盤の下垂現象 歩き方
by 野口整体の研究、整体ヨガ道場 悠遊塾のブログ


おしゃべりの相手は
気心の知れた人がベター

うわっつらで話をしたら
体内循環は活性しにくい

いい子ちゃんじゃない
物分かりの悪い
こどもっぽい
相手の事情も
世間の常識もお構い無しの
短絡的な物言い

ふざけんなボケ、でも
バカにすんな、でも

建前ではない
ほんとうに思ったことを
気兼ねなく言い放ち
そして笑いあう

くさくさした気持ちがとんでいって
現実に向かう元気が湧いてくる


なかなかおしゃべり相手に会えないなら
電話でも、LINEやskypeでもいい

文字チャットでも
しないよりはずっといいし

それも難しいならば
指で口内や歯茎をほぐすのも
ひとつの手だと思う
(これ、かなり気持ち良いです)
(おしゃべり相手がいるとしても、オススメ)
(子宮疾患のあるひとにも、オススメ)


わたし自身、友人たちに
こんなことがあってこう思った、
こうしたらこうなって嫌だったので
思い直してこうしてみた、
などと、他愛のないことを
書き送ったり、しゃべったり、している。

そのうちに、どこがブレていたのか気がついたり、
傾向と対策が見えてきたりする。
見落としていることを教えてもらえたり、
誰かが聞いてくれているというだけで
思い切った決断ができたりもする。

うまくいっても、いかなくても、
またおしゃべりのネタになるまで(笑)


あやふやなこと
なんだかわからないことを
わからないなりに
言葉にしてみる。

だれかといっしょであれば
相手からも言葉が出てくる。

巻き込んでしまう
迷惑をかける
時間をとらせる
などと
かつての自分なら思ったかもしれない。

そんなのは大抵、思い上がりの一種で
話をすることができた相手は
ちょうど同じようなことに直面していたりして
お互い良いきっかけになることがほとんどだ。

井戸端会議で発散できれば
男性パートナーに求めすぎることもない。
(男性はとりとめのないおしゃべりは苦手な人が多い)

おしゃべりは、平和の秘訣だと思う。

受容から共同創造へ

すこしまえに
「泥をのむ」という過去記事を
読み返した。2013.05.30 に書いたもの。

そして、泥を飲むあそびは
いつのまにか終わっていたことに気づいた。

泥遭遇率がさがった、というよりは、
泥の定義が変わったのだと思う。

思いがけない出来事
マイナスに感じる展開
見るからにハズレのクジ

そういったものを

これも宇宙の思し召し
よきに計らってくれたのでしょう

信じて、そのまま進む。
プラスの意味を見つける。
見つからなくても、
そのうち分かると楽観する。


参考記事:
望みの要らない時代
by ゆきのさん@幸せって意外にカンタン!


ずいぶん上手に出来るようになったと思ったら
春分で、次のステージが始まってしまった。

それはちょっと・・・

そう感じたら
拒絶する。
回避する。
ほかの方法を提案する。

やみくもにYesと言うのではなく。

大丈夫なはず…
みずからにそう言い聞かせて
突き進むのではなく。

こちらの感じていることを
行動でフィードバックする。

ピンとこなければスルー、または再注文。
いいと思ったらすぐ動く。
迷ったままでいない。


曖昧にしておくと
どんどん、調子が狂っていく。

居心地が悪くなり
たのしくなくなり
すべて投げ出したくなる。

とにかく気持ちが悪いので
否応なしに、修正することになる。


参考記事:
2015春分 ☆ 誠実に豊かに心地よく
by 小泉マーリさん


真の自分を感知して、あらわす。
明確な選択をし、行動する。

それ自体は、すこし前からやっていたけれど
(2014年夏あたりだろうか。木星が獅子座にはいった頃)

精度とスピードをあげなければ
間に合わない感じがしている。

いままで6割できていれば上々だったところ
8割以上を求められているような。


あたふたしていたら
知人のブログ記事の一説が
状況を見事に言い表していて苦笑した。


「真の貴方」として対応せねば、
「対応しきれぬ事」が増えていく

参考記事:
春分の祝祭
by みどりさん


来るものにとりあえず乗ってみて
・・・大丈夫だった!

