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2015年7月の記事

みていたかのように

相手のこれまでの行動
思考パターン
みていたかのように
話せるのは
相手の潜在意識=肉体が
伝えてくるから


伝えてくる、というのは
語弊のある表現だけれど
うまく言葉にならない。

じぶんと相手の違い
呼吸、振動、リズム、響き
それによってあぶり出される輪郭
来し方と行く末


わたしはそれを翻訳する
という意識はなく
ただ、話していると、そうなる。

チャネリングでもリーディングでもない。
相手の高次の意識かのように
話すことができていると
言えなくはないが
言わなくてもいい。


マクロとミクロが混在する場所
すべてを承知している場所
そこから見える景色を語る


いま、に込められた情報を紐解き
過去と未来を展開する
わたしはマスターキーを持っている

すべてが○へと連なっている確信

それがハマる場所を見つけるだけ。
ハマることを疑わずに
焦らずに
そこに居れば、浮き上がってくる。

揺れるとき

月星座で動かない
感情まかせに騒がない

どっしり、太陽星座でいること
それを目指すこと

ほんとうに大事なものを得るべく
状況が動くのを信じて待つ

しずかに呼吸を繰り返し
他力がはたらくのを待つ

器育て
女磨き


たとえばそれは

前記事の続きというか補足的な。


ワタシという店に
並べた商品は
選りすぐり。
どれも自信作。

なのに
商品ではない
自宅用につくったものが
人気を得てしまって困惑

だってそれ
テキトーにつくっただけだし
レシピもないし
いろんなとこで見かけたアイデアの寄せ集めだし
だれでもできるし
同じのつくれないし
似たようなのどこにでもあるし
もっと安いのも手軽なのもあるし

それを売るのが嫌なのは
手にした後にがっかりされたら嫌だから
悪評がたったら嫌だから

そういうことだね。

感覚を認める

うわっつらの言葉にしか
聞こえなかったものが

本質の光を帯びていることに
気づけるように、なっている。

苦手が
苦手じゃなくなるのは
安心が深まるなあ。

まったくわからなかった外国語が
ほんのすこし、聞き取れるようになった
そんなかんじ。

チューニングを合わせたら
もっていかれそうで
そっちが合わせてよ!って
怒ってたんだよね。

あっちからは見えているらしいのに
こっちからは見えなかった。
それが怖かった。

そんなものが
こっちにあるなんて
ちっとも信じられなかった。
認められなかった。
おそれおおくて。

ジャングルジムに見立てられたパパな気分。
きみらは重量オーバーだよ
って、
思ってたんだけどなあ。

どうみても不自然なバランスが
成り立つこともある
このセカイの不思議

強欲なひとたちが直感的に見つけるアクセスポイント
わたしはなすすべなく、立ち尽くす
とことん脱力して、
古来の知恵に基づく
すこし内股気味な立ち方で。
それだけでいいんだって。
そんなばかな。

やれやれ。

できる人だと思っていたかったのに。
わたしが、わたしでいれば、いいんだって。
ワガママでも、無理強いでも、主張すればよくて
遠慮はいらなくて、
なぜならそれでは真価が発揮できないから。
それでは相手も無駄足になってしまう。

わたしのフィールドを
わたしが選ぶこと
それを貫くこと
巻き込むこと

申し訳ないと思ってたんだ。
敬意と尊重のあまり見誤ってた。
迷惑かけちゃいけない
世話をかけちゃいけない
下っ端が動くべき、合わせるべき
だってわたしは物理的、現世的にはあまりに自由で
わたしが譲歩するのが道理だろうって
思ってたんだなあ。

つながれないよりマシ
切られるのは痛い
だから
わたしのなかに確固としてある感覚を
無いことにして、歪めて、、、
今にして思えば、大それたことをしたもんだ。
見くびるにもほどがある。相手も。自分も。

