カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

ちきゅぼー。

今年4月
清水の舞台から飛び降りる気持ちで参加して
絶望から這い上がる力を得ることになった
合宿ワークショップ・地球防衛軍(略してちきゅぼー)

シリーズ第2弾が、今月末に茨城県で開催されます。

12/26〜生きる力を呼び覚ます 2泊3日 in 御前山
(ちきゅぼー合宿)
http://comfaci.com/27/091226/

今回はネイティブアメリカンの知恵を
体感するワークがあるとのことで
かなりたのしみ。

紹介割引がありますので、
もしこれを読んで参加される方がいらっしゃったら、
申込みの際に「くじらの紹介」と書いてください。

検討されている方の参考までに、
わたしの感想アンケートをシェアします。

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地球防衛軍結成式ワークショップ in 北海道
(略して”ちきゅぼー”)
-地球のためにできること・自分のためにできること-
http://comfaci.com/04/090417vivalavida/

1.『参加前に』
ためらったこと・想像していたこと
期待していたこと・告知文で気になったこと

告知文の【こんな方のために】があまりにも
自分に当てはまっていたので、気にはなっていたものの、
わたしの自己投資としてはかなり大きい額だったため、
だいぶ躊躇しました。

開催2週間前に、主催のたまちゃんと直接話す機会があり、
そのとき、他人に嗤われるとばかり思っていた
自分の「理想」や「希望」は、
胸を張って話してもいいことなのかもしれない。
そして、ちきゅぼーに参加したら、
それを分かち合える人がいるのかもしれない。
すくなくとも、否定はされないのかもしれない。と感じ、
その可能性はわたしにとって、抗いがたく魅力的で、
いてもたってもいられず、参加申込みしました。


2.『参加後』の感想
どういった体験ができたか?
どういった変化が自分に起きたか?
どういった気づきが自分にあったか?

合宿という閉ざされた空間で、
ひたすら対話を重ねるうちに信頼関係ができていき、
自己開示に対する恐怖を乗り越えられたことは、
貴重な体験でした。

わたしが得た気づき、学び
・自分や、誰かの、体験や感情や見解はすべて
 隠すべきものでも否定すべきものではない
・相容れない反対意見も元をたどれば
 「より良くしたい」という共通の願いに端を発している
これらは一部でしかありませんが、
信頼できる仲間と触れ合ったからこそ、
心から実感できたのだと思っています。

そして、告知文そのままに
「これから俺たち地球防衛軍だからがんばろうな!」と
みんなでハグしあうことができて、すごーく幸せでした。


3.『今、現在実感できる』
(目に見えること・内的なこと・生活・仕事などで)
ちきゅぼー体験によりもたらされたもの
ちきゅぼー体験をきっかけに起きた変化など

自分をとりまく世界(人、物、状況など)に対する信頼感。
のちのち、徐々に、自分自身を信頼できるようになってきました。

それから、プロセスワークの骨組みを
知ることが出来たので、
事象に対する見方・視点を増やしやすくなりました。

いままで結果だけ知っていたもの、
たとえば「すべてに意味がある」ということを、
自分の現実レベルで理解できる瞬間があり、
その背景には、プロセスワークや
ちきゅぼーの体験があるような気がします。

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苦痛ジャンキー

ここのところ考えていること。

罪悪感を、免罪符だと思っていないか?

わたしはダメ人間なんだ。って
弁解する理由がほしい。
(誰に?)

この程度で済んでよかった。って
問題の本質から目を逸らしてないか?

核心にせまってくると
誰かほかの人を気にかけ始めるよね。

世話人ポジションは、安全・安心。
自己開示しなくて済む。

なにをそんなに必死に守ろうとしているんだろう?

