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2016年10月の記事

ハロウィン2016

戦々恐々と出向いた
ハロウィンな週末の夜の渋谷は
愉快に平和だった。
行き帰りの電車も乗り換えも
びっくりするほどすいてた。
拍子抜け。

「ひるむな人生
大波小波
己自身が渦となれ」

そしてたまちゃんのうみだす
底知れぬボルテックスに感化され
まさかまさかの選曲。

愛は勝つ、Rock'n rougeときた3巡目
汽車に乗って?いや、違う…
ジュゴンの見える丘?
探してた目が留まる。
一瞬の躊躇は横切って消えた。
けもの道。歌いながらも迷ってたのに
シャウト、したよね。曲に没入。
みんなの盛り上がり
目にはいってるけど
意識がいかない。そんな余裕ない。
全力で歌った。
あの感じを
人前で出せるときがあるとは…
じぶんでもすっかり忘れて
すっかり草食気分で暮らしてたここ数年
ときどき暴発するだけのものとなっていた
まっすぐな怒り。情欲。

昼間の護摩焚きで
燃やされ純化された家内安全。
いつかの秋の記憶と共に
封じ込めた悪魔。

そして迎えたさそり座新月。
午前中は二度寝から起きたら
シンクに登るゆらと真っ向勝負。
怒りを怒りのまま出す気持ち良さ。
怒鳴って物にあたってオモチャぶん回して
気持ちよくくたびれて
きのうから続いてる右肋骨付近の痛みを
愉氣と邪氣吐きで抜いて
オットを起こして外ランチ、買い物
風邪のはじめのようなだるさで昼寝して

10月つごもり
ハロウィンナイト
明日はドルイドの正月で
うちの両親の結婚記念日だ。

宇宙の流れはほんと完璧。
ありがとう狂乱っぽいカラオケ。

8室ふたご座の月と火星
くすぶる怒りを見逃せない
深追いしたがる気質とともに
あたらしいドアが開く。

インナーマリッジ

じぶんで、じぶんを
だいすきと言いたくて

でも、こんなんじゃ
それを言うに値しない
だって言われないしって引っ込めて

だいすきを隠して
だいきらいと言ったり
無視したり

世界を敵にまわしても
どんなじぶんも
のこらずだいすきと言うんだ。って決めること。
だいすきなはずなんだ。って信じること。

インナーマリッジって
そういうことかな。

給水方法がかわる

外で掘削工事の音。

タンク方式から
直接給水にかわる工事をするって
お知らせがきていたのを思い出した。

給水方法がかわる。
水。感情。英知。

こういうのはかならず
わたしの中身とリンクしている。

今回の指標

さて。螺旋階段ひとつあがって
わたしは何度目かの
純粋性と社会性の統合のステージにいるようだ。

それが具体的になにを指すのかといえば・・・
取りに行くこと。
手をのばすこと。
ボケに、のっていくこと。
おなじステージに立つこと。 ←えええ?!

そうか、そうくるか・・・・

統合しているものを
あえて分離させるのも
いいのかもしれない。

誠実さや純粋性を保つよりも。

だれに対しても
オープンであること

きかれたことには
極力正直にこたえる

どんなひとのことも
好きであろうとする

そうした誠実さ、純粋性を
生まれたときはみんな持っていた
公平で平等でありたいと願ってきた

そうした誠実さ、純粋性を
使いこなせずに仕舞い込んだり
誰彼かまわず振りかざしたり

いずれも洗練された流儀とはいえない。

ときに隠すこと。秘めること。
それはじぶんを汚すかのように感じるかもしれない。
なにかに屈するかのように感じるかもしれない。

しかしその選択をするときがくる。
じぶんの純粋性を保つ以上に
たいせつな、おおきな、願いのために。

社会性と純粋性

肉体装置をつかったエネルギーワーク

ハグで外部の周波数に
キスで内部の周波数に

それをやってみて
懲りた。降りた。
効果はわかるけど
やりたくない
今世のわたしの仕事じゃない

できます!わたしがやっちゃえばいい!
手をだしてしまう癖の修正

肉体と魂の解離から
社会性と純粋性の統合へ

わたしにとっては
その切り替えポイントだった

内宇宙と外宇宙を融合する

じぶんを癒すということ。

集合意識レベルで
癒しの機会がきている模様。
天体情報もこのとおり。
http://ameblo.jp/sudhasununimondy/entry-12213125305.html

