カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

まじめ

ナゼなにユキだとか
トークチューニングだとか
できるのは
ひとえに
わたしが
まじめに生きてきたから
のように思える

まじめといっても
いろいろあるが
わたしの場合は
好奇心と探究心に忠実だった
なんでも気になるし
あきらめがわるい
納得したい
理解したい
法則をみつけたい
世界を把握したい
このわけのわからない世界で
すこしでも安心していられるように

すべてのことを
事細かに知ることも
分かることも不可能だが
法則がわかれば
未知のことにも応用がきく
ケーススタディ
フィールドワーク
たくさんのデータによる検証
検証につぐ検証
そうしてつかんだ
汎用性のあるナニカ


パキラ

結婚して実家を出たときに
実家から株分けされたパキラ

ダメモードを招く欲求

この記事にも登場している
ずっと室内に置いていて

もう何年も植え替えもしていなくて
栄養剤をいれるでもないのに
冬に葉っぱを落としても
春にはにょきにょき新芽をだして
元気な姿を見せてくれていた

去年夏に猫を飼いだして
いろんなものを退けるなか
パキラだけは置いていた
土の部分に猫よけネットを置いてみたり
それでもやっぱり
遊んでしまうし登ってしまうし
あげくおなかを壊したりするし

泣く泣くベランダにだしたら
実家時代から20年近く室内育ち
4Fの風に当たるのはきびしかったのだろう
みるみる葉っぱが枯れていき
それでも春には新芽がでるかと
ばっさり枝を切ったり
栄養剤を入れたりもしたが
丸坊主のままいまに至る

幹が黒く変色していたりもして
このまま枯れてしまうのか

犬猫を室内飼いしていて
観葉植物をおいている家も
見かけるのだけれど
みんなどうしているのだろう・・・

嘘。許可。承認。自信。覚悟。

(3/31tweetより)

他人に対して「嘘」を言わずに
生きていくことは出来ない。

なにが「真実」で
なにが「嘘」か
人それぞれ違うから。

じぶんに対して嘘がなければ
いつかは通じるし
通じないなら縁がない。

夢の現実化というのは
嘘を本当にしていくことだとも言える。
そこで大事なのは結果より過程。

現実になったかどうかではなく
現実にしようとしたかどうか。

自信って、さいしょは
ハリボテからしか
出来ないのかもしれない。

それを本物にするか?使いこなすか?
じぶんにかかってる。

その過程に立ち向かうぜ!という
覚悟こそが自信となる。

これ出来ます!それやります!やってました!
などの自己申告をするのに
誰の許可もいらないし
誰も拠り所にはなってくれない。
自分が許可するかどうかだけ。

そしてその申告に対する
万人の承認はもらいようがなく
まずじぶんが承認するところから始めるしかない。

(資格ビジネスの狙いどころはこのあたり)

だれに批判されても笑われても、
あなたはそう思うんですね。
でもわたしはこう思うんです。
と対峙する心意気。

じぶんがじぶんの味方であることを表明する覚悟。

義理茶番と礼儀

3/28tweetまとめ

我々の直面する重要な問題は、
それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。
The problems that exist in the world today cannot be solved by the level of thinking that created them.
-アルバート・アインシュタイン-

現象に現象で対処してもモグラ叩きでしかない。
べつのレベルで見たら終わる。

スーパーでいちゃもんつける
顔見知りのおばちゃんにどう対処するか考えるより
その現象の意味や目的をみる。
昨日はわたしがぶーたれた気持ちでいたから
代わりにおばちゃんがやってただけ。

対処すべきはわたしの内側にある不具合。
自分を整える。ポノってもマントラでも、
気がすむまでぶーぶー言うでもいい。
言ったところで現象がどうなるわけでもないが
滞留したエナジーが動いて
すっきりした心持ちになれば
気にならないから無いもおなじ。


