カテゴリー「心と体」の記事

理解トラウマ

こどものころに
両親の離婚を経験していたり

両親や家族からの
ネグレクトや罵詈雑言など

体験してきたひとに
共通する傾向として

「じぶんにはわからない」という思い込みが
ベースに織り込まれている可能性。

だから他人を理解しようとしすぎるし、
わからないとじぶんを責めてしまう。

他人の言葉をスルーできないから、
じぶんの内側に答えを探す方向に行きづらい。

家族=最初に接する他者を「理解できない」
ひいては「安全ではない」という前提は、
そのまま他者、とくに当時の親と同世代の
人間への印象として適用されうる。

安全ではないものは無意識に避ける。
そして安全を求め続ける。

答えを外に探し続けてしまうのは
根底に「みそっかす」意識があるからかもしれない。

(そしてそのプロセスもまた魂にとって完璧な青写真である可能性)


さらなる余力のため

お酒を
家で飲むのを
やめてみようかなと
思ってしまった

罪悪感だとか
からだのためとかじゃなく
好奇心で・・・笑


おうちギャラリーや
猫を飼うまえに
部屋を片付けたように

部屋を片付けはじめる前
徹底的にやることを厳選して
余力ができたらふと
長年懸念だった部屋の片付けを
ひまつぶしに始められたように

もっとひろびろした空間を
気楽にシェアしながら暮らすには
どんな自分でいたらいいか

さらなる余力をつくるべく
やめる、やらないことがあるとしたら
なんだろな・・・

と思っていたら
お酒。と浮かんでしまったのだ。

からだのためにやめたほうがいい、とか
お酒に頼るのはよくない、とかじゃなく

好奇心で浮かんじゃったものは
やりたくなってしまうサガ。

あー。いまの買い置きがなくなり次第
家ではやめよう。たぶん!

手当の勘

きのうはチェアロミを習ったのだが
ひとの肉体に触れるということが
わたしにとってあまりに自然になっていることに驚いた。

手法としては新しいのだけれど
日頃やっている整体やバーズと
同一線状にあるのでコツがわかるというか
へんな緊張や分からなさが無いのだ。
場所や力加減について躊躇せずに、手を当てられる。

場所はバーズで鍛えたのだろうし、
体に触れることそのものや力加減は
氣道協会の整体講座初等や
脂取り穴追いをやっていたのが大きい。

いつのまにかそうした素地ができていたようだ。
新しいことをやってみなかったら気づかなかったな。
習うより慣れろとはこのことだ。
チェアロミも活用していこうと思う。

潜在意識の手入れ

肉体を整えることは
潜在意識、無意識を整えること

整えるとは正すのではなくて
じぶんのいのちに最適化すること
動きをなめらかにすること
変化を受け入れること

潜在意識のどの領域、深さに
アクセスするかは手法で異なる
つよめのボディタッチは浅く
体にしろ気持ちにしろ
変化がすぐわかる

気功や愉氣
エネルギーワーク
音叉やナダヨガなどの倍音、振動は
それよりも深く精妙
まだ表層にあらわれていない部分に響けば
年単位での変化もありうる

色彩やアロマはその中間かな
使い方にもよるだろう

(思考メモ)

がんばっている

じぶんがどんなに大変だったか
なにがあって
なにをどうして
どう活躍して
なにを為したか
他人が語るのを忌々しく思うことがある

たぶんわたしも
なにかをがんばっているんだろう
でもそれがなんなのか
どこをどうがんばって
なにをやっているのか
言葉にならないのかもしれない

その、いつもは言葉にならない
言葉にしようとすることもなく
まるで無いかのように扱っている
ちいさな消えそうな声を
じぶんの言葉として語るとき
いつも自然とどうしても泣いている

ほんとうに安全だとわかる
万全のサポートが感じられる
ある種の特殊なスペースでのみ
その声にアクセスすることができる

あとから平常心で振り返ると
じぶんのこととは思えない、現実味のない
はるか遠くにいるじぶんの言葉

いつでもどこでもアクセスできるように
なる必要があるとは思わないけれど
聞こえないからといって
言葉にならないからといって
無いもののように暮らしてしまうのは違う

いつもうっかりきれいさっぱり忘れていて
じぶんではないものとして切り離して
世界にあらわれたそれを拾うこともなく
ほったらかしては、ちいさな不調和を抱える

そうしてアクセスできる特殊な場所を
ある時は他人をうごかして
ある時はみずから飛び込んで
なんでそうなったのか
なんでそんなことをしゃべっているのか
さっぱりわからないまま
泣きながらしゃべることになる

そんな回りくどいことをせずとも
じぶんの声を拾えたらいい
飼い猫のイタズラを叩く手に
力がはいる前に、気づけるといい
ちいさなちいさなちいさな声
たまらず声をあげる時だけじゃなく
たのしげなハミングも拾えたらいい

うつしかがみ/遺伝

わたしが、母のようにぐちぐち言っているじぶんに気づいて
父のようになってもいい。と自分に許可してから数年経過して
こんどは、母のようになってもいい。を許可することになった。

