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2018年7月の記事

バーズと整体とボディプロセス

かなり有用なツールとして
アクセスバーズを
愛用しているけれども

整体の知識や情報も
わたしにとっては欠かせない

もとより、整体に触れていなかったら
バーズには手を出さないか
あるいは続けていなかっただろう

体と心と意識と思考
これらの相互関連をふまえて

アクセスバーズは
整体では時間がかかることや
施術者の腕に依っている部分に
アプローチすることができる
(あくまでも私見です)

どちらにも得意な領域があり
どちらかに偏ることなく
その都度、便利な方をつかえば良い
個々人レベルでの適性もあるだろう

そんな前提があるからか
肉体のことは
肉体や氣のレベルで
扱うほうがしっくりきていたが

春の改訂でバーズに含まれたボディプロセスは
なるほどたしかに、整体とはちがう
バーズともちがう切り込み方のように思う

目的(ターゲット)にむけて
ピンポイントで
ボディをプロセスさせる

肉体や意識レベルでのアプローチにはない
抜け道、ショートカット、ワープ感

意識だけでなく
無意識も超えて
もっとおおきなデザインへと同期させる。
どこにも無理のないやり方で。

そのデザインがみえている必要も
現状を把握する必要もない。
これがエネルギーワークの良さだ

肉体への遠慮
肉体への不信
肉体との不調和

それが「ない」状態を呼び出す。
そのエネルギーを思い出させる。

許可さえあれば
肉体はそう機能し始める

心の落ち込みの仕組みとケア

なにかの出来事で
心が落ち込んだとする

一般的には
出来事のせいで
落ち込んだ、と考える

しかし仕組みからいえば
落ち込んでいるほうが先で
その出来事によって
落ち込みに気がついただけのこと

落ち込んでいるというのは
心身に張りがない状態や
どこかが緊張していたりする状態であり

そうした心身でいると
いつもなら(本来なら)
流せることや
笑い飛ばせる出来事に
かなしくなったり
怒りがわいたり
落ち込んだりする

だから、落ち込んだときには
「ニュートラルではないじぶん」に気づいて
適切なケアをしてあげればよい

じゅうぶんに休むとか
アロマや音楽やお風呂
適度な運動、ストレッチ
映画や小説に没頭するとか

内感愉氣ができればかなり話が早い

気持ちがふさいでしまって
そうしたことに取り組めない場合には
ヒーリングやエネルギーワークも有効

古傷があったり
常態化している場合には
一筋縄ではいかないけれど

飽かず嘆かず
その都度ケアしていくだけ

いつも同じように思えても
かならず、変化は起きている

とある考察

レイプ願望 というものについて
思いを巡らせている

男性向けコンテンツの
定番ともいえるシチュエーション

女性の肉体はたしかに
興奮した状態になるのかもしれない

けれど、だからといって
その状況をよろこんでいるわけでも
望んでいるわけでもない、かもしれない

単純に脳の構造的に
興奮する物質が
生成されてしまうから
肉体はそういう反応をみせるだけ

しかしその反応に
だれよりも女性自身が惑わされ
興奮しているのだ
快楽なのだ
そんなふうに
勘違いしやすいのかもしれない


10数年ぶりの火星の最接近
攻撃性、生き残り、勝ち残り、弱肉強食
(参考 https://ameblo.jp/soul-lovers-connect/entry-12393354066.html)


女性のうちにある
みずからへの攻撃性、自滅願望と
性交渉はリンクしやすいように思う

吊り橋効果がいわれるように
生命の危機と性的興奮は近いのだと思う

安直な興奮
安直な快楽

・・・動物的な、という表現もできるかもしれないが
実際のところそれは動物に失礼だろう
動物にはそうした「快楽を貪る余裕」は
ないことがほとんどだろうと思われる・・・余談。

そうした快楽を求めることの是非ではなく
ヒト本来の方向性について、考えている


仏教の修行では
殺生も性交渉も禁じられる

飲食や性といった
快楽にむかいたがるエネルギーを
自己をたかめる方へ向ける

男性のうちにある
女性性エネルギーの飼い慣らし


女性のうちにある
男性性エネルギーは
どのように飼い慣らせるのか

他者へ向けず
他者を使わず
自分を駆り立てることに使うのだろうか

パートナーに委託していることが
多いのかもしれない
内助の功のように

海中にいるように

海でのほっとするかんじと
実母と一緒にいると緊張するかんじは
表裏一体なのだと思う。

母への緊張というのは
母のキャラクターがどうこうではなく
単純に、母=外界の象徴であり
生まれてすぐの頃の
緊張を思い出すのかもしれない。
海中=胎内なのだろう。

あの、海中でゆるむような感覚を
日常にも、持ち込めるのだろうか?

