カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

「大変なんです。」

大変なんです。
っていうのを理由、起点にしないと
他者に甘えられない。
話をきいてもらえない。
本音を言えない。

そんな風潮があるようだ。

そうでなければ
甘えさせない。
きかない。
言わせない。

そんな風潮でもある。

これから3年ほどのあいだに
変わるべき風潮だと思う。
変えていきたい風潮である。


相手という鏡にうつるのは

愛したい。のホントのとこ」で
男性が叶えようとするのは
女性の「無意識の願い」だと書いた。

家族やパートナーなど
身近な存在には
「じぶんの無意識」が表れやすい。


たとえば
お菓子を食べているときに
「食べ過ぎだからやめろ」と家族に言われる。

そのまま素直に聞いたうえで
やめるなり、食べ続けるなりできる場合には
発言者の問題(なんらかの観念に基づく介入)かもしれない。

わかってる!と反発したなら
内心「食べ過ぎかな・・・」と感じている
じぶんの一部を、相手が代弁しているかもしれない。


家族がしつこく言ってくる忠告は
自分がないがしろにしている
自分の願望だったりする。

お菓子の例でいえば
こころゆくまで食べたい気持ちと
健康に配慮して節制したい気持ちは
どちらも持っているものだ。

両方に自覚的であるならば
どちらでも選べば良いが
どちらかを見落としていたり
あえてないがしろにしているのなら
一考する価値はある。


同様に、家族から投げかけられる
まったく思いがけない見解も
じぶんの無意識を知る助けとなる。

お菓子をそんなに食べるってことは
なにか不満があるんじゃないのか。
などと言われたとする。

そんなことはない!と
反射的に、本心から、思ったとしても
よくよくじぶんの内側を探してみると
不満が見つかったりするのだ。


身近な相手のことを
自分をコントロールしてくる人間だとか
頼りにならない人間だとか
理解のない人間だとか
「自分の味方ではない」と感じていると
相手の言動は、妨げにしかならない。

そうした「相手への観念」は横に置いて
「自分の無意識を表す(かもしれない)鏡」
タロットやオラクルカードのような存在として
相手の言動を、利用してみる。

自分が気がついていない自分の願望、欲求
自分が見落としている可能性
そのように扱い
精査し
取り込むことで
自分の幅が広がっていく。
自分への理解が深まる。

相手の言動を
「相手との関係性」ではなく
「自分と、自分の無意識の関係性」を
深める材料として使う。


相手の言動に
感情的に
反射的に
応じているあいだは

もたらされている
新たな可能性に対して
閉じているといえる。

たんなる「情報」として
フラットに扱うことができれば
選択肢が増える。


他者という鏡を使って
「未知の自分」を見つめ
受け入れていくのは
簡単なことではない

ずるい自分
よわい自分
みっともない自分
いろいろ出てくるけれども

「気づいていない自分」への
理解を深めようとする姿勢は
「自己信頼」へとつながっていく。

他者や出来事へ反応が起きたときに
自分の内面をしっかり見る

なにがあるのか
なにが起きているのか
なにを求めているのか
しっかりケアする

それをコツコツ続けることは
自分自身への本気のコミットのあらわれであり
最上の自己愛のかたちなのかもしれない。

そうして癒され
満たされていくことで
他者の存在を使って
自分を満たす必要がなくなり

コントロールしたり
されたりという関係性は
生じにくくなる。

コントロール/複雑な関係性

今日も友人のブログから。

他人になにかお願いするときに
気遣いが過ぎて
コントロールが生じてしまう話。

https://ameblo.jp/eisei-boro/entry-12345466728.html

具体例の会話がたいへんわかりやすいので
ぜひ原文を読んでほしい。


このなかでさらりと出てくる

「コントロールの場にのらない」

じぶんからコントロールを生まないのも大事だが
相手のそれに乗らないのも、ほんとうに大事だ。

需要がなくなれば供給は途絶える。


コントロールする側は
無意識のことが多い。悪意もない。
家族由来のパターン、慣習、本人のもつ傷などから
自動的に行われる。

相手の罪悪感や情を
刺激することで成り立つ
取引的な関係。

優位であろうとして
関心を得続けようとして
関係性を維持しようとして
それは繰り返される。


コントロールされる側は
恐れや怯えから
その関係性に留まるけれども
傷つき、苦しみ、つらさを感じる立場ゆえ
なんとかしようともがくなかで
その関係性、からくりに、気づきやすい。

