カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

なにをしているか

なにをしているのか?
自己紹介的なことを
する機会が、続いた。

データ入力したり、システム管理したり
バーズをやったり、教えたり
野口整体系のお手当てをしたり

目の前にきたことで
やれることをやる
できると思ったらやらない

そして、とにかく、自分を保つこと
意識を向けること
整えること

バーズやお手当てをまとめたら
だれかの身体を触ること
といえるのだけど

わたしはべつに
身体に触れるのが
おもなことだとは思っていない

わたしにとって
身体に触れるのは
生命に触れるよろこび

それからなにより
「仕組みを説明するきっかけ」
とっかかり。というところが大きい

バーズと整体とボディプロセス

かなり有用なツールとして
アクセスバーズを
愛用しているけれども

整体の知識や情報も
わたしにとっては欠かせない

もとより、整体に触れていなかったら
バーズには手を出さないか
あるいは続けていなかっただろう

体と心と意識と思考
これらの相互関連をふまえて

アクセスバーズは
整体では時間がかかることや
施術者の腕に依っている部分に
アプローチすることができる
(あくまでも私見です)

どちらにも得意な領域があり
どちらかに偏ることなく
その都度、便利な方をつかえば良い
個々人レベルでの適性もあるだろう

そんな前提があるからか
肉体のことは
肉体や氣のレベルで
扱うほうがしっくりきていたが

春の改訂でバーズに含まれたボディプロセスは
なるほどたしかに、整体とはちがう
バーズともちがう切り込み方のように思う

目的(ターゲット)にむけて
ピンポイントで
ボディをプロセスさせる

肉体や意識レベルでのアプローチにはない
抜け道、ショートカット、ワープ感

意識だけでなく
無意識も超えて
もっとおおきなデザインへと同期させる。
どこにも無理のないやり方で。

そのデザインがみえている必要も
現状を把握する必要もない。
これがエネルギーワークの良さだ

肉体への遠慮
肉体への不信
肉体との不調和

それが「ない」状態を呼び出す。
そのエネルギーを思い出させる。

許可さえあれば
肉体はそう機能し始める

海中にいるように

海でのほっとするかんじと
実母と一緒にいると緊張するかんじは
表裏一体なのだと思う。

母への緊張というのは
母のキャラクターがどうこうではなく
単純に、母=外界の象徴であり
生まれてすぐの頃の
緊張を思い出すのかもしれない。
海中=胎内なのだろう。

あの、海中でゆるむような感覚を
日常にも、持ち込めるのだろうか?

そんな流れのなかで
参加することにしてしまった
何年もずっと気になってたWSが
きっかけとなるのだろうか?

海中、胎内、海王星、無意識
アルコール依存、酔いどれ、一体感
じぶんを壊したい、じぶんをなくしたい

その先にあるのはどんな世界だろう?

なぜこんなにも

わたしの生まれ育った家庭は
とくになんのトラブルもなかった

多くの家庭がそうであるように
父親が仕事で不在がちなうえ
実母の手助けもなく
年子をひとりで育てたとか

農家や大工の両親をみてきた二人にとって
サラリーマン家庭というのは
未知の世界だったとか

そういうことはあるけれども
とりたてて言及するような
わかりやすいトラブルはなかった

家庭だけじゃなく
生育環境も
学生時代の経験もやはり
とりたてて言及するようなことはない

にもかかわらず

海からあがりたくないとか
足がつかないとホッとするというのは
まるで現実世界を生きたくないひとのようで

これはいったい
どこからくる感覚なのだろうかと
ときどき不思議におもう

母と居る時の緊張感にも
わかりやすい原因は見当たらず

アドラーがいうように
すべての出来事に
目的があるのだとしたら
これらはわたしになにを体験させようとしているのだろう

地に足をつけない方法

海に入っていて
足が届かないところに行くと
ほっとする

ということを
いまさらながらに
自覚した

ふつうは逆だろう

なぜほっとするのか
安直に考えれば

「地に足がついてないから」

自由になる感じがする
ヒトをやらなくていい感じがする
ひとつになれる感じがする

もしこの見立てがほんとうなら
さぞかし人間社会は
生きづらかっただろうなあと
他人事のように思っている

ちょっと、ぞっとするほどの、冥い痛み


わたしの足の裏の皮膚が
ぼろぼろになったのは
10歳を過ぎた頃からか
中学に入ってからだったか
覚えていないが
それ以来ずっとぼろぼろで

視力がおちたのも
同じ頃だったかなあ

地に足をつけず
なにも直視せず
それがわたしの望み
なのかもしれないし
まったく見当違いかもしれない

自意識(心の学校その9)

わたしが
わたしに
条件を課していた

これができるから
こういう特性があるから
だから
ここにいていい
生きていていい

その条件としていた
意識の使いようを「やめる」
ということを
実現できたのが
去年末の、心の学校(風の学校3日目)