ずーるーいーーー!って言ってる
じぶんのなかのひとの慰め方は
あの漫画がすごくわかりやすい。
https://note.mu/akkoinkolove/n/nb21c47500fde

こればっかりは
どんなセッションをうけたとしても
最後の最後は、じぶんでやるしかないところ。

そうやってじぶんを抑圧してる理由には
親や誰かにそう言われたから
そのひとを正しいと思いたかったから
というのもあるし

ずるい!って思われたくない
ずるい!って言われるのが嫌
ということもある。


なんにしても
このままずーっとトンネルのなかということはない。
やりたいことだけやって
やりたくないことはやらなくていいし
考えたくないことは考えなくていいし
やらなくちゃならないことは、無い。
やらないと抜けられない
ここでがんばらないと取り返しがつかない
なんてことも、無い。

このことがわかっているから
しんどくはあるけど
粛々とやることやるだけなのだ。
抵抗するとしんどさが増すばかり。
観念して、じぶんという個性の輪郭をあらわにする。


じぶんでじぶんのインチャ
抑圧してきた感情、衝動に気づいて
許し、癒せるようになるということは
親との関係性が変わるということ。

これが嫌で、なかなか取り組めないという側面がある。
ほんとうの意味での独立。
へその緒をじぶんの手で切る。

じぶんでじぶんの面倒をみられるようになる
(全部が全部ではなく、つまり、責任をもつということ)
それが出来てはじめてほんとうの意味で
オトナの、対等な、パートナーシップが築ける

じぶんの面倒はじぶんでみる。
相手の面倒は相手がみる。
まずは各自が己に寄り添う。
ここをしっかり踏まえておかなくては
擬似親子関係でぐるぐる入れ替わるだけになる

=====

本質のド真ん中を突く純粋性(自己一致)は、与える愛そのもの。

人間が深く癒される瞬間(とき)というのは、
「偽ざる自己が露呈したとき」なのです。

めいちゃんのような純度の高い愛をあふれんばかりに抱いて
この世へ生まれてきたのが私たちであることを、
忘れているに過ぎなくて、それが生きづらさの正体。

他者と自分は対等であるということと、私たちは本来「光」そのものである。
ということを思い出したとき、絶大な喜びのエネルギーが満ち溢れます。
そうして母と父を許すことが叶うのです。

SE-YAちゃん記事より
http://ameblo.jp/mimi125-5338/entry-12212724161.html

=====

受け入れ、受けとめ、受け流す

ことを起こす方向に切り替えたことにより
ことを受け入れ、受け止め、受け流す方向について
アウトプットが始まっている。

本来の自分のベストより、
もう一段ふかく受け入れるのが癖になってたのを、
ここ何年かで修正してきた。

犬は優しすぎて、だから犬には遠慮する。
などと言っていたのは、そのせいだろう。投影。

どんな人とも
なるべく深く
できれば全力で
関わり、向き合うことを
理想として
自分に課しているところもあった。

でもそれで自分が弱ってしまっていたら
なんにもならないのだ。
いかに高邁な理想も、自らの健やかさありき。
そしてわたしは、わたしが思うより、やわらかい生き物なのだった。

「安全」の感覚や、それにもとづくこの環境で線引きは
だれとの比較でもなく、絶対値でしかない。

不甲斐ない!と思ったりしながらも
そのつど、丁寧に確認、調整してきた。

自分を十全に護ることや
自分の心地よさを最優先に
他者/世界と関わる選択決定をする。

このルーチンは
だいぶ身に着いたと思う。

いちいち悩まなくても
胸を傷めなくても
びくびくしなくても
選択決定できるようになっている。

受け入れ、受けとめ、受け流す。

次は、取りに行くのだ。

てんびん座を習得する

#天秤座
人が思うほど傷つきやすくなく感傷的でもない。天秤は自ら事を起こす。平和は寝て待つのではなく進んで求める。受け身とは思えない。妥協は欲しいものを得るためにする。でもそれで従順になる事はない。天秤は #牡羊座 と共通するものが多い。弱い天秤には会った事がない
awrlogy
https://twitter.com/kaidokunami/status/789387542474829824


