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2015年11月の記事

肉体という修業と恩恵

肉体をもって

生きているということ

それだけで

修業であり

それこそが

恩恵である


あなたがいまそこに居ることに

心の底から敬意をおくる


あなたがいまそこに居る奇跡に

言いようのない歓喜があふれる


肉体をもって生きることの

苦しみとよろこびを

分かち合えるしあわせ


それがわたしのしあわせ


できるもん

自分の望んだことが

相手に受け容れられなかったとき

かなわなかったとき


ひとりでできるもん。に、逃げないこと。

代替案で気をまぎらわさないこと。




自分の望まないことが起きた時も

自分の望むことが起きた時も

自分の望み以上のことが起きた時も


素直にがっかりして

素直によろこんで

素直に大笑いしたらいい。




ひとりで出来るよ

もっとすごいことが出来るよ

そうやって親を喜ばせた


出来なかったよ

言う通りになっちゃったよ

そうやって親をほっとさせた


自立を目指すのは親子関係の延長


共同創造を目指すのが人間社会のたのしさ




張り合わなくていい

疑わなくていい

負けなくていいし勝たなくていい


「違い」を受け容れていく

そのうえで「一緒」を創っていく


プロの定義

結果に対して

期待も執着もないこと


わたしの定義。現時点での。


メモ。

「お母さんすごい」

お母さんすごい!と言うために

じぶんを酷い存在にする。


お母さんの深層意識の願いをかなえるために

酷い役割をやってあげていた

じぶんへのねぎらいもなしに


子どもは、無意識を拾う天才。

どんな子も、多かれ少なかれ、やっている。


兄弟姉妹のなかで

共感力の高いタイプや

境界線がうすいタイプは

とりわけ、その役割から抜けにくい。


お母さんはたしかにすごい

だけど、じぶんもすごいのだ


それぞれの願いを生きていく


おおきなところから見たら

酷い役割を担うことも

抜けずにいることも

願いどおりでは、ある。


その願いに気付いていることが大事。


そして軌道修正していくことが大事。


よりかろやかなほうへ

信頼を抜ける

信頼って疑うとセット。

信じる!っていってる間は、疑いもずっとある。

気が済むまで検証、確認したらいいけれど
所詮キリのないこと。

だから、そこから抜けるには、止めるしかない。

信じるも疑うもなしに、ただ、
それでOKと知っている、という感じ。

答えを探さない。

どうせ、なんだって、OKなのだ。
それを思い出すこと。

全力を笑われる

本気で、全力で、なにかをすると
笑われる、バカにされる

そんな感覚が染み付いている。

じぶんの世界にどっぷり入り込んでの
人形ごっこや、ごっこ遊び

言われたことを素直にやったら
ダサいと言われたり

素直にまっすぐにいると
奇異の目で見られる

作品制作に没頭しきれないのは
この感覚の影響が大きい

どこかで客観性を保っている

じぶんのやっていることを
「こんなのばかみたいだよね」と
言えるじぶんをキープしている

言い訳を用意している

誰が認めてくれなくとも
わたしは好きなことを好きなだけやっていい

そこには正解も間違いもない
違いがあるだけだ。

内と外

今日は内省モードだった人が、
わたしのほかにもちらほら。

世界情勢とのリンクに気づいた
しっしーの記事で、ああそうか。と。

内と外は同じもの。

I'm sorry.
Please forgive me.
I love you.
Thank you.

隠された欲からのサイン

きのう、都内まで出かけて
たくさんの作品をいちどに見て
その疲れからなのだろうか

はぴふんのあったかさに
あぶりだされたのか

昨晩から、急に、やさぐれモード。
遠慮しろよ
配慮が足りない
そんな思いがちょくちょく出てくる。
お金の周辺で。

過去に猛烈に感じたときのことが思い出されたり
最近の他人への介入を省みたり
いろいろくっついてきて

これはいったい
どこの誰の観念と
リンクしているのだろう?