そんな流れのなかで
参加することにしてしまった
何年もずっと気になってたWSが
きっかけとなるのだろうか?

海中、胎内、海王星、無意識
アルコール依存、酔いどれ、一体感
じぶんを壊したい、じぶんをなくしたい

その先にあるのはどんな世界だろう?

なぜこんなにも

わたしの生まれ育った家庭は
とくになんのトラブルもなかった

多くの家庭がそうであるように
父親が仕事で不在がちなうえ
実母の手助けもなく
年子をひとりで育てたとか

農家や大工の両親をみてきた二人にとって
サラリーマン家庭というのは
未知の世界だったとか

そういうことはあるけれども
とりたてて言及するような
わかりやすいトラブルはなかった

家庭だけじゃなく
生育環境も
学生時代の経験もやはり
とりたてて言及するようなことはない

にもかかわらず

海からあがりたくないとか
足がつかないとホッとするというのは
まるで現実世界を生きたくないひとのようで

これはいったい
どこからくる感覚なのだろうかと
ときどき不思議におもう

母と居る時の緊張感にも
わかりやすい原因は見当たらず

アドラーがいうように
すべての出来事に
目的があるのだとしたら
これらはわたしになにを体験させようとしているのだろう

地に足をつけない方法

海に入っていて
足が届かないところに行くと
ほっとする

ということを
いまさらながらに
自覚した

ふつうは逆だろう

なぜほっとするのか
安直に考えれば

「地に足がついてないから」

自由になる感じがする
ヒトをやらなくていい感じがする
ひとつになれる感じがする

もしこの見立てがほんとうなら
さぞかし人間社会は
生きづらかっただろうなあと
他人事のように思っている

ちょっと、ぞっとするほどの、冥い痛み


わたしの足の裏の皮膚が
ぼろぼろになったのは
10歳を過ぎた頃からか
中学に入ってからだったか
覚えていないが
それ以来ずっとぼろぼろで

視力がおちたのも
同じ頃だったかなあ

地に足をつけず
なにも直視せず
それがわたしの望み
なのかもしれないし
まったく見当違いかもしれない

意識と肉体

瞑想で
意識を
深くしずめたり

イメージングで
広く遠く拡大させたり
するときに

大事なのは
肉体への信頼だ

そのように意識をフルにつかうと
肉体とのバランスが崩れるから

肉体に戻る術だとか
肉体から抜け出さない術だとか

通常のバランスに戻るためのツールを
使いこなせているかどうかで

意識を使いこなす度合も変わる

効率の良い
じぶんにあった
意識の使い方を探究するより

現実世界を生きるじぶんへの
信頼や、熱意を深め
満たされるようにすることで
おのずと、意識はよりパワフルに使えるようになる

深く広く根を張りさえすれば
高く多く枝葉はしげっていく

じぶんのかたちに
じぶんのペースで

自意識(心の学校その9)

わたしが
わたしに
条件を課していた

これができるから
こういう特性があるから
だから
ここにいていい
生きていていい

その条件としていた
意識の使いようを「やめる」
ということを
実現できたのが
去年末の、心の学校(風の学校3日目)