うん、わたしがいま習得しようとしてるのはこの感じ。

ASCてんびんだからか、無意識にはやってる。
木星天秤座の期間に、自覚的に使えるようになるのだ。

冥王星のいる12ハウスがてんびん座。
なんだか、ひとつの仕上げのような感じがする。

引出しの中身

西洋医学の薬
保険適用の漢方薬
保険適用外の漢方薬

これらの違いをきかれて
しれっと答えられる自分を発見してちょっとうれしい。


雰囲気のよくない環境で
影響を受けすぎない自衛方法として
ハラを意識して姿勢を正すことや
ダークカラーを身に着けることを提案

わたしはそうやって回避してきてたんだなあと再認識


だれかの質問によって
じぶんがどんな引出しを持ってて
中身がどうなっているのか分かる。ありがたい。
きいてくれたKちゃん、ありがとう。

猫と犬と反転

犬と猫なら
わたしは
猫がすき。

猫は意志がはっきりしてる。
関係性において無理も我慢もしないようにみえる。

犬は多少のことは呑みこんでくれる。
優しさと忠実さがわかるゆえに
わたしは遠慮がちになる。

そしてこのたびの反転
わたしは
犬に遠慮しないモードを
練習していくのだろうなと思う。

欲しいものを、まっすぐ、躊躇なく、遠慮なく、取りに行く。
猫のように。

起こるのを待って
対処するほうが
得意だったとはいえ

これまでだって
そうやって取りに行ったものはあったと思う。
大半は無自覚だ。

それを、自覚的に
誰の後押しがなくとも
やれるようになること。


呑まれないように
近づかないのではなく

起こさないように
無作用を心がけるのではなく

自分から波風たてていく。

そうして
猫モード
犬モード
どちらでも
選べるようになる。

反応から抜けたときのこと

 「男性的な言語回路について」 
さらりと

イライラする、という反応から
脱することができてからは
(中略)
確認ができるようになった。

と、書いたが
最初のうちはたしか
確認する、ということがそもそも
悔しくて、やりたくなかったのだった。
なんで確認してやらなければならないのだ!!という
子供じみた逆ギレ。

しかしそれをしないことで
困るのは自分であり
相手が変わるのを待つよりも
そのちんけなプライド?を横において
確認するのが近道。
自分のためにはそうするしかない。と
あきらめがつくまでがまた
長かったような気がする。

子供時代の傷を隠蔽した理由

子供の頃、しんどかったり、傷付いたり、
嫌だったりしたことがあるのを、認めたくない
って自分が思ってることに気がついたときはびっくりした。

自動的に無意識に、そんな風に感じてたことなど
ありえないと決め込んで、ないものとしてきたのだ。
両親には感謝しかありませんって言いたかったらしい。

それとこれとは別の話なのに、子供だったからわからなくて
ごっちゃにしたまま、そういうことにして
それきりになっていた模様。

周囲のひとがどんなに心をくだいて世話してくれたとしても
嫌な気持ちになることも、しんどく思うことも、発生するものだ。

周囲のひとを大好きでいたくて
恨みたくないばっかりに、ないことにした
というのはつまり
周囲のひとのせいだと思ってたのだ。笑

以上、これ読んでて、思い出したこと。
http://mess-y.com/archives/27869

写真家の植本さんが結婚・子育てや婚外恋愛を通じて
じぶんの育った家庭だとか
社会から読み取って自分のものとしていた価値観に気がつき
じぶんらしい家族のかたち、
求める関係性を見つけていく過程を、
リアルタイムに綴ったブログをまとめた本についてのインタビュー。