動くのは
下っ端だからじゃない
それは上下のはなしではない

機動力もわたしの持ち味だけど
真価を求められる場面では
それを発揮してはならない。

場所、スペースに関する
わたしの感覚は絶対だ。
ゆめゆめお忘れなきよう。

ワタシは、もらうことで、発揮されるタイプ。
そのことも、重々、心しておくよう。

オトコという性

あのひとたちは
かってにひとりで背負って
ヒーロー気分に酔いしれて
「おまえのため」とか言って
つぶれそうになって挙句
ぜんぶ投げ出そうとする。
切り捨てようとする。

それを止めるのがオンナの仕事。
100点じゃなくても
乗り越えるほうが大事だって。
いのちをつなぐほうが、有効な手段だって。

つなぎさえすれば
なんとでもなるから。

いまのじぶんができないなら
未来のじぶんが
それもダメなら
次の世代が
やるんだよ。

それはつまり
現時点のじぶんの
至らなさを認めるってこと。

かっこわるくて
痛すぎて
ぜんぶ投げ出す覚悟まで
追い詰まらないと
妥協案を選ぶことができない。

至らなくても
それでも
抱えていたいものを
抱えていくことを
じぶんにゆるすこと。


外側(他人)パートナーシップの話であり
自分内部の話でもある。


安倍さんをはじめ
政治家のみなさんの
奥様たちが
真心をもって
彼らをビンタしてくれることを願う。

遠回りはもう、やめようよ。
いっしょなら、きっと、できるから。

怖くなくなった。

なんとなく、距離をおきたかったひとたち
つかみどころがないように感じて
なにを考えているかわからない感じで
空恐ろしい感じで
打ち解けることのできなかったタイプのひとたち

今回の個展会期中に
その恐れが、抜けたらしい。

なにがこわかったのか
言葉にならなかったけど

FBで知人が書いていたことがヒントになった。


今回のオット個展
おわってみれば
くやしさが勝っていて
そんなにも「目指していた」ことに驚いた。

野望に巻き込まれたというか
乗っかったというか
それでもどこか遊び半分
しれっとしているように、自分では思っていたんだけど

いつのまにか本気でそれを願っていたらしい。


わたしが彼女たちに感じていた空恐ろしさは
彼女たちが当たり前にもっている
力強い「欲」とでもいうべきものに
触発されるかもしれないからで

それを発動したくなかったから
避けようとしていたんだろう。

エンパスの利用法

だれかの思いに共鳴することを
拾う、といったり
憑かれる、といったりする。

だれか、は
知っているひとだったり
身近なひとだったり
見知らぬひとだったり
かたちを持たないものだったりする。

そうした思い、エナジーを
じぶんに取り込んでは
成仏させたり
切り離したり

たくさんのひとが
多かれ少なかれ
日常的にやってること。

それを意識的にやれば
より、効果的になる。


取り込むのは
じぶんのため。

毒をもって毒を制す。

無意識的にであれ
日常でショウカしていても
すこしずつ溜まっていく澱のようなもの

それが共に吐き出される。


ワークショップやグループセラピーで
複数人でやってシェアできると
また違う気持ち良さがある。

ヨロコビがヨロコビをよぶ。

いわゆるひとつの領空侵犯(あらすじ)

雨つづきからの晴れ

怒りに気づく
遠慮に気づく

初心に戻る

揺り戻される

みっともない
かっこわるい
報われない
なさけない

不機嫌、ふてくされ
電車で号泣寸前

切り離しを選択

もちなおす

たのしいほう

オットと再会して交流が深まった頃
結婚する見込みで付き合ってた元カレと迷って

たのしそうなほうを選んだ。

予測がつかないほうにした。

そしたら脱サラ画家になった(笑)

 
たのしいことになるのは
決まってるんだよ

疑わなくていい

予想外のことは起きるのだろう
心臓がとまるくらい驚くこと

びっくりして
うれしくて
こわくて
くたびれること

そしてまたそれにも慣れていくのだろう

それでもいい。

なんでそうならないんだろう?
おっかしーなー?って思ってるときは
大抵、そう思ってるアタマのほうがズレてる

それでもいい。

ズレててもいい
ゆがんでもいい

それを叶えたい

叶ってしまえ!