そうやって信頼を育てるフェーズから

来るものを精査して
こちらの意思を返す。
ダメ出しする。
もっと欲張る。

能動的に宇宙とラリーする。

このあたりの感覚は
宇宙オーダー実践中の
知人が分かりやすく書いていた。


参考記事:
「宇宙へオーダー」の具体的なやり方
by 宇宙姫ゆこりん


欲しいのは
年収一千万でも
すてきな結婚相手でも
かわいい子どもでもなく
知名度でも、地位でもない。

求めているそれを使って
なにを感じたいのか。
なにを見たいのか。

メインの願いを、まず捉える。

プロセスは宇宙にお任せ
だけど、あとから文句をつけてもいい。
何度でもやり直していい。

色は気に入ったけれど
形がイマイチな服を

お金が足りないから
時間が差し迫っているから
これ以上は無いかもしれないから

・・・そんな不安とともに
手にしなくてもいい。

そして、手にしてもいい。

なにを選んでもどうせ正解なのだ。

「美しくない」

数日前、オットとの会話。


ヒトは、言うことと思ってることが
違っていたりするけれど

言うことと思ってることが違うのは
まるっとみれば思いやり。

それもまた優しさなのだ
大切に思われているのだと
信じてしまえばいい。

という、わたしの主張に対して


美しくない!! 

もっといい道があるはずだ。
いっしょに探そうじゃないか、とオット。


うへーっとなる見た目のものも
すべて恩恵。と丸呑みして、
いまどんなに苦しそうであっても
みんなシアワセに向かってるだけ!

そう言い切ることができるのは
女性の肉体をもっているからこそかもしれない。

破壊と再生を
毎月体験する女性が
無意識にもっている
いのちへの信頼

強力な再生能力を
備えるがゆえの
野蛮な対処法。


美しくない。

結論は同じになるとしても
もっとスマートな過程があって然るべき。

それを見つけたいのだという。


この道を通れば
もう行けることが
わかっているのに・・・
そりゃ、獣道だけれど・・・

ぶちぶち言いながら

でも、そんな道があるならば
見てみたいとも思うし
きっとあるのだろうとも思う。


安心の土台のうえで
さらなる冒険を。

ゴールはスタート。

よりマニアックに、さらっていく。


宇宙新年とさみしさエネルギー

わたし自身や友人たちの周辺で
発生していること、その違和感を
照らし合わせたところ

どうも宇宙が仕様変更したようだ。
スピードは、さらにアップ。

予告はされてたけど
実際にそうなると
ぎゃーってなる。
そして、それでいい。

もたらされるすべてにYesと言うだけでは依存。
文句も意見も言って共同創造するのだ。
交渉の余地をもつのだ。

自己主張。
王としての自分。
ハラのちから。

価値観がいよいよひっくり返って
いままでのやり方では進まない、流れていかない。
参考になるものがない。
直感と体感が頼り。

人事を尽くさずに天命を待つのは甘え。
思いやりをサボらずに
出し惜しみせずに
及ぶ範囲は整えておくこと。

そのうえで、共同創造していく。


別れの季節
流れの変わり目
いつもより派手な春分

空気中に、さみしさエネルギーが
たくさん漂っている。

痛まない程度の
ささやかな傷から生じるそれは

気がつかれず
見過ごされ
漂うがままにされて
感じてくれるひとのところから出ようとする。

がっかりしたり、腹がたったり
さみしくなるような出来事が発生する。

こういうときは
心ゆるせる人と
洗いざらい話すこと。

そして、身体のケアをする。
足湯、ストレッチ、ぽかーんとのんびり。
(身体は潜在意識のアラワレ。整えやすい)


余裕の確保がいつだって最優先事項だ。

ひとりひとりがそれぞれ
自分がみている世界を統べる
リーダーで創始者。

自己管理。
自己一致。
丁寧に、ひたすらに。

気がついてしまう

気が付いてしまう。という
自分の性質と、どう付き合うか。どう使うか。

近年のあれこれは、すべて、
それが焦点だったんじゃないか?

裏目的。無意識に求めていた答え。

気が付いたところで、いかんともしがたいことは、まだいい。
なにか出来てしまう、やれば出来てしまうときが危険。

なにかしたいと明確に思っていなくとも、
なにかしてしまっているときもある。

すでにしたことはともかく
これから、いま、それに気がつけるかどうか。

ど真ん中の選択ができるか。

先回りする思考を
心に引き寄せ
身体におとす。

手柄を立てたいエゴとの共生。

気が付くことのほんとうの意味(影響)を知り
慣れ親しんだ分かりやすい結果を手放すこと。

「気が付くこと」への執着
監視グセを、手放すプロセス。


(昨晩のツイートに追記)