だんなさんのぶれなさが圧巻なんだけども
これはつまりあれだね・・・とか深読みしたくなるけど
それはまあおいておく。

男性的な言語回路について

オットがなにを感じて
なにをどう考えているのか
よくわからない時期があった。

わからないことに気がついたのは結婚後で
それから、わかるようになるまで
10年はかかったんじゃなかろうか。

わからないから、イライラする。
感情的になる。
自己嫌悪が誘発される。
自信がなくなる。
さらにイライラする。
ぜんぶオットのせいにする。
またイライラする。

みごとな悪循環だった。

イライラする、という反応から
脱することができてからは
「その言葉はどういう意味で言ってる?」
「それは暗にわたしを責めている?」
「その行動は、こう解釈しますが、よいですか?」
などと、確認ができるようになった。

じぶんの解釈(受け取り方)の癖も
おのずと浮き彫りになり
自己治癒の機会でもあった。

最初のうちはすぐに言葉が返ってくるとも限らず
めんどくさそうでもあったけれど(!)
そんなことを繰り返しているうちに
時間差でも答えが返ってくるようになったり
最初からわかりやすい発言になったりして、いまに至る。

感じたことや思ったことを言葉にする
言語回路のようなものができていない男性は
けっこう多いんじゃないかと思う。

女性は、友達とのおしゃべりや
手紙やメールのやりとりで
たくさんしている場合が多いけれど
男性同士は、そういうことはネタにならないようだ。

言語回路を育てずにきた人にしてみれば
なんでも言葉にすればいいってもんでもない。
そんなのは無粋だ、ということかもしれないし
それも一理あるとは思うけれど

いちばん近くの
いちばん誤解されたくないひとに
誤解されているというのは
お互い、いいものではない。

家庭のなかというのは
どう思ったとか
どうしてそうしたかとか
ちょっと間違えば言い訳でしかないような
しょーもないようなことを言える
希少な場所のひとつだろう。

家のなかでもかっこつけていたくて
奥さんには言えないような人も
一昔前ならば、スナックのママさんだとかが
それを聞く役割を担ってたんだろうけれど
いまは、どうなってるんだろうなあ。

自分とそれ以外のベースにあるもの

あなたはおおきく、わたしはちいさい。

このフレーズは
あるセッションで
母親に対して言うようにと促された。

そのときはたしか
特に抵抗もなく言った。
その本当の意味は
あとから、なんども、わかることになる。

肉体をもって生きてきた以上
やはり、人間関係の
いや、人間にかぎらず
自分とそれ以外のあらゆる関係性の
ベースになるのは、母とのそれだ。

言語習得以前の
動物的な状態において
母よりおおきかった自分 というものを
誰しも持っているのかもしれない。

男の子は成長するうちの
どこかのタイミングで
母はおおきく自分はちいさいことを受け入れる。
女の子はその機会がなかなかない。

こういった認識は
いくつもの層になっているため
表層で受け入れていても
動物レベルでは受け入れていない
ということも、あるだろう。

自分以外をちいさくみなす視点は
自力で出来ることが増えるにつれ
自分のちからへの
過信、依存となり
すべてを引き受けようとし始める。
とても窮屈で重たい世界になる。

その世界にいながら
じょうずに脱力できるひともいるだろう。
バランスをとりながら
その世界で生きていけるひと。
そして、そうでないひともいる。

ただ、そういうことになっているのだ。

土星を超えるということ

前記事の、反転のことだが
わたしにとってはあれが
「土星を超える」だったかもしれない。

ホロスコープ天体と意識段階の相関について
星の舞・海部舞さんが書いていて

宇宙の意志(直観)をまっすぐに受け取る方法
http://ameblo.jp/mai-countrylife/entry-12211774326.html

これが言葉と図解になってるなんてすごい!!と
うれしく、たのしく、読んだのだが

いまの時代に生きるひとたちは
「土星を超える」ということを
どこかのタイミングでやろうと
決めてきた人が多いのではないだろうか。

行き詰まって
どん詰まりで
これだけは無い!と思う扉を
開けるしかなくなるとき。

その先には
未知の世界が
ひろがっている。

なににも依ることのできない
無重力空間で
ハラのちからを育てる時間が始まる。

大きい。小さい。

友達とのメッセで思い出した
わたしの世界が反転したときのこと。
(ただしくは、反転させたとき)
(あるいは、鏡の向こうをみると決めたとき)

