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2016年2月の記事

歯止めがきかない

『歯止めがきかない』は
わたしのなかでながらく禁忌だった
よくわからないけれど
とにかくそれは禁じられていた

3年前の今頃にうけたセッションで
最終的に扱ったのはこれだった

なにかに没頭しているあいだに
たいへんなことが起きてしまうかも
そういう感じ

・・・いま思うと
これ、わたしのではないかもしれない
祖母も、もっているから
(実際にたいへんなことが起きた)
家系的にもっていたのかもしれない

子供いたら楽しいだろうけど
子供に集中しちゃうだろうなとか
うっすら懸念だったりもした

ほかにやるべきことがあると
どこかで思っていたのだろうか

いまは、夢中でいることだけが
わたしの仕事であって
対象はなんでもいいってことが
腑に落ちたから
だいじょうぶになった

ここがOKにならないと
自宅を本格的に整えることは
できなかった
いちばん制約のない場所だから

箱庭

わたしにとって
おうちをあれこれするのは
等身大おままごとで
箱庭療法みたいなものかもしれない。

そして、うちのオットにとっては
絵をかくことがそれなのかも。

スペースを整えて
じぶんの世界をつくるって、
そういうことなんだな。きっと。

あたらしい感覚/オトのちから

改札の件。
おじさんに対して
そんなこと言っちゃって悪かったな、とは
ほっとんど思わなかった!!
一瞬おもったけど
そのあとの感謝で帳消しされた。
あたらしい…!!!


昨晩、珍しく
布団にはいってから
オットと話してたいて
男の意気と本能、的なことを
オットが言葉にしたとき
全身しずかにビリビリしたんだ。

ことたまのちから

その、意気も本能も
推測がついてたし
遠回しには聞いていたし
わたしのなかでとうに確信だった。

うれしくありがたく心強くおもって
ここまできたけれども
でも、オトになると、違うもんだな。

先月だったか改めて
求婚を言葉にしたときも
ばかばかしいと思いながら聞いたのに
そのパワフルさにしびれたっけ。
まさかそんなふうに響くとは
まったく想定していなかった。

男がめったなことでは
本気を語らないのは
ことたまの強さゆえ、だろうか。

「わたしに言わないで。」

回数券で通れる
自動改札は限られている

降車駅で
切符OKな改札に
向かっていたら

前に2~3人いて
なんだかもたついて
あきらかに流れがわるい

わたしの左後ろの
切符片手にしたおじさんが
「もたもたしてんじゃねーよ」
とかなんとか言った

「わたしに言わないで。」
口をついて出た。
だって前がつまっているのだ。
わたしだって切符なのだ。

おまえがなんとかかんとか
ごにゃごにゃ言い返されたけど
そんなのはどうでもいい

わたしも切符かもしれないという
予想はつかないのかあほんだらっ

ひとりごちて気がついた。

これ、再現だ。
そーかわたしあのとき
「わたしに言わないで。」って
言いたかったんだなー。

言わせてくれてありがとうおじさん。

おうちギャラリー裏話

オットにおうちギャラリーを提案したとき
ほんの数分でかなりの逡巡があったらしい。

オットはそもそも
他人が家にいるのを
好まないひとである
(ネイタルチャートにも出てる)

さらに、へんに潔癖なところがあり
コートやジーンズなど
外を出歩いた服装のまま
家のなかで過ごすことを嫌がる

客人に部屋着にかえてもらうわけにもいかないしw
カーペットに座らないでくれというわけにもいかない

しかし、わたしのやりたがることを
なんでもかんでも却下していたら
そりゃ人生たのしくもないだろうし

嫌なことをぜんぶ拒絶したままでは
じぶんの可能性も広がらないだろうと
断腸の思いで、OKすることにし

じぶんは外出しておくことも出来るけれど
それもなにか違うだろうと
家人として参加することにした。


結果としてわたしが
長生きしてもいいかもと
言い出すに至ったので
まこと、英断だったといえよう。

ちなみにわたしとしては
なんでもかんでも却下されていると
思ったことはなかったけれど
オット本人の自覚としてはそうらしい。


ところで、おうちギャラリーを
本格発案したのは1月16日

まだ1か月経っていない
そのことにびっくりしている

1月はやたらめったら長かったというのもあるが
わたしのなかで、もう半年くらいは
企画していたような気配をもっているのだ

それだけ馴染の良いことなのかもしれない。


青天の霹靂

昨晩からやたらと落ち着きがなく
寝付けないし眠くないし
上機嫌すぎて
我ながら気持ち悪かった

理由はいくつか思い当たったけれど
それにしたって興奮しすぎだろう

そう思いながら
今日もニヤニヤ
おうちの手入れしてたら

母からメール
返信を書いて
じぶんで驚いた

なんとわたし
長生きしても
いいかもと思ってるらしい。

ありえない。

あんなに終わらせたかったのに。
あんなに、あんなに、嫌だったのに。

長生きしても厄介者なだけと
言い続ける祖母と

その祖母をみて
長生きするのも考えものねと
くりかえし言う母と

そのふたりをみてもなお
長生きしてもいいかもねと言うわたし…

そんな日がこようとは!!!