奪い奪われる関係性に気がついたのなら
相手が変わることや
奇跡が起きることを待たずに
自己憐憫や
被害者意識にとどまらずに
みずから、その場を抜けたほうがいい。

物理的に離れることや
精神的に境界線を保つこと

相手の求めに応じないこと
相手の問題を切り離すこと


そうしたことが
わかっていながらも
出来なかったり
繰り返している場合には

相手のやり方をゆるすことや
相手の支配下にいることで
相手より上に立とうとしている可能性がある。

そうした言動を
無意識にとり続ける相手を
かわいそうなひと、
不器用なひと、などと
下に見ていられる。

表面上の関係性では
コントロールされる側だけれども
意識的には優位なのだ。

負けてあげる、という勝ち方。


いずれにしても
どちらにとっても
「関係性を変えないこと」が
最優先されている状態といえる。


わたし自身、コントロールする側だったことも
される側だったこともあるが
(正確には、そう思っていたことがある、ということ。)

相手のことを「相手」だと思わず
「自分の一部」だと捉えることで
このからくりに、はまりにくくなった。

次の記事にする。

瞑想で時間密度があがる

この数日、猫のエサコールを受けながら
布団を出よう。と決めて、出ると
だいたい目覚ましより20分ほど早いので
自働運動と呼吸法と瞑想を
さらっと、やっている。

そうすると不思議なことに
時間がたっぷりある感覚になり
弁当つくりながら洗濯して干して
それでも余裕。バタバタしない。

たった15分、自分につながるだけで
あとの時間密度がこんなに違うとは。

忙しいひとほど
瞑想の時間をとるといい。と
どこかで聞いたことがあったが、
なるほどこういうことなのだ。

わたしの場合は
やることやりたいこと自体は
そう多くないから
一般的にいえば忙しくないため
時間密度をあげる必要性はないのだが

時間があるならあるで
瞑想でもして
ほけーっとシアワセにしていたらいいので
密度があがっても一向に構わない。

以前ならば、退屈で困っただろう。

この数年で、ヒマと退屈のつぶしかたは
ずいぶんと上達したものの
(各種とりそろえている)
それでも、どうしても、
ヒマと元気を持て余すことがあり

それゆえに、他人がやればいいことを
気安く請け負ったりもしたし
問題をつくりだしていたことも
あっただろうと思う。

ヒマだから
やれば出来るから
得意だから
苦にならないから
そんな理由をつけて
やっていたことがたくさんある。

もうそんな理由で動かなくてもいいのだ。

やりたいけど、理由がない?

ちがうエリアに住みたいけれど
このエリアを出る理由がない

引っ越したいけれど
引っ越す理由がない

と言い続けて
何年経っただろう?15年?もっと??

言い慣れたこれらのフレーズ
「ふつう」で「まとも」だと思ってた。

おおきな矛盾に
気付いたのは最近。

理由がない?

なにを言ってるんだろう。

「住みたい」
「引っ越したい」

これ以外になんの理由がいるんだろう?

どんな理由が欲しかったんだろう?
どんな理由なら動けたんだろう??

仕事が
親が
収入が
なんだかんだ

懸念要素が消えたわけじゃない

それどころか
15年前より増してる

それでも
もう
動くのだ

ただ、そうしたい。
という理由のほかに

いまの家を出る「それなりの理由」は出来た

ここを逃したら、ほんとうに動けない

時は満ちた
港を出るよ


他者を満たすメリット

前の記事: 満たさないメリット
http://moana.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-d5ed.html

