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2015年9月の記事

反発と媚び

義理実家への反発/媚び

生家両親への反発/媚び



長男の嫁でありながら
男児を授からなかった

子宮切除することになったのは
もちろん、それだけではないけれど

実家と、わたしと、どっちが大事?
命の危険を抱えてでも
男を産む可能性をのこす?それとも??


長兄(伯父)から離れたがらない祖母
彼が嫁に義理立てしているのか?
けっしてごはんに手をつけなくても
妹ふたりが交代で引き受けても
それでも、長兄がかわいい。
その息子(孫)はやさしいから大好き。
その娘の息子もかわいくてしかたない。
近寄らせてもらえなくても。


家長となる長兄にだけ
肉や魚が供された家長制度
祖母の実家は、ふるい地主農家

その長兄は戦争で亡くなって
あとを継いだのは末っ子の大叔父。


男を産むか、産まないか。
それが女の価値だった時代。

長男の重責。
長男に集中する愛情。

嫉妬と羨望。


祖母がみごもった4人目の子も女子だった。
中絶と同時に避妊手術を受けたという。



母親にとって
男児はとくべつ?

異性だもの
そりゃあ、女児に対するのとは
感情感覚反応ぜんぶ違ってくるさね


母がおそれたのは、おそらく、それ。
平静を保っていられるか分からない。

実父よりも夫よりも大事になっちゃうかもしれない。

(つまりこれはわたしのうちにある意識)



反発と媚びを超えて
じぶんのヨロコビに忠実にいく。

欠点

多くの人々は、自分自身で思い込んでいる欠点というものが
ある・・・・

しかしのぉ~。それが、大きなギフトだったりするのじゃぁ~。

宇宙に居る時に、真のパートナーがお互いに目印になるものを
約束してきてるんじゃ。

それが、欠点だ、と思い込んでいるところであったりする・・・。

すると、そこに意識を向けるとヒントがあるなぁ~

http://ameblo.jp/ashtar55/entry-12070730785.html


そういえばうちのオットが
中学時代のわたしに思ったのは

こんなにも他人に強気に根拠なく自信満々で
遠慮なしにずけずけものが言えるというのはすごいな。

ということだったらしい。
褒められてるんだか貶されてるんだかさっぱりわからない。


じつは小学校時代にそのことで
同級生に嫌われたことがあったので
中学校当時はすこしは控えていたはずなのだが
それでもなお、そうだったんだな・・・

それから紆余曲折あり
元を100として
中学を80としたら
20くらいまで抑えてきた、つもり。

ここ2、3年は相手やシチュエーションを選びながら
80を出してみる実験をしていたんだけど
もっといけるのかもなあって思ってたけど
もしかして、段階なんぞ踏まなくてもいいのかも。


ずけずけ言うのはおそらく
幼いわたしなりの愛情表現だったんだけど
どうにも誤解されやすいことがわかり
愛情は愛情として示すことを習得したのだ。

受け入れているよ、全部それでいいよの全肯定が
相手に伝わるようにする、というか
それがわたしのなかにあることを、
わたしがしっかり自覚しているのが大事なのだ。

蜘蛛の巣にとらえて
ゆるんだところを
ざくざく切る感じ。

待ちの姿勢には、でも、もう飽きたらしい。(←るるパラ情報)

多少なりともコミットのあるところ、ではなく
無差別ざくざくが始まるのだろうか・・・

シビアに辛辣に・・・

いけるのか?
まったくわからないな・・・

クレイジーな感覚を
「使うべきところで使い、セーブするところではセーブする」
ただの幼稚な人にならない。
 (by .fatale)


ざくざくざく。

この感覚は
物を捨てるのと似ている。

チケット半券だのリボンや包装紙だの空き缶だの
捨てられなくなったのと、そういえば、同時進行かもしれない。
なんにでも情がわいて、どうにか活用してあげたくて、抱え込む。

循環させるほうがお互いのためだと言い聞かせて
だいぶ捨てられるようになってきた。
さらに、いけるかな・・・


手加減しない。
してしまう自分の弱さもゆるしつつ。
ほどほどにね。

殺さない程度に
もう、できるのかな。

できるんだろうなあ。

とりあえずの動機

とりあえず、で、なにかするとき

その動機が恐れなのか、予感なのか。

見極めを、もうひとつ深くしよう。


せっかく貰ったものだし、とか

困るかもしれない、とか

重たい気持ちがするのは減らす。


嬉しくなるものは、とりあえずでもいい。


とりあえず禁止

とりあえずを禁止しよう、と
とりあえずmixiに書いた昨晩。

かくも「とりあえず」は溢れている。

とりあえず受けてみたい
とりあえず会ってみたい
そういう動機のひとよりも
とにかく、わたしならば、受けたい、会いたい
そういう動機のひとを求めるならば
わたしのなかからとりあえずを減らすのが道理だろう。