ありえない。
青天の霹靂だ。

最近、本腰をいれはじめた
おうちの手入れは
ちょっと手をかけると
愛着がわいて
さらに欲がでて
きりがない
だから、たのしい。

この、「だから、たのしい」が
かつてのわたしにはありえなかった。

きりがないのが嫌で
極力、手をつけなかった

どれだけやっても
ハイセンスなおうちには
ならないのもわかってる

みるからに素敵なものより
質実剛健が好きなのだ、どうしても。
シャビーやカントリーに憧れながら
そうしたものは選ばないのだ。

それでも。
ちまちまと工夫を重ね
すっきりした
じぶん好みの
空間になっていくのは
愉悦の極みである。

それがどんなに
地味で平凡な好みであろうとも
平均点以下の到達度でも
ひたすらにじぶんが満たされるのだ。

そういう時間がとれるとわかったいま
人生があと何十年と続いても
投げ出したくなることはない気がする。
じぶんを満たしていられる気がする。

先週あたりから
じわじわきていた
爆発的な気配は
これだったのかな…

ああ、びっくりした!!


爆発的な

今日の水瓶座新月は
なにやら爆発的な変化を
象徴しているらしいが

わたしはここ数日
爆発的なヨロコビで
号泣したり、している

ずっとずっとずっと
報われているとは思えない状況のなかでも
こつこつとやるべきことやりたいことに
七転八倒しながら取り組んできた
なんにんかの友人たちに
星が降り注いでいる

そのことに
わたしの胃のあたり
まんなかが反応して
わんわん泣いてしまう

またなにかの蓋が開いたのだなあ

こだわり

こだわり。

ポイントはひとによって違うし、
欲の深さも違う。

同じであろうとする必要もないし
嫌がっちゃいけないわけでもない

ああ違うんだな、で、スルーして良い。


こういうのが目についてザワツクのは
視界がひろがる前なのかもしれない。

エネルギーは大きくなってるけど
使い道がまだないので
あちこちひっかかってしまうような。


ひっかかることなく
空けておけばよい。

不足は呼び水

ひとに言いたいことは
じぶんに言いたいこと

なので、メモしておこう


相手の感情を
なんとかしなくていい

相手の反応を避けるために
なにかを我慢しなくてもいい


じぶんを変えようとしなくていい
変わるべきじぶんなど探さなくていい


親とおなじことをしても
子がおなじ思いをするとは限らない

前とおなじことをしても
前とおなじになるとは限らない


ぜんぶ埋めなくていい
ちょっと足りないくらいで

そうしたらおのずと動きだすのだから


不足は呼び水
あらたな可能性にひらいていく

破壊をおそれるな
変化を避けようとするな

停滞や逆流を引き起こすとしても

調和を思い描き、すすめ。


「いっしょに」

節分だ切り替えだ宇宙エネルギーがどうだ
日差しに春がまざってきてるし
かろやかな日だろうに
昨日からどうもダウナーだなとおもっていたが

友人に嬉しい出来事があり
さらにべつの友人にも嬉しい出来事があり

よろこんでいたら
元気になってきた。
ゲンキンなものだ。


わたし自身に
なにも起きていないからといって
なにも動いていないわけではない

わたし自身に
なにも起きていないからといって
退屈なわけでもない

いっしょによろこんで
いっしょにしあわせ

わたしのキーワードは「いっしょに」なんだいつも

それを忘れて
ひとりでほくそ笑む成功体験のために
度胸や機転を発揮しようとおもっても無理で

それをいっしょによろこんでくれるひとがいれば
可能性はぐっと高くなるような気がする。

願望と不足

死んでしまいたい願望は
もしかしたら
消えそうな自我の
さいごの声かもしれない

だとしたら
死んでしまってもいいよと
送り出すのもいいかもしれない

いまも時折ふと顔をだす
きのうの夕方からも覗いている

どうせわたしなんてこの程度
どうせわたしはこのまんま
どうせどうせどうせ
はいはいはい

それでも地球はまわっているし
心臓は脈うっているし

なにをしてもしなくても
言っても言わなくても
決めても決めなくても
それでOKなんだよ

どうも度胸が足りないなと
足りないところをみている

足りないところは
足りないままでいいよ
残念な気持ちのまんまでいいよ

できることをこつこつやろう

度胸がなくて
機転がきかなくて
スプーン曲げられなくて
それがいいってこともあるのかもしれない。

ないかもしれないけど
だからってどうにもならない。
少なくともいまは。

”愛されてるのかな?という怖れを無くす方法”

田中みっちさんブログ記事

愛されてるのかな?という怖れを無くす方法は?

http://ameblo.jp/micchi222/entry-12124117660.html

相手が、わたしを嫌っても

わたしが相手を嫌いにならない


そう、決めたの。



わたしもこの方法でやっている。

さんざん嫌う準備をしたり
手放しても大丈夫なように準備したり

やり続けて
そのキリのなさに
ほとほと嫌になって

相手の気持ちを疑うのをやめた。
相手の気持ちはどうでもいいことにした。


振り返ると
愛されてるかどうか確認し続けるゲームをやめてしまうと、
なにしていいか分からないので
なかなか止められなかった、気がしている。

それ以外の関係性を知らなかった。

実際に止めてみると
可能性がひろがって、心にも体にもやさしい状態になり
クリエイティブな関係性になったし
パワフルでいられるようになった。
(疑いにパワーを使わなくなるので。)


この記事に書かれているのは、
パートナー以外のあらゆる対人関係はもちろん
事象や出来事に対しても使える
基本姿勢だと思っている。
対象を随時拡大中。


ちなみに。確認ゲームをやめてみたら
そんなゲームをしていたのはわたしだけで、
相手はとっくに(最初から)そういう覚悟でいた
ということが分かった。

言葉できいたわけではなく、
自分がそうなって、はじめてそれが体感としてわかったというかんじ。

おみそれしました。と思った。感服!
そう思えたことがとても心地よく、嬉しかったな。

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