世間との付き合いとは、納得できないものを
我慢することだ。って思い込んでいる。

心の反応を無視して
「他人にとって心地よいだろう方法」
「世間的に正しい方法」を
自動的に選択するクセがある。
それで、あとで苦しくなる。

長らく愛用してきた処世術。
捨てなくていい、けど、手直しが必要。

自分本位にいきたい自分

社会性を保ちたい自分

この2つを統合するには
「社会」の概念を変えればいいのかもしれない。

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受け取り下手は、与え下手

わたしにとって
「受け取る」はずっと課題だった。

「受け取ることを、自分に許すこと」
リーディングメッセージなどで
よく出てきたし
下手だという自覚もあったけれど
どうやったら「受け取れる」のか
いまいちピンとこなかった。

「受け取る」は、女性性の担当。
二人姉妹の長女で
父が不在がちな家で
元気で力持ちなわたしは
ほとんど長男のつもりでいたから
女性性はとても苦手。

ひらひらフリルや
かわいいパステルに心惹かれても
気恥ずかしくて
欲しいなんて言わない。言えない。

わたしの母も、そういう『ちょうちょらしいもの』
(女の子らしいものの総称として母がつかう表現)を
遠ざける傾向にあるし
代々の女系に生殖器トラブルがあるということは
ずっと引き継がれてきたものだろう。

女性性を抑圧することで
やわらかな感受性を無視することで
ある種の精神的自立、
「男性」には負けないという自負心を
支えてきたように思う。

おそらく、才覚のある女性たちだったのだ。
男尊女卑の時代から男女雇用均等法を経て
なお引き継がれる男女の社会的ランク差を
受け入れたくなかったのだと思う。
その葛藤を心中で処理するためには、
論理的に理由付けをするしかなかった。
男性性を強化するほかなかった。

その系譜に育ってきた
男勝りのわたしにとって
「受け取る」のは屈辱だったのかもしれない。
だいじょうぶ、自分で得ますから。
そう虚勢を張るのが常だった。

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コドモとオトナ

友人の息子(8歳)をたまに預かる。
一番初めは本気で一緒になってあそんだので
翌日は筋肉痛になり、精神的にもかなり揺れた。

遊び方は徐々に手抜きを覚えたので
身体は疲れなくなったものの、
気持ちの方が相変わらず揺さぶられる。

終わったあと、ものすごく退廃的になるのだ。
こちらもだんだん慣れてきて、
回復は早くなってはいるけれど
それにしたって、なぜそうなるのか?

たぶん、彼と過ごしているあいだ
わたしは「理想のオトナ」を演じてしまうのだ。
子供の頃に望んでいた
思い描いていた「オトナ」を。

そして、自分の中のコドモが
顔を出したくなる瞬間があっても
彼に遠慮してしまうのだと思う。

あとから退廃的になったり
ダダをこねたい気分になるのは
そのせいだろう。

いまのわたしは
オトナの中にもコドモがいることや、
ありのままで居ていいことを知っている。
完璧でなくていいと知っている。

子供と過ごす時間は
わたしの中のコドモとオトナが
共存する方法や
そのバランスのとり方を
身につけさせてくれるかもしれない。

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捨てた「自分」を拾い集める

いままで「無駄」だとか
「合わない」と判断して
排除したり
後回しにしてきたことを
やってみたい。

目的のない旅行
スキューバダイビング
習い事…ゴスペル、陶芸、ダンス…
パン作り
あとなんだっけ?

子供に関わること
多文化共生
生き辛さを感じている誰かに寄り添うこと…

ひっかっかるものはたくさんあって
みんななんらかの理由をつけて
やらずにきていて
誰かの同意がないと出来ないものは別として
出来ることはやってみたらいいと思う。


わたしがいまどこへ向かいたいのか
どこへ向かおうとしているのか
そのヒントが
落としてきたものの中に
あるような気がして


てはじめに
パーマをかけた。
かなり久しぶり。

ことしは
1月に1000円カット
4月にカットモデル(無料)
あとは伸ばしっぱなしだったから
フンパツしてみた。

パーマなんてかけなくても
全然こまらないんだけれど
鏡に映る自分がいつもと違うと
ちょっとわくわくする。
それで十分なんじゃないかなあ?
対価は得られるんじゃないのかなあ?


あんまり難しいことは考えずに
こころ踊ることだけをやってみたい。
そよ風にひらひらするように
この流れをたのしみたい。

その先に
ひとりでも満ち足りた自分が
居るかもしれない?

