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2018年2月の記事

あきらめグセは根強い

待て。休め。
わかってる
わかってるけれど
あああほんとうに、休むのって大変である。

ブラウザのあちこちに
間取り図の広告が出てくる。
つい見に行ってしまう。

もうとっくにくたびれているのに。

でもがんばらなくちゃ
はやく引っ越したいし
出来ることはやらなくちゃ
などなど
言い訳
言い聞かせ
できると思ったらNGと言ったのは誰だっけ


いますでにある物件に
じぶんをはめこもうとする

ここにこれをこう置いて
こうすればこんなかんじで
だいじょうぶ暮らせる。って

窮屈な現実に
じぶんを押し込めることに
慣れすぎている

なんの苦もなく
抵抗もなく
ふと気づけば
どうすればそこにおさまることができるか?
創意工夫で遊びはじめている

ほらこれで大丈夫。
なんとかなる。って
なんとかできるじぶんに酔ってしまう


まずは文庫を出るのが先決で
まずはとにかく引っ越して
理想のイメージに向かうのはそれから。

そんなふうに思ってしまうけれど
さいしょからイメージに向かったっていい
そこに無理がないのなら。

ただし、いまのわたしでは
なにがどうなったら
無理なくそれに近づけるのか
さっぱりわからない。


わからないだけで
無いとはかぎらない


現実をみればみるほど
理想が叶う道筋はみえなくなる

どこにある?と探しに行くでもなく
さあこい。と待ち構えるでもなく
ただ、ただ、いまに寛ぐ。
イメージを描いて、それが叶った身体に為る。
それを味わう。その状態で居る。
夢の学校でやったこと。
ああ今度、講座の録音をききなおそう。

そこそこの
手の届く
しあわせじゃなくて
もっともっと最大級のラッキーがやってきてもいい

全方位にひらいておく

じぶんをちいさく見積もるな

あきらめなくていいよ
わたしがわたしに言ってやるしかないんだ
わたしがそう言うだけでいい

あきらめなくていい
ふつうじゃなくていい
ありえなくていい

人間ばなれ
どんどんすればいい

そうしてまたいつか「休め記事」のように
なにかがあふれて流れるかもしれない
でもそんなのはおまけでしかない

あきらめるな
せかいをみくびるな
資格も責任も問うな
ただわたしがもっとわたしで在れるように。
在れる可能性から、目をそらさずに。

この夢は、みんなの夢。
旗をかかげるのがわたしの仕事。
ひるむな。嘆くな。胸を張れ。

あなたはだあれ

だれかと話をしていて
ある発言がちっとも
その本人にそぐわない
そう感じることがある

おおくの場合は
世間体だとか
常識だとか
「ふつう」を標榜しているときで

それ本気で言ってるの?と
問いただすこともあるが
本人は本気だと信じていて
なんだかちぐはぐな感じがのこる

わたしが「しっている」そのひとは
そんなちいさな価値観とは無縁で
自由に力強く自分の世界を生きているのだが

目の前にいるそのひとは
横や周りを気にして暮らしているらしい

このちぐはぐ感は
どこからくるのだろう
単にわたしの思い違いなのか?


理由なしに

犬は苦手だ
子どもの頃追いかけられたから
でかいのには確実に勝てないから
まっすぐてらいなく愛を向けられても困惑するから

だれかが慕ってくれることに
困惑することがあるけれども
それに似ている気がする

それを
ただ両手を広げて
受け取れるようになるのが
次の段階には必須なのかもしれない

理由なく求める、と
対になっているのだろう

それらしい理由なく
ただそうしたいから
引っ越しを決めたように

ただそうだから
慕う。ということもある
わたし自身もそんな対象はいる

理由なく求められる
なんて
あやふやであやうい…

などと感じるのは
人間ルールであって

動物レベルならば
それ以上にたしかなことはない

嘘のない
ピュアな衝動
永続はしない
させられないけど
いつも新鮮でユニークだ

なぜそうなのか?
さっぱりわからなくても
とにかくそうであることを
まるっと受け止める
わからなくても信じる
そして取り込む
濾過して
要るものだけをのこす
そのことに罪悪感はいらない

もらえるものはもらう
つかえるものはつかう

ひとは与えることに喜びを感じる

わたしがそうであるように
他者もそうなのだ

自己犠牲の愛「アガペー」のエネルギーを受け取ると、 アーススターチャクラが活性化します。 他者が足元にひれふし、 そしてその人からエッセンシャルオイルを足にぬられ、 さらに髪で足をふかれるような、自己犠牲の愛を受けとると、 なぜか自力を超越した意識の拡大がもたらされます。

「成功している人は、なぜ神社に行くのか? 」八木龍平著


オリンピックの効用(拡大と抵抗の記録)

2/17の朝、ネットで流れてきた
羽生選手のSP動画をみて
ものすごく”上がった”。

不思議なほど
不気味なほど
元気いっぱいになり
なにもないのに
顔がにやけたまま。

前日に横浜美術館で
石内都さんの世界を堪能
わたしが生まれた頃の
わたしが生まれ育った地域の
写真にかこまれ
その日はなにか”あてられた”ように
ぼんやりと過ごし
早々に寝て
二度寝、三度寝と繰り返し
13時間は寝たと思う。