止めること

有耶無耶じゃなく、区切りがつけられるっていうのは、
それなりにしっかりやってきたからなんだろうね。

オットが改まってそんなことを言った。
身内の言葉は、格別に有難い。

それによって実際的な影響(弊害)を
いちばん、容赦なく、かぶったとも言えるオットが
こう言ってくれるのは、ほんとうに救われる。

自己一致を追求しながら
誤魔化さずに続けてこられたのは
おかげさまです。


有耶無耶でも
苦し紛れでも
止むに止まれずでも
逃げるためでもなく

きちんと止めることができたのは
これが初めてじゃないかと思うくらい
止めるのは苦手だった。

今回の休止はもしかしたら思う以上に
特筆すべきことなのかもしれない。


(昨晩のFBより)

風来房の休止に際して、雑感その3

わたしのなかには

どうしても消えない願いがあり

それは悲願であると同時に

確定した未来でもあって

そうである以上

わたしがなにを意識しても、しなくても

わたしが関わるすべてが

そこに向かっていることは疑いようがない。


悲願で、確定で、疑いようがない、と言えるまでに

じぶんの無意識と

世界の動きを

信じられるようになった。

もう、検証は要らないのだ。


思考は夢見るためにあり

肉体がそれを叶えてくれる。


方法も手段も計画もなにも要らない。

ただ、響いていれば

すべてが整っていく。


わたしの肉体という器が

そのものの音を鳴らしていられるように

わたしは、わたしの世話をする。

世界の手を借りながら

やすらぎとときめきを供給する。

心の求めるままに

心の求めるものを

やわらかで、しなやかなわたしで在れるよう。


それはほんとうに絶え間なく続くことで

わたしはたいてい、夢中で、手一杯。


スペース風来房でやってきた活動は

現状否定が根にあったり

肉体に無理をさせたりしたけれども

いつも、ただ、後悔のないように

注意深く、ひたすらに、やってきた。

必然のプロセスを経て

まっとうして

休止となりました。


わたしに湧き起こるものを

わたしはただ、生きていく。


屋号も看板も肩書きも置いていく。


スペース風来房

ここまでやらせてくれて

ありがとう


風来房の休止に際して、雑感その2

余白、ゆとり、遊び

それさえあれば

ネガティブ思考をひっくりかえせる。

身体の違和感に気が付ける。

詰め込むことに慣れ過ぎて

効率と合理性を重視する価値観にはまりすぎて

抜け出せないのならば

止めろと言っても、止まるものではないなら

いま夢中になってるおもちゃより

もっとたのしいおもちゃがあればいい。


これが、スペース風来房の根底にあったもの。


現状否定から始まっていることに気が付いたら

もう続けられない、続けるものではないと思った。

止めたあとなにをするのか

どうすればいいのか

さっぱり分からなくても

とにかく止めなくては。

止める。

そう決めたのが1月だったか。


風来房の活動を止めるということは

直截的な関与を止めるということ。


個人に、社会に、いま起きている

すべてが最善で

苦しそうで不本意な(そう見える)パターンが

保持されていることすら最善で

これらはすべて変わっていく途中であり

なにも働きかけなくとも

変わるべきときには変わるのだ。

やきもきしながら、見ている必要はない。


わたしがすべきは

わたし自身を平穏に

すこやかに

滞りなく、過ごさせること。


やきもきして楽しくないなら

それはわたしには向いていない、それだけのことだ。

他に担う人がいても、いなくても、

とにかく止めるのだ。


そして、心地よいもの

うつくしいものを

ひたすら自分に与えよう。

そんな時間と空間は、世の中にすでにあるのだから。

わたしが意識的に目的的に作らなくてもいい。

わたしはただ、そこへ行き、享受すればいい。


それがどのように、世界に響くのか

どう影響があらわれるのか

分からなくていいし

気が付かなくてもいい。

気を付けておかなくてもいい。


ただ、無心にあそんでいるだけで

あとはおまかせ。


風来房の休止に際して、雑感その1

風来房の名前にひっぱられて

ずいぶんいろいろ、やってきたなあ。

イベント主催

ワークショップ開催

いま思うと、とんでもないことも、たくさんあった。

無謀きわまりないというか

お調子者の極みというか


なんでこのタイミングで

心屋卒塾生によるオープンに行ったのか

意味を見出すとすれば

安心するため、なんだろう。やっぱり。

教育やお稽古に関わる友人たちの手から

リーダーの種は着々と撒かれている。

はぐくまれている。

育っている。

それを易々と担う人たちがいる。

だいじょうぶ。


風来房、という看板は

ある種の言い訳だったとも言える。

お題目があるから、自分に許せた無茶。

休止は、それなしに、それができる自分でいること。

ほかのなにかを装う必要は、もう、無い。

風来房という看板を盾に動くうちに

わたしのなかにそれだけの安心が育った。


終了でなく、撤収でなく、休止なのは

わたしがぜんぶ抱えていくからなんだろうか。

さみしがりゆえの痕跡だろうか。

答えはまだ分からない。

ブログも、ホームページも、あっちこっちに放置しているのを

みっともないとかいさぎよくないとか思ったこともあったけれど

それもいいさ。ゆるされているのだから。

完璧のすこし手前の

余白は、無限。

(友人のFB投稿より抜粋)


