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2016年1月の記事

おかねのふあん

もともとなかったのを
世間(というか、親)にあわせて
もっていた、おかねのふあん

最近ほんとに、はるかかなたに行ってしまった感。

恵まれてるからだとか
特殊だとか
考えが甘いとか
そういうのも、もう、どうでもいいや。

裏付けのように
信用は現金化できるという考察や
お金が無くなるのは錯覚という記事を読む
(どちらも下部にリンクあり)

所有の概念が
薄れてきているようにも思う。

うちになくても
実家にあったり
もし実家になくても
どこかの企業だとか
銀行の他人の口座だとか
それこそ政府にはお金があり
それはただの数字だったりもする。

こども銀行の感覚。
物々交換としての、金銭授受。

払うのはすきだけど
もらうのはやっぱりめんどくさい。
かってにくれるのは嬉しい。
自分で設定するのはピンとこない。
小谷さん方式で500円とかにすればいいか。

生活のなかに染み付いている
不安からくる選択は
これからも随時、選び直しが必要。


参照:みっちさん記事
「自分を大切にする」が解らない方へ♪ 
自分軸のつくりかた。自分を大切にする方法。わたしの場合
http://amba.to/1QoUeU3



キンコン西野「信用は現金化できる」
ホームレス芸人・小谷がお金に困らない理由を分析
http://logmi.jp/104553



まやこさんブログ
お金が無くなる錯覚と不安を吹き飛ばせ
http://ameblo.jp/kamacho7/entry-12120412026.html

何かを買うと
お金がなくなった!と思う人は多いのですが
実は
価値を交換しただけで
持ち分は減っていない上に
実はそれを得たことによる付加価値もプラスされて
元よりも価値が増してるケースだって多いのですよー。
あなたは、手に入れたことで
手にいれる前より何を得ましたか?
それによりどんな快適さと心地よい時間を得ましたか?

落としどころ

わたしが問題解決や

意味づけが好きだったのは

そこにかならず希望があるから。


これで大丈夫

良くなる可能性がある

そう思えないと、落ち着かないから。


相手にもそれを共有してほしくて

かってに説明しはじめたりする。(いわゆる前者?w)


でも、もう、いちいちこねくりまわさなくても

そうでしかないって、わかってしまった。

仮に、希望を見つけられなくても、

取り返しのつかないことが起きるわけでもない。


変えるべきことはなにもない。

変えてもいいし、変えなくてもいい。

なにを選んでも、選ばなくても。

どこまでいってもプロセスでしかない。


近道がわかっていながら

あえて遠回りをしては

とおいー!って言ってても

好きでやってるだけのこと。

そんなことをする自由すら、ここにはある。


考えるのは好きだから

推理小説をたのしむ感覚で

たとえばSMAPと知人の気づきと第9の惑星の発見を

むすびつけて、ワクワクしたり、している。



私のこの望みは、私を幸せにしますか?
私のこの望みは、みんなを幸せにしますか?