じぶんが
じぶんであることを
手放すかのような

文字通り
自意識 というものを
オフにする体験

あのときの
おそれ
かなしみ
さみしさ

そして静寂

憑き物が落ちたかのようだった

友人が夏の、お盆の、京都での!
心の学校に参加するときいて
過去記事を読み返していたら
あの瞬間の体感が戻ってきたので、メモとして。


話しは変わって
昨日のこと

自宅でひまを持て余して
外壁工事中で瞑想もしづらくて
暑くて外にも出かけたくなくて

オットがいるアトリエ部屋に
なにをするでもなく入ったら

座布団が目にとまって
そのまま無言でぱたりと
うつぶせになった

一瞬の間のあと
オットが
なにそれ。
シュールすぎる!と

たしかに・・・
客観的になったら
ものすごくおかしくなり
涙をながして笑い転げた

オットいわく
自給自足。
そんなにひまなのか!
キミがそんなことをできるようになるとは・・・
いいような、ダメなような、複雑な気分・・・

「そんなこと」というのは
オットの目を気にすることなく
じぶんへの目線もない

つまり夢遊病のような
無意識と一体化したような

自意識のない状態で
行動することを指していて

そう、わたしにはそんなことはできなかった。
酒に酔っているのでもなければ
寝ぼけているのでもない状態で
そんなことはできなかったのだ。

40年以上生きてきて
まだみたことのない自分がいるというのは
まったくオモシロイものだ・・・


=====
心の学校について:
特定非営利活動法人 氣道協会 
http://npo-kido.com/


バーズで世界観を語る

アクセスバーズを通じて
フラットで滋味深い世界の感覚を
たくさんのひとに体験してほしい。

そこへ移行する術として
バーズを始めいろんなツールを
日常使いしてほしい。

その先にわたしが見たい世界がある。
そのためのバーズ。

収入になるならないとか
自分のところで受けてほしいとか
まったくどうでもいい。

バーズについて語ることは
じぶんの世界観を語ること。
それだけで楽しい。

わたし個人の世界観をただ言葉にするより
ずっとやりやすく、伝わりやすい。

それでバーズ全体の広報にまで
つながるなら万々歳だ。

ああこれのことか。

石井ゆかりさんの星読み週報に

だれかからの働きかけがマッサージのように作用し、
あなたの中に隠れている「凝った」部分を
探し当ててくれるのです。

と、あって
なんだろうなあと
ぼんやり思いながら
ぐーたら過ごしていたら
友達のブログ記事に行き着いた

家族の形
https://ameblo.jp/hagoromo321/entry-12390654838.html

そしてこの言葉に胸をうたれた

「大丈夫。
 意外と早く変わるよ。」

今朝。話の流れ上
だからこそバーズなんだよ!
みんな遊ぶとこはそこじゃないんだよ!
そうやって息巻いたばかりで

ああ暑苦しいなあと
じぶんを見遣っていたのだが

暑苦しさの根っこには
たいてい、かなしみがある

ああそうだった

地震
豪雨
政治

だいじょうぶなの?
間に合うの?
できることは?

わたしはほんとうに
やるべきことを
ちゃんと、やれている?

そんなふうに
思っていたんだ

やりたいことで稼ぐ難しさ

やりたいこと
心が求めていること
やりがい
よろこび
そうしたものを
「生活の糧を得る仕事」に求める
そんなひとは多いと思うが
叶わないことのほうが多い

それならばまずは
片手で出来るような
じぶんにとって苦ではない
つまりさしてたのしくもない
そんな「仕事」を見つけて
「生活の糧」をしっかり得て
余力で「やりたいこと」
「満足」が得られる
趣味なり、副業なり、地域活動なりする
そういう順番のほうが
確実に物事が進められる
心身の安定も得られる

今更あらためて書くようなことでもないのだが
なぜ書いているかといえば
「やりたいこと」について
ごまかしがきかなくなってきているからだ

以前ならば
「生活があるから」
「これで暮らさなければ」
そうした理由を含めて
仕事の対価を決めることができたが
それが通用しなくなっている

じぶん自身に対して
嘘がつけなくなってきている

ほんとうは
そんなに対価はいらない
あるいは
ほんとうは
対価を得てもやりたくない
そういうことは
もうできないのだ

もしやろうものなら
まったく努力が報われない
身体が悲鳴をあげる
周囲でトラブルが頻発する

そうしたことは
以前からあったけれども
より顕著に、明確になってきている

やりたいことで生活の糧が得られる可能性は
だれにとっても、ゼロではない。決して。
けれども、役割だとかタイミングだとか
いろいろな要素が絡んでいるから
力技でなし得ることは難しい。

それは、結果、もたらされるものであって
目指すべきことではないのだ。

もしいま「やりたいことで稼いでいる」
そう見えるひとがいたとしても
それが本当にやりたいことなのか
あるいは最初からそれを目指したのか
現時点では傍目にはわからない。