これは逆パターンもある。

他者を世話することで
自分を満たすのだ。

相手を欠けているもの
満たすべきものとすることで

自分のことは見なくて済む
または、相対的に満たされているように感じる

前記事でも書いたように
これは双方の(無意識の)合意ありきで
どちらがいい、悪いではないし

完全に無くすことを
目指す必要もないと
個人的には思っている

行き過ぎれば共依存とよばれるものになるが
時折ある分には、持ちつ持たれつでいい。

しかし、「無意識に」「反射的に」
それが「起き続けている」のならば
見直す価値はあるとおもう。

他者の存在ありきの在りようは
どうしても、弱くなるから


土星が山羊座に入っている
2020年までの期間
多くのひとが
自立と依存について
見直すことになるのではないかと思う。

わたし自身まだまだ
波風立てないことを無意識に
優先していることがある。

その場しのぎにはなるが
長い目でみれば
不調和となっていくもの。

「真の調和のための忍耐や努力」
これを身につけたり、加減したり
きっと、そんな期間になるのだろう。


愛したい。のホントのとこ

「すべての男性は
愛したい生き物だ
女性に、尽したいのだ」

そんな言いまわしを
近年、よく見聞きするけれども
これは詭弁というか
説明不足で
それゆえに
ほんとうのところをわからず
鵜呑みにしているのも、よく見かける

以下、あくまでも私見だが

男性の「愛したい」「尽くしたい」は
パートナーの「無意識の願いを叶える」
というかたちをとることが多い。

「無意識の願い」であるため
口ではどんなに「尽くされたい」と言っていても
無意識レベルで「尽くしたい」と願っていれば
相手は「尽くすことを要求する男」となる。

自分が変われば
相手が変わる
といわれるのはこのためで

しかし自分がいくら変わったところで
相手が「自分の思い通りに」変わるとは限らない。

相手のキャラは変わらずに
相手との関係性が変わることもある。
(相手から自主的に離れるとも限らない。)

広大で深淵な無意識には
いろんなレベルの「願い」があり
相反するものもあるだろうし
短期的なのも、長期的なのもあるだろう。
真の願いにたどりつくために
片付けなければならないものがあれば
そちらの願いが優先されるだろう。

いずれにしても
冒頭の
「愛したい」や
「尽くしたい」を
じぶんの固定観念、価値観、
あるいは一般常識にのっとって
解釈していては
いつまでも腑に落ちないと思う。

ヒントは目の前にある。

たとえ愛にみえなくても
尽くされているなんて思えなくても
その男性は、すでに、愛しているし、尽くしている・・・

今ある現実を、そういう視点で見てみること。

そこから、じぶんの無意識への
手がかりを見つけることができる。

また、どうしても「その愛のかたち」がいやなら
関係性を変える選択をすることもできる。

「すべての男性は
愛したい生き物だ
女性に、尽したいのだ」

間違いではないが
説明不足だと感じるため
説明したらずいぶん長くなった。

豆乳と牛乳と葛藤の思い出

小学校1年のときか、2年だったか
夏休みの、地域のお泊り会で
朝食が用意されていて
パック牛乳付きの席と
パック豆乳付きの席があり

豆乳は苦手だったので
牛乳の席がよかったのだが
隣り合って座ろうとする子達の
様子をみているうちに
豆乳席しかなくなっていて

お世話してくれてるオトナたちに
「豆乳は飲めない」と言おうにも
みんな忙しそうで気付いてくれないし
みんな食べ始めちゃうし

このままでは豆乳を飲まなければならないのか・・・
あるいは残すのか・・・それも嫌だ・・・

ついには悲嘆にくれて泣きだした


そんなエピソードを思い出した。
この年にしてすでに葛藤満載である。

そもそも、豆乳が苦手だと言いたくなかったのだと思う。
苦手なものがあるのは恥だと思っていたような気がする。

事実とは違うかもしれないし
当時はそこまで考えていなかったかもしれないが

そもそもなぜこれを
思い出せるほどに記憶しているかといえば
最終的に泣き出したことを恥じていたからである。

葛藤時代を端的にあらわしているので
記録がてら、記事にしておく。

学校教育とストレス

小学校の授業は
ちんたら退屈だった。
テストの時間が嫌いだった。
すぐ終わってしまい
ひたすらヒマだったから。

そこで夢想にふけるとか
本をこっそり読むなどということは
わたしのなかのわたしが許さず
時々こっそり絵を描くくらいだったと思う。
(高校に入ってからはなんでもありになった)
(すっかり落ちこぼれてヤケになっていたので)

先生を困らせるのも嫌だったし
助けたいとすら、思っていた。
結果、板書の間違いを知らせるような
意欲的すぎる、うざい児童だったと記憶している。


中学のときはそこまで退屈でも
意欲的でもなかったが
膀胱炎になったのはやはり
しゃべらずに、時間内座っていなければならない
というのがストレスだったのかもしれない。