とりあえず、も、大事だし
とりあえず、と言いながら
選んでもらえるなら
それはやっぱり、とりあえずではないんだとも思うが。

目当てのパンがないから
それに求めていた要素を多少カバーする他のパンを買う。
というような「とりあえず」から
まずは減らしていこう。

そして我が家にある食器だとかは
結婚当時に双方の実家から
もたされたり、もらったりで
「とりあえず」使いはじめたものが多い。
すごく好きなわけでもないけれど許容範囲だし
なければないで「困る気がする」から
「とりあえず」いまだに使っているものも多い。
そういうのも減らしていこう。


わたしは元来、もっと、ドライなのだ。
正確には、そういう部分も大いにある。

しかし、もったいない病というか
「とりあえず」あるもの、手に入るものでしのげる
=すてきな大人だと思って生きて来た節がある。

ときめき片付けなど本気でやったら
家から大半のものがなくなるかもしれない。

そもそもこの家も「とりあえず」で買って
住み始めて、もう12年も経つのだ。
風呂に窓があるのがよかったけれど
そういう物件が見当たらなくて
「とりあえず」風呂に窓のない物件にも住んでみるか。
いつか引っ越すなら賃貸に出してもいいし。
そんなこんなで12年である・・・

いま、壁紙を上から貼ろうかなとか
ソファをおこうとか、考えているけれど
引っ越すこともなさそうなので
「とりあえず」いまある環境をすこしでも
理想に近づけようという努力である。
(ひまつぶしでもある)

そんなことより
ここにはもう長く住まないと「決めて」
物件情報でも見ているほうがいいような気がする。


しかし「とりあえず」というのは
口癖、思考癖でもあるので
ほんとうにそれが「とりあえず」なのか
わからないことも、多々ある。

捨てるのも大変だし
引っ越したらまた違う使い方をするかもしれないし
こう使えばそれなりに使えるから
「とりあえず」ほかの部屋で使うことにしている家具。とか
なんていうんだろう、こう、照れ隠し的に
「とりあえず」と言っている気がしないでもない。
ただ、愛着があって、捨てたくないだけのような。

・・・それを言ったらぜんぶそうなのかもしれないけれど。

そして、元来のドライなわたしは
ゼロ100思考なので
使わないなら捨てればいい。
で、ぜんぶ割り切ることもできるような気もするのだ。
気がするだけで、いまは、していないから、
ほんとうはできないのかもしれない。
すくなくとも現時点ではできていない。


相手がわたしにといかけていることの答えは
相手のなかにある。と割り切って
まったく考えずにいると
相手が考えるしかなくなるので
答えがでるのは早い。

割り切りというやさしさ。

あれこれ考えてみたがる好奇心、探究心、創意工夫。
ないならないで、どうしようかなと考えてしまう。
創造力のつかいどころだと。

ないならないで、執着せずに、さっさと切り捨てて
違う方向に夢をふくらませるほうがいいような。

いまあるものに、こちらが合わせるのではなくて
ないものをつくりだす方向。

すぐに理想が実現しそうもない場合
とりあえず動くのは、精神衛生上、いいことだった。
とりあえず出来る範囲でやってみる。ということ。
とりあえず、とりあえず、とりあえず・・・・・

とりあえず
【取(り)敢えず】 ‥あへず
1.
《副ノ》急いで、間に合わせの処置として。まずさしあたって。一応。 
2.
《連語》差し迫った情況で、普通ならするはずのその事もできず。 


とりあえずおしまい(笑)

短絡的

最近のわたしは、テンポが早くて、シャープだと、るるこが言う。

まあ待て、それにはきっとワケがある。
ちがう側面があるかもしれない。
ひと呼吸いれて、なんにでも良い面を見出す。
いつからかわからないくらい、そんなことをやってきたなあ。

それより前は、もっと短絡的だった。

思い込み上等
早とちり上等
それでもいいのかもしれない?