もがいてもがいて
手当たり次第
いろんな藁をつかんで
そのどれもがいい仕事をしてくれたので
きっかけはひとつではないのだけれど

なにをしたかといえば
相手をじぶんより小さなものと
みなしていることに気がついて
「あなたはおおきく、わたしはちいさい。」
これを受け入れたのだった。

煮え湯を飲むようなしんどさだった。
染み付いた「相手をちいさくみなす」視点は
気づいたところで、すぐには抜けない。
日常のあちこちで顔を出す。
その都度、苦渋の再選択をした。

なんでそんな苦しいことをしたかって
それをするのと変わらないくらい
それまでの日常が窮状だったからだ。

相手が大きい。ということを受け入れ
そうであると信じきることを決め
疑いながら怯えながら
リアクションをしていく。

はじめは苦渋の再選択の連続だったが
慣れるに従って、抵抗も減った。
なにより、反転してしまえば
そのあとはかろやかで
そのたびにいちだんと
世界に寛いでいられるようになった。
相手が大きい、ということの安心感!

「相手をちいさくみなす」視点は
あらゆる関係性に潜んでいて
反転させやすいものもあれば
やりにくいものもある。
いまもすべての関係性について
反転できているとは思っていない。

いちど反転ができた関係性においては
ちいさくも、おおきくも、
そのたびに自在に選べる。
それはつまり世界が広がるということだ。

この話をする状況がやってきたということは
わたしにもまた反転のタイミングがきているのかもしれない。
こんどは「相手をおおきくみなす」視点でしか
見えていなかった関係性の、テコ入れだろうか。
具体的にそれがなんなのかはまだわからないけれど
世界が広がるなら、ウェルカムだ。


存在責任

わたしはおそらく
あほみたいに
真剣にど真面目に
責任をとろうとしてきた。
そうあろうとしてきた。
存在すること、についての責任から
逃げることなくやってきた。

最近あちこちで
言わされていることからすると

どうやら、逃げていいらしい。
てきとーで、いいらしい。
わたし個人が頑張らずとも
それは、あるように、あり続ける。

これまではどうか知らないが
すくなくとも、これからは、それでいい。
もう、いいのだ。

役に立つじぶんでいることを
わたしは、手放していい。

見張る必要はない
見届ける必要も
見守る必要も
もう、ない。
すべてゆだねていい。
もっと、おおきななにかに
脈々と連なるそれに、預けていい。

そもそも、責任をとるなどという想い自体が
おこがましかったのだとも思う。
それすらも自由だから
ゆるされてきたけれど。
はじめから、そんなものはなかった。
わたしが手を離しても
お神輿はしかるべく進んでいく。

ひかりから目をそらしても
ひかりは消えることはない

目を、瞑っていい。

手放すもの。責任。

きのうお願いした遠隔ヒーリングで
もらったメッセージ

「リリース~手放す」

前後の流れからして
このメッセージの出処というか
信ぴょう性というか
これは、かなり、濃いとおもう。

しかし、さて、なにを手放す?と考えたとき・・・

いま住んでいる家。というのがまず 。
(ひいては、そこに連なるすべての思い、捉われを。)

