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2018年1月の記事

”最高の親孝行”

最高の親孝行は何か?

「親の影響から解放されること!!!」

https://ameblo.jp/reconnect99/entry-12240491647.html

両親や祖父母そのまた上の・・・
わたしたちが引き継いでいる
膨大なデータ

体質、好み、思考パターン

似るのは仕方のないことだけれど
その影響下に居続ける必要はない
抜け出すことは可能だ

似るのではなくて
ハイブリッドが理想

親を含めた先祖たちが
代々取り組んできたこと

より佳く、より幸せに。

親の枠にとどまることなく
与えてくれた以上のものを望む

乗り超えていく

親が見つけた最高よりも
もっと、最高のものを見つける

自分のこれからにふさわしいものを
自分で選びとっていく


長い長い葛藤のわけ

引越しを決めるまでに
12年という
ほんとうに長い時間が
かかったのは

タイミング とも言えるし
勇気がなかったから とも言えるし
選ばないことで得ていたものがあったから でもある

得ていたものは
物理的、精神的なメリット

それから
親が与えてくれた環境
ひいては親たちへの
忠誠、信頼、敬慕のあらわれであったこと

この町に留まり続けることは
わかりやすいサインであったと思う

そしてこの町を出るのもまた
さらにひろく透明なそれなのである


我を通す

自分の本心に
確かさを感じられない以上
我を通すのは
かなり、はばかられた

両親の選んだ町で
両親の近くにいることが
いちばん確かなように
思っていたのかもしれない

世界と自分は
イコールなのだと
知識として取り込み

それを身をもって
言えるところまで
たしかめ、落とし込み

自分よりもはるかに
心身と感性をみがいてきた
ベテランたちに賞賛されて

ようやく
自分を認められた

我を真っ当に受け止めて
我を通すことを、許可できた

まったくもって、厄介な性分だ。

五感の変化(心の学校その8)

心の学校に参加している期間中
視界がいつもより細やかだった

講座の帰り道
街灯を見上げると
周囲に虹のような光が見えた

満月の夜に
海の公園で
好き放題に歌ったあと
みあげた月のまわりに
おおきく虹のような輪がみえたように

あれは、あらわれたのではなくて
じぶんの状態が変わったから
それが目にうつるようになったのだ


聴覚や
味覚も
より微細になっていた

触覚は
皮膚より外側で
感知する情報が増えた

風邪が治りかけだったので
嗅覚はなかなか気がつかなかった
最近になって
増している感がある。


=====

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見えない本心

あなたの欲しい物、あなたの夢は何ですか?」と聞くと普通の人は、 映画やTVで見たワンシーンや、 嫉妬や恨みや反動の結果のものや、 他人が良いとしている物を語り始める。 つまり多くの人が、自分の本心さえ見えなくなっているのです。 これでは叶う夢も叶わない。自分の本心を見る技術が必要です。

https://twitter.com/tensinkai/status/957236145573707778


わたしは本心が見えづらい自覚があった。
筋反射もとりづらいし
じぶんを騙すのがうますぎた。
だからこそ、ものすごく慎重になった。

じぶんが思い入れていること
願い望んでいることが
ホンモノかどうか
疑えるだけ、疑った。

この手の疑いに終止符をうつのは難しい。
その責任を引き受けるのはかなり厳しい。

いちど疑いをやめてしまったら
どこまでも調子に乗るかもしれない
という懸念もあった。

じぶんのセンス、嗅覚に、裏付けが欲しかった。

それがなければ
この先、どんどん、
身動きができなくなることがわかっていた。

だからこその
心の学校だったのだ。

旧姓のキャラクター

昨年末、友達があたらしく仕入れたセッションを
おためしで受けてみた

氏名を名乗って
素の状態の筋反射をみるのだが

元々筋反射がとりづらい性質
それを差っ引いても
現氏名では反応がとれず
旧姓氏名でなんとか反応がとれた。

そこでわたしから出た仮説が
なかなか興味深かった。

現氏名は結婚後、
作り上げてきたキャラクターであり
持って生まれた性質とは別物

旧姓には素の状態がのこっている

真実はさておき
自分の中では
そんな認識らしい

実母のエナジーに近い
山羊座の 水星、金星期がおわり
太陽期に入るタイミングで
ちょうど結婚したこともあって

それから試行錯誤して獲得してきた
なるべき自分=太陽星座のキャラクターが
現氏名という氏名とセットになっている感覚

制御と感情

コントロールありきな
関係性に慣れていると

コントロールが無いことを
不安に感じたりする

淡々と対応されると
自分に関心が無いからだと感じたり
怒りを隠してるのではと疑ったり

コントロールが生じないように
あえて、やっているのだけれど

いわゆる人間味みたいなもの
温度。
湿度。
感情。
これらは潤滑油になる


(2018.1.24 メモとして)

決めるとは、選択肢を手放すこと

心の学校※に出て なのか
あくまでも仕上げ なのか
どう表現するか難しいところではあるけれども

失敗を回避しようとして
踏み出せなかったことに
踏み出せるようになった。

踏み出せるようになって
踏み出せなかったのは
失敗を嫌っていたからだとわかった。


わたしが長年切望しながらも
引越しを決行できなかったのは
ひとえに、失敗したくなかったから。
損したくなかったから。

暮らしたことのない
知り合いのほぼいない町
買い物にも所用にも娯楽にも
不便になることは間違いない
実両親、義理両親、どちらも遠くなる
職場も遠くなる、交通の便も悪くなる
メリットらしいものが皆無だった

生まれ育ち暮らしてきた町が
いわゆるメリットだらけだった
まがりなりにも海があり
山や緑もあり
神社仏閣が多く歴史もあり
快速電車が止まり
住民が多いから
スーパーもコンビニもたくさんあり
役所も郵便局も警察も徒歩圏内
不満をもつほうが難しい

