カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

安心できないのは

母や
女性や
他人と一緒にいて
めったに安心できないのは

じぶんの身を案じているというよりも
まもらなくては。という意識からのようだ

有事に備えている、らしい。

それはつまり
相手をじぶんよりもちいさく見ていて
相手の力を信頼していないということでもある

それが良い悪いではなく
ただ、それがわたしのデフォルトなのだ

そして、それは変えられるのだ


追記:

仮に相手がちいさいとしても

自分でまもるのでなく
宇宙にまかせるのもアリなのだな

ひとりで完結させない。抱え込まないこと。

ひとでも場所でも

生後二ヶ月から
42年暮らした町を
離れるとなったら

案の定
きもちが不安定になり
なにかといっては泣いている

嫌いだから
イヤだから
離れるわけじゃない

感謝と好意が押し寄せる

ぜんぶだいすきだったし
だいすきになろうとしてきたし
結果だいすきになったし

そんな自分を誇りに思う
だけど、だから、離れるんだ

かつて
仲良くしていた人と
距離をおいたときも
いつも、こんな感じだった

対象が
人でも
土地でも
変わらないあたり
じつに、わたしらしいなあ
などと思う

そして、こんな感傷も
すべて過ぎていくのだ

ゆるしてくれるすべてに感謝を。

必要なスペース

物件に求めていた条件
ひとつ、足りてなかったことに気づいた
3ヶ月もジタバタしてようやく

海のちかくだとか
東京湾を離れるとかは
それに比べたら
ちっとも重要ではないから

ずっと探していたエリアに
しばられるのをやめて
あらためて、検索している

いまの家の
前の所有者は4人家族で
姉弟が大きくなって
部屋数が足りないために
戸建に住み替えた

わたしの住み替えは
眺望がなくなったこと
元々、風呂に窓がほしかったこと
ついでなのでこの土地を離れてみたいこと
そんな理由だったのだが

ここへきて
オットの絵描き部屋と
さらにわたしのフリー部屋が
それぞれ必要なのだとわかり
やっぱりこの家では
部屋数が足りないのであった
(厳密にいえば数自体は足りているが
間取りに不都合があり、結果足りない)

うちは子ナシ夫婦だが
この17年で
それぞれのインチャが育ち
それぞれの世界ができ
それぞれに場所が必要になったようだ

目には見えないけれど
スペースを要するナニカを
オットも、わたしも、育ててきたのだな

オットはそれを
目に見えるかたち=絵画にしている

わたしのそれは
ときどき、あらわれる

だからどうしても必要かといわれたら
言い切るのは難しいのだが

その、ときどきあらわれるものを
即座に受け入れられることが重要なのであり
そのためのスペースを確保することは
わたしにとって、生命線にちかいようだ

鬼門にある寺

いまの家(マンション)に住んで
15年目なのだが
とつぜん、気が付いた。

うちのベランダは南西向き
玄関横の洋室の窓は北東向き

その洋室の窓から
称名寺の裏山が見えるのだが
もしかして
称名寺そのものが
真正面あたりだろうかと
昨日、ふと気が付いて
地図を確認するとやっぱりそうで

今朝またふと
方位を確認したら北東で
北東とは鬼門なのであった

うちから称名寺は鬼門にあたり
称名寺からうちは裏鬼門になる

わが家は称名寺(北条実時さんの菩提寺)に
守られていたといえるし
鬼の通り道にあるともいえる

夏になると外階段や廊下に
甲虫やセミがやたら転がっているのは
そういうことだったのか

この延長線上に去年、区役所ができて
(建て替えで場所がすこしずれた)

