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2016年9月の記事

無視も回避もできないときは

ネガティブな思いが発生したとき
その対象に対しては
つとめて無関心でいることや
回避することがまず基本となる。

嫌なもの、ヒト、状況を
凝視し続けることなく
とにかくいちどフラットなポジション
ニュートラルな状態になることが大事。

しかし時には
回避も無視もできないことがある。

厳密にいえば、できないのではなく、したくない場合。
回避し続けてきたけれど
やっぱり避けて通れないと観念するような場合。

器を広げるタイミングである。

じぶんの世界(スペース)には
心地よいモノしか入れない、とする以上
嫌なものが、嫌ではなくなる展開をつくっていくということ。

基本的なスタンスは同じで
その「嫌な対象を受け容れる」と決めたら
あとは、ニュートラルでいる。

ニュートラルでいながら
ヒントを探していく。
あちこちに投げてみる。

対象が悪いのだとか
自分が狭量なのだとか
そうしたところからは外れたうえで
現実と感情を丁寧にみていく。
どこかに刺さっている棘を探す。

嫌だ、不快だ、と反応するきっかけ
それにトリガーされる
じぶんの行動パターンを見極める。

パターンを構成している
思い込み(妄想)まで洗い出す。

いままで不可避となっていた
反応からのパターンを、抜けると決める。
(見つけた段階ですでに抜けているようなものである)
(抜けることを、じぶんに許可する。ともいえる)