不便なエリアに生まれ育った
わたしの両親にとって
天国のような住環境だろう


それでもわたしにとっては
有り余るメリットを捨ててでも
得られるナニカが大事だった
それを求めていることを
どうしても無視できなかった

慣れ親しんだ便利さと
天秤にかけたら
未知のナニカは圧倒的に不利で
こんなに時間がかかってしまったけれど

損してもいい。

ナニカなどなかった
間違いだった
もしそう思ったら
また戻ればいい
違う土地を探してもいい
なんどもトライすればいい

引越し代をかけて
荷造りと荷ほどき
環境に慣れることを
繰り返すことになっても
なんどもトライすればいい

それだけの価値がある
それくらいの情熱があるってことを
ようやく、認めることができた。


心の学校に出る前は
これだけ引っ越せないということは
これはほんとうの望みではないんじゃないか?
心身を整えて
物理的にも片付けて
片付けて片付けて
クリアにしても
たどりつけないどころか
ちっとも進まないなんて
偽物のビジョンなんじゃないか?
集合意識から拾ってるとか
エゴのたわごとだとか
そういうことなんじゃないか?
などと、疑うほどになっていた。

心の学校で
さらに、ひたすらに、
心身をクリーニングして
それでも消えなかった引越し願望。
それで、認めざるをえなくなった。

メリットだとか
他人の都合だとか
つまりは損したくないじぶんに
譲るのを、あきらめた。

なんの確証もなくても
勝ち目がゼロでも
なにを失っても
これはどうしても決行しなければならない。と
わたしぜんぶで、わたしの願望をバックアップした。

わたしがほんとうに
なにより欲しかったのは
この、わたしぜんぶによるバックアップだったのかもしれない。

もちろん、引越しはするのだけれど。
だって、ぜんぶで決めちゃったから
裏切るわけにいかない、とかではなくて
引っ越す。以外の選択肢は、もうどこにもないのだ。
全部捨て去った。きれいに消えた。見事に、あとかたもなく。
わたしのなかのどこをどう探しても、引っ越さない。は出てこない。

ほかに選択肢がないのは、とても気持ちがいい。
引越し決行へと、じぶんが一丸となっている。まとまっている。
この揺らがなさ!

できるんだろうか?などと
不安になりようがない。
だって、やるんだから。
やるだけのことだから。

じつにすがすがしい。


この一連のもたつきっぷりは
ネイタルホロスコープの
インコンジャクトに出ているように思う。
山羊金星と双子火星

ICちかくの山羊金星の感性と
月と合の火星の衝動の
折り合いがつくまでにこれだけかかった。

火星が、金星を守りきるだけの胆力をそなえ
金星が、火星を信頼できるようになった。
ようやく両者が、手をとりあえたかのようだ。

そして月が、息を吹き返した。

ドラゴンヘッドと、月&火星も
インコンジャクトだが
こちらはまだピンとこないので保留。


=====

※心の学校 ・・・ 氣道協会の主格講座のひとつ

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頂戴することの覚悟。責任。

お祝いやプレゼント
お土産、おすそ分け

もらえるのは嬉しいけれど
それはもらい過ぎ。と感じて
抵抗が生じることがある

頂戴することには
なにがしかの責任が伴う
という感覚

等価交換に慣れているがゆえ
お返ししなくては
お礼をしなくては
使いこなさなくては
相手の思いに、応えなくては

失礼にならないように
がっかりされないように
感謝が伝わるように
不調和とならないように

刷り込まれ
組み込まれている感覚


たとえば自然になっている果物を
好きなだけ取っていい、という場合にも
そうした自制が働くかもしれない

とり過ぎたら
次の人が困る
次世代に残らない
余らせたらもったいない


なにかを頂戴するときには、覚悟がいるものだ。

反射的に
受け取り拒否が
発動することに
是非はない

自然相手では必須だし
対人でも大事なことである


ただ、対人の場合は
想定外に「もたらされる」
つまり自分が潜在的に望んでいたといえる

拒否してもいいけれど
逃げたらスケールアップしていかない

責任のかたち(表現)を
見直すことも含めて
それを担える自分になっていく


受け取ること自体が
相手にとっては
ギフトとなることもある

受け取り
満たされ
味わううちに
おのずとあふれだすこともある


受け取ったものを
どう循環させるべきか
ノーアイデアだとしても
(コントロールできないとしても)