疲れる理由

拒絶とか否定とか後ろ向きとかって
すごく消耗する。

そんなことない
なにかの間違い
そんなはずはない
たまたまだよ

って、誰に対する遠慮なんだろう。遠慮なのか?
相手にもじぶんにも失礼だ。

でも、疲れてると、それを受け止めるちからがない。
それで、さらに疲れていく。

あとで馬鹿をみるとしても
調子に乗って浮かれているほうが、ずっとたのしい。

罪悪感はありがとう分岐に戻す

こんなわたしでごめんなさい
やっぱりわたしはダメなんだ

罪悪感がでてきたら

なんでそこで
ごめんなさいって思うのか
掘り下げてみたらいい。


そこにはおそらく
役に立ちたい気持ちや
だれかを笑顔にしたかった気持ちや
期待に応えたかった気持ちや
じぶんを守りたかった気持ちが出てくる。


そんなじぶんを可愛がったらいい

そうして、できないじぶんをみとめて
できることを探せばいい。


ターンできないなら
まず、スペースをつくることだ。

捨て石など要らない

捨て石など要らない。

痛みも要らない。

必要悪など無くていい。

時間がかかっても
まわりみちにみえても

心地よさだけで
進んでいけるはずだ。


画家のオット・そめやじゅんの
信条はそこにあるような気がする。

結婚とエンパス/憑依

前記事で書いた、結婚の本質

パートナーという他人を、自分ごととして、
まるっと引き受けること は

つまり、パートナーシップの本質であり
自分と他者 の 関係性全般に
言えることのようにも思う。


それはひいては
みえない存在に対しても
言えることかもしれない。


わたし自身が数年前に
わたし由来とは思えない
男言葉が腹の底から出てきた経験があり

それはのちのち
どうやら、父の無念ではないかと
思うに至ったのだけれど

エンパスやHSPを自認するひとであればなおさら
身近なひとが抑圧している感情や衝動を
じぶんのものとして抱えていることは多々あると思う。


ここではないどこかに逃げたい、帰りたい願望なんていうのも
ショウカされずにただよっている誰かの感情かもしれない。

たとえば丁稚奉公、身売り、出征、疎開、出稼ぎ、単身赴任、、、
言葉にすることはおろか、思うことすら
みずからに禁じてきたひとは多かっただろう。


そうしたものを
みずからに取り込んだ目的はなにか。

それをショウカすることに
自身のメリットがあるはずだ。
(アタマはそれをメリットとは呼ばないとしても。)


じぶんのものではないと切り離し、
他者へ任すことで、胆力を鍛えたり

じぶんが引き受けることで
あらたなちから、可能性を得たり


使えるものは、使えばいい。
使われるために、それは、ここに来ている。


そんなつもりではなかった。
なにかの間違い。などと
言い続けたところで
それがすでに起きているのならば

それは、じぶんに与えられたもの。

「じぶん」の未来のために、ここに来たもの。

逃げ腰でいたら消耗するだけ。
どんなに厄介なものにみえても
まごうかたなきギフトのはずだ。

結婚の本質

(2015/07/08のTwitterより)

結婚の本質は
パートナーという他人を、自分ごととして、
まるっと引き受けることじゃないだろうか。

ここでの引き受けるとは
我慢でも支配でも隷属でもない。

どこまでも対等に、
時に取引をし、時に支え支えられ、
タッグを組んだり分担したり。

共通の理念をかなえるチームメイトだ
(太陽水瓶座的思想w)


団塊世代の結婚は、表向きはそうではなかった。
親世代とは異なる関係性を築いていく。
(親世代もまた、祖父母世代とは異なるかたちを築いたのだ。)


