カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

他人を信じるとは

他人を頼ることができず
なんでも自分でやってしまう

他人を傷つけないよう
荒立てないよう
自分さておき
場をなごやかにする

どちらも他人を信じられていない

それはひいては
「身体の叡智」を
信じられていないということ


みずからの肉体の
他人の肉体の
それぞれにある
それぞれのための叡智に
誰しもがアクセス可能で

その叡智こそが
すべてを担っている

傷ついても
傷つけても
振り回されても
振り回しても
その対処法も癒し方も
その理由や目的も
身体がぜんぶ知っている

そのことをじぶんが身をもって知っていたら
他人も肉体をもっている以上は
それが可能なのだと
そこに委ねていいのだと
信じることもできるように思う


幼少期から
他人と違う感性で
社会に違和感をもって
生きてきていると
他人を信じることは難しい

じぶんと同じように
対処が出来るとは思えず
じぶんが、かぶってしまう
引き受けてしまう

他人に振り回されることも
他人を振り回すことも
躊躇する
億劫になる

ひどく傷ついて
ひどくくたびれていて
肉体への不信感がぬぐえない

なにか慢性的な持病があれば猶更だろう

肉体とじぶんが別の生き物のような
肉体はまるで他人のような
そうした感覚かもしれない


思考が現実をつくる
現実が観念をつくる

このサイクルは
変えられる?
どうやって?

夢メモ

明け方、猫のエサコールで起きてから
また1時間ほど寝た時に見ていた夢

母と妹と私で作文の授業に参加している
母は妹につきっきりで
私はちいさな郷土菓子を並べたり積んだり
授業そっちのけで遊んでいて
講師に怒られるが、理不尽だと思う
作文の準備にそんなに時間をかけなくたって
書こうとおもえばすぐに書けるのだ
あとでいくらでも追いつく
かったるい下準備になど付き合いたくない
そんなような感じだった
そうこうするうちに妹が体調を崩し
ちかくのスパへ療養しに行くという
いちど家(実際の家とは違う)に戻り
支度をして、出かけていく
母はやはり妹を心配そうにみている
父(容姿は実父とちがう)とわたしが
なぜだか、諍いになる
羽交い締めにされ
触るな気持ち悪いと叫ぶ
抜け出し、窓枠にぶらさがり、
迫ってくる父の胸のあたりを
両脚で蹴り返している

そんなような夢
体感がとてもナマナマしかった

社会の理不尽さにくたびれて
動けなくなっていた頃のことを
この数日、思い出していたから
おそらくその象徴としての、講師や父なのだろう

浅い眠りの夢に出てきたということは
当時のエナジーが浮上してきたのだろうな
夢として体験することでおそらく昇華できているだろうが
念のためクリアリングもしておいた

星読みブログをみたら
キロンがまた魚座にはいったところらしい
もう記憶も感覚もうすれるくらい
遠い過去になった痛み

あらがったり、叫ぶということは
当時のわたしには出来なかった
じぶんに言い聞かせてなだめながら
愚痴をいうのがせいぜいだった

真っ向から戦える健全さが
じぶんのうちにあってよかった

わたしはそれを知っている

誰かの語る痛み
誰かの語る葛藤
誰かの語るもどかしさ
誰かの語るくるしさ
それらを
わたしは
知っている
この身をもって
知っている

そして時に
まったく知らないこともある
それが生きるよろこび

めんどくさい病の原因と対策

なにをするのもめんどくさい
あれも気になる
これもどうにかしないと
あっちはどうなってたっけ
ああでもなにもしたくない
めんどくさいめんどくさい
ああじゃないこうじゃない考えるのだって
ほんとはめんどくさい
ああもうなにもしたくない

そんなふうだった頃があった

いまだからわかる
あの頃わたしは虚していたのだ

めんどくさい
なにも決められない
動けない
動き出せない
やるかやらないかも決められない
決めるのもめんどくさい

そんなふうだった頃のわたしは
じぶんにネガティブな意識ばかり向けていた

またさぼってる
みんなやれてるのに
そんなこともできないのか
もっとできるはず
そんなんじゃダメだ
生きてる資格ない
地球のお荷物

ひたすらじぶんをけなしていた

じぶんを褒めることも
認めることもなかった
じぶんのために
ちょっとした時間をとって
ちょっとした気力体力をつかって
ストレッチすることすら億劫に思えた
じぶんに手間ひまかけるなんて
大それたこと許されない
一人前になってからやること
そんなふうに思っていた