夢をみながら現実生活はきちんとまわす。
その力をつけるよう促されているのが
ここから数年の季節なのだろう。

すきなところ

海であそぶことの
なにがそんなに好きかといえば
遠慮がいらないところだ

全力で殴っても
全身でぶつかっても
なんてことはない

波がつぎつぎやってくる
ひとつとして同じではない
わたしひとり簡単に呑み込んでいく

最大の哺乳類
シロナガスクジラが
何万頭も泳ぐ
そんな広大なスペースに
つながっている


海の中にいるときのほうが
そのまんまのじぶんだとおもう

そのまんまのじぶんだと
地上で
日本社会で
暮らすには不適合なことも
よくわかっていて

あんまり頻繁に
海にはいると
元気になりすぎて
日常に支障を来たすから

海から出たくなくて
日焼けしすぎて火傷になって
背中が真っ赤に腫れたことも

両脚の皮膚が硬化して歩けず
車椅子のお世話になったこともあるから

たまのおたのしみに
とどめてきた

けれども

体力がおちついてきて
陸の暮らしもわりとたのしくて

わたし好みの
砂地の、広々した、波のある海まで
徒歩30分という距離感

(岩場でのシュノーケリングは別腹!)

いまならば
いまだから
本気であそべるのかも

(そしてすぐ飽きるのかも)

(それもまたよし)


とことん
与えてあげようとおもう

海であそぶたのしみを
海との対話を

焦がれていたものを
じぶんに、与えようとおもう

 
ちなみに
スキューバダイビングは
やらないことにしている

ただでさえ陸にあがりたくないのに
それをボンベに左右されるのが
我慢ならないから!


相手の気を「うける」ということ

ボディワークや
ヒーリングをする側が
受けているひとの
重たいエネルギーを
「うけて」しまい
最中や終わったあとに
調子が悪くなる

というような現象がある。

これについての
私見としては
現象の実態は2種類あって
ひとつは「同情したことによる」もの
もうひとつは「共感・共鳴したことによる」もの

これらは厳密に分けられるものではなく
入り混じることがほとんどだろうけれども


相手の感情や体験への「同情」によるものは
「同情しない」ことでだいぶ減らせるはずである

話を聞いたり
体に触れ、エネルギー状態を知っても
それについて思い入れないということ

アクセスバーズでは相手の話を聞いたり
状態を把握する必要性がないため
思い入れが少なくて済む


もうひとつの「共感・共鳴」によるものは
じぶんの状態を整えておいたり
じぶんの状態を知っておくことで
残響をある程度は減らせると思うが
完全になくすのは難しいだろう

「共感・共鳴」こそが
施術のキモだから

なにかが響いたなら
じぶんのうちにあるものが
相手のそれに反応したということ
影響が長く残るならば
自分ごととして対処するだけである

その点アクセスバーズは
やる側も、受ける側とおなじ電荷があれば
いっしょに放たれると明言されているのが
あたらしいし、わかりやすい

物事をドラマチックにしすぎない

てごたえ、やりがい、わくわく
そうしたかんじを
指標に進む時期もあれば

「嫌でなければ」
「却下する理由がなければ」
来るもの拒まず乗ってみる
そんな時期もある

なんにも起こらないかもしれないし
思いがけない場所にいけるかもしれない

起きることや体験に
深い理由も意味もなくて

動くきっかけとして
使えばいいだけなのだ

それでうまくいかなくても
おもしろいことにならなくても
うまくいかなかった、という体験をしただけ
経験値が増えただけ


流れにまかせすぎない

こうなったということは、これでいい/違う

ワクワクするから、こっち!/ピンとこなから、保留。

それが起きるなら、そっち/このままなら、取りやめ

というような物事の判断基準を
ここ数年は意識的に採用してきた。

アタマで考えて、計算して、
どれが効率的か?
どうすれば損しないか?
そんな基準を採用していた時期が
もともとかなり長いので

流れに委ねるような
流れを重視するようなことは
最初のうちは落ち着かなかったが
最近ではすっかり板についている

板につきすぎて
流れがみえないときには
動かないまま、安住してしまいがちになった

もういまの状況に飽きているのに
直感がこないから、動けない、動かない。

ことしの引っ越しは
そんな傾向をぐいぐいと
軌道修正されるプロセスだった

いまもなにかといってはつい
流れ待ちで安穏としてしまうが

本来なにを選んでも良いのだから
飽きているのなら
なんの根拠もなく
直感すらなく
なんなら損得基準で
決めて、変えて、動けばよい。

失敗も遠回りも
手抜きも頑張りも
なんでもやればいい。

状況が動かないなら、じぶんが動き出せばいい。

誰への遠慮も配慮もなく
なにも説明できないとしても
「これにする」と決めればいい。

子どもなら誰だって
やっていたことを
大人はすぐに忘れるのだ。

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