うへーーーっという感覚はあれども
無意識に母みたいになっているのと
自覚的に母みたいなことをしているのでは
ぜんぜんちがうので、きっと大丈夫だろう。

そしてこれはオットにとっては
オットの父のようになってもいい。を許可する
タイミングとなっているようである。

無意識パターンを抜けて
反対がわに行ってみて
まんなかに戻ってくる。

わたしたちのなかには
父も母も両方いる。
両方つかえる。

そして意識的であるということは
それらをよりよく使えるということ。

親本人がヨシとしていなかった本人の性質、癖
それゆえに体験した良いこと、つらいこと

それらを踏まえて
あらたな要素を加えて
いまの時代に乗っかって
もっと、たのしめるということ。

生きること死ぬこと

『自分の生まれもった川の流れの中で生きてゆくということ』

『誰だってはじめはそうやって生きてゆくんだと思う。
ただみんな、驚くほど早い年齢でその流れを捨て、
岸にたどり着こうとしてしまう』

『自分の持ち時間が限られていることを本当に理解した時、
それは生きる大きなパワーに転化する可能性を秘めていた。』

旅をする木(星野道夫)より


どうせいつか死ぬのなら
なにもしたくない
いつ死ぬかもわからないのに
なにができるっていうのさ

そう思って生きていたはずのわたしが

どうせいつか死ぬのだから
生かされているあいだ
あたえられるものをまっとうしよう

そう思うようになったのは
なにかきっかけがあったのだったか?


生きるか死ぬか
決めるのは
本人の顕在意識ではないナニカ

なにをどうしても
死ぬ時は死ぬし
生きる時は生きる
コントロールはできない

生きようとすることも
生かそうとすることも
本来、必要のないことで

すこやかであること病むことすらも
選べるようで選べないのかもしれない
そのうえで、生をまっとうするのだ

どうやって生きていけばいいのか、なんて
考えるくらいなら
どうやってじぶんを殺さずにいまを過ごすか
腐心すればいい

じぶんを殺さずにいる自負
生をまっとうする意気
それがあれば
生きていけなくなる可能性を恐れるのではなく
それはそれとして、受け入れる心算になる

生きていくことのできない状況から
抜け出すことが叶わないのなら
それもまたわたしにあたえられたもの


人生をやりきったと言えるかどうかは
じぶんにあたえられるもの
じぶんのうちにやってくるもの
そのときどきの”じぶん”を
どれだけまっとうしてきたかにかかっている

いつかなにかを成し遂げるのではなく
いつも成し遂げていること
先送りすることなく
ひとつひとつをまっとうすること


いま、すでに、生きている。
死をはらんだ生に在る。
そうした己の状態を

みずからのちからで得たものと思えば
己の生死を案じて保身にはしるだろうか

あまたのつらなりに依る偶然だと思えば
案ずることなくいまを生きるだろうか

自虐の痛み

わたしが他人の自己卑下や自虐に反応するのは
わたしにとって「生きていること」そのものが
自虐みたいなものだからだ。
自虐にあふれた場面を見続けるという自虐。

そんな捉え方をするわたしのクセも
いつかおのずとなにかに変わるといい。
変わるのだろうとおもう。

今日もこの身体が生きているのは
きっとそういうことだとおもう。

自虐におもえるあれもこれもそれも
変化のいち側面なのだ。
破壊と創造は同時に起きている。

波乱を望む気持ちの扱い

じぶんのなかに
波乱を恐れながら
一方でそれをどこかで望んでいる
そんな気持ちを見つけた

怒りも痛みも悲しみも
ぜんぶ白日のもとに晒して
周りも巻き込んでしまえばいいって

感情解放のカタルシス

じぶんの痛みや
だれかの弱さに
あえてフォーカスして
波風を立てる

問題として仕立て、解消する

ドラマティックで刺激的な快楽はクセになる

わたしがほんとうに望むのはそれではない。
もっと穏やかで平和で退屈でいい。
痛みは痛みのまま
痛みとも気付かぬまま
抱えていれば
いつか勲章になる

暴くのは簡単だ
達成感もある
欲も満たされる

けれども、それはちいさなちいさな自虐だ。

わたしはもっとやさしい世界をみていたい。
そのためには、ただ、見ていればいいのだ。
するべきことなどなにもない。
やさしさを、完全性を、あたたかさを見ている。

わたしがわたしにやさしくあれますように。

(この記事を書き始めたら
猫が、向かいの椅子から
わたしの胸元にやってきて
丸まって寝始めた。
寝息。振動。ぬくもり。
せかいはこんなふうにやさしい。
だから、だいじょうぶ。
悲しみも痛みも抱えていく。)

創造性を支えるもの

内なる女性性を大切にするとき
内なる男性性が不可欠

ほんとうに欲しいもの
望むことを表明しようとすると
大きな抵抗がでてくる

拒絶の痛みが呼び起こされるから
拒絶が、生存拒否を意味していたから

いまやそうではないと
アタマで分かっていても
肉体レベルでのこっているそれは
無意識に、反射的に、からだを縮こまらせ
喉をしめ、声をあげさせない

男性性をもって
大きな視野に立ち
勇気を奮いたたせ
痛みをケアしながら
万が一拒絶されたときには
全力で守る覚悟を
自分自身に誓う

無理強いをさせるでもなく
しかし時に発破をかけて
女性性をバックアップする

創造性、独自性、想像力
女性性を社会に差し出すことや

やわらかさを保ちながら
目の前のすべてを慈しむことは

男性性と女性性の
信頼関係の構築と
同時進行となる

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