いまは、眺望をさえぎる
11階建ての大規模マンションが建設中
300戸以上が秋には完成する

お役御免というところか

鬼門にあたる洋室は
ほとんど納戸として使ってきて
たまに片付いて
ゲストルームになったり
アトリエになっても
どうしてもまた納戸化するのが常だった

それを徹底的に片付けて
シェアルームにしたのが去年秋
わが家はようやく通りがよくなったわけだ

あの部屋に積まれていたものたちは
重石かブレーキだったように思える

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引っ越す と決めてから
文庫でバーズする機会が増えている
土地とリンクしたカルマ浄化の仕上げのようだ

文庫に根をおろしていたのは
見つけてもらいやすように。
という意図があったような気がしている
誰に?なんのために?は、わからないが

いまや、みんな感度があがって
場所を固定しなくても
ちゃんと見つけてもらえるだろう

妨害電波が減った・・・というよりは
雑音のすくない周波数まであがった
音がとおりやすくなった
拾ってもらいやすくなった
そんなことを感じている


・・・・・
こうして今更になって
地理的なことにあらたに気が付いているのは
今週のゆかりさん週報にぴったり


育った町の氏神様が
ふいに判明したのは先月である

オットの産土さまと
おなじ神社に合祀されていたのであった

なんどか足を運び
由来の看板も読んでいたはずなのに
なんでか、把握できていなかったのだ

ちなみにその神社は
津波被害にあった近隣の町から
移り住んだ住民の氏神様である

覚書として。

バーズとのナレソメ

未体験のまま
アクセスバーズ講習に
参加したのが
2015年の4月末だから
そろそろ3年になる

場所を使わないか?というお誘いから
はじめてイベントを主催したのが2011年3月11日
アートとヒーリングと「居場所」がテーマ

翌4月、自己啓発とスピリチュアルのないまぜになった
合宿に参加したところから
そういった友人知人が一気に増えていった

年末には氣道協会にはいって
身体について学び始めてもいる

おおきく感情を揺さぶられる経験から
今後の生き方、方向性が洗い出され
ほんとうにみたいもの 
体験したいこと やりたいこと を
全細胞で知覚したのも、この年

その後遺症を癒す過程で
セクシュアリティワークに関わったのが
2012年秋から1年くらい
さらに、スピリチュアル業界の人脈が増え
全国各地に親しい友人ができた

そうしたひとたちと
親しくしているうちに
「問題に振り回される」のではなく
「問題からフォーカスを外す」ことを
重視するようになり
そのために
「問題よりも、もっと、健全にたのしいナニカ」
イベントや場や課題や…
そうしたものを提起するべく
「スペース風来房」や
「ムゲンジャー」を始めたのが2013年
秋には「オトナの文化祭」を開催

2014年はその流れで
石垣島の旅に始まり
札幌・横浜・福岡で
イベントやWSを開催
余白、ゆとり、あそびを説いたり、体感してもらったり
アートとスピリチュアルをつなぐ試みでもあった


余白、ゆとり、遊び

それさえあれば

ネガティブ思考をひっくりかえせる。

身体の違和感に気が付ける。

詰め込むことに慣れ過ぎて

効率と合理性を重視する価値観にはまりすぎて

抜け出せないのならば

止めろと言っても、止まるものではないなら

いま夢中になってるおもちゃより

もっとたのしいおもちゃがあればいい。

そんな考えに基づいて
イベントを展開してきたスペース風来房は
2015年春で休止とした。

イベントを重ねて
自分なりに出来ることは
やりきったと同時に
それはまったく満足のいくものではなく
自分の力量やポジションの見極めが進む

イベントをやるたびに
かなわなかった部分も
浮き彫りになっていて

「もっと、健全にたのしいナニカ」が
目の前にあったとしても
そこに手を伸ばせない
抵抗、遠慮、葛藤、恐れ
アタマをどんなに納得させても
カラダが動かない
ひとつずつ癒したり、観念を書き換えていたのでは、追いつかない
マイナスをゼロにする遊びに
時間をとっている場合ではなくて
その先にこそ、ほんとうにたのしいことがあるのに
その先に、個々人がやるべきこと、やりたいことがあるはずなのに