失敗も失言も増えるかもしれないが
かろやかで気持ちよさそうだ。

疑い癖

喜んでいるように見えるけれど
ほんとうは、嫌がっているのでは・・・

好意に見せかけて、だまされているのでは・・・

なにも返事がないのは、困惑させてしまったらか・・・

誰かのことを疑うのは
わたし自身が
喜んでいるとき
好意をさしだすとき
なにも返事しないとき
裏がある人間だからなのだと思っていた。

わたしならそういう反応をするから
相手もそうかもしれない、そうなんだろうって。

でもこの反応は元々は
母から学習したものだ。

嬉しそうにしておきながら
あとで文句を言っていることがあったから。

冷静に振り返ってみれば
いつも100%そうだったわけではないし
ただの照れ隠し、受け取りベタだったのかもしれないけれど

わたしは、そういうこともあるのだな。と思い
そういうことを引き起こしたくはないな。と思った。

これまた冷静に考えれば
相手の反応なのでコントロールのしようがないのだが。


そうやって身につけた
この疑い癖によって助かったことも
これまでに、多々あったのだろうとも思う。

染み付いた反応。
そろそろ不要だなあ。

表向きの態度と
裏の感情が違うことが
ゆるせないところもあったけれど

もしそうだとしても
どうせぜんぶやさしさなのだから
なんでもいいのではないか。


他人の表と裏の違いを
わりと見抜けるほうだと
じぶんのことを、思っているんだな。

でも時々まったく見抜けないことがあって
あとから裏を知ったときに、衝撃を受ける。

見抜けなかった自分を責めて、恥じる。
だから、はじめから、疑う。


いつも100点満点でいたかった。
一点の曇りもなく喜んでいてほしかった。
ちょっとでも相手が困惑するなら
やらないほうがマシだろうって。

我が身に置き換えてみれば
たとえば好みにあわない頂き物とか
どうしようって困惑はするけれど
頂いたこと自体は嬉しいのだ。
一部ペケがついて70点でも、30点でも、
嬉しいことは嬉しいのだ。

100点とれなくてもいい。
100点かどうか気にしなくていい。

見抜けなかったとしても
それもまたギフトだ。

ありがたく、甘受しよう。

代替品を探すクセ

よく行くパン屋に立ち寄って
アレを買おう。と思っていたのに

アレは並んでいなくて
ぱっと見てほかに食べたいものもなくて
なのに
これでもいいのでは
これはこれでいいのでは
などと
いつまでも迷うことがある。

臨機応変
適応力の高さ
あるいは優柔不断

こういうところは
もっとあきらめよくなって
いいのではないかな。と思う今日この頃。

こだわりを貫いたところで
飢えるわけでもなし。

余白はかみさまの領域

投げかけられた問いの答えは
問うた本人が持っている。
わかっていても、
わたしはついあれこれ考えてしまう。

答えようとするって、助けようとすること。
相手を、助けが必要な、力ないひとにしてしまう。
考えてしまうにしても
スタンスの違いは、大事にしよう。

余白を保つってこういうところでも有用だ。
答えようとしない。
そこに、答えがふと湧いてくる。
ひっぱってくるものでも、積み上げるものでもない。

「答えはちゃんとあるよ。出てくるよ。」
そういう思いで誰かがいてくれるだけで
奇跡の発生率はめちゃくちゃあがる。

だれかがその可能性に意識を向けたら、現実化は早い。
人数が多ければ多いだけ、早い。
余白を保つこと。
意識を向けること。
宇宙との創造プレイ。

亡霊との攻防ログ

昨日はすごかった。
いまとなってはたのしかった!と思うのだが
最中はもう、えも言われぬ不快感でぱんぱんだった。

前日からの首~肩の痛みと
なんだかよくわからないプレッシャー
洗濯機と本棚が届いても
オットがマッサージしてくれても
ちっとも気分は上がらない
(首~肩はずいぶん楽になった)

カラオケが満室で
実家で数日ぶりのアルコール
晩御飯を食べに出かけてみれば
肉と米飯が食べたいといいながら
ハンバーガー屋を提案するオットに
米飯メニューがないと難癖をつけ
(食べたいのはわたしではないのだからほっとけばいいのに)

ファミレスはやたら混んでいて
カウンターのラーメン屋では
わたしの居場所がないことがあきらかで
(オットによって却下された)

弁当屋をのぞいてみたら
オットがカルビ弁当に心を決めたところで
容器のゴミがかさばるのがどうしても嫌になって
中華屋で手をうとうじゃないかと提案

とにかく生ビール。
たのみの大根サラダは品切れ 。
おなかはすいてるけど一皿食べられるとは思えない。
オットは自分用に麺と餃子のセットで完結していて
すこしもらって済ませられる感じでもない。

