カテゴリー「心と体」の記事

損得のスケールを変える

なんか損してる!と感じたときは
スケールを変える時。

目先の報酬だとか
見返りだとかよりも
もっとおおきな視点に切り替える。

誰も評価してくれなくても
自分が自分を認めていれば
それは、世界からかえってくる。

電車の乗り換えがスムーズに行くとか
欲しかったものをプレゼントされるとか

なんらかのかたちで
かならず還元される。

心の前提を書き換えた話

前記事「相手という鏡にうつるのは

家族やパートナーの言動を
みずからの無意識を反映したもの
「自分で気づいていない自分」を知る糸口とするのは

自分のもつ前提を知り
書き換える方法としては
少々荒っぽい、力づくのやり方かもしれない。

自然なプロセスにまかせるなかで
鏡だ、と心底から感じて
それを信じる(確信できる)ようになるのが
理想形なのかもしれない。


わたしが自分に課したのは
出来事や相手の言動に反応したら
その感情のケアとは別に
鏡だとしたら? という視点で見直すこと。
(これはいわゆる内観なんだろうか)

この方法のいいところは
日常のなかで
自力で
コツコツ続けることで
確実に着実に変わっていけること。
手応えと達成感がある。
慣れてくれば謎解き感覚になる。

本心と自分がズレている状態にも
気がつきやすくなってきて
あたまごなしに却下したくなったり
からだがこわばったり、重くなったり
「それでも大丈夫。できそう。」などと
どうすればいいか?を探しだしたり
損得を考えだしたら
だいたい、ズレていると思う。

ヒーリングやエネルギーワーク
アロマやボディワークを併用すると
それに向き合う抵抗を減らしたり
気づきを早めてくれたり
さらなるヒントがもたらされたりする。


自分がなにに反応しているのか
なにを望んでいるのか
どんな観念を持っているのか
気がつくだけで

あえて書き換えずとも
それはおのずとほどけて、変化して、
自然にかえっていくものだと
だんだんわかってくる。

自然体の自分
本来の自分
自然治癒力のようなもの
いのちのながれ
ひいては自分を取り囲む
他人や世界そのものへの信頼感も増してくる。

すべてを利用し
すべてを自己へと還元し
そのことで、世界へ寄与していけることを
体感することにもなるだろう。

コントロールも
自己犠牲もない
ニュートラルなつながりは
これからの時代の基礎となるように思う。


宿題のこと(心の学校その7)

氣道協会 心の学校(中等)は
申し込むと、じきに、宿題が送られてくる。

講座までに、講座期間中にも、
出来るだけ進めておくと
講座がより充実した体験になる。
ということだったが
そしてそれはその通りだったのだが

驚いたのは
それらの宿題は
講座に提出も持参もしないのだった。

やっているか?困っていないか?聞かれはするが
あくまでも自主性に任せられていて
講座はおもに
宿題=セルフワークのキモとなる
「意識のつかいかた」の基礎訓練だった。
ワークがより深まるように
日常ですぐに気楽に使えるように
集中度や精度をあげていく。

