カテゴリー「心と体」の記事

満腹感と充実感

最近きがついたこと。

本当に空腹が満たされていると
お酒をあんまり飲まない。
飲もうと思わない。

本当に満たされるというのは
ちゃんと食べたいと感じたものを
しっかり食べるということで

わたしの場合たとえば
コンビニ弁当は3つ食べても
ダメだろうと思う。
腹はいっぱいになるとしても。


食べる質や量や時間と
太る太らないは無関係
というのが持論になって数年たつけれども

それは、身体にきいて
食べたいものを食べたい量たべるのが
条件だと思っている。

新発売だからとか、
高級品だからとか、
勿体ないからとか、
大食いキャラとしてとかで食べてたら

つまり動機に恐れが含まれていたら、
望まない結果がやってくる。


お酒いらないなあって気分になる
満腹感に至る質・量というのは
わたしのこれまでの感じよりちょっと多い。

何度かそんな質・量を食べてみたら
「こんな風に食べてたら太るかも」って恐れが出てきた。
まだあったんだこの恐れ!

朝はだいたい食べないし、
昼夜も7~8分目くらいが、
軽くいられてちょうどいい。
もう何年もそうしてきたけれど
いつのまにか
「そうすべき」「それが正しい」って
アタマ主導の基準になっていたようだ。


食欲の秋は冷えのなれの果て、
ねじれた身体によるねじれた欲求で、
さらにねじれてしまう。というのが整体的な見解。

はてわたしのこの「満腹感」は
どう扱っていったものか。
満腹になりたいわけじゃない、とアタマは言うけれど、
ただしく満腹じゃないのを酒で誤魔化してるんだったら?

満腹以外で酒いらずなことも、時々あるから
ただしい満腹感はおそらく
食べ物でしか得られないわけではなくて
充実感とも言い換えられるかもしれない。

欲しいモノを欲しいだけじぶんに与えた自負
心も体もちゃんと動いて
ちょうどよくくたびれている
十全にやった!という感じ。

それをどうやって得ていくか。

関係性に潜むものと、破壊衝動

ヒーリングサロン Pulse(パルス)さんの
ブログ記事より抜粋引用

相手のザワザワを更に助長しているのは、自分。

自分のカラダに集中し続ける。

アクションが変わればリアクションが変わる。

安心感は安心感を呼ぶ。

「目の前の状況をなんとかしたいという焦り」




この法則はいろんなことに通じる話で、
有名どころだとホ・オポノポノは
これを踏まえて深化させてものだと思う。

”アクションが変わればリアクションが変わる。”
”安心感は安心感を呼ぶ。”

とはいえ
潜在意識レベルの不安は
自力ではどうにもできないところもあったりして

そうすると身近な家族がそれを拾って
不安や焦りで暴走することがある。


そうした「身代わり」は
防げたらいちばんいい。

あるいは早めに気付くことができれば
その感情と距離をとるだとか
いくらかの対策はとれる。

「身代わり」そのものは
良いも悪いもなく
その感情を表現、消化、昇華することのできる
余白をもったひと、力量のあるひとが請け負う。

そうやってバランス取るのも
人間関係の醍醐味というか面白さというか
人間ならではの体験なんだと思う。
持ちつ持たれつ。


家族の不安や焦りを拾っていることに、
家族や他人が気がついたとしても、
暴走し始めると、止めようがなかったりもする。

なんなら本人もうっすら自覚していて、
それでも止まらない。止めようとしない。

行き着きたい衝動
みたいなものが、あるのだろう。
破壊欲求。
冥王星的なもの。


破壊欲求は、ときどきなにかの形で出したほうが健全で、
家族内の精神的なぶつかり合いで済むのは
ある意味、穏便なのだ。

精神的な打撃は相応に大きいけれど、
そこから見えることをふまえ、再び築くこともできる。

家族ではない完全他者、あさっての方向に
出てしまう例は、新聞テレビに山ほどある。


家族やパートナーシップなど
身近な関係性における
こうした暴走からの破壊と再生は
もうひとまわり深く大きな関係性に変わるための
通過儀礼という側面もある。

暴走の奥にひそんでいた不安や痛みを
メンバーで共有することができれば
具体的、現実的な対策を講じることもできる。

また、そうした「裏感情」を
「身代わり」になって表現するに至ったひとの
優しさや痛みもあきらかになり
それは関係性にとってのギフトになりうる。


身代わり暴走にも良いことはあるが
しかしやはり防げるならば
防ぐにこしたことはない。
痛い思いは少ないほうがいい。


ふたたび、ヒーリングサロン Pulse(パルス)さんの
別のブログ記事より抜粋引用

どうしても、対策として

「関係をなんとかすること」に意識が向いてしまいがち。

意識改革に心が追いつかない時は重心と呼吸にアクセス。

直接カラダに集中するところから始めるのがいい”


