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2017年7月の記事

予測不能の練習

これから
予測不能なことが
ますます、増えるらしい。

振り返ったり、悩んだりしてるヒマはない。
先の損得、不安も考えてるヒマはない。
その場その場臨機応変、目的に向かってまっしぐら。

起きたことの理由や原因や目的はさておき、
めんどくさくても、淡々と処理する。

損得や傷つく傷つけるより、
大事なことがある。
優先順位の変更。

正しいのか?間違ってないか?
確認していたら
動けなくなるのは当たり前で

答えなんかどこにもないし
いつでもクルクルひっくりかえる。

じぶんがじぶんを誇れるのか?
じぶんの味方でいられるか?
それだけが大事なのだと思う。

たとえそれが開き直りや正当化に思えても
じぶんの味方をできないひとは
宇宙だって手助けしようがない。

手を出さない

海のなかは好きすぎる。
だから、スキューバダイビングには手を出さない。

これは若い頃からずっと思っていること。

シュノーケリングですら
海中から目が離せなくなって
いつまでもどこまでも追ってしまって
陸に戻るのが名残惜しすぎて

火傷レベルの日焼けが2~3回
車椅子で帰宅する羽目にもなったし

バイクでふらっとシュノーケリングに行って
ふらっと帰る途中で右折車と衝突して宙を舞った。

オットいわく「海から歓迎されてないんじゃない」
べつの言い方をすれば
海中に留まってはいけない、ということ。

だって海中にいたら
ほかになにもしなくなる。
それだけで満たされて
そこで生を終えたくなる。


だけどたぶん「わたし」がこの人生でやりたいことは
それではないのだ。
そんなことをしている場合ではないのだきっと。


そして。わたしがなんどもなんども考えている
「なぜか近寄らないようにしているひとたち」も
もしかしたらそういう存在なのかもしれない。

こんなにもあのひとたちのことを
繰り返し考えているというのは
嫌いにしろ、好きにしろ、興味がありすぎるのだ。
どうにかして定義づけて収めたくて、ずーっとみてしまう。

テレビを見るのをやめたのと似ている。
わたしは不規則に、気ままに動くものを
ずーーっと見てしまう習性がある。

その習性はいろんなことを滞らせる。
消費側で終わってしまう。
それは、本意ではない
だから、近寄らない。
そういうことではないだろうか。

嫌いだとか苦手だとか管轄外だとか
そんな定義よりは、ずっと収まりがいい。
(ぴったりではないけれども。)


さらにいうならば。
いまはともかく「禁止」している
スキューバも、人々との接触も
いつか、解禁できる日がくるのかもしれない。

先日ひょんなことから
楽器の練習をじぶんに許可できたように。

それをたのしめるだけのなにかが整ったときには
心置きなくたのしめるのかもしれない。
そうだといいなあ。

関係性に潜むものと、破壊衝動

ヒーリングサロン Pulse(パルス)さんの
ブログ記事より抜粋引用

相手のザワザワを更に助長しているのは、自分。

自分のカラダに集中し続ける。

アクションが変わればリアクションが変わる。

安心感は安心感を呼ぶ。

「目の前の状況をなんとかしたいという焦り」




この法則はいろんなことに通じる話で、
有名どころだとホ・オポノポノは
これを踏まえて深化させてものだと思う。

”アクションが変わればリアクションが変わる。”
”安心感は安心感を呼ぶ。”

とはいえ
潜在意識レベルの不安は
自力ではどうにもできないところもあったりして

そうすると身近な家族がそれを拾って
不安や焦りで暴走することがある。


そうした「身代わり」は
防げたらいちばんいい。

あるいは早めに気付くことができれば
その感情と距離をとるだとか
いくらかの対策はとれる。

「身代わり」そのものは
良いも悪いもなく
その感情を表現、消化、昇華することのできる
余白をもったひと、力量のあるひとが請け負う。

そうやってバランス取るのも
人間関係の醍醐味というか面白さというか
人間ならではの体験なんだと思う。
持ちつ持たれつ。


家族の不安や焦りを拾っていることに、
家族や他人が気がついたとしても、
暴走し始めると、止めようがなかったりもする。

なんなら本人もうっすら自覚していて、
それでも止まらない。止めようとしない。

行き着きたい衝動
みたいなものが、あるのだろう。
破壊欲求。
冥王星的なもの。


破壊欲求は、ときどきなにかの形で出したほうが健全で、
家族内の精神的なぶつかり合いで済むのは
ある意味、穏便なのだ。

精神的な打撃は相応に大きいけれど、
そこから見えることをふまえ、再び築くこともできる。

家族ではない完全他者、あさっての方向に
出てしまう例は、新聞テレビに山ほどある。


家族やパートナーシップなど
身近な関係性における
こうした暴走からの破壊と再生は
もうひとまわり深く大きな関係性に変わるための
通過儀礼という側面もある。

暴走の奥にひそんでいた不安や痛みを
メンバーで共有することができれば
具体的、現実的な対策を講じることもできる。

また、そうした「裏感情」を
「身代わり」になって表現するに至ったひとの
優しさや痛みもあきらかになり
それは関係性にとってのギフトになりうる。


身代わり暴走にも良いことはあるが
しかしやはり防げるならば
防ぐにこしたことはない。
痛い思いは少ないほうがいい。


ふたたび、ヒーリングサロン Pulse(パルス)さんの
別のブログ記事より抜粋引用

どうしても、対策として

「関係をなんとかすること」に意識が向いてしまいがち。

意識改革に心が追いつかない時は重心と呼吸にアクセス。

直接カラダに集中するところから始めるのがいい”


「自分に集中って難しい」




問題をなんとかしようとすることなく
じぶんに集中するには
体(呼吸)を整えるのが
安心確実、遠回りのようで近道。

たとえ暴走スイッチが入ってしまっても、
体が安定していたら、
そうそうおかしなことにはならない。

どこかでちゃんとストップが入る。
麻痺して自分がぶっ壊れたり
他人や関係性をぶっ壊すところまではいかない。


破壊衝動が生じること自体は
コントロールできない。
自然現象、生理現象と同じである。

そうした認識をもったうえで
それがやってきたとき
どのように表現するか
どのように扱うか、模索し続ける。

大切なものを、大切にできるように

生じたものを扱えるだけの
器を育み、手入れしていく。

こつこつ欲求

ここ2年くらいだろうか
わたしのコツコツなにかを積み上げたい欲求は
おもに、オットに食事をさせること
「まともな」暮らしをさせること
絵に専念する環境を与えること に、使われていた。

先月の夏至前に
それが限界にきて
わたしはそこへ
その欲求を注ぐことを
やめることにした。

そしてどうやら
弾き語りのために
キーボードを操ったり
ウクレレを練習することに
使うことにしたようだ。

オットのサポートというのは
まだ、社会性や
金銭的なこととの
関わりがあったが
こんどはほんとうに関係がない。

ここからが本懐なのだろうな。


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