このスタイルは
はじめて経験したが
とても合理的だと思う。
権威的な感じもない。

何十回と繰り返され
洗練されてきた講座の
完成度の高さを感じた。

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相手という鏡にうつるのは

愛したい。のホントのとこ」で
男性が叶えようとするのは
女性の「無意識の願い」だと書いた。

家族やパートナーなど
身近な存在には
「じぶんの無意識」が表れやすい。


たとえば
お菓子を食べているときに
「食べ過ぎだからやめろ」と家族に言われる。

そのまま素直に聞いたうえで
やめるなり、食べ続けるなりできる場合には
発言者の問題(なんらかの観念に基づく介入)かもしれない。

わかってる!と反発したなら
内心「食べ過ぎかな・・・」と感じている
じぶんの一部を、相手が代弁しているかもしれない。


家族がしつこく言ってくる忠告は
自分がないがしろにしている
自分の願望だったりする。

お菓子の例でいえば
こころゆくまで食べたい気持ちと
健康に配慮して節制したい気持ちは
どちらも持っているものだ。

両方に自覚的であるならば
どちらでも選べば良いが
どちらかを見落としていたり
あえてないがしろにしているのなら
一考する価値はある。


同様に、家族から投げかけられる
まったく思いがけない見解も
じぶんの無意識を知る助けとなる。

お菓子をそんなに食べるってことは
なにか不満があるんじゃないのか。
などと言われたとする。

そんなことはない!と
反射的に、本心から、思ったとしても
よくよくじぶんの内側を探してみると
不満が見つかったりするのだ。


身近な相手のことを
自分をコントロールしてくる人間だとか
頼りにならない人間だとか
理解のない人間だとか
「自分の味方ではない」と感じていると
相手の言動は、妨げにしかならない。

そうした「相手への観念」は横に置いて
「自分の無意識を表す(かもしれない)鏡」
タロットやオラクルカードのような存在として
相手の言動を、利用してみる。

自分が気がついていない自分の願望、欲求
自分が見落としている可能性
そのように扱い
精査し
取り込むことで
自分の幅が広がっていく。
自分への理解が深まる。

相手の言動を
「相手との関係性」ではなく
「自分と、自分の無意識の関係性」を
深める材料として使う。


相手の言動に
感情的に
反射的に
応じているあいだは

もたらされている
新たな可能性に対して
閉じているといえる。

たんなる「情報」として
フラットに扱うことができれば
選択肢が増える。


他者という鏡を使って
「未知の自分」を見つめ
受け入れていくのは
簡単なことではない

ずるい自分
よわい自分
みっともない自分
いろいろ出てくるけれども

「気づいていない自分」への
理解を深めようとする姿勢は
「自己信頼」へとつながっていく。

他者や出来事へ反応が起きたときに
自分の内面をしっかり見る

なにがあるのか
なにが起きているのか
なにを求めているのか
しっかりケアする

それをコツコツ続けることは
自分自身への本気のコミットのあらわれであり
最上の自己愛のかたちなのかもしれない。

そうして癒され
満たされていくことで
他者の存在を使って
自分を満たす必要がなくなり

コントロールしたり
されたりという関係性は
生じにくくなる。

コントロール/複雑な関係性

今日も友人のブログから。

他人になにかお願いするときに
気遣いが過ぎて
コントロールが生じてしまう話。

https://ameblo.jp/eisei-boro/entry-12345466728.html

具体例の会話がたいへんわかりやすいので
ぜひ原文を読んでほしい。


このなかでさらりと出てくる

「コントロールの場にのらない」

じぶんからコントロールを生まないのも大事だが
相手のそれに乗らないのも、ほんとうに大事だ。

需要がなくなれば供給は途絶える。


コントロールする側は
無意識のことが多い。悪意もない。
家族由来のパターン、慣習、本人のもつ傷などから
自動的に行われる。

相手の罪悪感や情を
刺激することで成り立つ
取引的な関係。

優位であろうとして
関心を得続けようとして
関係性を維持しようとして
それは繰り返される。


コントロールされる側は
恐れや怯えから
その関係性に留まるけれども
傷つき、苦しみ、つらさを感じる立場ゆえ
なんとかしようともがくなかで
その関係性、からくりに、気づきやすい。

奪い奪われる関係性に気がついたのなら
相手が変わることや
奇跡が起きることを待たずに
自己憐憫や
被害者意識にとどまらずに
みずから、その場を抜けたほうがいい。

物理的に離れることや
精神的に境界線を保つこと

相手の求めに応じないこと
相手の問題を切り離すこと


そうしたことが
わかっていながらも
出来なかったり
繰り返している場合には

相手のやり方をゆるすことや
相手の支配下にいることで
相手より上に立とうとしている可能性がある。

そうした言動を
無意識にとり続ける相手を
かわいそうなひと、
不器用なひと、などと
下に見ていられる。

表面上の関係性では
コントロールされる側だけれども
意識的には優位なのだ。

負けてあげる、という勝ち方。


いずれにしても
どちらにとっても
「関係性を変えないこと」が
最優先されている状態といえる。


わたし自身、コントロールする側だったことも
される側だったこともあるが
(正確には、そう思っていたことがある、ということ。)