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「子」役からの脱却

いつからか分からないけれど
不在がちな父に代わって
甘え下手で他力本願な母をケアするのが
わたしの役割だった。
わたしが、そうしていた。

たのしかったわけではない。
でもそれが居場所、
わたしのポジションだと思っていた。
勝手に、そう決めていた。

いまや父は現役引退し
マイペースに仕事をしている。
毎週のようにゴルフに出かけ
毎日のように飲み歩き
なにもなければ家にいる。

子供はとっくに巣立っている。
2人で話をしようとすれば
いくらでも時間がとれる状態だ。


父母との旅行を企画していたら
いつのまにかわたしは
「おなじみのポジション」に立っていた。
そして、疲れていた。

母の愚痴をきく役も
父の意図を解説する役も
そろそろ御免こうむりたい。

もちろん頼まれたわけではないし
望まれているわけでもないかもしれないが
近所に住んでいることもあり
つい、慣れ親しんだバランスをとってしまう。
そして、理想を押し付けたくなっている。

「きちんと理解しあえる夫婦でいてほしい」
そう願うのは、わたしの勝手だ。
あくまでも、わたしにとっての「良き夫婦像」だ。
そぐわないからといって、責める理由はない。
見ていられないなら、離れればいい。

なんだかんだ言いながらわたしは
両親から一目おかれる感じを
味わい続けたかったのだろう。


そして両親の間にある葛藤は
わたしの中にある葛藤だ。

ああだこうだと理由を見つけては
行かない方向へ話をもっていく人と
それらをすべて無視して本意だけ汲んで
行くことの合意が得られていると思っている人

なんでもいいよと放任・放棄したい自分
よりよいものを選びたい自分
一緒にいけるならそれで満足な自分
コミットメントを求める自分


父が母と仲良く旅したいならば
わたしがおなじみのポジションに居座るなど
お節介も甚だしい。

父は父のやり方で、
母は母のやり方で、
これまでの延長線上で、
うまい方法を見つけるかもしれない。


わたしが言うべきは
「疲れたので降ります」
それだけなんだろう。

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自分vs.思考の癖

とにもかくにも
今までと同じように処していくのは限界だ。
しかし自分本位に変えるのは恐ろしい。
みんな離れていくかもしれない。
第一どうやって変えたらいいのかわからない。

これまで通りにはできず
変えることもできない
いっそ死んでしまえばラクなのに…!


ことし何度目になるのか
そう泣き喚いている最中
はたと気づいた。

この苦しみは、誰にもわからない。

だれか他人が、そのままの質と量で、
リアルに感じることなど決してない。

ひとりなんだ。

33歳にしてはじめて実感した気がする。
わたしの人生は、わたしにしかわからない。
変えることができるのは、
戦うことができるのは、自分ひとりだ。


けれど
さいわいなことに
オットは傍に居てくれる。
こんなめんどくさい人間を
見捨てるどころか
これ以上ないほど、心を痛めてくれている。
なんとありがたいことか。

死にたいほど自分が嫌になったら
いつでもおいでと言ってくれる友人もいる。

リングに立つのはひとりだけれど
セコンドや応援席には、誰かが居てくれる。
逃げ帰る場所がある。こころ強いことだ。


そもそも
こんなことで七転八倒しているわたしは
よほどヒマで、余裕があって、
クソ真面目で、不器用なんだろう。

今日1日を生きるのに
文字通り必死であれば
死にたいなどとは言いようがない。

時間があって、食べるものがあって、
すべてそろった状況だからこそ
ウジウジ悩んだりできるのだ。

そして、いまの日本の社会で
自分をまったく押し殺さずに
生きている人などいるはずもない。
しんどくない人などいない。

それでも、それを殊更に
あたかも「生死に関わる大問題」のように
扱っている人は、さほど多くない。
みんな上手にやりすごしているのだろう。

誰かと比較しても意味はないけれど
まったく、我がことながら厄介だ…

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自分パズル

大事なピースが
あちこちから
集まってきている感じがする。

どういう風に大事かというと
自分が生きやすくなるために。
・・・なのかな?

ピースの一部;
・自分はやさしい、とは口が裂けても言えない。
・相手に合わせるのがうまい(らしい)、でも無意識。
・他人が素敵ということは、自分も素敵なのかもしれない。
・親の前では酔いやすい。
・無視されても仕方ないと思っている。
・状況コントロールを放棄しがち
(自分にとって宜しくない状況に対して無関心)
・物語の主人公に同調してしまう自分は、
 低レベルだと思っていた。


つまり
自尊心や、自己価値が低い。
もっと簡単に言えば、自信がない。
ということかもしれない。

そして
このままで生きていきたいわけではない。
もうちょっと自分にやさしくてもいいのでは?
と思い始めている。

これまでの「自分を無視する」生き方にも、
なにかしらのメリットはあったのだろうし、
それを身につけるに至った経緯もあったはず。
きっとたくさんの痛みがあったはず。
纏足のイメージ。