そこからの、SP動画。
引き込まれた。

わたしは対象と同化しやすい。
なぞの元気状態はおそらく
羽生選手や、鑑賞者たちの
心身と意識の状態につながったから。

フリーはリアルタイムで観よう!と
テレビのある実家に向かった。
くいいるようにフリーをみたあとは
新聞記事を読んだり
ネットニュースを渡り歩いたり
動画を繰り返し観たり

よい対象と一体化するのは
気持のよいものだ。

炊事も最低限にして
あえて肉体から意識が半分ぬけたまま
ふわふわと気持ちよさを味わっていた。


明けて、2/18の朝
ぼんやりとした
虚無感があった。

抜けたままだったところに
入り込んできたもの
そんな認識ができたのは
夜になってからで

日中はひたすら
どんより
退屈な
やさぐれた気持ちで過ごした。

自己否定のような
自己嫌悪のような
拗ねのような

自堕落モードに
片足を入れたまま

オットや友人に
やさぐれている!と
アピールしたりして

ああもう死にたい、まで
たどりついたとき
これはつまり
なにかわたしの観念が
崩れ去ろうとしているのだろうと気付き

拡大が起きたための
反動、収縮だろうと見当がついた

かつてはこんなとき
本気で死にたいのかと思ったけれども
今回はまったく感情も感覚も伴わず
ただそんな思考がよぎっただけだったから
そのあまりの自分事ではなさに
一気に冷静に、客観的になり

オリンピックでのメダル獲得
怪我からの再起
そんなドラマに
湧き上がると同時に
無意識下で生じたはずの
ひがみ、ねたみ、さみしさ、恐れ を捉えた

アスリートがみせる
前人未踏の境地
知らしめられた可能性は
まばゆい希望で
ゆえに、観るものの影を濃くする

それだけのことができるという事実
ヒトが内包する力への、漠然とした恐れ


気が付きさえすれば
おのずとほどけていく

抵抗しない
分離しない
肉体を通すことを恐れない

ゆるめて
受け入れて
ひとつになって
じぶんのものにしていく


余談だが
圧倒的な実現力で
オリンピックの魔物を
粒子レベルまで蹴散らし
あまねく取り込んで
力にしてみせた羽生選手に対し

魔物に気がつかない
自分自身への集中力
すべてをそのままに捉える
スルー力のたかさ
宇野選手は次世代、これからのありようを
示しているように思う

願い求め掴み取るドラマとは対照的な
淡々着々とすべてをとらわれなく受け入れ利用し
焦ることなく結果を積み重ねていく方法

後者が優れているということではなく
年齢や立場によって
使い分けることになるのだろう

整体指導ふりかえり

氣道協会の整体指導を
受けるようになってから
7年目になる。

受け始めだけは
週1〜3回を目安に3回
つめて受けることを推奨されたので
そういうふうにした。

受けてすぐなにかが
がらりと変わるとか
重心があきらかにちがうとか
そんなことはなかったと思うが

なにか変化があったのか?
当時の日記を読み返したら

3回目を受けた翌日に
なーんだわたしの身体、
妊娠できないわけじゃなかったのかー
と、拍子抜けしたことが書いてあった。

ちょうど子宮頸がん検診も受けて
12年前だかに診断されたPCOSについてきいたら
妊娠に影響するような状態ではない
機能的には問題ないとも言われ

整体でもおそらく
妊娠の可能性について
質問したのだろう
そして大丈夫でしょうと言われたのだろう

あいまって、ようやく、安心したのだった。

当時、じぶんの身体機能に対して
むやみに深刻に
シリアスに
悲観的になっていたのだ。

それが抜けるきっかけになったのだな。

そうして力が抜けたからといって
現在までに妊娠はしていないし
これからもするかどうかはわからないが

不妊をきっかけに
いまのこの、ふんわりと気持ちのいい身体へ
行き着いたのだから
もうあとはどうでもいいな。

整体という状態

はじまりそうで
はじまらずにいた生理が
今朝すこーんと始まり

目や頭をあまり使わずに過ごしたいので
さっきまで煮込み料理の仕込みをしていた。
ひき肉狙いの猫をよけながら。笑

ようやくひといきついて座ったら
なんだかたいへん気持ちがいい。

身体の響き。
エナジーがコンコンと湧いてくるような。

3日前に整体指導を受けてから
そんなかんじが続いている。

みなぎる!というのでもなく
こんこんと湧いては、放たれるがまま。

眠りに落ちる寸前の状態が
ずっと続いているような
ふんわりほんわり。

はるだなあ。

はるのからだ というかんじがする。

整体 というのは本来
ぼきぼきぐいぐいやる施術のことではなく
整った体のことをいう。

まっすぐでゆらがないのではなく
のびやかにしなやかに
変わり続ける体。

いのちのちからとともにあるからだ。

立春から春分までは
ちょうど芽吹き前のような
ゆめがたくさんつまったような
そんなふうであれたらいい。

仙骨〜骨盤から
じゅわじゅわと
水が染み出してくるみたい。

花ひらくまえから
香りはじめるつぼみは
こんなかんじだろうか。

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