望んでいたことを認め
謙虚な気持ちで
丁寧に受け取ることで

よりおおきな循環の輪に入っていく

なまあくびと自働運動

寝起きからずっと
なまあくび連発

仕事に集中できず
SNS(集合意識)にばかり気が向く

昼過ぎても止まらない
さすがにこれは
普通ではないように思え
ググったら、霊的存在の可能性

思い当たりがある。

こんなときは
自働運動、瞑想、呼吸法

そして窓をあけて
空気を入れ換えつつ
お香を焚く。

落ち着いた。

個人的な未完了のプロセスを
他者や事象をつかわずに
プロセスさせるにも
自働運動は最適だと、あらためて。


※未完了のプロセス云々は
小笠原和葉さんのブログ記事から。


悪魔祓い、虫退治の成果

去年からなのか
それより前からなのか
個々人が
それぞれに
試行錯誤しながら
取り組んできたことの
成果が、出始めているようだ


悪魔祓い
虫退治

エゴとの対峙
カルマの解消

もうすこし現実的な言葉にするならば
自分のうちにある
弱さ
ずるさ
自己保身
エゴイスティックな部分との決別
かつての成功体験からの離脱

かつて、というのは
過去生や家系に由来するものまで含む


これまで
ある意味では
意図的に
すまわせてきた
悪魔や虫たち

この世を生き抜くため
この世に馴染むため
重石として
あるいは
バランサーとして
役立ってきたものたち


それらとの離別は
共存すること
共鳴することで
得られていたものや
かなっていたことをも、
手放すことになるけれども

これから先の世界では
かえって、邪魔になってくる

公衆電話が
ほとんど置かれていない
この時代において
偽造テレカを大量に持ち歩くようなもの


つながり重視の
テレパシック世界が
始まっている

ひとり勝ちのない
トップダウンではない

個々人が自立・自律したリーダーとして
全体で機能していく世界

かるくて
なめらかで
あかるい世界


もう、あえてザラつかせる必要はない。
麻痺させておく必要もない。

ぴかぴかのアンテナで
もっと遠く
もっと微細な
エネルギーに共鳴していく。


おごるべからず

上から目線
到達者な気分
学び終えた者
完全無欠にでもなったかのような

謙虚さの足らないスタンスに
うっかりなりやすい、この頃。

現時点ではこれといって
事象は起きていないけれど
そのうち足元すくわれかねない。
気を付けよう。

内感愉氣してみたら、
焦りに似ていた。

10天体順行期間中で
月食と日食を控えている。

これに象徴される
流れの速さ、勢いなのだろう。

しかしまだ土用でもあり
動けない、動かないほうが良い感じもあり
結果、浮つきやすいのかもしれない。

「大変なんです。」

大変なんです。
っていうのを理由、起点にしないと
他者に甘えられない。
話をきいてもらえない。
本音を言えない。

そんな風潮があるようだ。

そうでなければ
甘えさせない。
きかない。
言わせない。

そんな風潮でもある。

これから3年ほどのあいだに
変わるべき風潮だと思う。
変えていきたい風潮である。


損得のスケールを変える

なんか損してる!と感じたときは
スケールを変える時。

目先の報酬だとか
見返りだとかよりも
もっとおおきな視点に切り替える。

誰も評価してくれなくても
自分が自分を認めていれば
それは、世界からかえってくる。

電車の乗り換えがスムーズに行くとか
欲しかったものをプレゼントされるとか

なんらかのかたちで
かならず還元される。

心の前提を書き換えた話

前記事「相手という鏡にうつるのは

家族やパートナーの言動を
みずからの無意識を反映したもの
「自分で気づいていない自分」を知る糸口とするのは

自分のもつ前提を知り
書き換える方法としては
少々荒っぽい、力づくのやり方かもしれない。

自然なプロセスにまかせるなかで
鏡だ、と心底から感じて
それを信じる(確信できる)ようになるのが
理想形なのかもしれない。


わたしが自分に課したのは
出来事や相手の言動に反応したら
その感情のケアとは別に
鏡だとしたら? という視点で見直すこと。
(これはいわゆる内観なんだろうか)

この方法のいいところは
日常のなかで
自力で
コツコツ続けることで
確実に着実に変わっていけること。
手応えと達成感がある。
慣れてくれば謎解き感覚になる。

本心と自分がズレている状態にも
気がつきやすくなってきて
あたまごなしに却下したくなったり
からだがこわばったり、重くなったり
「それでも大丈夫。できそう。」などと
どうすればいいか?を探しだしたり
損得を考えだしたら
だいたい、ズレていると思う。

ヒーリングやエネルギーワーク
アロマやボディワークを併用すると
それに向き合う抵抗を減らしたり
気づきを早めてくれたり
さらなるヒントがもたらされたりする。


自分がなにに反応しているのか
なにを望んでいるのか
どんな観念を持っているのか
気がつくだけで

あえて書き換えずとも
それはおのずとほどけて、変化して、
自然にかえっていくものだと
だんだんわかってくる。

自然体の自分
本来の自分
自然治癒力のようなもの
いのちのながれ
ひいては自分を取り囲む
他人や世界そのものへの信頼感も増してくる。

すべてを利用し
すべてを自己へと還元し
そのことで、世界へ寄与していけることを
体感することにもなるだろう。

コントロールも
自己犠牲もない
ニュートラルなつながりは
これからの時代の基礎となるように思う。


宿題のこと(心の学校その7)

氣道協会 心の学校(中等)は
申し込むと、じきに、宿題が送られてくる。

講座までに、講座期間中にも、
出来るだけ進めておくと
講座がより充実した体験になる。
ということだったが
そしてそれはその通りだったのだが

驚いたのは
それらの宿題は
講座に提出も持参もしないのだった。

やっているか?困っていないか?聞かれはするが
あくまでも自主性に任せられていて
講座はおもに
宿題=セルフワークのキモとなる
「意識のつかいかた」の基礎訓練だった。
ワークがより深まるように
日常ですぐに気楽に使えるように
集中度や精度をあげていく。

このスタイルは
はじめて経験したが
とても合理的だと思う。
権威的な感じもない。

何十回と繰り返され
洗練されてきた講座の
完成度の高さを感じた。

=====

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相手という鏡にうつるのは

愛したい。のホントのとこ」で
男性が叶えようとするのは
女性の「無意識の願い」だと書いた。

家族やパートナーなど
身近な存在には
「じぶんの無意識」が表れやすい。


たとえば
お菓子を食べているときに
「食べ過ぎだからやめろ」と家族に言われる。

そのまま素直に聞いたうえで
やめるなり、食べ続けるなりできる場合には
発言者の問題(なんらかの観念に基づく介入)かもしれない。

わかってる!と反発したなら
内心「食べ過ぎかな・・・」と感じている
じぶんの一部を、相手が代弁しているかもしれない。


家族がしつこく言ってくる忠告は
自分がないがしろにしている
自分の願望だったりする。

お菓子の例でいえば
こころゆくまで食べたい気持ちと
健康に配慮して節制したい気持ちは
どちらも持っているものだ。

両方に自覚的であるならば
どちらでも選べば良いが
どちらかを見落としていたり
あえてないがしろにしているのなら
一考する価値はある。


同様に、家族から投げかけられる
まったく思いがけない見解も
じぶんの無意識を知る助けとなる。

お菓子をそんなに食べるってことは
なにか不満があるんじゃないのか。
などと言われたとする。

そんなことはない!と
反射的に、本心から、思ったとしても
よくよくじぶんの内側を探してみると
不満が見つかったりするのだ。


身近な相手のことを
自分をコントロールしてくる人間だとか
頼りにならない人間だとか
理解のない人間だとか
「自分の味方ではない」と感じていると
相手の言動は、妨げにしかならない。