どんなにめんどくさくても
めんどくさいながらも
なにかはする
誰かと話したり
食材を買ったり
布団に入ったり
そうしてなにかするたびに
じぶんをけなす
やれてあたりまえ
こんなんじゃまだまだ
そんなことしかできないのか

これではエネルギーを使いっぱなしで
補充ができないどころか
みずから穴をあけているようなもの
そうして虚した状態が続き、またはさらに虚し
ますますめんどくさい病が悪化する

虚した状態とは
ハラに力のない状態
それでは決められないのも
すべてがめんどくさいのも
あたりまえなのだが
そんな状態であることを責めるばかりで
じぶんがそんなにも虚しているとは思いもしない

だって五体満足だし
風邪もひいてないし
どうみても健康だし
それなのに動けないのは
なまけているだけ
そんなふうに考えておわり

あの、虚のサイクルを抜けるに至った
直接のきっかけは覚えていない
ただ、ちょっとずつ、試していった
半信半疑のまま
じぶんを褒めてみたり
半信半疑のまま
賞賛に耳を貸してみたり
この程度のじぶんでもいい、という証拠を
ちょっとずつ、現実のなかで
いつもと違う選択をして
確かめることで、集めていった
じぶんがじぶんであることをゆるすプロセスだった

いまはもう
めんどくさい病には
めったにかからない
ちらっと片鱗がみえたら
じぶんに善い氣をむける
めんどくさがっていることや
動かないことを
じぶんに許可して
そこまでに至ったじぶんをねぎらい
褒めたり
励ましたり
それでだいたい病はきえる

終わらせること

”いつの間にかお客様ファーストとか関係者ファーストみたいなことになって、あっという間に自分の本音を見失う。やがてすべてが面倒臭くなり、やがてすべてを投げ出したくなる。その繰り返しだ。”

”初心に還れ。それでもダメなら土に還れ。”

http://ibaya.hatenablog.com/entry/2018/09/02/103348


死を、終わりを、避けようとしない人間を
御することは、難しいだろう。

終わらせることを躊躇って
ぐずぐずしていた過去を思い出す。
そして憎まれ役として現れた上司のことを。

ああそうだ
あのひとを憎むことで
わたしはやっと
未練を断ち切れたんだった。

救世主だったんだ。

そうやって
いろんなひとや出来事や状況のせいにして
たくさんの選択をしてきたことを思う。

ここから先の人生ですこしでも恩返しができればいい。

感情ストレッチ/イライラはチャンス

昨日は洗濯するにも
アスレチックに行くにも不向きな
雨の降りそうな曇天で

なにをしようか?
なにをするとじぶんがたのしい?
問いかけつつ、情報チェックしてたら
レディースデー!
「カメラを止めるな!」
気になってるんだ。
見にいこうか?
行くならどこへ?
小田原か海老名
来週から隣駅でもやるけど
来週水曜は仮予定があるし
月末までのクーポンを使える靴屋にも行きたい
などなど考えながら

まずは月イチの皮膚科に行き
ランチたべながら路線検索
特急に間に合ったら海老名かな
でもやっぱり地元で買い物
でもでもやっぱり今日でしょ!!飛び乗る

小田急と相鉄線を乗り継いで海老名へ
映画をみるために
時間と交通費かけて
レディースデーだからいいのだ。


そして、誰かに会うとかじゃなく
じぶんひとりの純然たる遊びのために
電車乗り継いで行くなんてことが
できているじぶんに、感心する。

ずいぶん長いこと
やってこなかったと思う。
なぜかわからないけれど。

効率より欲を選べるのって健全


20年ぶりたぶん2度目の海老名
ビナウォークの広大さにビビる。
映画、間に合うだろうか
不安になりながら足早に移動
チケットの列に並ぶ
開演前に入れた
平日なのにほぼ満席