答えはイエスです。
常に、イエスです。

信じられなくても、疑っていても大丈夫。
答えは永遠に「イエス」です。

そのことを、ただ覚えていなさい。

あなたの中にその「問い」が生まれたこと自体が、
もうあなたにはそれがわかる時が来たというメッセージなのです。


てりんぐらいとブログ記事
『ただ、問うということ。』より
http://ameblo.jp/tuneterurin/entry-12119902979.html

お荷物老人

ひとりで
抱え込んでいた
年数のぶん
みんなに
抱えられる
お荷物になる
年数が必要なのかな

なんてことを
「わたしはどこでもお荷物で」と言う
祖母をみて、思う。

じぶんで帳尻あわせて
カタをつけるつもりだとしたら
それもまた、祖母らしい。

感情反応の扱い

相手の感情や反応を
フォローしない
面倒をみない
過剰な回避策もとらない

じぶんに生じた感情や反応は
じぶんで面倒をみる
相手に期待しない

相手がなにもフォローしないのは
大切にしていないからじゃなく
信頼しているから

被害者も加害者もない
すべてじぶんに帰する

なにものにも
おびやかされない

おびやかすことなどできない

感情のやりとり

相手の感情を受け取らないこと、について
きいたり、話したりが、続いてる。

意識が向いてるからだろうか。

振り返り、おさらい、漏れチェックか。

右眉〜目の痙攣はこれに関係してるのか。

相手の感情にふりまわされず
好きにすればいい

ふりまわされるのは
そこに自分の生死が
くっついているという
錯覚のせいである

しかし、相手の感情ごときで
命をとられかねない業界も
あるのかもしれないなと
解散回避ニュースをみて思う

みんなが相手の感情に
ふりまわされることが減ったら
安心して感情を出しやすくなって

もっと感情的になっていくかなあ
生き生きと。エモーショナルに。

そしてもっと自由に
最適な責任量だけ負って
ぐいぐい、クリエイトしていけるかなあ

個人主義に基づく共同創造。

気がする、だけでは

そうなる気がする

そうする気がする

気がするだけでは
そうはならない
フェーズのようだ。

気がして、
それで
どうする?

やるのか
やらないのか

そうなることを
望むのか
望まないのか

あらためて選ぶ
責任を引き受ける
可能性とリスクを承認する

じぶんで意識的に舵をとる

なにを選んでも
どうせ大丈夫だから
ぞんぶんに
ハートのままに
冒険したいところ

雪深い土地

夕方実家にいったら
朱駒内で2mの積雪
例年並みになったと
ニュースでやっていた

そのときは
行ったっけ?くらいのはなしだったけど
いまになって、ごうごう泣ける

当時は除雪車なんてこなくて
徒歩でしか出かけられなかった地域

つらくても
だれもそんなことは
言えなかった
で、あろう

父を育んでくれた土地

ありがとう

いくらでも
わたしの肉体を
つかえばいい

つらかっただろう
恨んだだろう
だけど、ありがとう。

経路の変更

体にきいてみる とか
邪気吐き とか
オットにはシェアしてこなかったのも
一種の遠慮、住み分けだったんだけど
それも、もう、要らないんだろう。

オットの肉体については
オット自身がコミットする。
じぶんの管轄として面倒をみる。

わたしがいままでメインにしてきたのは
肉体のケアのほうである。
ごはんをたべさせるとか
お風呂や足湯や温湿布とか
それらをつうじて愉氣をしてきた。

風邪を引くからくりと同じ。
オットがそこに必要としていたからで
また、わたしがその経路を好んでいたから。
わたしの氣の受け皿としての、オットの肉体不具合。

それはもう十二分にやったので
本来のつかいかたに切り替える。
わたしは、外向きのほうが得意なのだ。

でもそこに遠慮があった。

結果が出なかったら嫌だと思ったし
オットのセンサーのほうが正しいと思ってきたし

わたしは、わたし個人として、単体で
自己実現をするべきだと思ってきた。
オットは、オット単体で、するものだと。

(これも社会からの洗脳だったか)
(やるだけやりたかったんだろう)

二人羽織で共倒れ。
それもまた
二人ならたのしいさ。


責任逃れ

あえて、やるとか、やらないとか
まだ癖として残ってるな。

表面がはがれて
根っこが出てきたとでもいうか。

オットに対して発動しやすいもの。

ひとりじめ を おそれたり
(ひとりぼっち への おそれでもある)
(分かち合うよろこびと、分け合うゆたかさのバランス)

コントロール=責任 を 回避したり
(極端なはなし、思いつくまま振り回し
 手足のように使い倒してもいいのだとおもう)