そうした「相手への観念」は横に置いて
「自分の無意識を表す(かもしれない)鏡」
タロットやオラクルカードのような存在として
相手の言動を、利用してみる。

自分が気がついていない自分の願望、欲求
自分が見落としている可能性
そのように扱い
精査し
取り込むことで
自分の幅が広がっていく。
自分への理解が深まる。

相手の言動を
「相手との関係性」ではなく
「自分と、自分の無意識の関係性」を
深める材料として使う。


相手の言動に
感情的に
反射的に
応じているあいだは

もたらされている
新たな可能性に対して
閉じているといえる。

たんなる「情報」として
フラットに扱うことができれば
選択肢が増える。


他者という鏡を使って
「未知の自分」を見つめ
受け入れていくのは
簡単なことではない

ずるい自分
よわい自分
みっともない自分
いろいろ出てくるけれども

「気づいていない自分」への
理解を深めようとする姿勢は
「自己信頼」へとつながっていく。

他者や出来事へ反応が起きたときに
自分の内面をしっかり見る

なにがあるのか
なにが起きているのか
なにを求めているのか
しっかりケアする

それをコツコツ続けることは
自分自身への本気のコミットのあらわれであり
最上の自己愛のかたちなのかもしれない。

そうして癒され
満たされていくことで
他者の存在を使って
自分を満たす必要がなくなり

コントロールしたり
されたりという関係性は
生じにくくなる。

コントロール/複雑な関係性

今日も友人のブログから。

他人になにかお願いするときに
気遣いが過ぎて
コントロールが生じてしまう話。

https://ameblo.jp/eisei-boro/entry-12345466728.html

具体例の会話がたいへんわかりやすいので
ぜひ原文を読んでほしい。


このなかでさらりと出てくる

「コントロールの場にのらない」

じぶんからコントロールを生まないのも大事だが
相手のそれに乗らないのも、ほんとうに大事だ。

需要がなくなれば供給は途絶える。


コントロールする側は
無意識のことが多い。悪意もない。
家族由来のパターン、慣習、本人のもつ傷などから
自動的に行われる。

相手の罪悪感や情を
刺激することで成り立つ
取引的な関係。

優位であろうとして
関心を得続けようとして
関係性を維持しようとして
それは繰り返される。


コントロールされる側は
恐れや怯えから
その関係性に留まるけれども
傷つき、苦しみ、つらさを感じる立場ゆえ
なんとかしようともがくなかで
その関係性、からくりに、気づきやすい。

奪い奪われる関係性に気がついたのなら
相手が変わることや
奇跡が起きることを待たずに
自己憐憫や
被害者意識にとどまらずに
みずから、その場を抜けたほうがいい。

物理的に離れることや
精神的に境界線を保つこと

相手の求めに応じないこと
相手の問題を切り離すこと


そうしたことが
わかっていながらも
出来なかったり
繰り返している場合には

相手のやり方をゆるすことや
相手の支配下にいることで
相手より上に立とうとしている可能性がある。

そうした言動を
無意識にとり続ける相手を
かわいそうなひと、
不器用なひと、などと
下に見ていられる。

表面上の関係性では
コントロールされる側だけれども
意識的には優位なのだ。

負けてあげる、という勝ち方。


いずれにしても
どちらにとっても
「関係性を変えないこと」が
最優先されている状態といえる。


わたし自身、コントロールする側だったことも
される側だったこともあるが
(正確には、そう思っていたことがある、ということ。)

相手のことを「相手」だと思わず
「自分の一部」だと捉えることで
このからくりに、はまりにくくなった。

次の記事にする。

瞑想で時間密度があがる

この数日、猫のエサコールを受けながら
布団を出よう。と決めて、出ると
だいたい目覚ましより20分ほど早いので
自働運動と呼吸法と瞑想を
さらっと、やっている。

そうすると不思議なことに
時間がたっぷりある感覚になり
弁当つくりながら洗濯して干して
それでも余裕。バタバタしない。

たった15分、自分につながるだけで
あとの時間密度がこんなに違うとは。

忙しいひとほど
瞑想の時間をとるといい。と
どこかで聞いたことがあったが、
なるほどこういうことなのだ。

わたしの場合は
やることやりたいこと自体は
そう多くないから
一般的にいえば忙しくないため
時間密度をあげる必要性はないのだが

時間があるならあるで
瞑想でもして
ほけーっとシアワセにしていたらいいので
密度があがっても一向に構わない。

以前ならば、退屈で困っただろう。

この数年で、ヒマと退屈のつぶしかたは
ずいぶんと上達したものの
(各種とりそろえている)
それでも、どうしても、
ヒマと元気を持て余すことがあり

それゆえに、他人がやればいいことを
気安く請け負ったりもしたし
問題をつくりだしていたことも
あっただろうと思う。

ヒマだから
やれば出来るから
得意だから
苦にならないから
そんな理由をつけて
やっていたことがたくさんある。

もうそんな理由で動かなくてもいいのだ。

やりたいけど、理由がない?

ちがうエリアに住みたいけれど
このエリアを出る理由がない

引っ越したいけれど
引っ越す理由がない

と言い続けて
何年経っただろう?15年?もっと??

言い慣れたこれらのフレーズ
「ふつう」で「まとも」だと思ってた。

おおきな矛盾に
気付いたのは最近。

理由がない?

なにを言ってるんだろう。

「住みたい」
「引っ越したい」

これ以外になんの理由がいるんだろう?

どんな理由が欲しかったんだろう?
どんな理由なら動けたんだろう??

仕事が
親が
収入が
なんだかんだ

懸念要素が消えたわけじゃない

それどころか
15年前より増してる

それでも
もう
動くのだ

ただ、そうしたい。
という理由のほかに

いまの家を出る「それなりの理由」は出来た

ここを逃したら、ほんとうに動けない

時は満ちた
港を出るよ


他者を満たすメリット

前の記事: 満たさないメリット
http://moana.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-d5ed.html

これは逆パターンもある。

他者を世話することで
自分を満たすのだ。

相手を欠けているもの
満たすべきものとすることで

自分のことは見なくて済む
または、相対的に満たされているように感じる

前記事でも書いたように
これは双方の(無意識の)合意ありきで
どちらがいい、悪いではないし

完全に無くすことを
目指す必要もないと
個人的には思っている

行き過ぎれば共依存とよばれるものになるが
時折ある分には、持ちつ持たれつでいい。

しかし、「無意識に」「反射的に」
それが「起き続けている」のならば
見直す価値はあるとおもう。

他者の存在ありきの在りようは
どうしても、弱くなるから


土星が山羊座に入っている
2020年までの期間
多くのひとが
自立と依存について
見直すことになるのではないかと思う。

わたし自身まだまだ
波風立てないことを無意識に
優先していることがある。

その場しのぎにはなるが
長い目でみれば
不調和となっていくもの。

「真の調和のための忍耐や努力」
これを身につけたり、加減したり
きっと、そんな期間になるのだろう。


満たさないメリット

じぶんで出来ないこと
無理なこと
やらずにいたいこと

それらをやらないでいたら

誰かにやってもらえる
かまってもらえる
気にかけてもらえる
特別扱いしてもらえる

そんな経験をしたら
そんな出来事を見たら
そりゃあ、やらずに済ませたくなる


だれかに気にかけてもらうのは
子どもにとって死活問題
手段は選ばない

子どもが風邪をひくのは
親の注意をひきたいとき
(愉氣を欲しているとき)
そんなふうにも言われている

もちろんここには双方の意向があり
気にかけてもらおうとするのは
だれか(保護者等)の潜在的な
気にかけたい(世話したい)気持ちに
応えようとしているところもあるだろう。