返答が歴然としているから
誘わない、声をかけない。
やられたらさみしいけれど
わたしもだれかにやっていること。

わたしのなかに余力優先で茶番をしない罪悪感が
くすぶってたから現象がきただけ。

お義理の茶番はいらない。
自分の感情ケアを相手に期待しない。
そして茶番とわかっても連絡をとりたいと
思われるような自分になればいい。

海外ライブに日本人客しかいないのを
嘆くアーティストがかっこわるいように
じぶんの力不足をだれかのせいにしない。

茶番をしないさせない期待しない。余力優先でいい。
でもそれを理由に礼儀を欠いては本末転倒。

気になるならかっこつけずめんどくさがらず
声をかけてみたらいい。
気になる時点で余力が削がれてるんだからおなじこと。
どんな展開になるか憂うより気がかりを減らす。

礼儀を重んじるのは悪いことじゃない。
めんどくさいバカバカしい表面的なやりとりに思えたとしても。
長いあいだ大事にされてきたことには理由がある。
緩衝材になる。思いやりである。

社交辞令的なことは極力避けてきた。
こどもっぽい抵抗、反発。
避けてきたのはそれを表現するのに照れてただけ。
なんだか照れくさく決まりがわるかったのだ。慣れが必要。

簡単にいうと
もっとひとにやさしくしてもいいんじゃないってことだ。
それはじぶんのため。
じぶんの良心を傷めないため。
義理だの茶番だの余力優先だのかっこつけるのもいいけど、
がんばらなくてもいい。もっとぬるくてもだいじょうぶ。

こどものとき
大人たちの表面的で儀礼的なやりとりが
さみしかったんだろうと思う。
でもその奥にはそれこそ大人の配慮ってものがあったのだ。
その場は寒々しくても長期的にひびいてくるもの。
ゆるやかなつながりを保つこと。

そして表面的で儀礼的なやりとりに見えたとしても
そこに思いがあるかどうかは
みんなちゃんとキャッチしているのだ。
胸の奥でひっそり味わっているのだ。


片付けと、あるべきじぶんの状態

おととしの秋から去年1月にかけて
リビングを大々的に片付けた経緯を振り返る。
たしか、あまりにヒマでヒマでヒマだったのだ。
徹底的にやるべきとおもうことを排除して
じぶんのスペースを保つことを
じぶんに課していたら
部屋の片付けくらいしかやることがなくなった。
それまでどうしても取りかかれなかった片付けが
ただのひまつぶしとなった。
スッキリした部屋に暮らしたいと
思いながらあきらめていることも気づかないくらいだったのが
やるべきことを排除したらやっと出てきたのだとおもう。
そうして気が済むように片付けたら
おうちギャラリーだとか猫を飼うという
あらたな、そして発展的な、ひまつぶしアイデアが出てきた。

猫を飼うのならば
猫が動き回ってもいいように
物を片付けなくては、というのは
長年考えていたことで
しかし物が片付いていなくても
猫を飼っているひとはいるわけで
つまりわたしは片付けていないじぶんを肯定していなかったし
片付いた部屋で暮らせる「レベル」のじぶんになりたかったのだろうし
潜在意識的には、それくらいのスペースを保てなければ
(部屋のスペース=思考や時間や体力のスペース)
猫との暮らしをたのしめるわけがないってことだったのだろう。

さて、それらを踏まえると
わたしの現状はまだ
ありたいじぶんには達していない部分がある。
わたしが望む、ひろくて気持ちのよい平屋に暮らすことを
じぶんに許可できていないから、現実化していないのだ。
どんなじぶんになったら
そういう家に暮らしてもいいと思うんだろう?
…やっぱり、もっと出入りがある感じだろうか。
人にしろお金にしろ動きがある状態。
そう考えると賃貸物件というのは
毎月お金が動くので新鮮さを保ちやすそうだ。
ハコを先に大きくしてしまえば
動きもそれに伴って大きくなる方式もあるが…
猫のためにスペースを先に確保したように。
出入りしやすい家を、先に用意する。
それは、もしかしたら、ひとまず、家じゃなくてもいいのかもしれない。

