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さみしさを自覚する

「母であること/子がいること」への
こだわりがとても根強くて

そうでない自分を卑下しがちで
どうしても抜けなかった

その根底にあったのは
さみしさ だった


自分がさみしさに翻弄されていることには
気づいていたけれど

子どもがいないせいでさみしいのだと
思っていたかったらしい

子どもがいれば
このさみしさがなくなるか
せめて共有ができるんじゃないかって
どこかで期待していたのだ

そんなわけないのに

そんなわけないことは
重々わかっているのに

下手に通じ合いやすければ
尚更、さみしさが際立つだけだと
とっくに味わっているくせに

我が子ならばもしや、と
一縷の望みを持っていたようだ


翻せばつまり
それだけ、さみしさがあるということ
さみしさを感じているということ

そのことに気づけてよかった。
そして、そんな望みを持ったまま
子どもを持つことがなくてよかった。

ゆきちゃんの魂はこの世界に存在する
全ての悲しみを心から抱きしめる術を
私に問うていたのです。

https://ameblo.jp/ranaki/entry-11393932180.html

 

この”さみしさ”こそが
どうやらその”術”なのだと
ふと、わかった。


さみしさとは
環境とか、与えられたものとかに
依るものではなく

ただ、さみしいだけ。

そしてそれは
やさしさや思いやりのタネになる。


いのちが、かたちをもって、
この世界に存在していること。

それだけで尊さに泣けてくるのは
それがどれほどのしんどさを併せ持つのか
身をもってわかるから。
 

さみしさは、その実感と、表裏一体なのだ。


 

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