いずれにしてもこれはあくまで
「子ども」の話なのだが

欠けた状態を保つことで
他に満たしてもらおうとする
子ども時代の習性が
無意識に入っていると
大人になっても繰り返す。無意識に。

あえて、じぶんでじぶんを満たさない。
だれかの助けありきなじぶんでいる。

被害者意識、無力感
病気、怪我、事故
無知で通す姿勢
お金に困る状態 等々
(言わずもがなこうした事象のすべてが
他者の気をひくためではない)


やってもらうこと
かまってもらうこと
気にかけてもらうことで

自己価値をはかり、安心する
じぶんの存在意義を、他者に委ねている

他者ありきの、その土台は
どんなに堅固にみえても
なんど塗り重ねたとしても
脆弱性から逃れられないことを
本人の真実は、知っている


愛したい。のホントのとこ

「すべての男性は
愛したい生き物だ
女性に、尽したいのだ」

そんな言いまわしを
近年、よく見聞きするけれども
これは詭弁というか
説明不足で
それゆえに
ほんとうのところをわからず
鵜呑みにしているのも、よく見かける

以下、あくまでも私見だが

男性の「愛したい」「尽くしたい」は
パートナーの「無意識の願いを叶える」
というかたちをとることが多い。

「無意識の願い」であるため
口ではどんなに「尽くされたい」と言っていても
無意識レベルで「尽くしたい」と願っていれば
相手は「尽くすことを要求する男」となる。

自分が変われば
相手が変わる
といわれるのはこのためで

しかし自分がいくら変わったところで
相手が「自分の思い通りに」変わるとは限らない。

相手のキャラは変わらずに
相手との関係性が変わることもある。
(相手から自主的に離れるとも限らない。)

広大で深淵な無意識には
いろんなレベルの「願い」があり
相反するものもあるだろうし
短期的なのも、長期的なのもあるだろう。
真の願いにたどりつくために
片付けなければならないものがあれば
そちらの願いが優先されるだろう。

いずれにしても
冒頭の
「愛したい」や
「尽くしたい」を
じぶんの固定観念、価値観、
あるいは一般常識にのっとって
解釈していては
いつまでも腑に落ちないと思う。

ヒントは目の前にある。

たとえ愛にみえなくても
尽くされているなんて思えなくても
その男性は、すでに、愛しているし、尽くしている・・・

今ある現実を、そういう視点で見てみること。

そこから、じぶんの無意識への
手がかりを見つけることができる。

また、どうしても「その愛のかたち」がいやなら
関係性を変える選択をすることもできる。

「すべての男性は
愛したい生き物だ
女性に、尽したいのだ」

間違いではないが
説明不足だと感じるため
説明したらずいぶん長くなった。

豆乳と牛乳と葛藤の思い出

小学校1年のときか、2年だったか
夏休みの、地域のお泊り会で
朝食が用意されていて
パック牛乳付きの席と
パック豆乳付きの席があり

豆乳は苦手だったので
牛乳の席がよかったのだが
隣り合って座ろうとする子達の
様子をみているうちに
豆乳席しかなくなっていて

お世話してくれてるオトナたちに
「豆乳は飲めない」と言おうにも
みんな忙しそうで気付いてくれないし
みんな食べ始めちゃうし

このままでは豆乳を飲まなければならないのか・・・
あるいは残すのか・・・それも嫌だ・・・

ついには悲嘆にくれて泣きだした


そんなエピソードを思い出した。
この年にしてすでに葛藤満載である。

そもそも、豆乳が苦手だと言いたくなかったのだと思う。
苦手なものがあるのは恥だと思っていたような気がする。

事実とは違うかもしれないし
当時はそこまで考えていなかったかもしれないが

そもそもなぜこれを
思い出せるほどに記憶しているかといえば
最終的に泣き出したことを恥じていたからである。

葛藤時代を端的にあらわしているので
記録がてら、記事にしておく。

学校教育とストレス

小学校の授業は
ちんたら退屈だった。
テストの時間が嫌いだった。
すぐ終わってしまい
ひたすらヒマだったから。

そこで夢想にふけるとか
本をこっそり読むなどということは
わたしのなかのわたしが許さず
時々こっそり絵を描くくらいだったと思う。
(高校に入ってからはなんでもありになった)
(すっかり落ちこぼれてヤケになっていたので)

先生を困らせるのも嫌だったし
助けたいとすら、思っていた。
結果、板書の間違いを知らせるような
意欲的すぎる、うざい児童だったと記憶している。


中学のときはそこまで退屈でも
意欲的でもなかったが
膀胱炎になったのはやはり
しゃべらずに、時間内座っていなければならない
というのがストレスだったのかもしれない。

さらに、わたしのことだから、
そんな風に感じていることを
認めることすら、しなかっただろう。
そんな風に感じるのは
一人前ではないからで
適性がないということで
恥ずべきことであり
じぶんをもっと躾けなければ。律しなければ。
無意識レベルでそう考えていたと予想する。