その歯がゆさは
しかし
いったん手放して
それぞれのプロセスに委ね

自分自身を整えること
自分とその環境を心地よく保つことを
第一の目的とする

おのずと放たれるであろう
その響きを
求めるひとがいるならば
集中的に効果的に届けるべく

愉氣をメニューにするが
いかんせん説明が難しく
キャッチーさがない

そこに舞い込んだのが、アクセスバーズだった。

言葉がいらない
目的もいらない
手を当てて、共に在ればいい
うってつけのツール

そんなナレソメ。

先に準備を始める

引越しに向けて
さらなる所持品整理を始めた

ここ何年かにわたる
片付けを経ているから
あとは、引っ越しが決まってから。

荷物をまとめてしまうと
置く場所にも困るから。

そう考えていたが
どうにも物件が出てこないので
やはり先に出来る範囲でやるべきなのだろうと
重たい腰をあげた。
始めてしまえばたのしい。

これまでよりも
収納が少なくなる想定で
廃棄するもの
スペースに余裕のある実家に置かせてもらうもの
そばに置いておきたいものを考える。

まだまだ、義理や情で
保有しているものがある。

品物を得た以上は
使いこなさなければという謎の責任感や
使いこなせていない罪悪感から
戒めのように、手元に置いているものもある。

手にいれたこと
所有した記憶
その悲喜こもごもを
たとえ忘れたとしても
その瞬間には、あったのだから
もう、それで十分なのだと
自分に言い聞かせる。

大物家具も、いざとなったら手放す覚悟をした。

長年使ったから。
状態がくたびれてきたから。
そうしたもっともらしい
手放す理由を探してしまうけれど

まだ使えるから。
いつか使うかもしれないから。
よいものだから。高かったから。
所有する理由も探してしまうけれど

いまこのときを
最重視する。

手放して
あげく
買い直すことになっても
それで良いことにする。

「いつか」の無駄や非効率を嫌うあまり
「いま」を損うことのないように。
バランスを探りながら。

今後の人生に
帯同するものを精査する
というのはつまり
今後の人生をあきらかにしていくということなのだな

実体のない存在、肉体をもつ存在

肉体という制限のない
実体のない存在のほうが
よほどパワフルで
ミラクル(想定外) なのだから

やれるだけのことは
やっているのなら
不安も心配も
彼らにあずけてしまえばいい

すでに亡くなった家族や親戚
神様仏様天使精霊龍白狐聖人

実体のあるものたちが
最優先にやるべきは
実体があるからこそ出来ること

五感をたのしむ
達成をたのしむ
喜怒哀楽をたのしむ
ミラクルをたのしむ

肉体という制限ゆえの不完全さ
くるしみ、切なさ、やるせなさ

肉体という制限ゆえの
選択の貴さ、行動の重さ

それらをあますところなく
全面的に味わうこと

身体ぜんぶを震わせて
よろこびをかみしめること

歓喜と感謝が
この肉体を鳴り響かせる
その響きこそが甘露
実体のないひとたちへの最大の恩返し


たとえば親の健康、親の生活費、親のさみしさ、親の・・・
それらを持ち出して
じぶんを制限することは
社会的には親孝行でも
ほんとうのところでは親不孝でしかない

制限を手放すために
工夫をする
智慧を求める
可能性をあきらめない
そのための制限である

相手が困らないように苦しまないようにと
こちらが苦しみ続けていては本末転倒
相手の可能性を奪っているだけ

「できる」「なんとかする」
自己犠牲による現状維持は執着
おおきな流れをせき止め
ちいさな世界に自他を閉じ込める
苦しさとひきかえに
安心と自己満足を得る
独占欲も満たされる

