カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

社会復帰

「社会復帰」を願ってから
いわゆる「仕事」が
増えたわけでも
どこかに応募したわけでもないが
(検討はしている)

平日昼間の電車に乗って
サラリーマンが目についたり

連休中日のレジャー施設で
混雑とウキウキを味わったり

目線はだいぶ
社会に向いているようだ

いまの日本社会を支えている
平日と休日がくっきりしたスタイル

近年の我が家では
その違いがずいぶんぼやけていて

曜日感覚もないし
混雑と行列は
避けるものとなって久しく

休日らしさを演出しないと
休日っぽくないという
本末転倒ぷり。

非日常も
続けば
ただの日常

モチベーション

外因でも
内因でもない
モチベーション

これを、探している。

それは、もしかすると
ふるくてあたらしいものかもしれない。

一見とても現世的で
俗っぽいものかもしれない。

願い

乙女座新月

いつも願いは書かない
願いがわからないので

見つけてもすぐにぶれる
するりと消える

願いを捉えられるようになることが
願いといえば願いだろうか

などと思いながら
めずらしく
新月に便乗して整体をうけた

クリーニングと種植え

でてきた願いは
ひとことにすればつまり
社会復帰 

自己を確立するしし座から
他者と関わる天秤座へ移行する前の
整備期間である乙女座らしい願いである

もっと深く広く関わること
形は問わない

受動から能動へ
9から1へ

予測不能の練習

これから
予測不能なことが
ますます、増えるらしい。

振り返ったり、悩んだりしてるヒマはない。
先の損得、不安も考えてるヒマはない。
その場その場臨機応変、目的に向かってまっしぐら。

起きたことの理由や原因や目的はさておき、
めんどくさくても、淡々と処理する。

損得や傷つく傷つけるより、
大事なことがある。
優先順位の変更。

正しいのか?間違ってないか?
確認していたら
動けなくなるのは当たり前で

答えなんかどこにもないし
いつでもクルクルひっくりかえる。

じぶんがじぶんを誇れるのか?
じぶんの味方でいられるか?
それだけが大事なのだと思う。

たとえそれが開き直りや正当化に思えても
じぶんの味方をできないひとは
宇宙だって手助けしようがない。

手を出さない

海のなかは好きすぎる。
だから、スキューバダイビングには手を出さない。

これは若い頃からずっと思っていること。

シュノーケリングですら
海中から目が離せなくなって
いつまでもどこまでも追ってしまって
陸に戻るのが名残惜しすぎて

火傷レベルの日焼けが2~3回
車椅子で帰宅する羽目にもなったし

バイクでふらっとシュノーケリングに行って
ふらっと帰る途中で右折車と衝突して宙を舞った。

オットいわく「海から歓迎されてないんじゃない」
べつの言い方をすれば
海中に留まってはいけない、ということ。

だって海中にいたら
ほかになにもしなくなる。
それだけで満たされて
そこで生を終えたくなる。


だけどたぶん「わたし」がこの人生でやりたいことは
それではないのだ。
そんなことをしている場合ではないのだきっと。


そして。わたしがなんどもなんども考えている
「なぜか近寄らないようにしているひとたち」も
もしかしたらそういう存在なのかもしれない。

こんなにもあのひとたちのことを
繰り返し考えているというのは
嫌いにしろ、好きにしろ、興味がありすぎるのだ。
どうにかして定義づけて収めたくて、ずーっとみてしまう。

テレビを見るのをやめたのと似ている。
わたしは不規則に、気ままに動くものを
ずーーっと見てしまう習性がある。

その習性はいろんなことを滞らせる。
消費側で終わってしまう。
それは、本意ではない
だから、近寄らない。
そういうことではないだろうか。

嫌いだとか苦手だとか管轄外だとか
そんな定義よりは、ずっと収まりがいい。
(ぴったりではないけれども。)


さらにいうならば。
いまはともかく「禁止」している
スキューバも、人々との接触も
いつか、解禁できる日がくるのかもしれない。

先日ひょんなことから
楽器の練習をじぶんに許可できたように。

それをたのしめるだけのなにかが整ったときには
心置きなくたのしめるのかもしれない。
そうだといいなあ。

こつこつ欲求

ここ2年くらいだろうか
わたしのコツコツなにかを積み上げたい欲求は
おもに、オットに食事をさせること
「まともな」暮らしをさせること
絵に専念する環境を与えること に、使われていた。

先月の夏至前に
それが限界にきて
わたしはそこへ
その欲求を注ぐことを
やめることにした。

そしてどうやら
弾き語りのために
キーボードを操ったり
ウクレレを練習することに
使うことにしたようだ。

オットのサポートというのは
まだ、社会性や
金銭的なこととの
関わりがあったが
こんどはほんとうに関係がない。

ここからが本懐なのだろうな。


まじめ

ナゼなにユキだとか
トークチューニングだとか
できるのは
ひとえに
わたしが
まじめに生きてきたから
のように思える

まじめといっても
いろいろあるが
わたしの場合は
好奇心と探究心に忠実だった
なんでも気になるし
あきらめがわるい
納得したい
理解したい
法則をみつけたい
世界を把握したい
このわけのわからない世界で
すこしでも安心していられるように