じぶんが
じぶんであることを
手放すかのような

文字通り
自意識 というものを
オフにする体験

あのときの
おそれ
かなしみ
さみしさ

そして静寂

憑き物が落ちたかのようだった

友人が夏の、お盆の、京都での!
心の学校に参加するときいて
過去記事を読み返していたら
あの瞬間の体感が戻ってきたので、メモとして。


話しは変わって
昨日のこと

自宅でひまを持て余して
外壁工事中で瞑想もしづらくて
暑くて外にも出かけたくなくて

オットがいるアトリエ部屋に
なにをするでもなく入ったら

座布団が目にとまって
そのまま無言でぱたりと
うつぶせになった

一瞬の間のあと
オットが
なにそれ。
シュールすぎる!と

たしかに・・・
客観的になったら
ものすごくおかしくなり
涙をながして笑い転げた

オットいわく
自給自足。
そんなにひまなのか!
キミがそんなことをできるようになるとは・・・
いいような、ダメなような、複雑な気分・・・

「そんなこと」というのは
オットの目を気にすることなく
じぶんへの目線もない

つまり夢遊病のような
無意識と一体化したような

自意識のない状態で
行動することを指していて

そう、わたしにはそんなことはできなかった。
酒に酔っているのでもなければ
寝ぼけているのでもない状態で
そんなことはできなかったのだ。

40年以上生きてきて
まだみたことのない自分がいるというのは
まったくオモシロイものだ・・・


=====
心の学校について:
特定非営利活動法人 氣道協会 
http://npo-kido.com/


バーズで世界観を語る

アクセスバーズを通じて
フラットで滋味深い世界の感覚を
たくさんのひとに体験してほしい。

そこへ移行する術として
バーズを始めいろんなツールを
日常使いしてほしい。

その先にわたしが見たい世界がある。
そのためのバーズ。

収入になるならないとか
自分のところで受けてほしいとか
まったくどうでもいい。

バーズについて語ることは
じぶんの世界観を語ること。
それだけで楽しい。

わたし個人の世界観をただ言葉にするより
ずっとやりやすく、伝わりやすい。

それでバーズ全体の広報にまで
つながるなら万々歳だ。

ああこれのことか。

石井ゆかりさんの星読み週報に

だれかからの働きかけがマッサージのように作用し、
あなたの中に隠れている「凝った」部分を
探し当ててくれるのです。

と、あって
なんだろうなあと
ぼんやり思いながら
ぐーたら過ごしていたら
友達のブログ記事に行き着いた

家族の形
https://ameblo.jp/hagoromo321/entry-12390654838.html

そしてこの言葉に胸をうたれた

「大丈夫。
 意外と早く変わるよ。」

今朝。話の流れ上
だからこそバーズなんだよ!
みんな遊ぶとこはそこじゃないんだよ!
そうやって息巻いたばかりで

ああ暑苦しいなあと
じぶんを見遣っていたのだが

暑苦しさの根っこには
たいてい、かなしみがある

ああそうだった

地震
豪雨
政治

だいじょうぶなの?
間に合うの?
できることは?

わたしはほんとうに
やるべきことを
ちゃんと、やれている?

そんなふうに
思っていたんだ

やりたいことで稼ぐ難しさ

やりたいこと
心が求めていること
やりがい
よろこび
そうしたものを
「生活の糧を得る仕事」に求める
そんなひとは多いと思うが
叶わないことのほうが多い

それならばまずは
片手で出来るような
じぶんにとって苦ではない
つまりさしてたのしくもない
そんな「仕事」を見つけて
「生活の糧」をしっかり得て
余力で「やりたいこと」
「満足」が得られる
趣味なり、副業なり、地域活動なりする
そういう順番のほうが
確実に物事が進められる
心身の安定も得られる

今更あらためて書くようなことでもないのだが
なぜ書いているかといえば
「やりたいこと」について
ごまかしがきかなくなってきているからだ

以前ならば
「生活があるから」
「これで暮らさなければ」
そうした理由を含めて
仕事の対価を決めることができたが
それが通用しなくなっている

じぶん自身に対して
嘘がつけなくなってきている

ほんとうは
そんなに対価はいらない
あるいは
ほんとうは
対価を得てもやりたくない
そういうことは
もうできないのだ

もしやろうものなら
まったく努力が報われない
身体が悲鳴をあげる
周囲でトラブルが頻発する

そうしたことは
以前からあったけれども
より顕著に、明確になってきている

やりたいことで生活の糧が得られる可能性は
だれにとっても、ゼロではない。決して。
けれども、役割だとかタイミングだとか
いろいろな要素が絡んでいるから
力技でなし得ることは難しい。

それは、結果、もたらされるものであって
目指すべきことではないのだ。

もしいま「やりたいことで稼いでいる」
そう見えるひとがいたとしても
それが本当にやりたいことなのか
あるいは最初からそれを目指したのか
現時点では傍目にはわからない。

夢をみながら現実生活はきちんとまわす。
その力をつけるよう促されているのが
ここから数年の季節なのだろう。

すきなところ

海であそぶことの
なにがそんなに好きかといえば
遠慮がいらないところだ

全力で殴っても
全身でぶつかっても
なんてことはない

波がつぎつぎやってくる
ひとつとして同じではない
わたしひとり簡単に呑み込んでいく

最大の哺乳類
シロナガスクジラが
何万頭も泳ぐ
そんな広大なスペースに
つながっている


海の中にいるときのほうが
そのまんまのじぶんだとおもう

そのまんまのじぶんだと
地上で
日本社会で
暮らすには不適合なことも
よくわかっていて

あんまり頻繁に
海にはいると
元気になりすぎて
日常に支障を来たすから

海から出たくなくて
日焼けしすぎて火傷になって
背中が真っ赤に腫れたことも

両脚の皮膚が硬化して歩けず
車椅子のお世話になったこともあるから

たまのおたのしみに
とどめてきた

けれども

体力がおちついてきて
陸の暮らしもわりとたのしくて

わたし好みの
砂地の、広々した、波のある海まで
徒歩30分という距離感

(岩場でのシュノーケリングは別腹!)

いまならば
いまだから
本気であそべるのかも

(そしてすぐ飽きるのかも)

(それもまたよし)


とことん
与えてあげようとおもう

海であそぶたのしみを
海との対話を

焦がれていたものを
じぶんに、与えようとおもう

 
ちなみに
スキューバダイビングは
やらないことにしている

ただでさえ陸にあがりたくないのに
それをボンベに左右されるのが
我慢ならないから!


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