スノードームのように

いつだったか
友人が言った
わたしがやるであろうこと

「こどものころからとっておいた
とっておきの付録であそぶようなかんじ」

「スノードームをながめているイメージ」

スノードームつくるのか?と
思ったけれど、違かった。

じぶんの奥底のほんとのほんとの感情を動かすこと
動いたことに気づくこと、そして味わうこと

ひとたび動いたら
ヒトとして機能しないから
感知しないようにしてきたのだ
そうしたことすら記憶になく
そうしていることすら無意識だった

昨日投げ込まれた石は
奥底まで届いてしまったようで
朝からにょんもり過敏状態
いくつかのきっかけを経て感知
おかげでいま
あたまもからだもぼわぼわ
スノードームがひっくりかえったかのよう
たいへんきもちよくて
ずっとこのままぼーっと
この微振動を味わっていたい

わたしが飲酒好きなのは
この感覚に近いからだろう
飲酒の場合はあたまが不明晰になるので
べつの意味でヒトとして機能しなくなる

しかしいまやわたしは
ヒトとして機能しなくても良い

それで良い環境をつくれているし
サポートも得られているし
時と場合を選んで、不機能を発動できる

6日間の晴れ続きから
今日はちょうどよくしずかな雨
やっぱり外出はせずこのまま家で過ごそう

「甘える」の再定義/行動を変えるためのスケール

おとといふとわかった。
わたしにとって
「相手に甘える」
とは
「相手を甘やかさない」
ということだ。

さんざんあちこちで
もっと甘えろだとか、
厳しくしろ蹴り飛ばせ壊せだとか、
言われたし言ってきたけど

やってるけどな?と
どっかで思ってて、
やりきれてないのも気づいてて、

でも「甘える」じゃなく
「甘やかさない」となったら
日常の具体例がしっかりみえてきた。

こんなふうに
よく言われるし聞くしたしかにねと思う、けど
どっか腑に落ちないような、
やってもやっても足りないと言われることって、
本人が、本人の言葉で得るまで
ずーっとついてまわる。
その言葉の意味する全体像を把握できるまで。

今回の例でいえば、
「甘える」という言葉が意味する在りようの
ほんとのとこは、
「甘やかさない」という言葉になる。わたしの感覚では。
「厳しくする」「頼る」「信じる」「弱みを見せる」なんかで
どれほど言い換えても、
どこか足りなかった。
言い表し切れてなかった。

行動(選択)パターンを意識的に変えようとするとき、
じぶんにぴったりなスケール(言葉)を持っているかどうかで、
精度がぜんぜん変わってくる。

ぴったりなスケールを見つけるとはつまり
じぶんの現状を的確に把握するってことだろう。
誰かに言われた言葉じゃなく、
じぶんから出てきた言葉で。
いつか誰かに言われたのだとしても、
そのおなじ言葉が腹の底から出てくるまで染み込んで、ようやく使える。

現状を抜けて
見えているあの流れにのるには
いつも舵を右にきるここで
右じゃなく左なんだよね。
ってことは分かっていて
流れにのった先のイメージもあって
でも、どのくらい左なのかが
イマイチわからなかったのだ。
わかんないなりに
適当に左を選んだりもして
そうすると微妙に乗り切れてない感があった。

いつもならこうする
けれども、はて・・・
もっと甘えるのだとしたら?
ではなく
甘やかさないのだとしたら? 
と再考すると、最適解がすぐ出る。
もっと甘える、とか
厳しく、とか
破天荒に、では
いまいち的外れだった。

ひとたびスケールが見つかれば
ぐいぐい進んでいける。
乗り出していける。
鬼に金棒といったところだ。

(1/27tweetまとめ)