ヒントを探したり
クリアリングしてみたり

1日かけて内観したら
「ないがしろにされている」感じが出てきた。


わたしが、わたし自身のどこかを、
ないがしろにしているのだろう。
大切にされている感じがしない、と怒っている。
ひとまずオットに協力要請という名の八つ当たりをする。

「大切にされていない感じ」が先にあって
だから、だれかの行動にケチをつけたくなる。
このフィルターを通すと
どんなことも「大切にされていない証拠」に化ける。


お金や時間やなにかをつぎ込むことを
じぶんに許可していないエリアがある?
はなから欲しがることを諦めている何かがある?


欲しいものがあって
それを手に入れるにはこの道をまっすぐ行けばいいよと
情報をもらっていても、やろうとしないことがある。

行っても、わたしは、手に入れられないかもしれないし。
まっすぐ歩くの飽きちゃったし。などと言い訳を並べたてる。
必死になっちゃってバカみたい、と鼻で笑う。

最近はじめた柔軟体操は、言い訳せずにやってみる実験。
前屈があまりに出来ないことは
どこまでいっても劣等感を刺激してくるので
それならば、取り組んでみようかと。

骨盤や股関節周辺にはなにが眠っているのか。
ほぐれるうちに、いろいろ出てきそうだ・・・

モチベーション

某美術団体の公募展を鑑賞した。
ものすごい数の平面作品と、いくつかの立体作品。
それらを見ていたら、わたしは立体を作るほうが好きだなあと、ふと思った。

以前に制作したとき、小さく切った和紙をぺたぺたと貼る作業が気に入って
やたらと、やっていたのを、思い出した。またやりたくなった。
手を動かし始めたら、なにかの形にはなるだろうか。

それで出来あがるなにかは立体ではないが。
つまり、描く。よりも、
手作業がしたい、ということか。

子どもの頃から、工芸品に惹かれる。

麻糸でのねじり編みを習ったとき
しばらくハマって、何本か作ったが
じきに飽きてしまった。
あまり作っても行き場に困るし。

わたしのモチベーションは、世に知られていない素敵なものを
こんなのもあるよ!と見せてまわりたい欲求である。
かわいい柄の和紙だとか、三つ折りの掛け軸風の台紙だとか
言葉の由来だとか・・・なにかしらのウンチク込みである。
セロハンを重ねるとこんなふうになって可愛いよ、とか。
身近な素材の組み合わせの妙だとか。

驚き、までいかなくていいけれど、
新鮮ななにかをもたらしたい。


どうせ大したものは作れない

ふと言葉になった観念。
「どうせわたしは大したものは作れない」

だから友人にごはんを作ってふるまうのも好きではない。
以前は、そうすべき。という信念のもと、やっていたが
(もてなし好きな母の影響)
最近は、なるべく、やらない。

オットとふたりでつくって食べる分には
うわーうまーいわたし天才!と、たびたび言っている。笑

オットと二人展をやることにしてしまい
なにか作らなくてはならないとなったときや
うちわ展の制作なども、たのしかったし
気に入って買ってくださった方もいたが
完成度については、まあ、こんなもんだろな。と思っていた。
オットにもそれは指摘された。
(もっとすごいものが出来ると期待していたらしい)

どうせ大したものは作れないから
全力で徹底的にやろうとはしない。

母は手先が器用で、若い頃は料理教室や洋裁教室、
絵画教室にも通っていた。
夏休みの宿題の水彩画だとか
転任する先生へのお礼作文の表紙だとか
かなり口出しされたり、
全面的な手直しをされたこともあった。
たしかに子どもの目からしても
これはどうだろう、という出来ではあったのだけれど
上手にカモフラージュしつつ、まったくべつのものに
作り変えられたときは複雑な気分だった。