そのままの自分と相手を受け入れ
弱くて強欲な自分をさらけだしたとき
つぎの扉がひらく
他力を招き入れる
実体のない存在も動きやすくなる


実体のない存在は
実体のあるものを
最大限尊重するから

口先でどれほど求めていようとも
行動が変わらない限り
求めていると認識されない

受け入れ体制ができていないところに
ミラクルは流れこまない

ミラクルが起きたら動くのではない
なにも起きないかもしれなくても
損して傷つき恥をかくとしても
動き出すこと
それ自体が
その流れにいる前提として機能する

実体のない存在
おおいなる流れとの
共同創造
スイッチを入れることができるのは
実体のあるものだけ

そこに生じる不安や心配は
実体のないものたちの、はからいに委ねる


やれるだけのことをやり
じぶんにまっすぐであればあるほど
実体のない存在のはたらきや
起こる出来事、展開を
見守る胆力が育つ

じぶんに嘘がないならば
報われるわけがない
助けられるわけがない
そんな価値はない、などと言う気もおきない
すべてを信じ委ねることも容易い

人事を尽くした上で起きることは
なんであれ、天命なのだと
罰があたったのでも
見捨てられているのでもなく
ただ、そういうものなのだと
いつか分かるのだと
あきらるほかない

その状況からまた学び
自分の真実を確かめる

手つかずのことがないか
動かすべきことはないか
待ちの姿勢になって
先送りしていることがないか

「あれがこうなったら、動く」
「これが分かったら、そうする」
そんな取引は通用しない
本気度が低いとみなされるだけ

実体のない存在とは
互いの役割
得意不得意をふまえ
甘えや依存のない
対等な関係性でいたいと思う

どれだけ心がけたところで
相手のおおきさに
敵うわけはないのだから
あまやかされているのだから
せめて、自立の意気は保っていたい

突破口

他人に(実母に)(見えない存在ふくむ)
弱みをみせること

困ったときに
具体的になにかをお願いするのではなくて

困っている
よわっている
その状態をただ伝える

なすすべなく
あっても、動けず
戸惑っていることを
さらけだす

それができるかどうか。

なんとなく感じた、そのあと

だれかと話をしていて
相手の本音がちがうことや
相手がそれに気がついていないことを
なんとなく察知したり

ふいに誰かを思い出して
なんだかやたら気になって
連絡しようか迷ったり

気配をキャッチしやすいひとには
時々そういうことが起こる。

そして、なにかできるのではないか?
伝えるべきなのか? などと
対処に戸惑うのだが

私見としては
なにも対処しなくて良い場合が多い。

というか、その気配に気づいた。それだけで
すでに対処になっている。

気がついた
意識が向いた
その時点で互いに響き合い
なんらかの変化が生じている

意識(氣)の感応というのは
そういうものだ。

具体的になにか言ったり、行動したり、しないことには
落ち着かないものだけれど
肉体レベルで応じてしまうと
じぶんにも相応の反響がきて
「平常のじぶん」を保つことが難しくなる。

じぶんを平穏にしておくこと

それこそが
それだけが
すべての平穏につながる

誰しもじぶんをまもる権利がある。
言い方をかえれば、義務でもある。

キャッチしたものから
意識的に一歩ひく。
働きかけない。

しいてなにかするのならば
あたたかな励ましの気持ちや
あかるい方へと向かっていることを
信じて見守る気持ちを、おくるにとどめる。

あなたはだあれ

だれかと話をしていて
ある発言がちっとも
その本人にそぐわない
そう感じることがある

おおくの場合は
世間体だとか
常識だとか
「ふつう」を標榜しているときで

それ本気で言ってるの?と
問いただすこともあるが
本人は本気だと信じていて
なんだかちぐはぐな感じがのこる

わたしが「しっている」そのひとは
そんなちいさな価値観とは無縁で
自由に力強く自分の世界を生きているのだが

目の前にいるそのひとは
横や周りを気にして暮らしているらしい

このちぐはぐ感は
どこからくるのだろう
単にわたしの思い違いなのか?


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