この一連の作業が済んでしまえば
今までその反応を呼び起こしていた
不吉なドアチャイムは
幸運の青い鳥になりうる。
積極的に呼びこむことも可能になる。

もたらされるきっかけそのものに
良し悪しはない。
それに対してどう反応するか
その反応をどう使うか
自由で、自在で、あればあるだけ
器はひろがっていく

なにかに対してネガティブな思いを抱いたとき

● 嫌いなひと
● 不快な状況
●つまらない環境 などへの対応


いやだ、むかつく!と
相手(対象)へ向けるのではなく
じぶんの感情だけを見る。

嫌なものは嫌。
嫌いな理由、言い訳、正当化はいらない。
怒っているだけ。
怒りたいだけ。

なにかに対して
無自覚に反応することは
どうしたって、ある。
不快にしろ快適にしろ。
肉体をもっているがゆえ。

反応することに
良し悪しはない。

不快反応に執着し
なんでだ、どうしてだ、どうすれば
などと言い出すと
長引いて、怒りになる。

本来エネルギーをむけるべきは
そこではないので、ストレスだから。

反応は、反応でおしまい。
自責することも恥じることもない。
学ぶことも正すこともない。
相手(対象)に働きかけることもない。

不快であることを認めたうえで
対策を講じていく。
回避する、無視するなど。

そしてじぶんの立ち位置に戻る。
しっかりと前を見据える。


反感を表明することへの抵抗

なにが嫌いとか
なにが鼻につくとか
どんなのが不快なのかとか

個人の嗜好であり
美学であり、個性であり

嫌なものは嫌。それでいい。
そう思うんだから、それでいい。

しかしそれを
表にだすことはおろか
自分のなかで「嫌う」気持ちすら
なんとか回避しようとしていることがある。

鏡の法則やら引き寄せやらに毒されて
わが身をよくよく振り返り
完全に潔白でなければ
言ってはならない!という自縛。

自分が嫌ってるそれを
自分もやってるじゃないかと
だれかに突っ込まれるのもいやだし
うわー自分もやってたーーー!
なんて気づく日が来たりしたら面目ないし

だけど現時点では
やってるつもりはない。

うわーってなる日がもし来たら
そのときはアタマ抱えて
ちいさくちいさくなって
消えてしまいたいと思って
そうして、また、ダメな自分を知って

そうしてきっと、生きやすくなっていく。

土俵への誘い込み

一部の人々が苦手な理由が
やっと、言語化できた。

相手のペースにのまれそうだからだ。
相手の土俵にうっかり乗りそうになる。

相手が無自覚に無意識に
土俵へ誘い込む意図があって
なにがしかの手段を用いているとき
わたしはその意図に気づいてしまう。

気のせいかもしれないし
投影かもしれないけど
でも、とにかく嫌な感じが消えないのは
そういうことのようだ。

はなしは簡単、のらなければいい。
相手にしない。
相手をいい気分にさせない。
読めても、合わせられても、やらない。

振り返ればわたしの人生
じぶんのペースにのってほしいタイプと
うまいことやって気に入られては疲弊して逃げる
その繰り返しである。

相手が、組織であれ、個人であれ、同じこと。

しかしわたしはもう疲弊したくないので
一ミリでもその気配があり
乗っかる面白みもないのなら
のらりくらりとかわしたいところ。

不快感というのは
じつに個人的なものなので
相手に伝えたところで
納得はされないんだろうけれど
だからといって
わたし自身が見逃すわけにはいかない。

相手の土俵への誘い込み。
これも一種のマウンティング。

いつだったかも、そうかこれがマウンティングか!って
話になったなと検索してみたら、去年の7月末だった。

中華屋にきておいて
カツ丼たべたーいと言ってくるような
空気を読んだうえで外してくる
甘えにみせかけた嫌がらせ。
試金石を投げてくる。

相手にとってこちらが
なにがしかの脅威なんだろう
親しみとか洒落心でもあるんだろう
横つながりへの憧れもあるんだろう

しかし、飢えてさえいれば
だれかがくれるから
ずっとそれをやってるんだろう
世の中、与えたいひとはいっぱいいる

こちとら絶対あげないけどね!
という結論になった。
狭量で結構。
相手がほんとうに欲っしているのは
それではないことも、見えている。

”上から目線で実は捨て身な人々って
横のつながりは持ちそうにない。
捨て身の需要と供給が成り立たないと親しくできない”

そして。そんなひとたちには
与えない、だけで良いのである。
わざわざ踏み込んで地雷を踏む必要も
地雷に言及する必要すらない。

メスの本能は、じぶんを守ること。相手を切りつけてでも。
きれいごとは、男性にまかせればいい。
痛いところに切り込む担当はやらなくていい。
捨て身に捨て身で切り込まない。

このときにそう決めたのだ。

ストイックでいるための処世術を
わたしはじぶんに、さらに、許可する。

ピエロ人生

じぶんの好みやこだわりを
さらけだすのは
ピエロになるようなものだ

自己開示!などと気負って
あえて出すこともないのだけれど

うっかり出てしまったり
ふと出そうになったなら
ひっこめることもない
堂々とアホっぷりをさらせばいい

個人の価値観や感じ方など
千差万別、正解も不正解もない

多数派・少数派はあるから
まったく受け入れられないことも
相手にされないことも
鼻で笑われることもあるだろう

ただの勘違い。
考えすぎ。
こじつけ。
妄想。
なんといわれようとも

ささいなことに
膨大なからくりを
感じ取り
壮大なからくりに
感じ入る
それがわたしであることは
もう、疑いようがなくて

このブログだとか
クローズドグループで
特例として出すのではなく

特殊な肩書きもなしに
あたりまえのものとして扱っていく
説明も前置きも言い訳もなしに出していく

そこには本来
遠慮も恐怖感もいらない ということを
これから、体験していく

気負いなく

脱力して
気負いなく
かけなくちゃなあ と

こんどの公募展にだす作品について
オットが、言っていた。そういえば。

やっぱり、どうしても、力んでしまうのだと。


今回限りの公募展
いざ申し込み手続きを進めてみたら
完全なバックアップ体制ができていて

へんなストレスなく
拍子抜けするくらいにシンプルで
配慮が行き届いていて

手続き関連に苦手意識のあるオットは
こんなことなら去年もその前も出せばよかった。と。


そう、踏み出してみれば
世界は案外やさしかったりする。


生身の、むきだしのじぶんで
おおやけの場に出ていくこと

わが家の木星@天秤テーマかもしれないな。

文章表現

前記事の、スピ英の自分メモ的文章
我ながら、良いなあと思う。

しかしあれをレビューとして
そういう心づもりで書いたら
ああはならなかった。

mixiでぼそぼそと書いて
アムリタさんに内容について確認して

FBにはココログのリンクで出すのか
前後に文章をつけるのか
しっくりくる形を探して
公開範囲変更&シェアに落ち着いて
多少の編集をいれて
そのうえで、出したもの。