その痛みを置き去りにしたままでは
たぶん、先に進めない。
というより、進みたくない自分がいる。

痛みをこらえてきた自分に向き合って
殺してきた声を拾い上げて
よくがんばったねと、褒める。
その価値を認めてあげる。

それが、自己評価の最定義なんだろう。

痛みを伴うので、なかなか気は進まないけれど
できるときに、できるところから、できるといいな。

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認めざるをえない。

先日、プロセスワークの
グループワークに参加していて

いろんな立場の
いろんな意見や感情を
たくさんたくさん聴いて
その全部を認めたくて
胸が痛くなった。

なかには、ぶつかる意見もあるし
どうやっても同時に成立しない願いとか
矛盾もあったりするのだけれど

どれもこれも
まっすぐで

分かって欲しい。

自分を100%認めて欲しい。

ただ、それだけ。

そのことが、すごく、響いてきて
それを主張できる場に居るよろこびや
完全な相互理解は難しいという現実や
いろいろな感情が渦巻いて
せつなかった。

あれはいったいなんだったんだろうと
そのあと、他の参加者さんと話をしていたら、
目からウロコな見解を言ってくれて

いろいろ考えていったら

『わたしって、けっこうイイヤツなんだ。』

そう認めざるをえなくなった。


こうやって書いてみるとやっぱり抵抗はあって
なに驕ってるんだよとか
自分を責める声も聴こえてくるんだけれど

わたしが、あらゆる人の、あらゆる側面を
肯定したいと思っていて
肯定できてしまうのならば
自分を肯定しないわけにはいかないのだ。


『自分を愛さないと、他人を愛すことなどできない。』
よく見かける言葉だけれど
わたしは、
他人を愛したくて、実際に愛している瞬間があって
だとすれば、自分を愛していないなどとは言えない。

だって、いろんな人のいろんな声は
全部わたしの中にもある。
その声をすべて、良しとしたい自分がいる。

みんないい人だなあと思う以上は
わたしもたぶん、それなりにいい人なのだ。


100人いたら、100人が
「おまえはいいやつだ」と言ってくれなければ
「わたしはいいやつ」だなんて
口が裂けても言えないと思っていた。
言ってはいけないと思っていた。

だけど
100人が同じ意見でないから世の中は豊かなんだし
それぞれの理由があり、思いがあり、
それぞれみんな素敵で、否定などできなくて、
それはそのまま、違うままで良いのだ。

だからわたしも、このままで良いのだ。

怒っても、
妬んでも、
かなしくても、
傷ついても、
見当違いでも、

誰かがさらっと出来る事を
わたしは出来ない!と思っても、

それでいいのだ。

そういった感情を
無いことにしなくていいんだ。

わたしが感じる「わたし」を
尊重していいんだ。


誰かに「なんでそうなの?」
「だっせー」「かっこわる!」などと
言われることを恐れて
自分の理想形を描いて
それにそぐわないものは
すべて切り捨てるか、無視するか

そんな風に過ごしてきたけど

・・・つらかったなあ。

しみじみ、そう思います。

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おしらせ(御蔵ツアー他)

1、野生イルカと泳ぐツアー
昨年9月、伊豆七島・御蔵島にて
野生のイルカたちと泳いできました。

この体験をシェアできればと思い
御蔵島往復チケット&宿を手配しました。
9月21日夜 東京発~23日夜 東京着は締切り住み。
その他の日程も承ります。(有料)

詳細・お問合せはこちら
penguinhttp://infokujira.web.fc2.com/mikura.html


2、エコ議員つうしんぼ
第45回衆議院議員選挙候補者たちが
いろいろな環境のことに対して
どのような姿勢で臨んでいるかがわかるように、
複数の環境NGOが協力して
全員に送ったアンケートの返事をもとに
つくられた「エコつうしんぼ」です。

エコ議員つうしんぼ
budhttp://giintsushinbo.com/

全候補者に25個の質問をし、
各質問4点のトータル100点満点で
採点されています。
「コメント」欄も必ず読んで、参考にしてください。

わたし自身は環境に関心のある
一市民でしかありません。
お問合せなどは、
info@giintsushinbo.com へお願いします。

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