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死生観

生きるのも
死ぬのも
"わたし"の範疇ではない

いつ生まれ
いつ死ぬのか
それについて責はない

このことを受け入れたのが
いつなんのことか覚えてないけれど

これがわたしの通奏低音で
それが聞こえるようになってから
おかげでとても安心していられる

どう生きるか
どう暮らすか
そこには自由意思もある
欲をだしても、ださなくてもいい

ただ、どう頑張っても
なにを気をつけても
生死には関与できない

しているように見える場合も
多々あるだろうが
本質的には、変わっていないだろう

一年草が花をつけ種を散らし枯れるように
常緑樹がいつも葉を繁らせるように

そこには自然の摂理があり
良いも悪いもなく
ただ、そうあるだけ

命に関わるときには
三脈が乱れ
死の4日前には
腹部に硬結が生じる
それが事故であれ、病であれ

野口先生の経験に基づく
身体を通じて現れる未来

そこに"わたし"は関与しない、できない

なんとありがたいことだろうと思う

"わたし"はただ
十全と生きることだけ
考えればいいのだ

生きるときならば生かされて
終わるべきときには終わる

終わりそうに思えても
終わらないならば
まだ生きるときだということ

まだ生きそうなのに終わるのは
遺されるものには辛いが
それもまた、いのちのはたらき

消えることで
投げかけうる波紋

ちいさな"わたし"には
思いもつかない
おおきな、おおきな、流れへと

===

こういうことを
死の間際に本当に思えるのか?
問われたら、自信はない。

この記事をあげる前に
オットに読んでもらった
嘘があったらいやだから

結婚前の20代前半から
こういう感じだった
実家の家族みんなこんな感じ、との評

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