我ながら、なんて慎重なんだろう。

わたしが受け取ったもの
その気配を、そのまま
おもてに出そうとするのなら
それくらいの配慮をしたい、こだわり。


何年か前、レビューを書くことを
仕事として募集しようと
画策したことがあったけど
あたりさわりのない
面白みのない文章しか
出てこなかっただろうな。

いまだって、伝えようとして書くときは
わかりやすさ重視になっている。
アメブロとココログを使い分けているのもそれだ。

アメブロ仕様の自分も嫌いではない。
あの仕様で書いたものであれば
どんなフィードバックがきても
受け流せるであろう、安心感もある。
つまり、武装した文章。
社会性のお面をかぶせている。

その真ん中に位置しているのが
もしかしたら、家を片付ける話や
猫の記事なのかもしれない。

英語コンプレックス溶解

アムリタ映蓮さんの
スピ英メディテーションに参加。

欲しかったもの
求めていたものが
やっぱり、得られた。

じぶんのペースで言葉を放つこと。

これはおそらく
英語にかぎらず
母国語でも、求めていたのだろう。

”I”の表現をしたがるのが、
愛の第四じゃなく
第三だった。

日本人のなかで
日本人たちが
英語で
ハートから話すこと

英語習得の目的は
コミュニケーションだったはずなのに
恥の感覚だとか
見栄だとかで
日本語ばっかりしゃべってたNZ滞在期間

あれは、英語の文法からくる
意思表明に対する抵抗や
恐怖もあったのかもしれないなと
SVの二語を繰り返すワークで気づく。

英語という言語に
”怖さ”を感じられたのが
いちばんの収穫だったかもしれない。

ゆっくり、ゆっくり、丁寧に
日本語を母国語とする先生のもとで
日本人にとって英語を話すことの
メリット、デメリット、苦手ポイントはもちろん
会話の本質を熟知している先生のもとで
まっさらな英語に触れたから、気づけたこと。
アタマじゃなく、肉体レベルで感じた怖さ。

SVで伝達の半分以上が終わってしまう。
結論ありきで伝達を始める。
だから、話しの始めが肝心で
問いただすのが大事で
伝えようとしてますアピールが思いやり

日本語はさいごまで聞かないとわからないから
みんな、沈黙を身につける。
主語のない国。
共感の国。
ことだまを知る日本人は、結論に慎重で
話しながら、言葉を選びながら、伝達する。

”I”を繰り返すワーク
”I am YUKI” と言えるのは
わたしひとりなんだな、と思う。
たったひとりのじぶん、というものを起点に
文章がはじまっていく英語文化。
困ったら”I”を繰り返す。
わたしであること。

日本語では
沈黙は金
英語では
沈黙は禁
しかし、間は金なのだ

日本人のもつ奥行きは
英語を話していても生きてくる
シンプルな単語を
じぶんのペースで
じぶんを感じながら紡ぐことで
単語以上のことが伝達できる。
相手への信頼。

英単語を重ねて重ねて重ねなくても
言葉ですべてを説明できなくても
コミュニケーションする気持ちが双方にあれば
それは、成り立つのだ。
繋がり、響きあう。

英語、となると忘れてしまい
できない、知らない、にフォーカスしてた。
そういうものだと思い込んでいた。

I don't know but I want to know.

いや・・・

I don't know and I want to know.

これでいいんだな。
英語スイッチ。

よく知らないけど
話せる。

書き換え完了。

せかいにはみるべきものがあふれている

与えられたもの
手にしたものを
くまなく存分に味わうことを
じぶんに課してきたのだなあ

新聞をとっていたときは
読み切れずに溜め込んでいたし
テレビドラマにはまれば
全ドラマをチェックして絞り込んだ
映画ならば制作者の想定通りに
全編通しで観るのがすきだった
おなじものをみるくらいなら
違うものをみるほうがいいと思っていた
だって山のように、そして次々と、
せかいにはみるべきものがあふれている