余白、ゆとり、あそびをシェアすることが

スペース風来房の目的だったように思う。

サウジサウダージ

この数日、サウージサウダージのオープニング曲が頭から離れない。

sound hound でしらべたら「wave」だった。
ボサノヴァの名曲、というか、元祖のようだ。
それ以降、たびたび、いろんなバージョンを
聞いているのだが、脳内リピートは止まらない。

ふと脳内に流れ、曲名を調べて聞いてみて
そのあと車で出かける機会があり、
サウジサウダージが流れてきて、
おおそうだったこれのオープニング曲だった!
と思ったのだった。

我が家はラジオがよく流れている家だった。
子供の頃にも聞いていた気がする。

「サウジ(saude)」が「健康」あるいは「乾杯!」という挨拶
「サウダージ(saudade)」が「懐かしさ」「郷愁」
「もう戻る事の出来ない無邪気で日々の悩みも無く
楽しかった幼き頃の日々への想い』
(この解釈の場合、他言語で該当する用語はまず存在しないと言われている)

by Wikipedia

いい言葉だなあ。

完全に戻ることはできないけれど
無邪気で悩みなしに楽しく生きるさ。


この土台で行く。

keikoさんブログより

天王星と冥王星が
最後のスクエア(=衝突)を形成し終えたことで

2012年(もっと遡るなら2010年)から
続いていた緊張状態が
一気に緩みましたね。

山道をやっとこ通り抜けて
いまようやく
舗装されたアスファルトの道に
たどり着いたカンジですね。


ほんとうに、そんな感じです。

主要な柱の土台が完成した。
古い建物が残っているところを
壊しながら、片付けながら
新しい建物の土台を作ってきて
基礎はできた。
まだ廃材とか、ごちゃごちゃしてるけど、とにかくこれで行く。

そんな感触。

やっと言えた。

ひとつ前の記事

やっと、リリースできたなあと感慨深い。

どうせ、やっぱり、わたしなんて・・・
そう言いたくなる気持ちも
言うことのメリットも
身をもって学習した。

「みんな事情があるのだ。」
「そんなに簡単じゃないんだ。」
そういうものなのか、と思い知らされ
絶望感に捉われたりしながら

宇宙のすみずみまで
根拠を探した。

たいていの愚痴は
覆せる自信がついた。

自分勝手で、プラス思考で、空想的な
水瓶座の価値観を貫くための基礎体力ができた。

いばや・坂爪さんの言葉を借りれば
「幸せは既に備わっている」という認識を
共有している仲間も増えたし

「未来の幸せは絶対だ」という確信も出来た。

客観視点を主体として
長らく生きてきたけれど
これからは
どれだけアホで居られるか。だなあ。

空でいること。

それこそが、わたしがいちばんやりたかったことに思える。


過去記事: 無と空(くう)(2013.07.14)

大丈夫の理由

「だいじょうぶに決まってるじゃん。
あなた、自分自身のことを、だれだと思ってるの?
あなたなんだよ?そりゃ大丈夫だよw」

わたしが家族や友人たちに言いたいことはいつもこれだけで、
つまり自分に言いたいこともこれだけだ。


テンパった時、うまくいかないと感じる時、
これじゃダメだと思う時、
先がみえなくてゴールが遠くてしゃがみこんだ時。

「絶対的な大丈夫」に戻るのがいちばんだ。

急がば回れだ。そこに戻りさえすれば、前を向ける。
なにをすべきか、なにをやめるのか、見えてくる。
戻れないときは誰かや何かに頼るんだ。
頼れる先はいくつもあればあるほどいい。


「わたしだから、無理。大丈夫なわけがない…」
なんて言うなら蹴っ飛ばしてやるw 
それをわたしに言うな。
わたしと知り合ったあなたが、大丈夫じゃないだなんて。
あなたにも、わたしにも、失礼極まりないわww


以上、突然、言いたくなって
twitterとFBに連投したモノ、まとめでした。

手を変え品を変え形を変え
ずっと言ってることではあるんだけど
えーいしゃらくせーーい!!直球。
は、あんまりやってなかった気がする。

金星がおうし座にはいった勢い、だろうか?!?