それから次にでてきたのは

責任。である

きのうの瞑想会でも
これまでにも
再三いわれてることだが

わたしは、頑張っているらしい。
そして、甘えるのが足りないらしい。

これでもずいぶん
解禁してきたんだけど・・・
まだかあ!と思い

これ以上、となると
ヒトガタを保てる自信がないな、と思いw

でも、そもそも、それすら
じぶんで保つ必要はないかもなと思い。

責任。
わたしをわたしたらしめるもの。

わたしは、わたしでなくなっても、いい・・・

オットにはあまえている。
もちろんまだ甘えられる余地はあるが
おそらく、対象は、親世代
さらにその奥の世代

わたしという個体が
すべてを忘れたとしても

彼らが消え失せるわけではない・・・

書くということ

私小説ならば
書けるだろうと思う
小説家が誰しもはじめ
私小説風になるのと同じように
佑月さんの企画で書いた
ラブレターのように
けれどそれはわたしの美学に反する
身近なひとたちを
ひどくざわつかせることがわかっている
わたしは嘘が下手だし
どうせバレてしまうだろう
バレたとわからずとも
バレたと思いながらいくのだろう
そうか、でもそれはわたしが切望していることでもある
わたしの奥底にあるそれをわかちあうこと
倫理やら背徳やらそんなことではなくて
その奥にある真摯な思いこそが
わたしが分かち合いたいと願っているもの
西加奈子「しずく」の一節「灰皿」の
板崎さんのそれと同じに
わたしがあらわしたいと望んでいるもの
ばななさんの講演に含まれていたもの

kちゃんがわたしに望んだ
奥深くの秘めた思いを
わかってもらいたい、というそれは
わたしこそが望んでいることだ

その思いのかたちやありように惑わされず
その奥にある本質のひかりをまっすぐみること。みられること。

だれかの秘めた思い
どこにも出せないそれを
分けてもらえたら。との思いで
はじめた企画、ロータス通信。
だれにも利用されることなく
1年足らずでしまいこんでしまった。

「ひとのセックスをわらうな」
読んでも、観ても、いないけど
笑うなと言われずとも
わたしは笑わないだろう。

小説家や漫画家のもとには
わかってもらえる気がして、といって
重たい、秘めたあれこれを書き綴った手紙が届くときいた。
わたしはそんな存在になりたいのだった。

言葉にすることで
解き放たれる。
それはある種の供養である。
感情、感覚は
解き放たれるべく
生じている。
その、死と再生に立ち会うこと。

言葉というのは
じつに厄介だ。
絵や造形ならば
直接、現実とは結びつかない。
言葉は、どんなにフィクションであっても
現実を勘ぐらせる。紐付いてしまう。
だからこそ斬り込めるものでもある。
剣よりつよい諸刃のペン。

Aさんには最初から
見抜かれていた。
わたしが、そういうかたちで、
分かち合いたいと願っていること。
そこから生じるであろう波紋をおそれ
封印し、ないことにしてきた願い。

オットが封じ込めている、否
閉じこもって出てこない
通称ちびJの願いも
きっとこれと連動している。

だれかが
墓場までもっていこうと
しまい込んでいる
感情、感覚、欲望は
空気に触れたとき
ひかりだす
無限にエネルギーを生む
生み続けてきた
生み続ける
本来の姿に、もどる
そのように意識されたとき
はじめて、それはひかる
認識されない輝きは
存在しないのと同じ
無価値感や孤独感として
しずかに、影となる

ひとつの方法

「わたし」を
あますところなく
分かち合いたい

という願いを
かなえる
ひとつの方法は
妊娠出産じゃなかろうか

文字通り
はらの底まで
バレてる相手
ってことだもんなあ

出産した瞬間から
現実レベルでは
理解しがたい関係性に
なるのかもしれないけれども

つながりの記憶
体感は
人生を一新するかもしれない

臨界点

朝からそわそわ
やっぱりなにか
セッションかサービスか
打ち出したほうがいいかなどと
考えながら洗濯してて
しかしどうやら
泣きたいみたいだ
理由も目的もわからない
ただ、なにか溢れている
臨界点
月はもう牡羊座にはいって
満月ムードだっていうし
木星と180度だし
あしたは天王星とかさなるし
それをわたしの肉体でいえば
こういう状態だろうよとは思う
突破。離脱。臨界点。
排卵期と重なってるのがまた!
昨晩おくった問い合わせメールへの
返信にあった、ちいさなひとことに
揺さぶられているようにも思う
ほしかったことば
ほしかったもの
もとめてやまないもの
だれかに、みとめてほしかったもの
夏あたりから続いている
能動性のこと
それから承認欲求
条件反射の肉体的感情反応
ぜんぶがひとつのところへ流れていく
だれかに、みとめてほしかったもの
そのだれかっていうのは
よく言われるように「母」なのか
それはすこし、ちがう気がするのだけれど
まあいい。それが誰であったのかなんて
いまはまったく関係がない。
それを、どう満たしていくのか。それだけだ。
そして、それはきっと、もう、満ちてしまうのだろう。
待ち望み、切望していると同時に、おそれている臨界点。