肉体の調子を最優先してきたのを
こちらの意図にあわせて随時整える方向性に
切り替えたのと同様に
オットとの関係性もまた、切り替わるタイミングなのか。

いよいよ責任逃れができないのか。

責任なんてないんだけど。

あるとすれば、ぜんぶ笑い飛ばすことだけだ。
ifさんにもらったアドバイスおまけカードを思い出すなあ。

腑に落ちる体験

あたまで知っていることを

肉体レベルで、細胞ぜんぶで

ああそういうことだ・・・

分かるような出来事が

起きやすいのかなもしかして。


それはただわたしが

そういう体験をしたから

そこに意識が向いているから

そういう出来事を体験したひとが

あらわれやすく、目に留まりやすい

それだけのことかもしれないが。

方向性

ここしばらく、肉体にお伺いを立てながら
臨機応変、柔軟な、受け身姿勢だった。

ここから先は、肉体の適性をふまえたうえで
ターゲットを設定して達成する姿勢でいくような気がする。
従来(かつて)の、力づくでそこに向かうやり方ではなく
瞬間ごとのこまめな破壊と再創造で調整していく。

なんとかなるし
なんとでもなる

できない理由はないし
できないならそれがOK

決めればそうなるという前提と
そうするという意識のちから

どっちでもいいからこそ
きっちり実現させてみる

現時点でターゲットは不明なんだけど
それもたぶん、随時でてくるんだろう。
たとえばあそびの約束なんかも、ターゲットになる。

言葉のもつ其れ

概念や知識、情報として発せられるのと
肉体がそれを体験したうえでの言葉とでは
なにかが違うんだ。

身体はその違いを感じ取る。
そして、共鳴する。
発せられたそれを体得する。

・・・

年末に観たお芝居。
つくられた世界。
生身の演者。

そこに生まれる空間と
そこから抜ける感覚。

どんなに知っていても
実際に見て聞いて感じるのは
ぜんぜん違かった。

ぜんぶ幻想だったよ。ほんとに。

シナリオと役作り

体型の変化
好みの変化
さまざまな出来事
とらわれやすい感情
味わう感覚

ぜんぶ役作りみたいなものなのだきっと

シナリオを決めているのは
奥底のじぶん

どんなシナリオを生きているのか
どうなっていくのか
それらから推し量れることもあるし
意識の向け方で
演出やエピソードを
調整できることもある

よく陥る苦難めいたものは
その内容そのものではなく
そこで得られる体感のため

その体感が得られるならば
苦難である必要はない
代替行為で事足りる

それでしか得られないタイプのものは
不可避となるが、抵抗を減らすことは可能

欠乏感の存在

書かなくなったのはつまり
わたしのなかの欠乏感のようなものの
存在が薄くなったということか

このタイミングで
村上春樹「国境の南、太陽の西」を読んだのも
なんだか面白いことである

ここ最近で
繰り返しタイトルが目についたので
年末に注文したら、元日に届いたのだ

書かずにいられなかった頃と、いまと

出来事や感情や気づきを
書きまくっていた
かつてのじぶんは

意識を向ける先に
意識的でいることができなかった。
保つことができなかった。

どうしても意識が向いてしまう
その力に抗えず巻き込まれ
あふれてしまうから書いていた。

それをやらずに、ひっかからずに、とり立てせずに
まあいっかで流せるようになったのはなんでだろう

ほんとうにほんとうに
なにを取っても取らなくても
なんでもいいってことがわかったのは
存分にひっかかりまくったからだろうか
アクセス効果もありそうだ

意識を向ける先の重要性
じぶんという個体の重要性
正しいも間違いもないということ

ここが完全に腑に落ちたのだろうか

言い訳がいらなくなった

傷つけたらごめんなさいだし
違うといわれたらそうなのねだし
そこに対する予備動作がなくなった

あの頃は書かないと落ち着かなかった
正解を探していた
がんばっていることを分かってほしかった
間違えないようにしているんだよ
気をつけているんだよ
ちゃんと考えてるんだよ
だれかへのアピール
つまり、さみしかったんだ