どうせわたしが作るものは大したことがない、というのは
母が作るもの、やることとの比較からきているのだと思う。

「お父さん、どんなひと?」

ボイスヒーリングの
個人セッションと

唄のワークショップで
きかれたことがある。

「お父さん、どんなひと?」


どちらも高名な
スピリチュアルリーダー

どちらのときも
なんらかの返答をしたあと
ふうん、そう。くらいで
次の流れに入ったように思う。

問いの意図は明かされなかった。

いったいどんな意図があったのだろうと
時々、思い出す。


このことを書こうと
タイトルを入力して
ふと思い至ったのは

どちらも、唄や声のワークだったこと。

そして、もしかすると、
返答の内容が大事だったのではなく

父親に意識をつなげることが
目的だったのかもしれない。


母を地とすれば
父は天である。
わたしにとって。

舞踏体験コース

正解がない

タブーがない

誰も傷つけない

不自然も自然

大真面目でいられる

自己陶酔もよし

全力でいい

説明が要らない

深追いも要らない

あらわれるがまま

だれも咎めない

等しく異端


まなざしと音に護られ

からだを聴く

からだに応える


そういう場がある幸せ

なんだろうこれは

死期が近いかのような

別れが見えているかのような

もういちど嫁ぐような



なにか、徹底的な変化の予兆のような。


もう母に会えないかもしれない

もう誰にも会えないかもしれない

そんな感じがするんだ。


わたしには母しか居なかった。

父は仕事で不在がちで

わたしには、母しか、居なかった。


さよなら旧姓ユキ

さよなら母の子だったわたし

さらに根っこ

前記事 「自己嫌悪でした。」 の続き。


公に、募集するのをやめたら
さっそく、近しいひとが
見事なまでの鏡役をしてくれていた。

気づかずえらそーにアドバイズなんかしてた自分。とほほ。

不慣れなところにあえて飛び込んで
うまくいかなくて自己嫌悪

他人のことなら、気にすんなよ!
それどころかチャンスだぜ!って言えるのに

自分のこととなると・・・

やれやれ。



あの場を上手に仕切ってくれた彼女に感謝と、そして敬意をおくる。

ありがとうございました。

ついでにポノっておこう・・・。



警戒しているときは

ほんと、すわりがわるい。

素直になってしまえば、おちつく。



ほんとうはだれのこともいつだってすぐに大好きだと言いたい。

なにかザワザワするときは
それに抵抗しているだけだ。

負けず嫌いが邪魔をして
いちゃもんつけたがるのだ。

このことも、いつも、忘れるなー(・ω・ ;)

自己嫌悪でした。

なんとなく落ち着かなくて
気持ちが落ち込みやすくて

拾ってきたか
乗っ取られてるか
押しかけられてるか

さあなんだ?!と思っていた。

機嫌をそこねたかも、とか
嫌われたかも、とか
バカバカしいお馴染みのおそれが表面をおおっていて

その根っこにあるのはおそらく自己嫌悪
とは、思っていたが
なにをどう嫌悪してるのかわからなかったのだ。

書くと、出てくるもんだなー。

ずるい!と思ってたひとの
真似をしてみたんだなあ。
そんなつもりで行ったわけじゃなかったけど
そうだったんだなあ。

そして、不慣れなので、大変だったのです。
うまく出来なくて、自己嫌悪だったのです。

こんな記事をかくことになったのは、そういう流れだったのだな。


では目線を手元に戻す前に・・・
今後もっとうまく出来るようになりたいか?