物心がついた頃
図書館の本をぜんぶ読みつくすことは
無理だなあと、途方にくれた記憶

すべてを知り尽くすこと
すべてを把握すること
そんなことはできない

すきなものを
すきなときに
すきなだけみること
途中でやめていい
繰り返してもいい

選り好みしていい

星野さんは撮影キャンプにいくとき
本を1冊もっていって
撮影チャンスを待つ間
くりかえし、くりかえし、読んだのだそうだ

一事は万事に通じている

だから、なにを課すこともない
わたしは、わたしにとって
心地よい付き合い方で愉しむ
誇りをもってそうする

それで十分だし
それが最善なのだし
それ以上の礼はないのだ


Alaska 星のような物語

U-NEXTのお試し期間中
「Alaska 星のような物語」があったので
みている。 #1 感受編を、細切れに。

アラスカの風景動画の合間に入る
星野道夫さんが
フィルムカメラで切り取った
瞬間の風景
その、やさしさに満ちた眼差しが
深く、しずかに、胸にひびく

BGMはなく
風の音、鳥の声
生き物が大地を踏みしめる音
最小限のキャプションと
星野さんの言葉

そしてまた、そんな動画作品を
こうして、家で、気まぐれに
ごはん支度をしながら
ひとりで観ている
それがゆるされ
それをゆるした
そのことに心がにじむ
そんなわたしを猫がみている


きれいなものを

だいぶまえに
友達から譲り受けた
星野道夫さんのエッセイ

なかなか読み進められずにいたのを
近頃すこしずつ、折々に、読んでいる

そうしたら流れてきた
星野道夫さんの写真展ふたつ  1 2
奥様と担当編集者さんのインタビュー


奈良の旅行中
オットが見ているあいだ
わたしは森林浴していた
藤城清治さんの影絵展

オットの興奮ぶりから
いつかみたいものだと思って半年
友人が銀座の展示をみてきたときいて
重陽の節句である昨日、足をはこんだ。

だれのなかにもいる小人
振り返りざまの大神神社
まっすぐ貫く桜並木の先にひろがる空 

いまを生きるひとのちから


みたいものを
みたいだけ
みること

ぜんぶをみなくては
たくさんみなくては
しっかりみなくては

そんな思いはもう捨てて

みたいものを
みたいだけたっぷりと

かんじたいものだけを
余韻まであまさずたっぷりと


すてきなものだけの世界に
来ることができた。やっと。

きれいなものばかりの
きれいごとだらけの
きれいな世界に生きていく。


気になっていたグループ展もみることができた。
谷川俊太郎さんの詩をモチーフにした
複数アーティストの平面作品、立体作品

受け取り、膨らませ、深め、
響きあい、奏であう。
それらを統べるはひとつの意思。


おうちギャラリー
クリエイターによる
クリエイターのための
アートスペースです。

定休日 火曜日、水曜日
コアタイム 11時〜17時
飲食物の持ち込みOK

大きな音の出るもの
床や壁が汚れるもの
猫と共存できないものはNG

モノをつくることに限りません

ぼんやり絵を眺めても
猫とあそんでも
昼寝しても
手紙をかいても

いきることは毎瞬がクリエイション


おうちギャラリーは
ソメヤユキの
インスタレーション作品でもあります。

わたしによる
わたしのための作品。

うつろいゆく奇跡の軌跡
写真をすこしのこしたら
あとはわたしの記憶だけ

おうちギャラリーという空間
その日の天気、湿度、風向き
居合わせたひとの
着ている服やおもうこと

すべての要素をつかった
インプロビゼーション

よかったら、参加してみてください。

https://someya.localinfo.jp/

I've never been to me

あれは、おとといの晩か
そのまえの晩か

夢の中で
なにかが完了した

ちょうどそのタイミングで
となりで寝てるオットの手が(たまたま?)
背中に触れたのを覚えてる

ああこれはすごいことだ
なにかがかちりと、はまった
ずっとハマらなかったやつ
わあ、すごいぞこれは
覚えておかなくちゃ!!!!!!!