なにを感じてもそれでいい
みんなちがって、みんないい
なんて幻想は
学校のなかでは通用しない

国語にも道徳にも「正解」があり
求められ、鍛えるべきは
「正解」を予想すること
それが「正解」となりうる「理屈」を、飲み込むこと

飲み込めるように
じぶんなりに噛み砕く
じぶんのなかの
思考回路を開拓する

繰り返される「学習」という強制

じぶんの感じ方は抱えたまま
正解の理屈は、それはそれとして、
覚えるタイプのひともいるのだろうが

わたしは、
じぶんの感じ方を矯正すべきだと
受け取っていたように思う。
そう感じられないのは
じぶんが至らないからだと。

まったくもって馬鹿げていると
いまならば思うけれど
あの頃の一般的な小、中学生にとって
学校は「正義」だった。
絶対的な正解だったのだ。

おしゃべりなじぶん

心の学校の前半は
自分の内の感覚に
自分の外のオブジェクトに
意識を集めて一体化することを繰り返すため
どんどんしずまっていく。

そうすると脳内思考にかぎらず
通常のおしゃべりも減ってくるのだが
わたしは「学校時間」がおわると
隣の人としゃべりだすことが多かった。

すぐにいつものモードになって
くだらないことを喜んだりし始める。
その切り換えっぷりは
じぶんでもちょっと驚くほどだった。

あえて切り換えて
学校モードに染まり切らないように
しているような節もあった。
「いつもの現実」にいつでもかえれるように。

この習性(執着)は学校期間中に
何度かクリアリングして
いまは、自覚的に選べる感じになっている。

そして、昨日の舞踏コースのシェアリング時間
じぶんが話し終わって
他のひとのシェアをきいていているとき
終わりそうなタイミングで
口をはさむこと2回。
じぶんが言い足りなかったことを
便乗して、言わずにいられなかった。

褒められた行為ではないが
これはなんだか懐かしい感じだ。

わたしはよくそんなふうに
他人の話に乗っかるけれども
これまでは、これでも、抑えていたのだ。

抑えるあまりに
聞き役に徹することが
増えていたのだ。


この数日、小学校入学当時に
感じたであろうストレスと原因に
思いを馳せているのだが

おしゃべりしてはいけない。というのは
おしゃべりな子供だった自分にとって
ものすごいストレスだったはずだ。

小学校3年のときだったか
先生不在の自習時間に
日直だったわたしは
クラスの子達の素行を
チェックするよう任じられていた。

それで、私語の回数だとかを
正の字でカウントしていたのだけれど
つり目でぽっちゃりした女子が
隣の男子とずっと喋っていて
何度か注意をしつつ
正の字を増やしていたら
彼女からクレームをつけられ
大激論になり
最終的に殴り合いになった。

わたしの人生で
女子と殴り合いをしたのは
おそらくあれだけ。
後日、親が呼び出されたのを覚えてる。

融通のきかない
優等生然とした態度が
彼女の癇に障ったのだろう。
そしてわたしはただただ
彼女が羨ましかったのだ。
(などということは当時はつゆほども思わず
自分が正しいと信じていた。)

思い返してみると
授業中に鼻をほじるのが
止められなかったのも
3年か4年のときだったような。
これまたほんとうに
褒められたことではないが
それだけ、必死だったんだなあ。


講師業が好きだったのは
わたしにしゃべる権利が保証されているから。
わたしがのびのび好きなようにしゃべるのが
ゆるされる環境だから。

人の話にすぐ口をだしては
じぶんのターンにするのが得意なひとを
どうしても好きになれない。と思っていたが
やはり、じぶんが嫌っている自分なのだった。

30年あまりを経て
まるっと解き放たれた
おしゃべりなじぶん

これからどうするのか
どうなるのか
未知数である。。。

六根清浄

きのうは氣道協会の舞踏コースに参加。
出遅れてしまったが参加できてよかった。
1年以上、2年近くぶりかもしれない。

思考はさておき、心のままに
他者や音と響きあいながら
気持ち良く
ひたすらに動くのは
ほんとうにたのしくて

初めて参加したときには
ヒトとして肉体をもって生きているからには
これは最上の遊びのひとつだと思った。

毎月のように出ていた時期もあったのだが
ゲストミュージシャンが入るようになったあたりで
内気モードが発動して、行かなくなり

そして心の学校があり
ゲストミュージシャンの方が
学校に参加していて面識ができたことや
わたしの内気モードが
底をうったこともあり
ようやく参加できた次第。

昨日は新春お神酒と詩の朗読(北原白秋)
そしてかるた取り。
百人一首と、先生自作のカードを織り交ぜたもの。
とった札から踊るテーマをひとつ決める。
「冥王星」は絶対とろうと思って、とったのだが、
何枚かある手持ち札の中で
これだな。と「日本晴れ」を選んだ。
最初ソロで、そのあと他の方たちが
それぞれのテーマをもって入ってくる。
最初からアッパーだったので
後半が体力的にきつかった!

ほかのひとたちの踊りに入るよう
先生に渡された(無茶振りともいう)カードは
三途の川
これはちょうど着ていった
黒いカーデガンを小道具に使ってみた。

それから
暗く重たいテーマが続いて
カオスになっている人々の踊りに
最後に加わるタイミングでは
六根清浄

正確な意味はわからないまま
清めればいいのかな?と
かろやかさと静けさをイメージ。
あとでググったら
ちょっと方向性が違かったのかもしれないが
あの重たさの中ではベターだったと思う。

六根清浄。わたしにとって
そのプロセスの仕上げが
心の学校だったのだな。

ひさしぶりの舞踏コースは
迷いがさらに減って
動いて動いて動いて
めいっぱい遊んだ感。

それからもうひとつ気づいたのは
わたしは「しゃべりたがる」ということ。
これは次の記事に。

集団生活における擬態

友人のブログを読んだら
同じような体験をしているところだった。

そして、さらにヒントが。

私ね、6歳を境に自分の性格が めっちゃ変わったイメージがあってさ。 (中略) 7歳以降?、 生きづらさ増し増しで、

ココへ来てこれがね、
「集合意識に自分からアクセスしてた」
ことによるものだとわかり、
しかも自分でその事に気づいてるから、
更にダメージハッだったらしいともわかり、

再びあの感覚に戻れるとは思ってもみなかった。
https://ameblo.jp/eisei-boro/entry-12343216179.html

集合意識にアクセスして
サンプリングして
周囲になじむ。

これ、わたしもやってた!と思う。

彼女とわたしは
月星座がおなじ双子座なので
傾向が似ているのかもしれない。

学習(情報収集)が得意だから
「そうやってうまく馴染めるじぶん」が
単純にたのしかったのだろうな。
おままごと的な。擬態ごっこ。

まあそれが擬態で済まなくなっていくわけだけれども。

幼稚園や保育園から
小学校にあがると
接する人数は格段に増える。
情報量も、当然増える。
大変だっただろうなあ・・・
しかも早生まれで
小学校1年生はほとんど6歳だった。
あの頃のじぶんにエールを送りたい。

