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2017年3月の記事

嘘。許可。承認。自信。覚悟。

(3/31tweetより)

他人に対して「嘘」を言わずに
生きていくことは出来ない。

なにが「真実」で
なにが「嘘」か
人それぞれ違うから。

じぶんに対して嘘がなければ
いつかは通じるし
通じないなら縁がない。

夢の現実化というのは
嘘を本当にしていくことだとも言える。
そこで大事なのは結果より過程。

現実になったかどうかではなく
現実にしようとしたかどうか。

自信って、さいしょは
ハリボテからしか
出来ないのかもしれない。

それを本物にするか?使いこなすか?
じぶんにかかってる。

その過程に立ち向かうぜ!という
覚悟こそが自信となる。

これ出来ます!それやります!やってました!
などの自己申告をするのに
誰の許可もいらないし
誰も拠り所にはなってくれない。
自分が許可するかどうかだけ。

そしてその申告に対する
万人の承認はもらいようがなく
まずじぶんが承認するところから始めるしかない。

(資格ビジネスの狙いどころはこのあたり)

だれに批判されても笑われても、
あなたはそう思うんですね。
でもわたしはこう思うんです。
と対峙する心意気。

じぶんがじぶんの味方であることを表明する覚悟。

義理茶番と礼儀

3/28tweetまとめ

我々の直面する重要な問題は、
それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。
The problems that exist in the world today cannot be solved by the level of thinking that created them.
-アルバート・アインシュタイン-

現象に現象で対処してもモグラ叩きでしかない。
べつのレベルで見たら終わる。

スーパーでいちゃもんつける
顔見知りのおばちゃんにどう対処するか考えるより
その現象の意味や目的をみる。
昨日はわたしがぶーたれた気持ちでいたから
代わりにおばちゃんがやってただけ。

対処すべきはわたしの内側にある不具合。
自分を整える。ポノってもマントラでも、
気がすむまでぶーぶー言うでもいい。
言ったところで現象がどうなるわけでもないが
滞留したエナジーが動いて
すっきりした心持ちになれば
気にならないから無いもおなじ。


返答が歴然としているから
誘わない、声をかけない。
やられたらさみしいけれど
わたしもだれかにやっていること。

わたしのなかに余力優先で茶番をしない罪悪感が
くすぶってたから現象がきただけ。

お義理の茶番はいらない。
自分の感情ケアを相手に期待しない。
そして茶番とわかっても連絡をとりたいと
思われるような自分になればいい。

海外ライブに日本人客しかいないのを
嘆くアーティストがかっこわるいように
じぶんの力不足をだれかのせいにしない。

茶番をしないさせない期待しない。余力優先でいい。
でもそれを理由に礼儀を欠いては本末転倒。

気になるならかっこつけずめんどくさがらず
声をかけてみたらいい。
気になる時点で余力が削がれてるんだからおなじこと。
どんな展開になるか憂うより気がかりを減らす。

礼儀を重んじるのは悪いことじゃない。
めんどくさいバカバカしい表面的なやりとりに思えたとしても。
長いあいだ大事にされてきたことには理由がある。
緩衝材になる。思いやりである。

社交辞令的なことは極力避けてきた。
こどもっぽい抵抗、反発。
避けてきたのはそれを表現するのに照れてただけ。
なんだか照れくさく決まりがわるかったのだ。慣れが必要。

簡単にいうと
もっとひとにやさしくしてもいいんじゃないってことだ。
それはじぶんのため。
じぶんの良心を傷めないため。
義理だの茶番だの余力優先だのかっこつけるのもいいけど、
がんばらなくてもいい。もっとぬるくてもだいじょうぶ。

こどものとき
大人たちの表面的で儀礼的なやりとりが
さみしかったんだろうと思う。
でもその奥にはそれこそ大人の配慮ってものがあったのだ。
その場は寒々しくても長期的にひびいてくるもの。
ゆるやかなつながりを保つこと。