引き受けることがもたらすちから、可能性。
この面白さを知らないで終わるのはもったいないなあと思う。


自分ごととして他人を引き受けるってことは、
投げ出さないってこと。

かたちとして別居や離婚を選ぶことがあったとしても、
そこに信頼があること。見守る。ともに行く。

相手の尊厳は、つまり、自分の尊厳。
相手を貶めず蔑まない関係性を築き続ける。

「責任」の面白さ

「責任」について考えてる。
引き受けること、その面白さを。

割れそうで割れないたまご。
均衡を崩されたいのか、まもりたいのか。
あらたなバランス。信頼のかたち。

すべてを受け容れる覚悟と
まっすぐ貫くしなやかな意志。

やさしさが
やさしさとして
あらわれますように。

左手と右手

左手に空

右手に梢

あわせるとそこには
スペースができる。

つなぐのは
遊びごころ。


タットさんのリーディングより、メモ。


受容性と自主性。
どっちも大事。

それでもぼくらはいきてゆく

この記事
書こうとしたら
ぐわっとなにかこみあげて
泣きそうになっている。


敏感肌で
繊細で
ちょっとの違和感もゆるせない

そういうひともいる。
そうでないひともいる。

役割がちがうだけ。
やりたいことがちがうだけ。


でっかいひとたちの胸をかりて
ぐっさり傷つけて傷ついて
わたしがやっと腑に落としたこと。

かけらでも
気配でも
渡せたらいいなあって思う。


じぶんを捨ててでも
目の前の男とひとつになろうとした

なれると信じた
戻れるとおもえた

わたしはわたしを誇りに思う。

それをかなえてくれたすべてに感謝している。


幸福に降服した瞬間。


それはつまり
じぶんの肉体を
受け容れた瞬間だった。


なんども
なんども
降服した。

それでもまだ
ほんとうのほんとうには
降服しきれていなかった。

そんなにまで
降服しなくても
生きてはいける。

嗜好の問題だ。

わたしはそれが我慢ならなかった。
どうしても一致させたかった。

それだけのこと。

そしてそういうひとは
わたしだけではないのだ。

肉体は必要なものを引き寄せる

赤ん坊はじぶんに必要なものを
ぜんぶ持ってくるって聞いたことがある。

必要なお金がないならお金を。
過酷な状況(舞台)が必要ならそれを。

それはなにも赤ん坊に限った話ではなく
わたしたちの肉体はそういうふうにできているように思う。

体に任せていれば、望みはかなう。
ただしその望みは想定外だ。


肉体は
相棒で
先達で
青写真を知らせるコンパスで
自動操縦の乗り物で
わたしを幸せへと連れて行く。

ただしその幸せは
「わたし」の想定外だ。


じぶんの肉体を嫌う。

じぶんの肉体を嫌っているひとに接すると、違和感が生じる。
わたし自身がかつてさんざん嫌っていて
それがどんなに生きづらいか知っているからだと思う。

肉体のやりたいことと
アタマやココロのやりたいことが
一致していなかったり
協力体制がとれていないと
ままならないと感じることが多々起きて憂鬱になる。

信頼関係ができていれば
ままならないと感じることが起きても
よきにはからえ、と楽観して見ていられる。

自分内部の協力体制をこつこつ作ることについて
先日読んだ、ちはらだくにこさんの
(面識はない、複数友人の友人)
ブログ記事がとても勉強になった。

『疲れにくい体と 安定した強い心を手に入れる過程で気づくこと』
http://ameblo.jp/chiharadakuniko/entry-12045347168.html


それからfacebookで流れてきたこの記事も
すばらしくキャッチーに大事なことが書かれていて
物事のシンプルさを改めて思った。

『あなたを洗脳します。覚悟はいいですか?』
http://ameblo.jp/akiaki0830-juria/entry-12044396440.html


こんな風に書けたらいいなあ。
でもわたしにはわたしの書き方があるんだろうなあ。

ぐるぐる思考な女子にはこの記事もぜひ。
整体ヨガ道場「悠遊塾」主宰の方のブログ
野口整体の見地によるアタマと身体のつながり。

『思考の堂々巡りと、子宮の知覚 位置異常』
http://ameblo.jp/youhakudes/entry-12044156228.html

サラリーマンを辞めたあと
長年のデスクワークで肉体(内蔵)に蓄積された疲労(過負荷)が
完全に抜けた!と思うまで数年かかった。
ゆるめてゆるめてゆるめて、、、
最近は本来の自主性をすなおに表現できるようになってきたと思う。

ちなみに。サラリーマンでもデスクワークでも
じょうずに肉体をつかえば
疲労を蓄積させすぎることなく
たのしく仕事することはできる。
わたしが知らなかっただけです。

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