べつの友人の息子くんが
いまちょうど小学校1年生。
ときどき遊びにいくと
甘えられるままにしているのは
じぶんのためでもあるんだろう。


わたしの場合は
7才以下の記憶が
ほとんどないので

感覚を思い出すとか
再びそうなれた、というよりは
いまのところひたすら新鮮・・・
手探りな感じ。

そして、集合意識へのアクセスをやめた、という認識ではなく
心の学校を経て、自分に全集中することができるようになったので
結果的にアクセスしない時間が増えてきた。ということ。

同じことでも、いろんなルートがある。

自力で気づいて、やめる。なんて
離れ業を軽々やってのける
彼女の感性と意識の力、集中力は
いつものことながらすごい。

特別な環境に身を置かずとも
だれかの指南がなくとも
日常のなかで、気づき、変わっていけることは
彼女のこれまでの記事でもよくわかる。

(誰でも同じようにできるとは思わないが。)
(誰しも自分に向いた方法や場所を選びとれるだろう)

体感する愉氣温度(心の学校その6)

内感愉氣のペアワークにて

相手へ向ける愉氣は
天心(クリア、空)よりも

幸福感でほがらかに笑っている
そんな状態をつくって向けたほうが

愉氣の質としては粗いけれども
相手への響きかたは強く
わかりやすいため、効果的。

というような話があり

わたしが愉氣を受けている側で
相手が愉氣をしてくれている側だったときに

ちょうどインストラクターが
「はい、笑ってー!」などと言ってまわってきて
相手はたまらず吹き出した

瞬間
目をつむっていたわたしは
温度が変わったのがわかった。はっきりと。

向けられている愉氣が
マイナスイオン(どちらかといえばひんやり)から
遠赤外線(あたたたかい)に変わった。

そして、あたたかさがあるほうが
受け取りやすいというか
受け取っている実感があり
エンパワメントされるのだった。

このことは今後
対人援助的な場面において
ものすごくおおきな指針となるだろう。


=====

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お節介気質と身体意識(心の学校その5)

心の学校の何日目だったか
内感愉氣のペアワーク実習のおしまいに
相手に向けていた愉氣を
じぶんに向けて。という誘導があり

じぶんに向けた途端に
ワタシが、わたしに、
ぐいぐいと手を差し出して
引き上げようとしているのを、捉えた。

びっくりした。

相手に向けているときは
両手をひろげて
ゆったり構えているような
ただただ、微笑ましく見ているような
そんな感じだったはずなのに

じぶんに対しては
なんとお節介きわまりない!

マインドから身体意識への介入とでもいおうか。

もちろん良かれと思ってのことで
反射的に手を伸ばしているだけなのだが。


子供の頃から
結婚してからも
ときに煩わしかった
実母の介入

小学校で一部男子たちから
「お節介!」と揶揄されたことも

オットに対しての
母親的、保護者的にスタンスも

その母を見習って
親愛の表現として
身につけたがゆえだと
考えていた時期もあったが

母すらもわたしの一部なのだとしたら
わたしのなかに種があるのだろうと
薄々思ってはいた。とはいえ

あんなにくっきりと
見つけられたのは
いまだに驚きである。
(それだけ鎮まっていたということ。)


見つけただけで
それに対して
なにをしたわけでもない。

自覚できた、気がついた、というのは
すでに、プロセスなので
いまはそれで良いと思っている。


そして学校がおわってから
2週間弱のここまでに
インナーチャイルド的な反応が
じぶんから起こって、戸惑うことが何回かあった。

これまでのわたしならば珍しいくらいの
感情的な、ヒステリックな反応。

気がついたおかげなのか・・

山羊座時代が癒されたので
それより前、0〜7才の月の年齢域のじぶんが
出て来やすいのかもしれない。
ほとんど記憶のない時代。


感情が根底から動いたり
奥底から湧いた欲求を表現することは
これまで、ほんとうに、めったになくて

ときどきなにかの拍子に出てくると
マインドはびっくりして停止するし
身体はすぐに休みたがる感じだった。寝落ちしたり。

友人にお願いしていた
ことしの年間予報(占い)に
月(moon)がよく出てきたというのは
このあたりと無縁ではないのだろう。


ところでこのペアワークのときに
愉氣の質の違いを肌で感じたことがあった。
次の記事にする。


=====

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他人の痛み

午後、急に左肩が痛くなった。
寝違えたような
肩甲骨から首へとつらなる痛み。

アクセス式に「これ誰の?」で
お返ししてみても軽減しないので
自動運動をする。
あまり変わらない。

身体からのメッセージをチェック。
左半身の痛み: 
  他人のエネルギーによって起こる痛み。
  母親と自分の間に何らかの問題があるために、起こる痛み。
  身近な相手や、母親の痛みを感じている。
左肩こり:
  自分以外のものを背負い込んでいる可能性が高い
  相手が、三次元レベルの存在でない可能性もある

合点がいって
瞑想の体勢を整え
まずじぶんをクリアにし
次に、母親へ遠隔。
天心ではなく
あかるい愉氣を心がける。

だいぶ痛みが軽くなった。

年末年始、実家には妹が長期滞在していて
母はいつものペースで暮らせていないし
うれしいのと、張り切りすぎなのと、
まあとにかく疲れが出る頃合いだろう。

もともと今日の午後は
実家でPC作業をしようと思っていたのだが
自宅でもできることに気がつき
オットが寝込んでいることもあって
自宅で作業をしていたら
どんどん肩が痛くなってきたのだった。