書いたら大変すっきりしました。

一連の

2012年6月
あるいは2010年から続く
天王星と冥王星のガチンコ

今日がラストヒット
3/20日食新月
4/4月食満月まで
気は抜けないけど

どうやら

性的嫌悪
肉体嫌悪
肉欲嫌悪

自分の肉体や性にまつわる葛藤

このあたりが溶けたのかもしれない。
死をうけいれ、正面から向き合えるようになったのかもしれない。


オットが、朝型生活に移行したのは
ことみちゃんの遠隔音叉を受けたあたり。

それがなにを意味するかといえば

わたしが風来房をやめ
つまり、抵抗することをやめ

派手にやりたい、注目されたい、即効性が欲しい、反応がみたい・・・
そうした欲求を直接的に満たすために
自分以外の誰かになろうとすることを

やめたけれど

どこかまだ
抗っていたのが
真髄まで、隅々まで、行きわたったということ。

メトロノームが同期するみたいに。

ひとりの意識ではなかなかクリアできない
惰性で動き続けていた部分まで

放たれた音、振動に
時空を超えて同期した。


そして、わたしのエネルギーフィールド内に
置かれたという、瑠璃観音の像。

水難除け、厄除け。

感情に溺れない
見えないものに振り回されない

わたしが忌み嫌ってきた
扱いに困っていた
わたしの性質

卒業記念みたい。

もう、煩わされることはないだろう。

そして、感情に溺れることも
見えないものに振り回されることも
選んで良いのだろう。


ババクサイ

ばばくさいなー

ださいなー

いもっぽいなー

って思う格好をしている女性をみると

もったいないなーと残念な気持ちになるのだけれど

キミが選ぶ服は、ババくさい。と、オットが言うので

それはつまりわたしがわたしに思っていることで

ぜんぶ鏡でしかないんだなあと思う。


この、ババクサイ趣味への

後ろめたさのような

決まりの悪さのようなもの

平均点を超えられないという思い込み

しょせん・・・どうせ・・・

だれに対しての引け目なんだか。


じぶんのダメなところも素晴らしいと言い切ればいい?


このババクサイ格好がいいんだよ。ってことにするか。

ババクサイけど、これが好き。

好きなものを着て、ご機嫌でいることに、勝ることはないわけで


そもそも、じぶんやだれかやなにかに

難癖つけたくなってるときや

なんとはなしに不安になるとき

元々の滞りは、そこではないような気がする。


「問題」に見えたことを「問題」扱いして

取り組んでしまうと泥沼だ。


なにかが「問題」に見えたというのは

体調と気分のペースが合ってないとか

その程度のことだろう。


だから、それについては気にせず流して

うまくいきそうなこと、たのしいと感じることをすればいいのだ。

「女性と自立」と役割

森の声さんブログ:
森へ行こう(心とからだと子育てと)
「女性と自立」
http://plaza.rakuten.co.jp/moriheikou/diary/201503140000/

人は「支え合って生きる生き物」であり、「一人では生きることが出来ない生き物」なんです。

それなのに、自分一人で生きようとするから自立出来ないのです。

否定的な意味で「依存」と考えてしまうから話がおかしくなってしまうのです。

「自立している」と言うことは、「一人で生きている」ということではありません。

「ちゃんと自分の役割を果たしている」ということなんです。


ほんとうに、そうだなあと思う。

その役割の一例としてこの記事では
会社での仕事や、家事育児が書かれているけれど

わたしの考えでは
「役割」って
生きていることそのもの。

そこで息をしていること。
そこでなにかをみて、なにかを思うこと。

それがじぶんの役割だと自覚するだけで、
自立して、支えあって、生きていける。

そんなものは仕事じゃない、役割じゃない、でくのぼう。と誰が言おうとも
じぶんだけは、それで十分だと知っていること。わかっていること。
胸をはって、生を、まっとうすること。

まっとうするって、きちんとしていることでも、期待にこたえることでもなくて
そのとき自分が感じることを、感じたままに、あらわすこと。

泣いて、食べて、うたって、海をみて、
くたびれたーってぼんやりして、眠って、
あったかいお風呂にはいって、、、そういうこと。

じぶんが感じることを、動きにかえられるのは、そのひとだけだ。
自分を生きる責任とは、そういうことだと思う。

それ以上のことは、ぜんぶおまけだ。


むずかしくしているのは

物事をむずかしくしてるのは
いつだって保身の気持ちだ。

その保身の気持ちがどこから来てるのか
なんのために発生してるのか
きちんといちど見てみるといい。

それはとてもとてもうつくしいものだと分かるよ。

保身の根っこがみえたら、違う方法を選べる。
保身を選ぶくせがついているだけで
保身じゃないやりかたで、同じことができる。


(twitterより転記)