ハーフサイズなのに値段が7割以上だとか
セットだと300円なのに単品たかすぎるとか
こちゃこちゃ考えること!!
そして身動きがとれない。がんじがらめ。
理不尽さと無力感。

帰りはひとり早足で
海にいこう、いやカラオケに、いやファミレスに、
なんどもきびすを返しては結局コンビニ2軒よって
ビールと唐揚げと冷凍ドリアを買って帰ったのだった。



困りはしたけど一過性だとわかっていたから
やれやれと眺めているじぶんも内側にいて
オットはイライラしたり同情したり

飲んだくれて起きたらスッキリ。
おなか下して、生理もほぼ終わり。
妊娠中は子宮周りにためこんでた感情が出てくるっていうけど
なんだか昔なじみの感情のやり残しが出て行ったような


あんなぐじゃぐじゃした状態を
よくもあんなに毎日のように続けていたものだと思うと
なんだか泣けてくる。

お酒で痛みをまぎらわせながら。
しかもあの頃は終わりなんて知らなかった。
ずっとこんな風に生きるのかと思っていたんだ。
よく生き延びたわたし。
よく生かしてくれた、わたしを取り巻くすべて。

あんなぐじゃぐじゃしたものと
(感情なのかもしれないし
 欲求なのかもしれないし
 なんだかわからない)
共生できていたわたしの体は
さぞゆがんでいただろう。


2009年にバイクで事故ったあと
知人の紹介でサイキックな方にみてもらったら
各チャクラがてんでばらばらにまわったり
閉じていたりで相当ひどいと言われショックで
こんなに真面目に生きているのにと
腹がたったものだけれど
ああそれはそうですよねといまなら思う。

そして、いまのわたしの体には
あんなへんてこなものは長居できないだろう。

それだけの手間も時間もかけてきた。
わたしがわたしを生きられるように万全を期している。
その自負がこの無敵感をもたらしている。

ああそういえば、数日前に
足指にのこっているこだわりを抜くっていう
ヒーリングにコミットした。
セルフバーズも2回くらい走らせた。

昨日のあしたで、バーズ交換が決まって
水曜には舞踏のあと、会長の整体も予約してあるし

ほんとうに、要らないものを捨てていくんだな。
場所があるから置いておいてもいいや、ではなくて。

余白がひろいぶんには構わない。
それは、かみさまの領域。

ああそうだ裏と表、上と下、それがひっくり返るのだから
見えないところだからいいやと思っていたところまで
きっちり手を入れていくんだ。



あの頃のわたしなら、中華屋でなにかとにかく頼んでしまって
ものすごくおなかいっぱいになりながら食べるとか、していた気がする。
昨日は最後まであきらめなかった。

クリームとごはんが食べたかったから
冷凍グラタンじゃなくてドリアを探してコンビニはしごしたし
カレーも肉も食べたいのを妥協せずに
カレー味の唐揚げをみつけた。

ぴったりこないものを入れるくらいなら
空けておいたほうがマシなのだ。
空けておいていいのだ。
そのことを、全身で、言い聞かせた感じ。過去の亡霊に。

母親*が望んでいるであろう「完全」を生きようとして
不安と執着でがんじがらめだった頃のじぶんの亡霊。
どこかにこびりついていた、ふるい意識。

あの頃のじぶんも、誇りに思うよ。



*わたしのなかの母であり、実在の母とは別人格(2017年4月追記)


===以下抜粋===
http://ameblo.jp/tamakia/entry-12069089820.html

こうした方がお金がかかるが、体はものすごく楽だ。
こっちを選んだ方が、体調が良い。この人といると、五感が喜ぶ。
この方が難しいが、モチベーションがアップしそう。

頑張っているのに、ドン詰まりに当たり、突破口が見い出せない方は、
何らかのこだわりが、邪魔になっている可能性があります。
ルールを手放し、独自の路線を開拓する時かもしれません。
それは、世間ではタブーとされることでも、
今のあなたにとって必要なことかもしれないのです。

前提

なぜ、そうなったのか。

ということを考えてみるときに

痛みを回避しようとしたのではないか?

そこに痛みがあったのではないか?

という考え方をしていることに気が付いた。


つまりわたしの前提は、

人生は痛いものだ。

なのかもしれない。

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