PC作業による目の疲れと、姿勢からの
肩こりを起因とする痛みにしては
あまりにも主張が激しかったので
外因を疑った次第。

ちなみに母は左利きで
寒さと疲れから
よく肩をすくめている。
大晦日の時点で
マッサージ機も使っていたが
それでは追いつかないのだろうなあ。

そして母の痛みに
思いを馳せ
同調しているかもしれない
じぶんの状態をまず
整えることだなあ。

アラームと風邪

オットが風邪をひいている。
本厄ということもあり
このタイミングで
しっかり経過しておけば
ことしはきっと安泰だろう。

そもそも年末からオットは
体調不具合が続いていた。

心の学校の初日か二日目の夜に
なんの前触れもなく
急に、おなかをこわして
トイレに数回通い
出し切ってすっきりしたようだ。
下痢と便秘を繰り返しやすいとはいえ
この日に至るまでは
別段かわった感じではなかったのにと
不思議がっていた。

心の学校の3日目だったか
先に寝ていたわたしの
隣の布団に横になった途端に
心臓が苦しくなり
明け方頃まで
死ぬかと思うような状態だったらしい。

そして心の学校が終わった日の夜
いつもの左肩甲骨が痛いし
なんだか食欲もないし
調子が悪いと繰り返すので
脂取り穴追いをした。
左手の薬指から抜けていった。
(心臓だろうか?)
(ときどき不整脈でひっかかる)

年明け2日、小競り合い。
休み期間だというのに
バイト出勤のときの
スマホのアラームが設定したままで
わたしがその音で起きて
オットはぐうぐう寝ている
ということが
何日も続いていた。

ただでさえ猫に起こされて
寝起きのタイミングが
不自然になるのに
(とはいえ、猫はわたしの眠りが
浅くなったときを狙ってくるので
それほど不自然ではないのだが。
起こされなければ、そのまま、また眠りに入るところで
猫のしつこさに観念して、起きるだけのこと。)

無用なアラームで眠りが中断され
しかも本人はまったく気に留めず寝ている。
こんなに不愉快なことはない!と。

これまでにも何度か休みのたびに言っていたのだが
長期の休み期間にまでこれではたまったものではない。

どうせ猫に起こされるんだからいいじゃないか
じぶんだってナントカカントカ・・・と
よくわからない言い返しをしてきて
話にならない!と言ったら
そんなに怒る意味がわからない、
などと言うのでヒートアップ。
不満げにアラームを解除して
そのあと1時間ほど冷戦が続いた。

その夜の風呂上がり。
急に、くしゃみ、はなみずのオンパレードがきたのだ。
たまたまお湯の温度をちょっと熱めにしていたのが
最後の後押しになったのだろうか。

鼻水は排毒
咳の痛みは免疫のちから
くしゃみは心臓と肝臓のマッサージ

小競り合いでなぜあんなに
自分がヒートアップしたのか
いまいちわからなかったのだが
思い返してみると
オットはもともと体調不良でイラついていて
それに巻き込まれたのかもしれない。

そして、アラームというかたちで
(猫に対抗して?笑)
わたしからの愉氣を
要求していたわけだが
それを突っぱねられたので
反発したのだろう。

その晩から風邪症状になったのは
愉氣が途絶えたことと
無関係ではないように思う。


退屈と瞑想とバーズ®(心の学校その4)

わたしがアクセスバーズ®の
施術をするのが好きなのは
第一に、わたし自身が気持ち良いから。

他者と共に在りながら
「単なる有機体」として
そこに居ればいい というのは
途方もなく幸せなことだ。

つまり普段のわたしは
それをじぶんに許可していなかった
ということなのだが

心の学校 を経て
わたしがいう「単なる有機体な状態」は
「瞑想」 とよばれるものだと認識した。


わたしは瞑想ができない。
と、あきらめたのは、
心や意識のことに興味を持って
かなり早い段階だったと思う。
”わたしが理解した「瞑想」という状態”になるのは
わたしには到底無理だと決め込んだ。

そして、いわゆる瞑想(座禅のような)ではない方法で
瞑想で得られるものを、得よう。というのが
近年のわたしの試みだった、ようだ。

それはアクセスバーズ®という
ツールを得たことで、実現してきた。

ひとりで完結することを
恐れてもいたから
他者の存在ありきなバーズ®で
瞑想状態になれるのは
都合がよかった。

しかも、相手も
瞑想のような状態になれることが多く
その副産物(効果)は未知で
その時々で異なるのもおもしろかった。


心の学校で
じぶんの内にあるモノを
じぶんひとりで処理する技術を
教わり、繰り返し、精度を高めると同時に

ペアワークでの瞑想や
ひとりでの瞑想の時間を多くもち
その誘導としての思考や体感の使い方も教わり

「ひとりで完結すること」への恐れは
自然とほどけていったように思う。

「ひとりにはなれない」
「ひとりなどありえない」ということを
思考レベルの認識ではなく

さまざまな角度から
さまざまな体験として味わうことで
肉体感覚で認識できたから。


ひとり自分の内を感じ愉氣しているようでも
ひとり目をつむり座っているようでも
つながりを断つことにはならない。なりようがない。

ひとり体験したその感じも
意識に遺らない様々な気づきも
完全に消えるわけではなく
シェアできないわけでもない

じぶんのうちで起きたことを
言葉にしようとしなくても
言葉にできなくても
きれいさっぱり忘れてしまっても
しぜんなかたちで
しかるべきように
それは伝播する。

つながり だとか
シェア(伝える、渡す) だとか
そのあたりの概念(観念)が
あたらしいものになった、と言える。


おかげでわたしは
ひとりでも
瞑想状態を
たのしめるようになった。

いざそうなってみたら
なーんだ、この状態で居てもよかったのか。という感じ。
つまり、いままでもやろうと思えばできたのだろうけれど
じぶんに許可していなかったらしい。

そのせいでこれまでは
なにかしらとの交流がない時間を
退屈だと感じていたのだが
「退屈」の概念も変わった、というか

もしかしたら
「退屈」が消えたかもしれない。


じつはこれ
心の学校参加前に
オットが予言した通りである。

なにをするのかしらないけど
なにもしなくても退屈じゃなくなるのかもね。
それがなくなったら
もうほんとに人生がいいものでしかなくなるね。

というようなことを言っていたのだ。
(時々こういうことがある。)
(謎のセンサーをもつオット。)

もっともオット本人にとっては
わたしがそうなることは
嬉しいような
困るような
複雑な心境だったようだ。
そして、年明け早々に風邪症状で寝込んでいる。

わたしが迎え入れた変化が波及している
あるいは、それに応じるべくの
心身リフレッシュかな・・・

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