ぜんぶほんとうは無関係

おっかしーなー?
なんで?!
と思ったら

待て。
のサインだ。

待つことが出来るようになると
覚えてきた法則
信じてきた因果関係が
ぜんぶほんとうは無関係だってことが分かってくる。

おっかしーなー。と言っている
その「思考」のほうが、おかしいのであって
出来事はぜったいに間違わない。

お金がないのも
好きな人に会えないのも
結婚できないのも
仕事でしんどいのも
反対されるのも

可愛がられるのも
イイネがたくさんつくのも
好きと思うのも
さみしいのも

理由はない。

原因となっていることなど
どこにもない。

Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善) ※

これは日常でも使えるけど
気を付けるべきは

頭で考えた、なにかを得るための計画じゃなく
純粋でシンプルな、うちからの衝動(欲求)を、計画として扱うこと。

うちに起こる衝動も感情も
そとに起こる出来事も
未来からのメッセージで

なにも考えずに
ひとつひとつ丁寧に
応じていけば大丈夫だし

先を読んでみるのもまた一興。


※PDCA サイクル
事業活動における生産管理や品質管理などの
管理業務を円滑に進める手法の一つ
(by Wikipedia)

人の輪の中でくつろげないひと

人の輪の中でくつろげないひとは

相手の期待や思惑、感情を察知して
それに、こたえたくなっちゃうひと

こたえたくなる自分に
気づいて
鍛えて、育てて
こたえなくていい自分を思い出せばいい。

きれいさっぱり忘れてるなら
こたえなくていいのかもしれないってことを
地道に試していけばいい。

そうして
こたえるヨロコビと
こたえないシアワセの
どちらでも自由に選べるようになる。

ぶつかって、鳴る。

昨日の仁さんのインチャ記事に続いて
今日ながれてきた坂爪さん投稿

昨日わたしが思ってたこと

総合するとつまり
ちゃんとぶつかろうよ。
なんだなあ

あらゆること、ひとに、
真正面から向き合う気概を持っていたいし
そういうひとと一緒にいたいのだ。

ぶつかることを厭わずに、避けずに、
発生するぜんぶ、プラスもマイナスも
屁理屈なしに受け止める心意気をもって
裸一貫で会おうとするひとに会いたい。


癒しは、発生するものだ。
マドモアゼル愛さんがいつか書いてた
ぶつかったところに生まれる不和に
エネルギーが寄せられ、変化する。というようなこと。

ぶつかったところで止めているから
痛みをかばってフタをして忘れてるから
癒しが起きないでぐずぐずするのだ。


本気は、本気を呼び起こす。
じわじわと微細に響き合い
動き出す。鳴り始める。共鳴する。

奥底の琴線に触れる。

音叉みたいだなあ。
ぶつかって、鳴る。
音(振動)が弱まったら、また鳴らす。

スピリットの信号。周波数。
それぞれの音階を
それぞれのタイミングで

宇宙の五線譜、わたしには見えないけど
来るものを順番に、ひたすらに、丁寧に

よばれるままに。
感覚のままに。

安心のその先にあるもの

昨日は、父とジャズライブへ。

即興ジャズ。

基本がしっかりあったうえでの余裕と本気
お互いに呼吸を感じ合いながら
展開していく音、リズム
音楽
音をたのしむ

ナマモノ。

その音と空間に絡みあいながら
描かれていく絵
ライブペインティング
音と絵のセッション

音に身を浸して
絵に現れてくる世界をみてたら
泣けてきた

音と絵が繰り広げられている
いまここにいること
父が隣にいること
オットが画家になったこと
ライブをたのしめる環境
いまここを成り立たせている
すべてがうれしくてうつくしくて

言葉や思考じゃなく
感情ですらなく
その奇跡的な瞬間に
響いて、ふるえて、涙がこぼれる


わたしはアーティストではなく
クレイジーなだけだ。と
オットと話したばかり

作品をつくらない、という点において
アーティストではないけれど
うたように、おどるように
生きるのが好きだ。

Let's get crazy

だいじょうぶ
だから
安心して
狂っていよう

そういう世界を生きていく


「わたし」を生きる

「わたし」の意味を
広げたら広げただけ

わたしはつよくなる。
無敵になる。
大丈夫の度合があがる。

じぶんのことはすごいと思えないけど
だれかのことはすごいって思う。

友達や先輩
上司や有名人
親や親戚や祖父母
みんなすごいなあって思う。

それをそのまんまじぶんに取り込む。

外と内はイコールだとわかってしまった以上
あなたがすごいってことは、わたしもすごい。

図々しさにじぶんで笑えるし、
おそれおおくて縮こまりたくなるけど、
泣きながらでも、それを認めないわけにはいかないんだ。

わたしにとって、生きるって、そういうこと。
生きちゃってる以上は、そうするしかない。

生まれたくて生まれたんじゃないとか思ったこともあったけれど、
そんなこといったっていま生きてる事実が変わるわけじゃないし、
たのしくもなんともない。退屈なだけだったから
しょーがないから、切り替えた。