あせっている

あせっている気がする。

なにを焦ったらいいのかもわからないけれど
あせらされている感じがする。

なにかしなきゃ

でもなにを?
ヒントはどこ?

でも。再三あちこちで
みずから言っているように

やるべきことなどないし
やるべきことはどうせやってるし
ひとりでやらなくたっていいし
おのずとやってみちゃうときはくるし


わたしの年間予報
10月のカードは、Healing
そして、カップのエース

心機一転。精神と感情の糧。
感情を満たすことを優先する。
遠慮せずに感情を完全に出し尽くす。


シークレットムーンと満月、海底に眠る宝探しと大革命。

潜在意識の一番届かない部分に光が届く
自己イメージや自分のキャラクターがはがれるとき。
これまで学び身につけた考え方を
根底から覆さなければ理解できないような
「自分」のもっと奥深い部分に出会えるシーズン
深い領域、高い波動領域レベル
長期的に影響してくる領域を動かす時期
変化変動が派手ではない

わたしが隠してる本音はどこだ?

それも、ながれのままに。

なにかが変わっていることは
察知していて
だから、なんだか、焦るのかもしれない。

本音から始まる

あーすじぷしーnahoさん記事
『全ての人が、人生に奇跡を起こせる方法』

双子が素直になったところで
左目からひとすじ涙

どんなネガティブ感情も
本音はいつだって
だいすきしかなくて

さみしくて
一緒にいたくて

読みながら
かさねていたのは
急にむかついて苦手になってしまった友人のこと
(もういまはなおってる。自浄に半年以上かかった)