映画はもうなんともかんとも
とにかくすごかった。
すばらしかった。
エンターテイメントの
あらゆる要素が入っている。

『カメラを止めるな!』を絶対に観るべき8つの理由!https://cinema.ne.jp/recommend/camera2018062210/

おわって呆然
頭くらくら
喉からから
ドトールでアイスティーがぶ飲み
半券チケットサービスあとから気づいた
いつもならぜったい見落とさない

しばし休憩ののち
調べておいたクーポンが使える靴屋の系列店へ
藤沢の店舗より広くて品数豊富
サンダルだのスニーカーだの4足まとめ買い
これで今ある少々窮屈なのだとか
くたびれてきたのだとか一掃できる


帰りの電車で
世界への感謝が戻っていることに気づく。

火星逆行・留・順行に表される
このところのエネルギー停滞

山歩きで身体ほぐして
じぶんのペースを堪能して
ずいぶん良い感じになったけれど

イライラが続いたことで
心が硬くなってたみたいだ。
映画での喜怒哀楽がマッサージになったらしい。

夜はばったりyogiboで寝落ちして
気づけば朝だった。
寝落ちしても夜中に起きるのが常。
喜怒哀楽って疲れるんだな。

今日もまだ映画の筋や人物が
脳内をうろついている。
フィクションから抜けられないのは
よくあることだけれど、
劇中劇だから余計にめちゃくちゃ。
まあしかしこれもトリップの醍醐味だ。


ことしの課題は「遠慮しない」のようで
引越しもそれがあるうちは進展しなかったし
今回のイライラでは
じぶんのペースで動きたい!という本音を見つけた。

これまで、だれかと一緒、を好んできた。
記憶や体験を共有するひとがいたほうが
あとで語りあうこともできる。
移動中も退屈がすくない。
ひとり旅は緊張してたのしめなかった経験もある。

だから、一緒がいいのだと、思ってきたけれど
じぶんのペースで動くたのしさも
それはそれで良いものだった。

過去は過去
いまはいま
同じようになるとも
同じように感じるとも限らない

イライラするとき
相手や事象はただのきっかけ。
エネルギーが流れず停滞しているから
それが起きているだけで
元はと言えば
なにか我慢、無理、遠慮してることがあり
流れをせき止めてしまっているだけ。
気づいて、やめると、どれだけ窮屈だったかがわかる。

もっとおおきく
もっとのびやかで
ゆたかな流れへのチャンスとなる。

覚書:うまくいってはいけない

ふと目に留まり
久々に読んだ
子宮委員長はるちゃんブログ
https://ameblo.jp/jj-haru/entry-12400884749.html


> しかも、お金かからないじゃない。

> でもだからこそ、
> やらない人、続けられない人が
> いると思うのよ。

そうなのだ。
簡単で手軽でいつでも誰でもできる
しかし地道な方法というのを人は避ける。


> 自分という資源だけで、
> うまくいってはいけない。

> 自分だけ幸せで
> あってはいけない。

これ、根強い観念として
持ってるひと多いだろう。
わたしもまだある。


以上、覚書として。


わからなくて戸惑う/萎縮癖

前記事の続き

基礎体力や身体能力や知能
いろいろな面で
ちょっとだけ平均を上回る
そういう子供時代で

だから、他人の苦しみだとか
大変さだとかが
ほんとうにわからなくて
いつもすこし戸惑っていた気がする

風邪もあまりひかなかったし
貧血も頭痛も生理痛もほとんどないし

貧乏でもなかったし
家族仲も悪くなかったし

いじめられてたこともあったけど
深刻になるほどじゃなかった(と、当時思ってた)
(ただひたすら困惑していた記憶)


苦しいこと、しんどいことは
みんなアピールするけれど

自慢はしてはいけない
図に乗ってはいけない
調子に乗ってはいけない
そういう風潮の中にいたから

わたしはなんだかいつもちょっとだけ
フラストレーションがあったかもしれない
できた! と素直に喜ぶことすら憚られた


日々のルーチンをたのしむコツは
ちいさな達成感をしっかり味わうことだと思う。
時にクエストを用意してメリハリをつくる。

そうして、子どもみたいに、できたー!って
本心でよろこぶのが大事。

くだらない、とるにたらないことであっても。
卑下とか、比較とかしないで、喜ぶ。
それには大人の胆力が必要だ。

・・・近年はそんなふうに考えているのだけれど
わたしがどこか無気力で投げやりで
厭世的なところのある子供〜青年期だったのは
そういうことだったのかもしれない

いつもどこか小さくなってる必要があった
また幸か不幸か、それができてしまう

じぶんを小さくしておくことが
ほんとうにできなくて
目立っていたり
親とぶつかっていたり
そういう人もいたと思うのだが

小さくなっておくことで
摩擦が少ないなら
それでヨシとしてたのだろう


全身をのびのびと十全に使い
誰に何に遠慮もいらない
ひとり山歩きはリハビリによさそうだ

今日はしっかり腕やら脚やら
筋肉痛だがそれもまた心地よい!