相手のことを「相手」だと思わず
「自分の一部」だと捉えることで
このからくりに、はまりにくくなった。

次の記事にする。

瞑想で時間密度があがる

この数日、猫のエサコールを受けながら
布団を出よう。と決めて、出ると
だいたい目覚ましより20分ほど早いので
自働運動と呼吸法と瞑想を
さらっと、やっている。

そうすると不思議なことに
時間がたっぷりある感覚になり
弁当つくりながら洗濯して干して
それでも余裕。バタバタしない。

たった15分、自分につながるだけで
あとの時間密度がこんなに違うとは。

忙しいひとほど
瞑想の時間をとるといい。と
どこかで聞いたことがあったが、
なるほどこういうことなのだ。

わたしの場合は
やることやりたいこと自体は
そう多くないから
一般的にいえば忙しくないため
時間密度をあげる必要性はないのだが

時間があるならあるで
瞑想でもして
ほけーっとシアワセにしていたらいいので
密度があがっても一向に構わない。

以前ならば、退屈で困っただろう。

この数年で、ヒマと退屈のつぶしかたは
ずいぶんと上達したものの
(各種とりそろえている)
それでも、どうしても、
ヒマと元気を持て余すことがあり

それゆえに、他人がやればいいことを
気安く請け負ったりもしたし
問題をつくりだしていたことも
あっただろうと思う。

ヒマだから
やれば出来るから
得意だから
苦にならないから
そんな理由をつけて
やっていたことがたくさんある。

もうそんな理由で動かなくてもいいのだ。

満たさないメリット

じぶんで出来ないこと
無理なこと
やらずにいたいこと

それらをやらないでいたら

誰かにやってもらえる
かまってもらえる
気にかけてもらえる
特別扱いしてもらえる

そんな経験をしたら
そんな出来事を見たら
そりゃあ、やらずに済ませたくなる


だれかに気にかけてもらうのは
子どもにとって死活問題
手段は選ばない

子どもが風邪をひくのは
親の注意をひきたいとき
(愉氣を欲しているとき)
そんなふうにも言われている

もちろんここには双方の意向があり
気にかけてもらおうとするのは
だれか(保護者等)の潜在的な
気にかけたい(世話したい)気持ちに
応えようとしているところもあるだろう。


いずれにしてもこれはあくまで
「子ども」の話なのだが

欠けた状態を保つことで
他に満たしてもらおうとする
子ども時代の習性が
無意識に入っていると
大人になっても繰り返す。無意識に。

あえて、じぶんでじぶんを満たさない。
だれかの助けありきなじぶんでいる。

被害者意識、無力感
病気、怪我、事故
無知で通す姿勢
お金に困る状態 等々
(言わずもがなこうした事象のすべてが
他者の気をひくためではない)


やってもらうこと
かまってもらうこと
気にかけてもらうことで

自己価値をはかり、安心する
じぶんの存在意義を、他者に委ねている

他者ありきの、その土台は
どんなに堅固にみえても
なんど塗り重ねたとしても
脆弱性から逃れられないことを
本人の真実は、知っている


体感する愉氣温度(心の学校その6)

内感愉氣のペアワークにて

相手へ向ける愉氣は
天心(クリア、空)よりも

幸福感でほがらかに笑っている
そんな状態をつくって向けたほうが

愉氣の質としては粗いけれども
相手への響きかたは強く
わかりやすいため、効果的。

というような話があり

わたしが愉氣を受けている側で
相手が愉氣をしてくれている側だったときに

ちょうどインストラクターが
「はい、笑ってー!」などと言ってまわってきて
相手はたまらず吹き出した

瞬間
目をつむっていたわたしは
温度が変わったのがわかった。はっきりと。

向けられている愉氣が
マイナスイオン(どちらかといえばひんやり)から
遠赤外線(あたたたかい)に変わった。

そして、あたたかさがあるほうが
受け取りやすいというか
受け取っている実感があり
エンパワメントされるのだった。

このことは今後
対人援助的な場面において
ものすごくおおきな指針となるだろう。


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お節介気質と身体意識(心の学校その5)