彼女から渡されたそれは
わたしにとって
別離の象徴だったんだと思う
わたしの無意識はそれを知っていた

だから猛反発した。
なんでこんなものを?!
ありがた迷惑!!!
本人にはいえなかったけど。
当時はそこまでわかってなかったし。

そんな状態ながら
宇宙人ともだちにつられて
それを、つかってしまったので
いまはべつの道にいる感じになっている。

わたしはそれを受け入れている。

・・・・・

さみしくて
一緒にいたくて

その対象は
特定の誰かのかたちを
とることもあるけれど

究極のところ
じぶんのいち部分。

誰かと一緒にいたいのに
いられないとか
いられなくなりそうとか

その感覚の根っこは
自己否定。
こんなじぶんだから、そうなんだ。って

思い込んで
思い込もうとして
あきらめきれなくて

神様も仏様も宇宙も敵にまわして
相手を恨んでみたり
憎らしく思ったりする

どんなじぶんであろうとも
一緒にいたい、と思うことを
閉じ込める必要はない
資格もなにもない

なんにもないじぶんにまで立ち返って
それでも、そうしたいんだ!と言えたとき
思うことをじぶんに100%ゆるしたとき
世界は色を変える。

相手の存在をかりて
すべてのじぶんをゆるす
そういうプロセスなんだ。


高次元をおろす/アセンション

矛盾や葛藤が
統合される視点をもって
この現実で行動すること

感情的、動物的な
反応ではなく
反応で終わらせず

意識的に
意図をもって
あらたなみちを選ぶこと

高次元をおろすだとか
アセンションだとかはつまり
そういうことなのだろう

あらたな視点をもって
現実のなかで動いていくこと
現実を動かしていくこと

感情との付き合い方

感情は、ただのエネルギー

おのずと発生する

発生すること自体にも
発生している内容にも
よしあしはなくて

ただ、それは発生する

寒かったら
身震いする
それと同じくらい自然なことで
同じように
感情に対する体の反応も
自然に起きているはず

それに気付くこと

なるべくとどめないこと

ヒトと違かろうが
大げさだろうが
きちんと、衝動を行動にすること

多少の社会性を損なっても
倫理から外れなければ大丈夫

そうした行動を
じぶん自身に与えてあげるのは
じぶんにしかできない仕事

方法はだれかと考えることができる
実現はじぶんにしかできない

矛盾と次元、統合とひかり

矛盾するもの
葛藤となるもの

それらのふたつが統合されるのは
それらとはべつの座標軸にある視点

その、べつの視点を
あるときは次元といい
あるときはパラレルワールドという

葛藤の多い人生のおかげで
いまや上下左右ずいぶん自由に
行き来できると自負している

表面的にはなんの問題もない
平和な人生だけれども
だからこそ些細な葛藤にまで
取り組むことができた

どんなことにも
ひかりを見出す
そう決めてきた
なんども決めなおした

統合したときにあらわれるひかりのうつくしさ

矛盾や葛藤、対立があるから
ひかりがうまれるわけではない

ひかりを攪乱するための矛盾である
まぶしすぎるからだろうか

統合の手順をふまなくとも
いまやひかりはそこかしこに見える

まぶしくてくらくらする。

無毒化

たとえば
からだに悪影響が
あるかもしれないと思う食べ物を
なんらかの事情で食べようとするとき

食べ物が無毒であるように
無毒となるようにと
願いそうになるけれど

毒でも無毒でもいい
いずれにしてもOK
よいようになる
という
歴然としたコトを
信じられる自分であるようにと
願いなおす

歴然としたコト、は
ホントウノコト、だとか
いのちのことわり、だとか
そんなふうにも言えるなにか。

「それなり」をやめる許可

本人がMAXがんばってて
それなりのポジションだったら
それは彼のMAXだから、
本人も気にならないと思うんだよね。

でも、もやもやしてるなら
それは7.80%くらいでセーブしている
無意識の「それなり」なんだよね!

宮脇 美和子(わっこ)ちゃんブログ記事
『「それなりに」の呪縛から抜ける』より
http://ameblo.jp/harmony-w888/entry-12207626914.html


わたしにもがっちりはまっている
「それなり」の呪縛

基本的にわたしは
やりすぎる性質だと
自覚している

やっているうちに
たのしくなってしまって
快楽にひきずられて
引き際を見失うこともある

この呪縛は
いままでにも
いくつかの方向で
解除してきているのだけれど

またひとつ
解除する時期がきている

・・・・・いやだなあ(笑)

「それなり」でやめる、というのは
前記事でいうところの
「だいすきと言わない」に通じる

おせっかいと言われるのが嫌いだ
うざがられるのが嫌いだ

しかし、そう言われる
その言動は
「だいすき」から派生している

だいすきだから
なんでもしてあげたい
できるかぎり、したい

それが行きすぎて
相手の力を奪うことを知って
ずいぶんセーブしてきた。

めんどくさいからやめておこう
やりたくないから、
できるけど、やらないでおこう

しかしそれでもやもやしてたら
本末転倒なのだ

じぶんがここちよく
かろやかにいられる
それを優先しても、いい。

「本当の自分」というもの

「ネガティブな感情は本当の自分と分離しているサイン」

という言葉をみかけた

たしかにそうである

本当のじぶんっていうのは

どんなひとであれ

つまるところ

「だれとでも仲良くしたい」

「だれにでも大好きといいたい」

だと思う。

いわゆる「ハートをひらいていたい。」ということ。

傷つくかもしれないとか

相手のほうが間違ってるとか

そこまでの価値はないとか

傷つくひとがいるとか

迷惑になるとか

そこまでじゃないとか

仕事だからとかいい年してとか

ぜんぶうっちゃって

ただ、ただ、大好きっていいたいだけなのだ。

いっていいのだ。

それを自分に許可していないとき

言いたいのに言えないとき

その抑圧がネガティブ感情となる。

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