「自分に集中って難しい」




問題をなんとかしようとすることなく
じぶんに集中するには
体(呼吸)を整えるのが
安心確実、遠回りのようで近道。

たとえ暴走スイッチが入ってしまっても、
体が安定していたら、
そうそうおかしなことにはならない。

どこかでちゃんとストップが入る。
麻痺して自分がぶっ壊れたり
他人や関係性をぶっ壊すところまではいかない。


破壊衝動が生じること自体は
コントロールできない。
自然現象、生理現象と同じである。

そうした認識をもったうえで
それがやってきたとき
どのように表現するか
どのように扱うか、模索し続ける。

大切なものを、大切にできるように

生じたものを扱えるだけの
器を育み、手入れしていく。

理解トラウマ

こどものころに
両親の離婚を経験していたり

両親や家族からの
ネグレクトや罵詈雑言など

体験してきたひとに
共通する傾向として

「じぶんにはわからない」という思い込みが
ベースに織り込まれている可能性。

だから他人を理解しようとしすぎるし、
わからないとじぶんを責めてしまう。

他人の言葉をスルーできないから、
じぶんの内側に答えを探す方向に行きづらい。

家族=最初に接する他者を「理解できない」
ひいては「安全ではない」という前提は、
そのまま他者、とくに当時の親と同世代の
人間への印象として適用されうる。

安全ではないものは無意識に避ける。
そして安全を求め続ける。

答えを外に探し続けてしまうのは
根底に「みそっかす」意識があるからかもしれない。

(そしてそのプロセスもまた魂にとって完璧な青写真である可能性)


さらなる余力のため

お酒を
家で飲むのを
やめてみようかなと
思ってしまった

罪悪感だとか
からだのためとかじゃなく
好奇心で・・・笑


おうちギャラリーや
猫を飼うまえに
部屋を片付けたように

部屋を片付けはじめる前
徹底的にやることを厳選して
余力ができたらふと
長年懸念だった部屋の片付けを
ひまつぶしに始められたように

もっとひろびろした空間を
気楽にシェアしながら暮らすには
どんな自分でいたらいいか

さらなる余力をつくるべく
やめる、やらないことがあるとしたら
なんだろな・・・

と思っていたら
お酒。と浮かんでしまったのだ。

からだのためにやめたほうがいい、とか
お酒に頼るのはよくない、とかじゃなく

好奇心で浮かんじゃったものは
やりたくなってしまうサガ。

あー。いまの買い置きがなくなり次第
家ではやめよう。たぶん!

手当の勘

きのうはチェアロミを習ったのだが
ひとの肉体に触れるということが
わたしにとってあまりに自然になっていることに驚いた。

手法としては新しいのだけれど
日頃やっている整体やバーズと
同一線状にあるのでコツがわかるというか
へんな緊張や分からなさが無いのだ。
場所や力加減について躊躇せずに、手を当てられる。

場所はバーズで鍛えたのだろうし、
体に触れることそのものや力加減は
氣道協会の整体講座初等や
脂取り穴追いをやっていたのが大きい。

いつのまにかそうした素地ができていたようだ。
新しいことをやってみなかったら気づかなかったな。
習うより慣れろとはこのことだ。
チェアロミも活用していこうと思う。

潜在意識の手入れ

肉体を整えることは
潜在意識、無意識を整えること

整えるとは正すのではなくて
じぶんのいのちに最適化すること
動きをなめらかにすること
変化を受け入れること

潜在意識のどの領域、深さに
アクセスするかは手法で異なる
つよめのボディタッチは浅く
体にしろ気持ちにしろ
変化がすぐわかる

気功や愉氣
エネルギーワーク
音叉やナダヨガなどの倍音、振動は
それよりも深く精妙
まだ表層にあらわれていない部分に響けば
年単位での変化もありうる

色彩やアロマはその中間かな
使い方にもよるだろう

(思考メモ)

がんばっている

じぶんがどんなに大変だったか
なにがあって
なにをどうして
どう活躍して
なにを為したか
他人が語るのを忌々しく思うことがある

たぶんわたしも
なにかをがんばっているんだろう
でもそれがなんなのか
どこをどうがんばって
なにをやっているのか
言葉にならないのかもしれない

その、いつもは言葉にならない
言葉にしようとすることもなく
まるで無いかのように扱っている
ちいさな消えそうな声を
じぶんの言葉として語るとき
いつも自然とどうしても泣いている