他人を必要としていた

伝えるということは
相手を想定すること
他者の存在を意識しているということ

いまは、わたしはいつも、わたしで完結している

わたしがわたしであることと
わたしが他者とつながっていることが
完全に同義になっている

わざわざ言葉にしなくても
伝わるべきことは伝わるし
伝えたくないことも伝わる

だから安心して
じぶんに集中していられる

他者の存在を意識することなく
じぶんひとりで完結できる。
過去も未来もなく
いまのじぶん、だけで。

SNSに書くこと

日常の些細なこと

感情の浮き沈みや
ぐるぐる考えていること
気になっていること
気が付いたこと

ツイッターだとかに
書き出していた時期が
わたしもあった

しかしあの行為は
言葉にすることで
そこに意識が向いてしまう

どうでもいい些細なことが
なにか意味を持ち始めたりする

なにか出来事に対面したとき
あとで書こう、言葉にしようと
無意識にこねて固め始める

そうして表に出したら
それはなにか
徹底的な出来事になる
あまつさえ他人から反応がきて
そのたびにまた意識を向けて
それはもう立派なナニガシとなる

しかしそれはほんとうに
そんなにも意識を向けたいことだったのか

記録や共感といった
副産物ほしさに
動きを滞らせてはいないか

そうまでしてそれが欲しいのか

あの頃の自分に問いたい


痴呆症

若年性アルツハイマーになった
同級生のおとうさん

高齢期の痴呆症で
施設にはいった年上知人の父

ほかのひとのはなしをきいても皆
いままでならあり得なかった
やさしさや
ユーモアや
やわらかさを身にまとうという

この近代日本は
わたしたちは
どれだけ
無理を強いてきたのかと
胸がつぶれる想いがする

すこし、やさしすぎた
すこし、軽妙すぎた
そんなひとたちが
やっと、本来の持ち味を
いかんなく発揮する
そのときに
記憶がつながっていないように見えるなんて

うちのどちらの両親も祖父母も
まだ痴呆症にはなっていない
運がよかったのだ
たぶん

自他にとって、そうなってはならない
そういう役割だから、いまは、そうなだけで
明日は誰がそうなるかしれない。
自分だって。


アルツハイマーにだけは
バーズの効果がみられないらしい
おそらく、肉体はこの世界にいても
別の世界を生きているからだそうだ。

涙もろい/反抗期終了

知人がブログにアップしていた
サーフィンしている知人たちを
波打ち際の家族が撮影した動画、約30秒

これを見て涙ぐむって
いったいどうなってるんだww

芝居のあとの大号泣からあとだろうか
涙もろさに拍車がかかっていて
じぶんでもまったく意味がわからない

紅白歌合戦で新人演歌歌手にもらい泣き
サプライズに涙するアイドルにもらい泣き
それはまあいいとして
泣ける歌でなければ泣くシーンでもないところで
涙があふれてくることがたびたびあった

オットは、歌だからね。といい
妹は、お酒のんでるからでしょ。といって
今日友人に話したら、共鳴だね。といわれナルホド。

芝居のパンフを読んでいて
具体的なストーリーに触れる文章でもないのに
じわじわとなにかが蘇ってきてまた涙ぐんだり

大号泣のあとのやわらかい
つきたてのもちのような
ふにゃふにゃしたところが
いろんなものに反応し
その響きが涙というかたちで出ていく

感情を介さない
生理現象あるいは
物理現象としての涙

涙で流し
笑で祓う

ところであの芝居で
生きてた!と安堵したあの感じは
父方祖母の味わったものと
類似していたかもしれないと思いついた。
真贋はわからない。

昨日、おととい と
我が夫婦にとっては年に一度の
二日連続テレビデーが終わり
今日は静かないちにち。

みなもすなる年賀状といふものを
我もしてみむとてするなり。
という気分で
第二弾を制作したところ。

どうやら慣習や文化への反抗期が終わったらしい。
反抗がない状態でいると
「あえてやる」でも
「あえてやらない」でもなく
ただ、淡々と、やるかやらないか。
ほんとうにどっちでもいい。

どっちも正解であり
どっちも近道であり
どっちも同じだから。

いまのわたしにとって
データ入力業務も
年賀状も
落書きや塗り絵も
こうして文章を書くのも
ぜんぶおなじで
仕事といえば仕事だし
あそびといえばあそび

あそびをせんとやうまれけむ

2016年の誕生日がすぎると
パーソナルイヤーナンバーは3になる

ペルソナとマチュリティでもある3

全体のナンバーは9だから
わたしがいつも2〜3年早い感じがするのは
このへんのズレでもあるかもしれないな

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