ちょっと過剰/山歩きに思う

久々に山を歩いてきた
文庫の称名寺裏山を歩いた以外だと
いつ以来になるのかなあ

ネットでなんでも調べられるようになって
ずいぶん気軽に山に行けるようになっているのだなと
認識をあらたにした。
20年前はバスの時間を調べるのも
ルートを探すのも、本か電話だった
それが億劫で、山から遠ざかっていたのだが
いい時代になったものだ


わたしの山登りペースは早い
「健康な成人男子 75分」のルートを
今日は、休憩しながら70分

ものすごく早いわけじゃない
でも、普段ろくに運動してない
何年ぶりかで山歩きをする
42歳女にしては
早いような気がする

高地に適応するのも早いらしく
トンガリロでも
富士山でも
高山病にならずに済んだ


小学校のIQテスト
めちゃくちゃすごく良いわけじゃないけど
標準範囲より高かったと
うちの親は、先生からわざわざ言われたらしい

中学まではさして勉強しなくても
成績はずいぶんよかった
学科も実技も全教科まんべんなく

学科は高校で挫折したけど


運動神経もそこまでいいわけじゃない
道具を使うスポーツは上の下程度

基礎体力、体幹、バランス感覚だとか
身体をどう動かすとどうなるのか?というセンスが
ひとよりすこし優れているみたいだ

高校のスポーツテストでは
文化部なのに学年5位に入ってた


どれもこれも「ちょっと良い」だけで
ものすごく突出しているわけではなく
あまり使いこなせていない感じ

努力という才能がないので
それを元に築くことができない

しかし「ちょっと良い」がゆえに
みんなとは感覚が違ってしまって
微妙に孤独な感じがあった

大変ー!ってときに
いっしょに、大変ー!と言えないのは
さみしかったのだ。女子的に。

そして、できないこと、苦手なことは
他者に伝えやすいけれど
得意なこと、できることは
なかなか言いにくいものである
中途半端なレベルであれば特に


なにをつらつら書いているかといえば
今日、はじめて長時間ひとりで山を歩いてみて
とても自由だったのだ

誰のペースを気にするでもなく
歌っても掛け声をあげても気にならず
全身の神経と筋肉を
存分につかって
山を登り、下り、沢を歩く

誰かとの山歩きは
景色だのなんだの共有できて
それもまたたのしいのだが

身体能力をフル発揮するよろこびは
ひとり歩きならでは!

また行こうと思う。

クリエイト

”運命に対して受動的”

わっこちゃん
ご先祖後押しリーディングに
ずばり書かれていた。

動くときが来るまでは
どうせ何も起きない
という
あきらめでもあるし

自分で願ったことが
現実化するより
もっと思いがけない現実に出会いたい
という
貪欲さでもある。

念の強さを自認するがゆえの
防衛策でもあると思う。

しかしいかんせん
この先は
みずから設定し
そこへ向かう意思を
使うタイミングのようだ。
5月の引っ越しも、そのワークだった。

どうすればできるだろう?と
方法を模索する(可能性にひらく)と同時に

いや、それ以前に

そうなるのだ!と決めること。
そうなりたい!と願い、放つこと。

ああああああああこうして書いているだけで
ざわざわする。

願いが叶わなかったときの痛みが
体のどこかから、湧いてくる。

しかしそれはわたしのものではない。
それをクリアリングするすべを
わたしはいくつも知っている。

そして、叶ってしまうことの怖さも
わたしは知っている。

叶わない痛みよりずっと大きくわたしのうちにある。

しかしこれももう
クリアリングして良いのだ。
その許可は、とっくに出ている。

すべてゆるされている。
叶うことも、叶わないことも、願うことも。

胸が張り裂けるほどの痛みも
すべてを無に帰する衝動も

それでもなお、ゆるされていることを
わたしは知っている。

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