ほんとうに安全だとわかる
万全のサポートが感じられる
ある種の特殊なスペースでのみ
その声にアクセスすることができる

あとから平常心で振り返ると
じぶんのこととは思えない、現実味のない
はるか遠くにいるじぶんの言葉

いつでもどこでもアクセスできるように
なる必要があるとは思わないけれど
聞こえないからといって
言葉にならないからといって
無いもののように暮らしてしまうのは違う

いつもうっかりきれいさっぱり忘れていて
じぶんではないものとして切り離して
世界にあらわれたそれを拾うこともなく
ほったらかしては、ちいさな不調和を抱える

そうしてアクセスできる特殊な場所を
ある時は他人をうごかして
ある時はみずから飛び込んで
なんでそうなったのか
なんでそんなことをしゃべっているのか
さっぱりわからないまま
泣きながらしゃべることになる

そんな回りくどいことをせずとも
じぶんの声を拾えたらいい
飼い猫のイタズラを叩く手に
力がはいる前に、気づけるといい
ちいさなちいさなちいさな声
たまらず声をあげる時だけじゃなく
たのしげなハミングも拾えたらいい

うつしかがみ/遺伝

わたしが、母のようにぐちぐち言っているじぶんに気づいて
父のようになってもいい。と自分に許可してから数年経過して
こんどは、母のようになってもいい。を許可することになった。

うへーーーっという感覚はあれども
無意識に母みたいになっているのと
自覚的に母みたいなことをしているのでは
ぜんぜんちがうので、きっと大丈夫だろう。

そしてこれはオットにとっては
オットの父のようになってもいい。を許可する
タイミングとなっているようである。

無意識パターンを抜けて
反対がわに行ってみて
まんなかに戻ってくる。

わたしたちのなかには
父も母も両方いる。
両方つかえる。

そして意識的であるということは
それらをよりよく使えるということ。

親本人がヨシとしていなかった本人の性質、癖
それゆえに体験した良いこと、つらいこと

それらを踏まえて
あらたな要素を加えて
いまの時代に乗っかって
もっと、たのしめるということ。

生きること死ぬこと

『自分の生まれもった川の流れの中で生きてゆくということ』

『誰だってはじめはそうやって生きてゆくんだと思う。
ただみんな、驚くほど早い年齢でその流れを捨て、
岸にたどり着こうとしてしまう』

『自分の持ち時間が限られていることを本当に理解した時、
それは生きる大きなパワーに転化する可能性を秘めていた。』

旅をする木(星野道夫)より


どうせいつか死ぬのなら
なにもしたくない
いつ死ぬかもわからないのに
なにができるっていうのさ

そう思って生きていたはずのわたしが

どうせいつか死ぬのだから
生かされているあいだ
あたえられるものをまっとうしよう

そう思うようになったのは
なにかきっかけがあったのだったか?


生きるか死ぬか
決めるのは
本人の顕在意識ではないナニカ

なにをどうしても
死ぬ時は死ぬし
生きる時は生きる
コントロールはできない

生きようとすることも
生かそうとすることも
本来、必要のないことで

すこやかであること病むことすらも
選べるようで選べないのかもしれない
そのうえで、生をまっとうするのだ

どうやって生きていけばいいのか、なんて
考えるくらいなら
どうやってじぶんを殺さずにいまを過ごすか
腐心すればいい

じぶんを殺さずにいる自負
生をまっとうする意気
それがあれば
生きていけなくなる可能性を恐れるのではなく
それはそれとして、受け入れる心算になる

生きていくことのできない状況から
抜け出すことが叶わないのなら
それもまたわたしにあたえられたもの


人生をやりきったと言えるかどうかは
じぶんにあたえられるもの
じぶんのうちにやってくるもの
そのときどきの”じぶん”を
どれだけまっとうしてきたかにかかっている

いつかなにかを成し遂げるのではなく
いつも成し遂げていること
先送りすることなく
ひとつひとつをまっとうすること


いま、すでに、生きている。
死をはらんだ生に在る。
そうした己の状態を

みずからのちからで得たものと思えば
己の生死を案じて保身にはしるだろうか

あまたのつらなりに依る偶然だと思えば
案ずることなくいまを生きるだろうか

自虐の痛み

わたしが他人の自己卑下や自虐に反応するのは
わたしにとって「生きていること」そのものが
自虐みたいなものだからだ。
自虐にあふれた場面を見続けるという自虐。

そんな捉え方をするわたしのクセも
いつかおのずとなにかに変わるといい。
変わるのだろうとおもう。

今日もこの身体が生きているのは
きっとそういうことだとおもう。

自虐におもえるあれもこれもそれも
変化のいち側面なのだ。
破壊と創造は同時に起きている。

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