心の学校の何日目だったか
内感愉氣のペアワーク実習のおしまいに
相手に向けていた愉氣を
じぶんに向けて。という誘導があり

じぶんに向けた途端に
ワタシが、わたしに、
ぐいぐいと手を差し出して
引き上げようとしているのを、捉えた。

びっくりした。

相手に向けているときは
両手をひろげて
ゆったり構えているような
ただただ、微笑ましく見ているような
そんな感じだったはずなのに

じぶんに対しては
なんとお節介きわまりない!

マインドから身体意識への介入とでもいおうか。

もちろん良かれと思ってのことで
反射的に手を伸ばしているだけなのだが。


子供の頃から
結婚してからも
ときに煩わしかった
実母の介入

小学校で一部男子たちから
「お節介!」と揶揄されたことも

オットに対しての
母親的、保護者的にスタンスも

その母を見習って
親愛の表現として
身につけたがゆえだと
考えていた時期もあったが

母すらもわたしの一部なのだとしたら
わたしのなかに種があるのだろうと
薄々思ってはいた。とはいえ

あんなにくっきりと
見つけられたのは
いまだに驚きである。
(それだけ鎮まっていたということ。)


見つけただけで
それに対して
なにをしたわけでもない。

自覚できた、気がついた、というのは
すでに、プロセスなので
いまはそれで良いと思っている。


そして学校がおわってから
2週間弱のここまでに
インナーチャイルド的な反応が
じぶんから起こって、戸惑うことが何回かあった。

これまでのわたしならば珍しいくらいの
感情的な、ヒステリックな反応。

気がついたおかげなのか・・

山羊座時代が癒されたので
それより前、0〜7才の月の年齢域のじぶんが
出て来やすいのかもしれない。
ほとんど記憶のない時代。


感情が根底から動いたり
奥底から湧いた欲求を表現することは
これまで、ほんとうに、めったになくて

ときどきなにかの拍子に出てくると
マインドはびっくりして停止するし
身体はすぐに休みたがる感じだった。寝落ちしたり。

友人にお願いしていた
ことしの年間予報(占い)に
月(moon)がよく出てきたというのは
このあたりと無縁ではないのだろう。


ところでこのペアワークのときに
愉氣の質の違いを肌で感じたことがあった。
次の記事にする。


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他人の痛み

午後、急に左肩が痛くなった。
寝違えたような
肩甲骨から首へとつらなる痛み。

アクセス式に「これ誰の?」で
お返ししてみても軽減しないので
自動運動をする。
あまり変わらない。

身体からのメッセージをチェック。
左半身の痛み: 
  他人のエネルギーによって起こる痛み。
  母親と自分の間に何らかの問題があるために、起こる痛み。
  身近な相手や、母親の痛みを感じている。
左肩こり:
  自分以外のものを背負い込んでいる可能性が高い
  相手が、三次元レベルの存在でない可能性もある

合点がいって
瞑想の体勢を整え
まずじぶんをクリアにし
次に、母親へ遠隔。
天心ではなく
あかるい愉氣を心がける。

だいぶ痛みが軽くなった。

年末年始、実家には妹が長期滞在していて
母はいつものペースで暮らせていないし
うれしいのと、張り切りすぎなのと、
まあとにかく疲れが出る頃合いだろう。

もともと今日の午後は
実家でPC作業をしようと思っていたのだが
自宅でもできることに気がつき
オットが寝込んでいることもあって
自宅で作業をしていたら
どんどん肩が痛くなってきたのだった。

PC作業による目の疲れと、姿勢からの
肩こりを起因とする痛みにしては
あまりにも主張が激しかったので
外因を疑った次第。

ちなみに母は左利きで
寒さと疲れから
よく肩をすくめている。
大晦日の時点で
マッサージ機も使っていたが
それでは追いつかないのだろうなあ。

そして母の痛みに
思いを馳せ
同調しているかもしれない
じぶんの状態をまず
整えることだなあ。

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