そして表面的で儀礼的なやりとりに見えたとしても
そこに思いがあるかどうかは
みんなちゃんとキャッチしているのだ。
胸の奥でひっそり味わっているのだ。


さらなる余力のため

お酒を
家で飲むのを
やめてみようかなと
思ってしまった

罪悪感だとか
からだのためとかじゃなく
好奇心で・・・笑


おうちギャラリーや
猫を飼うまえに
部屋を片付けたように

部屋を片付けはじめる前
徹底的にやることを厳選して
余力ができたらふと
長年懸念だった部屋の片付けを
ひまつぶしに始められたように

もっとひろびろした空間を
気楽にシェアしながら暮らすには
どんな自分でいたらいいか

さらなる余力をつくるべく
やめる、やらないことがあるとしたら
なんだろな・・・

と思っていたら
お酒。と浮かんでしまったのだ。

からだのためにやめたほうがいい、とか
お酒に頼るのはよくない、とかじゃなく

好奇心で浮かんじゃったものは
やりたくなってしまうサガ。

あー。いまの買い置きがなくなり次第
家ではやめよう。たぶん!

手当の勘

きのうはチェアロミを習ったのだが
ひとの肉体に触れるということが
わたしにとってあまりに自然になっていることに驚いた。

手法としては新しいのだけれど
日頃やっている整体やバーズと
同一線状にあるのでコツがわかるというか
へんな緊張や分からなさが無いのだ。
場所や力加減について躊躇せずに、手を当てられる。

場所はバーズで鍛えたのだろうし、
体に触れることそのものや力加減は
氣道協会の整体講座初等や
脂取り穴追いをやっていたのが大きい。

いつのまにかそうした素地ができていたようだ。
新しいことをやってみなかったら気づかなかったな。
習うより慣れろとはこのことだ。
チェアロミも活用していこうと思う。

片付けと、あるべきじぶんの状態

おととしの秋から去年1月にかけて
リビングを大々的に片付けた経緯を振り返る。
たしか、あまりにヒマでヒマでヒマだったのだ。
徹底的にやるべきとおもうことを排除して
じぶんのスペースを保つことを
じぶんに課していたら
部屋の片付けくらいしかやることがなくなった。
それまでどうしても取りかかれなかった片付けが
ただのひまつぶしとなった。
スッキリした部屋に暮らしたいと
思いながらあきらめていることも気づかないくらいだったのが
やるべきことを排除したらやっと出てきたのだとおもう。
そうして気が済むように片付けたら
おうちギャラリーだとか猫を飼うという
あらたな、そして発展的な、ひまつぶしアイデアが出てきた。

猫を飼うのならば
猫が動き回ってもいいように
物を片付けなくては、というのは
長年考えていたことで
しかし物が片付いていなくても
猫を飼っているひとはいるわけで
つまりわたしは片付けていないじぶんを肯定していなかったし
片付いた部屋で暮らせる「レベル」のじぶんになりたかったのだろうし
潜在意識的には、それくらいのスペースを保てなければ
(部屋のスペース=思考や時間や体力のスペース)
猫との暮らしをたのしめるわけがないってことだったのだろう。

さて、それらを踏まえると
わたしの現状はまだ
ありたいじぶんには達していない部分がある。
わたしが望む、ひろくて気持ちのよい平屋に暮らすことを
じぶんに許可できていないから、現実化していないのだ。
どんなじぶんになったら
そういう家に暮らしてもいいと思うんだろう?
…やっぱり、もっと出入りがある感じだろうか。
人にしろお金にしろ動きがある状態。
そう考えると賃貸物件というのは
毎月お金が動くので新鮮さを保ちやすそうだ。
ハコを先に大きくしてしまえば
動きもそれに伴って大きくなる方式もあるが…
猫のためにスペースを先に確保したように。
出入りしやすい家を、先に用意する。
それは、もしかしたら、ひとまず、家じゃなくてもいいのかもしれない。

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