他人は変えられないけれど

他人のことは変えられないから
自分が変わろう。というのは
おおむね有用なのだけれど
なんにでも使えるわけではない。

相手が身近な存在であればあるほど
時には、変わってくれ。と
訴え続ける必要もある。

じぶんを変えて変えて変えたからこそわかる
じぶんのなかの変わらない嗜好

根拠のない、正しさでもない、
どうしても望んでやまないもの

あきらめても蓋しても
無いことにならないもの

それは、あきらめずに、求めたほうが健全だ

相手にメリットがないように思えて
伝えることに弱気で億劫で
すぐには応じてもらえず
なんども伝えるのもかなしくて

それでも、無いことにしていたら
じぶんが傷んでいくばかり

それはひいては
身近なひとをも、しおらせていく

どうせ傷むのなら
共に傷む
その傷はいつか絆になる

満ちた状態であれば
身近なひとへも良い影響となる

相手の習慣や常識や正しさに
体当たりして
バージョンアップを促すのは
誰にでもできることではない

共に生きる以上
じぶんのうちに確固として在る
嗜好、望みは
相手の未来を拓くためのものでもある

じぶんのうちにあるそれを
じぶんがまず信じること
大切に扱うこと

それがじぶんにとって
どんなに大切なことなのか
じぶん以上に知る人はいない

根気よく打ち出していく
じぶんをなにひとつあきらめない

この体当たりは
その先まで共に歩めるかどうかの
試金石でもあるかもしれない

かみさま

かみさまって
じぶんのなかにいる。
誰のなかにもいる。
唯一絶対オリジナルのかみさま。

そのかみさまは
みんながおもうようなキャラではない。
慈悲深く優しく穏やかで柔和で
どこまでもゆるしてくれるようなキャラじゃない。

ほんとうの意味で”やさしい”。
それは人間界においては
”容赦なく厳しい”に等しい、ことがおおい。
一見すると冷たい。
人間味がない。(だってかみさまだから)

じぶんの内にある声(考え、要望…)のうち
これだけはないわ。
このキャラだけは表に出したらダメだ。
そう思ってきたそれこそが、かみさまです。

それがわかったからといって
かみさまそのものを
おもてに出さなくてもいい。
ただ、かみさまなじぶんの意図や
はかりしれないほどの慈悲に想いをはせ
そこに乗っかってみるといい。
たまにはかみさまの言うとおりに動くといい。

かみさまを批判するためじゃなく
かみさまを信じるために、動いてみるといい。

インナーマリッジだとか
「己の本流のエネルギーに繋がる」とか
みんな、そういうことだと、わたしは思っている。
かみさまと手を取りあい動くこと/動かないこと。

表現活動(アート制作、歌や演奏、踊り…)とは
かみさまをこのせかいにあらわす方法だと思っているし

いわゆる表現活動でなくとも
日常の一挙手一投足だって
その方法になりうるのだと思っている。

神社にいくのは
かみさまなじぶんに出会うため。
神社という場所でなら
かみさまを認めやすいから。
だけどほんとは、いつもずっと、いっしょにいるのだ。

それはつまり男性を見下している

直感や実力を発揮しようとしない
(適当なところでやめる。加減する)
報酬を要求しない
有給をとらない
はやく終わらせるために演技する
相手が傷つかないよう罵倒しない

男性相手(社会)で
こういう行動をとるのは
結局のところ
男性を見下しているに等しい
ということを
あちこちで言う流れがきてる

我が身を振り返っても
まだまだだなあと思う。
相手が体調を崩そうものなら
やっぱり「母親」をやろうとしている。
今回だいぶ気をつけてはみたけれど
まだまだな感じは否めない。

相手への信頼を前提ととした
傷つけるためではない、関係発展のための直球

相手が肉体的に弱っているときには
そりゃ加減するとしても。

わたしはわたしの機嫌をとることを第一に
相手にぶつける以外の選択肢も増やしておく。

より以前の記事一覧

カテゴリー

無料ブログはココログ

占い by いとうより