否。もういいでーす。
やってみたので気が済んだ!(と、思う)
(けど、忘れた頃にまたやるかもしれん!)
(今回の場ではうまくいかなかったというだけだし。現段階では。)


でもって、嫌われたかも疎まれたかもの恐れは
わたしだったらそう感じるから、であって

相手のひとはもっと太っ腹で
そんなことつゆほど思ってない可能性もある。

そんなことは常日頃から分かっているのに
自己嫌悪モードのときは、すとんとそう思えないものである・・・。

守りを超える

場において抑圧された
意識にのぼることのない感覚を
拾う機能が、わたしにはある。

だれかの(わたしの)意識において
ないことにされた体感。
ないことにされた衝動。
マイノリティとされる感じ方。

いちばんちいさな声が
わたしには大きく響く。

それらを拾っては
表現したくなるけれど
社会的に不都合なので

肉体を緊張させて
しのいできたのだなと
これまでを振り返って、思う。

コンタクトレンズを
毎日、十数時間も、装着したまま
至近距離のモニターをみる生活も
それにはうってつけだった。

ゆるんだ感覚をおぼえた肉体は
緊張で守ることを拒絶する。

緊張が満ちる場を避けている。無意識に。

遅刻癖のずいぶん抜けたじぶんが
ここ半年ほどで
遅刻している場を思い返すと
緊張にあふれていることが、容易に予想される。

いまのわたしには
ちょっとした緊張感も
肉体の異変としてあらわれ
気づいてしまう。
なにごとかと思う。

あきらかに自分由来ではない
緊張や、弛緩が、肉体を操る。

場に馴染みやすい
あたらしいものを体得しやすい
という特質としても
それは、あらわれる。

そしてわたしはいま
それを超えたいのだと思う。

わたし自身の感覚 を 掴みたい。

なにかへの反応ではなく
なにかへの共鳴ではなく
わたしの奥底からくるものを掴みたい。

それを指針に、進みたい。

今日のわっこちゃんのチャネリング
うすうす意識にのぼっていたそれを
言語化してくれた。ありがたい。

脂肪は増幅装置だろうか

脂肪とは防護服であると同時に
増幅装置かもしれない。検証中。

オペラ歌手が声がより響くよう
身体を大きくするように

肉と水分をたくさん蓄えた身体は
スピーカーになる。

対象物(空間)の感情やエネルギーと
共鳴しつつ、防御するのにうってつけ。

本来の快適な状態よりも
肉体の脂肪が多いと感じるならば
感じなくていいものを感じているのかもしれない。

拾わなくていい情報を
拾っているのかもしれない。

空気などよまずに
もっと自分本位でいいのかもしれない。

期待を拾って応えなくても、いいのかもしれない。

つられる

わたしは

見ている対象の

緊張や弛緩につられやすい

相手が無意識に殺しているそれらを拾う


ということに気がついた。

というか、言葉になった。


幼少期からのいろいろに

合点がいく・・・

次元移動/世界を、変える

じぶんの身にあったのは

行く予定にしてたお店の

ドアに張り紙

葬儀のため臨時休業

それだけなのに

その前にいくつか読んでいた

SNSに引きずられたのか

どんどん落ち込んでいって

泣きたくなるほどで

代わりに入ったお店もぱっとしなくて

ぱっとしないままちょっとした望みだけかけて

オーダーした後

これはマズイ。と気がついた。

落ち込むのはおかしい。泣きたいなんておかしい。

このまま料理が出てくるのを待っていたら

確実に、さらにしょんぼりするようなごはんが出てくる。

そうはさせるかとばかりに、切り替えた。

出てきたランチセットは充実していて、それなりにおいしかった。

予想外のしじみ汁が染みわたる。

徐々にあがる気分。

オットからのキラーパスがトドメになった。

すこーんと、あがった。

じぶんでも可笑しいくらいに。

お茶碗の柄がかわいい!と浮かれる

いつもの、能天気なじぶんに戻った。

戻らないと、そうではなくなっていることに、気づかないものだ。


思うに、次元移動とは、こういうこと。

見ている世界はいつでも変えられる、とは、こういうこと。


オーダーしたときと

料理が出てきたときと

オットからのパスがあったとき

わたしはそれぞれ

まるで違う世界にいた。


いつだってじぶんで選んでいる。

お涙頂戴が嫌なら、切り替えればいいのである。

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