自己受容は、他者受容

絶対的な安心をもって生きていたいなら
受容するしかないのだ。

他人事は自分事

他人を責める

自分を責める

自分を変える

一緒に変える ←いまここ

昨日の雑感、その5

わたしは、集合意識とつながっている時間が長い
集合意識や潜在意識と自分が、ほぼ同義だ
そのことに気づいたのはけっこう最近で
それが言葉になったのは、もっと近年

わたしにとってはそれが当たり前で
そうじゃない感覚など分からなかった
見よう見真似で生きてみて
しまいには混乱して

いちど離れた
しっかり見る時間になった
社会を
集合意識を
自分の体感を

すべてがイコール、等しく同価値な世界観と
肉体感覚をなじませるための時間だった

全チャクラが混乱している。
そうリーディングされた2009年秋

2014年秋、福岡に行く前
肉体をぶんまわして
へとへとだったときも

先日、なんともかんとも
スッキリしないモードが
続いていたときも

わたしのチャクラは
元気で、整っていたそうだ。

よく、ここまで、育てたなあ!


山が動いた。と感じる満月だった。
そのアラワレをいくつか目にした。
おもに、誰かの動き、選択として。

世界はいつだってわたしと同時進行だから、
誰かの世界が動いたってことは、
わたしがじぶんの世界を動かしたってこと。

わたしが、わたしのなかのその人
(その人に投影された私自身の一部)に
許可を出したということ。


わたしが観ているのはおそらくスピリットの
全宇宙グリッドにおける位置づけ

ど真ん中のその先を感知してるから
そうじゃない「イマ」がもどかしくて暴れたくなる

腐りながら
悪態つきながら
それでもここまでやってきたよ

おめでとう! じぶん。

ありがとう!


昨日の雑感、その4

状況がいつだって答えだ。

いまいる場所が、はじめから居場所で
それがどんな場所なのか
どう動けるのか
どうだったら気持ちよく居られるのか

よくよく感じてみれば
おのずと導き出される

すべて、選んでいるようで
すでに、決まっている

おおきなわたしが揃えたセットのなかを
ちいさなわたしは、粛々と歩く

波がきたら心して乗りこなし
風がやんだら澱んで過ごす
空をながめて時を待つ

すべてはかならず変わっていく
(なんとせつないことだろう!)


受容的でありながら
能動的な生き方


価値観がひっくり返りはじめている。
小さいが大きいになり
ゆっくりが最速になり
無駄が効率になり
やらない、が、頑張る、に相当する

探して、目指して、もぎ取りに行くんじゃなく
熟すときが来ることを知り、おちるのを待つ


能動的な世界に
適応して生きてきた人たちにとって
これから、思うようにならないことが増えるかもしれない

そのストレスをやわらげるのは
スピリチュアルに馴染んだ人たちだろう

昨日の雑感、その3

アーティストという生き方

毒、同種療法レメディとして
作用する自分を、認めること

意図的にざわつかせるのが、アート
不自然な自然を創る

棘をまとっていても
請われたら、抱きしめる
本気だと分かれば。
好みと気分があえば。

顔や外見で左右されることを
わたしはわたしにゆるせるようになった

お金やスキルや地位や経歴では
左右されないことについても
じぶんに許せるようになった
(どこかで、左右されるべきだと、思っていた)