すべてのことを
事細かに知ることも
分かることも不可能だが
法則がわかれば
未知のことにも応用がきく
ケーススタディ
フィールドワーク
たくさんのデータによる検証
検証につぐ検証
そうしてつかんだ
汎用性のあるナニカ


パキラ

結婚して実家を出たときに
実家から株分けされたパキラ

ダメモードを招く欲求

この記事にも登場している
ずっと室内に置いていて

もう何年も植え替えもしていなくて
栄養剤をいれるでもないのに
冬に葉っぱを落としても
春にはにょきにょき新芽をだして
元気な姿を見せてくれていた

去年夏に猫を飼いだして
いろんなものを退けるなか
パキラだけは置いていた
土の部分に猫よけネットを置いてみたり
それでもやっぱり
遊んでしまうし登ってしまうし
あげくおなかを壊したりするし

泣く泣くベランダにだしたら
実家時代から20年近く室内育ち
4Fの風に当たるのはきびしかったのだろう
みるみる葉っぱが枯れていき
それでも春には新芽がでるかと
ばっさり枝を切ったり
栄養剤を入れたりもしたが
丸坊主のままいまに至る

幹が黒く変色していたりもして
このまま枯れてしまうのか

犬猫を室内飼いしていて
観葉植物をおいている家も
見かけるのだけれど
みんなどうしているのだろう・・・

嘘。許可。承認。自信。覚悟。

(3/31tweetより)

他人に対して「嘘」を言わずに
生きていくことは出来ない。

なにが「真実」で
なにが「嘘」か
人それぞれ違うから。

じぶんに対して嘘がなければ
いつかは通じるし
通じないなら縁がない。

夢の現実化というのは
嘘を本当にしていくことだとも言える。
そこで大事なのは結果より過程。

現実になったかどうかではなく
現実にしようとしたかどうか。

自信って、さいしょは
ハリボテからしか
出来ないのかもしれない。

それを本物にするか?使いこなすか?
じぶんにかかってる。

その過程に立ち向かうぜ!という
覚悟こそが自信となる。

これ出来ます!それやります!やってました!
などの自己申告をするのに
誰の許可もいらないし
誰も拠り所にはなってくれない。
自分が許可するかどうかだけ。

そしてその申告に対する
万人の承認はもらいようがなく
まずじぶんが承認するところから始めるしかない。

(資格ビジネスの狙いどころはこのあたり)

だれに批判されても笑われても、
あなたはそう思うんですね。
でもわたしはこう思うんです。
と対峙する心意気。

じぶんがじぶんの味方であることを表明する覚悟。

義理茶番と礼儀

3/28tweetまとめ

我々の直面する重要な問題は、
それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。
The problems that exist in the world today cannot be solved by the level of thinking that created them.
-アルバート・アインシュタイン-

現象に現象で対処してもモグラ叩きでしかない。
べつのレベルで見たら終わる。

スーパーでいちゃもんつける
顔見知りのおばちゃんにどう対処するか考えるより
その現象の意味や目的をみる。
昨日はわたしがぶーたれた気持ちでいたから
代わりにおばちゃんがやってただけ。

対処すべきはわたしの内側にある不具合。
自分を整える。ポノってもマントラでも、
気がすむまでぶーぶー言うでもいい。
言ったところで現象がどうなるわけでもないが
滞留したエナジーが動いて
すっきりした心持ちになれば
気にならないから無いもおなじ。


返答が歴然としているから
誘わない、声をかけない。
やられたらさみしいけれど
わたしもだれかにやっていること。

わたしのなかに余力優先で茶番をしない罪悪感が
くすぶってたから現象がきただけ。

お義理の茶番はいらない。
自分の感情ケアを相手に期待しない。
そして茶番とわかっても連絡をとりたいと
思われるような自分になればいい。

海外ライブに日本人客しかいないのを
嘆くアーティストがかっこわるいように
じぶんの力不足をだれかのせいにしない。

茶番をしないさせない期待しない。余力優先でいい。
でもそれを理由に礼儀を欠いては本末転倒。

気になるならかっこつけずめんどくさがらず
声をかけてみたらいい。
気になる時点で余力が削がれてるんだからおなじこと。
どんな展開になるか憂うより気がかりを減らす。

礼儀を重んじるのは悪いことじゃない。
めんどくさいバカバカしい表面的なやりとりに思えたとしても。
長いあいだ大事にされてきたことには理由がある。
緩衝材になる。思いやりである。

社交辞令的なことは極力避けてきた。
こどもっぽい抵抗、反発。
避けてきたのはそれを表現するのに照れてただけ。
なんだか照れくさく決まりがわるかったのだ。慣れが必要。

簡単にいうと
もっとひとにやさしくしてもいいんじゃないってことだ。
それはじぶんのため。
じぶんの良心を傷めないため。
義理だの茶番だの余力優先だのかっこつけるのもいいけど、
がんばらなくてもいい。もっとぬるくてもだいじょうぶ。

こどものとき
大人たちの表面的で儀礼的なやりとりが
さみしかったんだろうと思う。
でもその奥にはそれこそ大人の配慮ってものがあったのだ。
その場は寒々しくても長期的にひびいてくるもの。
ゆるやかなつながりを保つこと。

そして表面的で儀礼的なやりとりに見えたとしても
そこに思いがあるかどうかは
みんなちゃんとキャッチしているのだ。
胸の奥でひっそり味わっているのだ。


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