さらに、わたしのことだから、
そんな風に感じていることを
認めることすら、しなかっただろう。
そんな風に感じるのは
一人前ではないからで
適性がないということで
恥ずべきことであり
じぶんをもっと躾けなければ。律しなければ。
無意識レベルでそう考えていたと予想する。


なにを感じてもそれでいい
みんなちがって、みんないい
なんて幻想は
学校のなかでは通用しない

国語にも道徳にも「正解」があり
求められ、鍛えるべきは
「正解」を予想すること
それが「正解」となりうる「理屈」を、飲み込むこと

飲み込めるように
じぶんなりに噛み砕く
じぶんのなかの
思考回路を開拓する

繰り返される「学習」という強制

じぶんの感じ方は抱えたまま
正解の理屈は、それはそれとして、
覚えるタイプのひともいるのだろうが

わたしは、
じぶんの感じ方を矯正すべきだと
受け取っていたように思う。
そう感じられないのは
じぶんが至らないからだと。

まったくもって馬鹿げていると
いまならば思うけれど
あの頃の一般的な小、中学生にとって
学校は「正義」だった。
絶対的な正解だったのだ。

おしゃべりなじぶん

心の学校の前半は
自分の内の感覚に
自分の外のオブジェクトに
意識を集めて一体化することを繰り返すため
どんどんしずまっていく。

そうすると脳内思考にかぎらず
通常のおしゃべりも減ってくるのだが
わたしは「学校時間」がおわると
隣の人としゃべりだすことが多かった。

すぐにいつものモードになって
くだらないことを喜んだりし始める。
その切り換えっぷりは
じぶんでもちょっと驚くほどだった。

あえて切り換えて
学校モードに染まり切らないように
しているような節もあった。
「いつもの現実」にいつでもかえれるように。

この習性(執着)は学校期間中に
何度かクリアリングして
いまは、自覚的に選べる感じになっている。

そして、昨日の舞踏コースのシェアリング時間
じぶんが話し終わって
他のひとのシェアをきいていているとき
終わりそうなタイミングで
口をはさむこと2回。
じぶんが言い足りなかったことを
便乗して、言わずにいられなかった。

褒められた行為ではないが
これはなんだか懐かしい感じだ。

わたしはよくそんなふうに
他人の話に乗っかるけれども
これまでは、これでも、抑えていたのだ。

抑えるあまりに
聞き役に徹することが
増えていたのだ。


この数日、小学校入学当時に
感じたであろうストレスと原因に
思いを馳せているのだが

おしゃべりしてはいけない。というのは
おしゃべりな子供だった自分にとって
ものすごいストレスだったはずだ。

小学校3年のときだったか
先生不在の自習時間に
日直だったわたしは
クラスの子達の素行を
チェックするよう任じられていた。

それで、私語の回数だとかを
正の字でカウントしていたのだけれど
つり目でぽっちゃりした女子が
隣の男子とずっと喋っていて
何度か注意をしつつ
正の字を増やしていたら
彼女からクレームをつけられ
大激論になり
最終的に殴り合いになった。

わたしの人生で
女子と殴り合いをしたのは
おそらくあれだけ。
後日、親が呼び出されたのを覚えてる。

融通のきかない
優等生然とした態度が
彼女の癇に障ったのだろう。
そしてわたしはただただ
彼女が羨ましかったのだ。
(などということは当時はつゆほども思わず
自分が正しいと信じていた。)

思い返してみると
授業中に鼻をほじるのが
止められなかったのも
3年か4年のときだったような。
これまたほんとうに
褒められたことではないが
それだけ、必死だったんだなあ。


講師業が好きだったのは
わたしにしゃべる権利が保証されているから。
わたしがのびのび好きなようにしゃべるのが
ゆるされる環境だから。

人の話にすぐ口をだしては
じぶんのターンにするのが得意なひとを
どうしても好きになれない。と思っていたが
やはり、じぶんが嫌っている自分なのだった。

30年あまりを経て
まるっと解き放たれた
おしゃべりなじぶん

これからどうするのか
どうなるのか
未知数である。。。

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