って思ったことは
よく覚えているのだけれど
すぐに起きて書き留めることもできず
そのまままた寝て朝になり
まあ、忘れたわけで。

あ。ちょっと思い出した。

ハマったのは
アメブロを書いた晩だ。
お花畑全開なやつ。
http://ameblo.jp/kujirararan/entry-12196348296.html

あの記事をおもてに出したことが
なにかを動かしたんだなと
夢の中で思っていた。

プリシラを観たことが
下地になっているような気がする。

それで、やっと、かもめ食堂もみられたし。

場所をつくること。
こつこつ丁寧に続けること。
外からの変化を取り入れること。追わないこと。
そしてまさかの合気道。

I've been to paradise but I've never been to me
https://www.youtube.com/watch?v=zq7odh8yM8Y

わたしはじぶんにたどりついただろうか。

動画視聴を、解禁。

2005年くらいまでは
テレビドラマを見まくっていた。

その後、徐々にテレビ離れを起こし
家にテレビを置かなくなって2年は経つ。

映画館には年に1度、行くかどうか。
PCなどで動画をみるのも避けてきた。

画面に集中しすぎて疲れるし
フィクション世界に片足つっこんだままになり
脳内世界が混乱しては、合わせなおすのがめんどうで。

本を読むのは子供の頃から好きだったが
ファンタジーものにハマらなかったのも
おそらくそのせいだろう。


しかしこのたび
自宅での動画視聴を解禁した。
ちょくちょく止めたり、戻したりするのも含めて。

そうしたら、なかなか、たのしかった。

昨日は公開当初から見たいと思っていた
「かもめ食堂」を、1日かけて、みた。

衝撃的なことはあまり起こらない
わりと淡々とした映画だと
前情報があったので、安心してみた。

ほんの些細な
このひとは何者だろう?だとか
わあ、ついにお客さんが来た!とか

淡々としたなかにある
動きに、喜怒哀楽が起こる。

感情が波だったら
映画を止めて
日常に戻る

波を感じながら
物語のなかに
こころを半分おいたまま
いつもの景色に戻る

いつもの呼吸にもどったら
また、映画をみる


そんなやりかたで
そんなペースで
たのしんでいいのなら
映画をみるのも悪くないなと思い

つまりわたしは
そんなふうにたのしむのは
邪道だと思っていたのだなと思う


わたしはひとつの物事から受け取る情報が多い。

それを逐一吟味しないで
周りに倣って、受け流し続けて生きていたのを
どんどんゆっくり、丁寧に、貪欲に
気のすむまで付き合う方法に切り替えてきた。

受け流していたつもりが
ちっとも受け流せていなかったことに
窮屈になって、気が付いて、致し方なく。


だれかにとってどうでもいいことが
わたしにとってはどうでもよくない。

道端の小石が
宝石にも思える
子どもみたいなもの。

その感覚でいると
時間を伴う情報(映画、動画、テレビ…)は
あまりに情報過多で追いつかない。
どんどんこぼれていく。

こぼれるものは
こぼれて良いモノだとして
どんどん流していく方法もあるし
ほかにもやりようはあるだろうけれど

出来ることならば
いっこずつ
たしかめていたいのだ。


世間に流れているものは
わたしには、早すぎるし、多すぎる。
そのくせ欲張りだから
好みのものは全部拾いたい。

だから、いちど、おおきく距離をとった。

そして、拾えなくても
それで問題ないし
それがベストだし
拾わずとも来るものはくる、とか
そんなことを体験して、納得して

ほんとうの意味で
どっちでもいいとわかったから

こんどは、じぶんなりのたのしみかたで、遊ぶのだ。

前者後者。ヒトは誰しも

ひさびさに、前者後者論をみた。
どっちでもいいことにしてたけれど
この定義をみるとわたしはあきらかに前者。

量子場調整師むかえのブログ
『前者後者;これを確認すればわかる。』
http://ameblo.jp/mukae-443/entry-12195863672.html


さらに。わたしの日頃の感覚とすりあわせると

ヒトは誰しも後者として生まれ
前者になるべきヒトは
前者機能を身に着けていくんじゃなかろうか。

ヒトが受精からしばらくは誰しも雌なように。


後者は、前者にならずとも生きていける才能
前者は、前者になることができる才能


そして、いまの流れとしては

前者のみなさん、後者感覚を思い出しましょうね。
後者のみなさん、前者の存在を知りましょうね。

といったところだろうか。
それぞれの世界がより豊かになるプロセス。

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