じぶんが誰かや何かに対して
どんな作用をするのか
自覚しておくことは
自衛になる。

刺激物としての自分。

わたしは、自然回帰を促進する。
不自然をそぎ落とす。

その「刺激」を必要としているひとは
なにを話さなくても
同じ空間に要るだけで
反応しているように思う。

みな、作用しあって、
絶え間ない変化が生み出されている。

昨日の雑感、その2

わたしがこだわったのは
みんなでつくること

問題をネタに遊ぶのは好みじゃない
問題にしないでと言ってもキリがない

あたらしい流れ、意識を向ける先としての
スペース風来房やムゲンジャーであり
ゆき整体やアロマお茶会だった

もっとひろく、たくさんに、
そのための手法を、
そう思っても

看板を出すのも
お金と引き換えるのも
どうしても合わなかった

あきらめはじめたら
みんなかってに
嗅ぎつけて来てくれる
タイムリーに
助けに来てくれる

多ければつよいわけでもない

数とちからは比例しない


わたしが響かせたいのは
太鼓判の大丈夫

あなたは大丈夫と
わたしは
わたしのいのちをかけて、言う。
あなたが大丈夫じゃないとなると
あなたであるわたし(の、どこか一部)が、困るから。

全精力をかけて
大丈夫と言ってみせる
証拠を見つけてみせる
どれだけ時間がかかっても
証拠を集め続ける
信じると決めている

これまた日々の鍛錬で
証拠を集めるのも上手くなったし
だいぶ集まったから
ずいぶん大丈夫って言いやすくなった

昨日の雑感、その1

乙女座満月を過ぎた今日は
仲間とランチおしゃべり

今日は元気そう
スッキリしてるねって言われた

そう、前回会った2月は
かなりにょんもりしていたのだ

だーいーぶ、かるくなった!

セラピストは職種でなく、生き方という話
休むことや、セルフケアのための
時間空間を確保する大切さ
空白を保つこと
ぼーーっとすること
効率重視であれば、あるだけ、小さくゆっくり
それはもうさながら義務のように

わたしの世界観

不自然に思える「現状の自然」を、ホールドすること

不自然と感じる自分の感覚も
変わらないように見えるもどかしさも
いつか変わるであろう、その可能性も
ホールドしながら

つまり切り捨てずに
しかしフォーカスはしないで

とにかく、じぶんをたのしませること
くつろがせること

いちばんのお客さんは自分

そうは言っても
いろんな自分がいる

なにかを選ぶと
同時に
大きく分けて
ふたつの波が
発生する

たとえば
楽しい気分と、疲れた身体
休まる気持ちと、澱んだ心

そこに気づくのも
ケアするのも
予測も予防も
慣れて、早くなったこの2年

気づけば、いわゆる「一般社会」に
身を置くながれが続いている。

おかげさまで
なんとかなっている。

おかねの好み

お金がエネルギーだとすると
高いところから低いところへ
流れるのが自然。なのだろうか?

わたしは基本的に
個人からお金をもらうのが
好きではなく

何年にもわたって
さんざん考えた末
これはもう「好み」だろう
ということにした。

その個人があきらかに
お金に対して
不安や鬱屈を抱えていない場合には
へろっと貰うことができる。
(この判断は、状況的に考えることもあるし、直感でもある)

帳尻を合わせるためや
相手の慣習に乗っかったほうが
メリットが大きい場合は
おとなしく貰うこともある。

そして、欲しいと言ってるひとに
ひょいひょいあげようとは思わない。
あげるときもある。

判断基準は
しっくりくるかどうか
それだけだな
今のところ。

返信がなくて不安なとき

メッセージを送ったのに
既読になっているのに
返事がこない
何日たっても返信がない

そんなとき
不安になっていた。

怒らせちゃったのかな
失礼なことしたかな
気に障ったかな
嫌われたかな

でもよく考えたら
わたしが怒っているのだ。
返事よこせ!といって怒っている。
ないがしろにするな!と拗ねている。

それだけのことだとわかれば
不安は消える。
あとは自分でいかようにも出来る。

相手に催促するなり
気長に待つなり
それまでのことと見切りをつけるなり
好きにしたらいい。

他人視点から自分視点に戻れば
話はいつだって簡単だ。

さんがつ

3月だなあ。

2月のもったり感は、すこし抜けた、気がする。

だからといって、絶対的ななにか・・・
これやろう!とか
やぶれかぶれでも動いちゃえ!とか
そういう衝動はとくになく

日常のささいなシアワセ
ほっこりした時間を
淡々と過ごすばかり

フローに入っているような
無心でじぶんに没頭するような
そんな時間を増やしたいなあと
漠然と思っていて

こんなことやったらオモシロイかも!
アイデアは湧いてくるけど
やるに至らない


・・・ああそうか
そういう時間が
以前に比べたらすこしずつ
増えているからこそ
それが来ない時間が続くと
退屈でたまらなくなるのか・・・


アイデアを埋もれさせておくの
もったいないなーとか
もっといろいろこねくりまわして
謎を解明してあそびたいなーとか
欲が出てくるけれど

そこで奮起するくらいなら
もったいないひとで居ればいい。

どこに出すでもなく
黙々と、遊んでいたっていいのだ。


その先にしか見えてこない道があるのかもしれないな。

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